第六夜 おでん始め
ここ数日、この時期にしては非常に冷え込む日々が続いている。
暑がりの僕としては実に好都合であるし、おでん好きの僕としても、いよいよ甚だ最も好都合である。
ということで、今季初めてのおでんを口にする、おでん始めの儀を執り行うことにした。
実にめでたい。
さて、おでん始めの儀などと言えば、何か、永年の伝統を有する、特別の儀典でも執行せられるが如き、仰々しい口吻であるが、何のことはない。単に、僕がたまたま今回そう思い付いたばかりである。それに、儀式の次第にしても、ただただ、おでんを食べて酒を呑むというだけ。
読者諸賢には或いは失望せられた向きがあるやも知れぬ。甚だ申し訳ないが、そういう仕儀であるので、どうかご諒解いただきたい。
おでん始めの儀を執り行うに際して、僕が思ったのは、
このエッセイ集を初めから読んでいただいている方、ことに第二話あたりを読んでいただいている方にはご想像に難くないと思うのだが、僕のおでんに対する執着たるや、例えば仏道修行においては著しくたしなめられるような類の煩悩であり、初めから飛ばしていくと、おでん道を歩いている筈が、すぐに足を踏み外して冥府魔道に陥ってしまう懸念がある。
はじめは、ゆっくりと徐行が肝心。
そうなると、家人におでんを拵えて貰うのではなく、まずは既製品のおでんを買って来て、そこから慣らし運転ぎみに始めるのがよかろう。はじめから自家製というのは、僕自身、おでんに対するこれまでの渇望の念と、これからの期待とが奔騰し、
しかし、そうは言っても、スーパーのレトルトなどでお茶を濁すというのはどうも味気ない。コンビニのおでんも同様。もっと、何というか、地に足がついた人間らしさと言おうか、そうそう、手作り感が欲しい。
あれこれ考えを巡らせた結果、歩いて二十分程度の少し離れた高台にある商店街。ここにあるお惣菜屋さんのおでんがよかろうという結論に至った。
早速家人と連れ立って、吾が家を出発。道中、近所の鎮守様にお詣りして、無事に今季のおでん道を全うできるよう祈願する。そうして、高台に向かう峠に差し掛かったところ、遠方遥かに富士山が見えた。まだ、頂上の冠雪は認められないお姿で、雲の上にぬっくと黒い頭を出していらっしゃる。僕と家人とは、思わず霊峰に手を合せて、低頭した。
この曇天に、富士の峰が拝めるというのはありがたい。夏の間、なかなかお目に掛ることが出来なかったが、曇の天気とは言え、この眺望が得られるとは、いよいよ秋らしい澄んだ空気が充溢している証拠である。実にめでたい。天も、これから半年に及ぶ吾がおでん道を祝福して下さっているのであろう。
すっかり機嫌を良くした僕は、意気揚々と総菜屋に到着した。
ここのおでんは、ビニール袋に出汁もたっぷり入って膨らんでいる。値段は六百円。スーパーのレトルトに比べるといささか値が張るが、地元の商店街にお金を落とすと思えば惜しくはない。
今日の店番は、老齢のご婦人で、温める際には、弱火にして、決して強火は使わぬこと。煮過ぎは禁物で、まずは汁のみを温め、その後、具材を温めることなどを、細かに指南して下さった。
これまでもこの店でおでんを購入することは二度ほどあったが、その時の店番は、いずれも体格のいいお兄さんであった。恐らく、今日のご婦人のお孫さんででもあったのだろうか。
その時には、おでんを温める注意事項などは伺わなかったのだが、何と言っても年の功。お客さんに、おでんを上手に温めて美味しく食べて貰いたいという、商品に対する自負と、天晴れおでん愛が感じられ、僕はますます上機嫌になったのであった。
いよいよ、おでんを肴に一杯。晩酌の
佳きかな、好きかな。ありがたい、ありがたい。
<了>
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