第13話 遠く見えた大きな背中
今まで仕事をしていたのだろうか、山田さんはスーツ姿のままオレの家に来た。彼の顔を忘れてしまっていたオレは最初、玄関の前に立つ人物が山田さんだとはわからなかったが、こんな時間に訪れるのは先程電話を掛けた人物しかいないと思い、家に上げた。
「大丈夫か?」
彼は泣きじゃくるオレを宥めるように、落ち着きと優しさが込められた声色で、そう話し掛けてきた。オレはそれに対し、首を横に振り、否定した。
「そうか。取り敢えず、飯食おう。食べてないんだろ?」
そう言って彼はオレに、買って来てくれたのであろう、袋に入った牛丼を手渡してくれた。覚えてはいないが、そういえばまだ食事を摂っていなかった気がする。それと同時に、腹から空腹を告げる音が鳴った。
テーブルに袋を置き、座る。彼はオレの反対に座り、袋から牛丼を取り出し、オレの前に割り箸と一緒に置いてくれた。
オレが好きなチーズの乗った牛丼だった。好物は何故か覚えていた。その事実がまたオレに対して牙を剝くように心を痛めつけたが、好物を知っているこの人は、オレに近しい人物なのだと認識させてくれて、少し安心した。
彼はもう一つ、同じものを自分の前に取り出した。彼もまだ食事を摂っていなかったのだろう。二人で牛丼を食べた。
彼はオレに対し、何か聞いてくることは無かった。色んなことを確認したかっただろうが、それよりもオレの状況を案じてか、軽い世間話をしてくれたと思う。ここの牛丼は美味しいよな、だとか、仕事でこんなことがあってさ、などの本当に他愛の無い会話だったと思う。
オレはそれに受け答えしながら、牛丼を食べる。すると次第に気持ちが落ち着いていき、ずっと滲んでいた視界が、徐々に鮮明になっていく。
「落ち着いたか?」
すると彼は脈絡もなく、オレにそう聞いた。優しく微笑を湛えながら。
「はい。ありがとうございます」
オレは先程とは違い、しっかりと言葉でその質問に答える。
彼はホッと一息つきながら良かった、と言った。
それから食べ終わった後も、二人でしばらく話をしていた。そしてふとオレはトイレのために席を立つ。
トイレの扉の前に立った瞬間だった。
また、記憶を失った。
先程まで彼と何を話していたのか、彼は今どうしてここにいるのか、そして彼は何者なのか。何の話をしていたのか、忘れてしまう。また涙が、溢れてくる。
オレは部屋に戻り、彼にそのことを話す。
「大丈夫」
彼はオレをそう言いながらオレの肩を叩き、宥めてくれた。だが忘れてしまったこと、そしてその事実にオレは戸惑い、また混乱していた。
そしてまたしばらく時間が経ち、少しだけオレが落ち着いてくると彼はオレに、先程までの優しい表情から打って変わって、真剣な表情で言った。
「お前を今、一人にさせるのはまずいと思う」
ひくつく喉を抑えようとしながら、オレは彼の言葉を聞いていた。
彼は表情を崩さず、真っ直ぐオレを見つめながら、言葉を続けた。
「明日は俺と一緒にいて良いから、仕事に来い」
その言葉の真意は何だったのだろうか。
その前の言葉から考えれば、きっと『自宅で一人にするよりは、誰かが見てくれているだろう職場に来た方が良い』ということなのだろう。
だがその時のオレは、彼の言葉を受けて『無理にでも仕事をしろ』と聞こえてしまった。
「……明日は、休みます」
オレはその提案に対して、態度と言葉で明確に拒否を示した。
仕事をしたくない、という気持ちも大きかった。いや、どちらかと言えば仕事をしたくないという思いが大きくて、拒否したのかもしれない。
「病院に、行きたいので」
それは、尤もな理由を付け加えただけなのかもしれない。
行きたくないから休んで病院に行くのか、病院に行きたいから休みたいのか。そのどちらが正しい本心だったのかは、今考えてみても答えは出ない。
曖昧で、言い訳がましいオレの返事を、彼は聞いていた。
そして彼は一瞬、表情を曇らせたが次の瞬間には、柔和な表情へと戻っていた。
「そうか、そうだな。わかった。」
ここで彼がオレの返答に対して承諾していなかったら、何か変わったのだろうか。
人生における選択肢は、選び、決定した時点でその選択肢に戻れなくなる。そしてこの会話における選択肢というのは、オレが休むことを許可するか、しないか。
つまり何が言いたいのかと言えば、この山田さんの行動によって、これからオレが進んで行く道が大きく変わった、ということだ。
彼は快諾し、自身の鞄を持つと、携帯を取り出し操作しながら言葉を続けた。
「俺から斎藤さんに伝えておくから、行ってこい」
斎藤さん、という名前にこの時聞き覚えは無かった。だがきっと、彼とオレの上司なのだろうということは理解し、オレはその言葉に頷いた。
彼は朗らかな笑顔をオレに向け、時間も時間だからそろそろ帰る、と言いながら玄関へと向かう。
オレは急いで立ち上がり、彼の背中を追って玄関へと向かった。
玄関の扉が彼の手によって開き、夜の冷たい風が部屋へと入り込む。
その冷たさにオレは体を震わせながら、出て行こうとする彼を見ていた。
彼は振り返ることなく、一言だけ、オレに言った。
「大丈夫だからな」
彼はそのまま玄関を出て、夜闇へとその姿を溶かしていった。
この時、オレは何と返したのだろう。
ちゃんと、感謝を伝えられていただろうか。
覚えていない。
一つだけ確かに、記憶に刻まれているものがあるとすれば。
彼の、オレにとって初めての先輩の、大きな背中だ。
――山田さんとの会話は、これが最後となった。
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オレは複数のメモを見ながら、小説の文章を書き出していく。
これらのメモは、当時の物だ。
あの日、山田さんが帰った後、オレは忘れてしまっても何とかなるようにと思い、その時の出来事や会話をできうる限り、メモに残していたのだ。
今でも当時のことは、頭に靄がかかってしまっている感じがして、思い出せることは少ない。
だから、もしかしたらもっと違うことを話していたのかもしれないし、もっと多くのことを語っていたかもしれない。
だが、それらは既に失われており、取り戻すことはできないだろう。
メモを見る。
クシャクシャに皴ができた紙。
書き殴られた、読むことに一苦労する文字達。
涙で滲んだインク。
そして、おそらく大事だったであろうことには赤いボールペンで、大きく丸が書かれている。
大きな丸で囲われた言葉。
そこには、その時のオレが居た。
『ありがとう。山田さん』
書き出す手が止まり、代わりにその文章を指でなぞる。
思い出せることは少ない。しかし、読み解けるものはある。
オレは玄関の方へと、視線を移した。
ここはもう、当時住んでいた場所ではない。故に、今見ている光景とあの時の光景は同じではない。
空になった二つの牛丼の容器も無い。ゴミや私物が散乱しているわけでもない。
だが。
それなのに。
玄関に、彼の背中が見えた気がした。
あの時は振り返らなかったのに、今振り返ったような気がした。
振り返った彼は、笑っていた。
煙草を咥えながら、満面の笑みで。
「……本当に、ありがとうございました。山田さん」
オレの口から、震えた言葉が自然と漏れ出た。
瞳からは、熱い感情が。
零れ落ちた。
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