第七夜 本格的始動

 おでん始めの儀を執行してから、早半月余り。

 いては事を仕損ずるならいなれば、総菜屋のおでんでの慣らし運転以降は、はやる気持ちを押さえつつえて鷹揚おうように構え、おでんのことはなるだけ考えないようにしてきた。

 また、そのように、恬澹てんたんたる態度を装いつつも、頭の隅では、潮がち、機が熟するタイミングを虎視眈眈と狙っていた。


 ここ数日、大気もよい具合に冷え、かつ、澄みわたっている。

 もはや夏日に逆戻りということもあるまい。

 環境もここまで整えば、頃合いであろう。


 いよいよ、今シーズンにおける、本格的なおでん道に突入することに決した。


 あれは忘れもしない火曜日、

「今週の金曜日はおでんを所望する」と家人に申し出た。

 何も思い付きやそこらで、かく口にしたわけではない。深謀遠慮の末に絞り出した一言いちごんなのである。

 その経緯たるや、くだんの如し。

 すなわち、来週は木曜日が文化の日で旗日となっている。吾身を顧みても、ここのところ仕事は一段落といった雰囲気であり、この様子であれば、文化の日の前日も朝のうちだけ職場に出れば、早引けの半ドンにすることは十分に可能であろう。

 よし、善は急げ。早速、上役にメールをしてみよう。

 どれどれ? よしよし、差支さしつかえ無しときた。

 かくなる次第であれば、今週末の台所に大鍋に一杯、否、大鍋と中鍋に一杯ずつのおでんが忽然こつぜんと生じたとしても、次の週にかけて有意義に消費できるだろう――吾輩としては、そう計算したわけである。


「今週の金曜日はおでんを所望する」


 今から思えば、その時の僕の声は、やや上ずっていたかも知れない。あまっさえ、目は血走り、家人に対して週末の晩餐のアイデアを、一案として申し出るというより、有無を言わせず決定事項を厳然と宣告するという調子に満ち満ちていたかも知れぬ。

 しかるに、家人とてかような修羅場は何度となくくぐってきている。

 眉一つ動かさず、当たり前のように頷くと、翌日の水曜の夕方にはもう、台所に一本の大根と、昆布とが用意されていた。

「木曜日頃からは煮込み始めないとね」

 冷静にそう呟く。

 見れば、この大根、いささかしなびた様子である。ということは、いかにもみずみずしく張り詰めた大根より、出汁を程良く吸うのではなかろうか?

 ――こやつ、出来る!

 銀婚式以上の年月を、だてに共に重ねたわけではない。

 よくよく聞いてみれば、この大根、見切れ品のワゴンに入っていたものだという。値廉あたいれんなればなおさらし。おでん道とは、かくこそあるべけれ。


 そうして、木曜日の日中には、家人はかなり遠くにあるスーパーにまで、蒟蒻を求めに赴いたらしい。生の蒟蒻芋が原料の、田舎風のざらざらした、出汁の染み込みが良好な蒟蒻を手に入れようとしたわけである。このような蒟蒻は、近くのスーパーや商店街では得難く、遠くまで足を延ばさねばならぬようにできている。

 しかるに、家人の苦労も空しく、その遠くのスーパーにも、昨年までは確かにあった美味しい蒟蒻が、雲散霧消、姿を消して、どこにも見当たらなかったという。剰え、その店からの帰路、目に見えぬ何者かに家人は致され、大いに道に迷ってしまったらしい。

 好事こうじ多し。天が用意したおでんの道は、なかなかに険しく、踏破に著しく困難を伴うものなのである。

 それでも、あっぱれ家人は、諦めることなく、どこからか次善の蒟蒻をちゃんと調達してきている。見事としか言いようがない。

 かくて木曜の晩には、何やら鍋が沸沸とがくを奏で始めていた。

 逆風に曝されようと、淡々とおでん道に邁進まいしんする。これこそ、吾人ごじん悟道ごどうなのである。


 そうして、いよいよ金曜日。

 大鍋と中鍋からなる陣に馳せ参じたるは、いずれも一騎当千の古武士ふるつわものばかり十六騎。

 すなわち、牛筋すぢ、大根、竹輪、厚揚、蒟蒻、昆布、玉子、角天、烏賊天、メークイン、里芋、はんぺん、ちくわぶ、魚すじ、油揚、糸蒟蒻。

 ほんのりと湯気を立ち昇らせつつ、家の子、郎党として、赤星、上燗の樽酒、金宮、バイスサワー、電氣ブランなどを付き従えている。

 この陣容に不足無し。

 すわ、鎌倉! いざ、出立!



                         <了>







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