第5話 救ってくれたその言葉を、忘れない
月が変わり、久しぶりに趣味の時間を取ることができた。
いつ振りだろうか、と振り返ってしまい、自分がそれだけ仕事に追われていた事実を認識する。
趣味に興じることができたのは、ひとえに山田さんのおかげだ。彼の助言によって、先月は残業を大幅に削ることができた。それによって、今の時間が存在しているのだ。彼のオレに対する影響というのは計り知れない。
加えて、生活に慣れてきたのも大きな理由の一つだった。新しい土地、新しい住居、そこでの新生活。他人に比べたら、慣れるまで少し時間が掛かった方なのかもしれないが、人間慣れてしまえば時間を効率的に使えるようになるものだった。
相変わらず部屋にはゴミや私物が散乱しており、整理整頓もままならない状態ではあったが、オレはそれらを気にすることなく、久しぶりに趣味を楽しむという有意義な時間を謳歌した。
時間は、あっという間に過ぎていく。
普段の生活では気にしたことは無いが、この時ばかりは、楽しい時間とはなぜこんなに過ぎ去るのが早いのかと思った。
熱されたストーブに手を置くと1分が1時間に感じ、美しい女性と一緒に過ごしていると1時間が1分に感じる。それが相対性理論だ。
そう語ったのは一体誰だったか。ストーブが仕事で、女性が趣味に置き換わっているが、まさか自分がそれを経験することになるとは、思いもしなかった。
そんなことを考えながら携帯で時間を見る。もうだいぶ夜も更け、そろそろ床につく時間帯だった。一緒に遊んでいた趣味の友人、カオルもそろそろ寝る時間だろう。
そう思うと、オレは急に現実に引き戻される感覚を味わった。
明日からまた仕事の日々が始まる。
あの辛い日々に。
何故だか急に、不安が心の底から込み上げてきた。
もしかしたら、久しぶりに趣味に興じることができたからなのだろうか。それとも友人の声を聞いたからなのだろうか。
オレは、今のこの瞬間まで、ストレスを発散していたはずだ。だというのに、なぜこんなにも、明日からの日々に対して不安が募っていくのか。
――行きたくない。
この言葉が、喉の奥から込み上げてくる。
吐き出してしまいたい感情が、また再燃する。
仕事に邁進する自分、という仮面で隠していたはずの、素の自分がまた顔を覗かせてくる。
何故だろう。趣味の時間を取ってしまったからか。ではこの時間は意味がないものだったのだろうか、それとも現実を直視するため必要な時間だとでもいうのか。
何もわからなかった。
「行きたくない? どこに?」
友人からの問いかけに、オレは思考が止まる。なぜ彼がそう問いかけてくるのかは、明白だった。
行きたくない。
この言葉が、意図せず自分の口からこぼれ落ちてしまったのだと、すぐに理解した。
これもまた、趣味の時間を満喫してしまったからだろう。つい口と感情が緩んでしまったらしい。
彼は問いかけ続ける。
何があったのか、と。
思い返してみれば、彼とは仕事を始める前からの付き合いだ。趣味も合い、話も合う彼は友人として、共にこれまで多くの時間を過ごしてきた。
そして今日、久しぶりに連絡を取り、久しぶりに時間を共に過ごした。
そんな彼が『行きたくない』と呟いた意味を、オレの身に渦巻く現在を、知る由もない。
それに彼とオレは実際に会ったことも、お互いの顔も、本名も知らない。オレがどこに勤めており、どんな仕事をしているかなんて知るわけもないし、教えることもなかった。それはお互い様であり、自分も彼の勤め先や、仕事の内容を知らなかった。
たまたま趣味の関係で知り合い、たまたま意気投合し、時間を共に過ごすようになっただけ。友人というだけでそれ以上でもそれ以下でもない、ただそれだけの関係性だった。
しかし、いや、だからだろうか。
ただの第三者である彼にだからこそ、伝えてしまったのは。
彼ならば、あの両親のように叱責することも無い。先輩たちの期待に対する裏切りでもない。
彼だから、顔も素性も知らない彼だからこそ、話せることがあるのかもしれない。
そう思い、オレは話し始めた。
詳細は濁しながら、大まかに伝えた。
とある企業に就職したこと。
業務内容がきついこと。
忙しくて自分の時間を満足に取れないこと。
だから趣味の時間もまた取れないこと。
満足に身の回りができていないこと。
肉体的に辛いこと。
精神的に辛いこと。
ひとつひとつ、確かめるようにオレは語った。
聞いている彼が心の中で、どう思っていたかはわからない。
だが彼は、夜ももう遅いというのにも関わらず、文句ひとつ吐くことも無く、相槌を打ちながら聞いてくれていた。
話をしている内に彼は、彼自身の話をオレに話してくれた。
彼は元々、会社に勤めていたものの退職し、今ではフリーランスとして生計を立てていると言った。
自分で仕事を受け、一人で仕事をこなす。
大変ではあるが会社に居た頃とは違い、課せられるノルマも無ければ規則も無く、己を律しながら好きなように働ける今は、ストレスが無いのだと言う。
仕事を辞める、転職するという話には不釣り合いなくらい彼は気楽に、少し笑いながら自分の話をしていた。オレは、そんな笑い話のような雰囲気で話し続ける彼が、不思議でたまらなかった。
こうなった理由は単純だ、と彼は言葉を続ける。
「働いてた会社がさ、僕には合わなかったんだよね」
笑って、そう言い放った。
今のオレのようにノルマがきついだとか、毎日遅くまで働いていたとかの理由ではなく。
ただ単純に『やりたいことが合わなかった』という理由で、その会社を去ったのだと語る。
そんな簡単な理由で、辞められるのか。
オレはその言葉を聞いて、そう思った。彼の行動を貶したわけではない。
自分は両親からのプレッシャーと、ウイルスの影響による就職難を経験し、その上でようやく入れたところが今の会社であり、会社に勤めるまでの過程がいかに大変だったのかを、実体験として知ってしまっている。
だからこそ、ようやく掴んだチャンスを『合わなかった』と言う理由で、手放してしまって良いのかと思った。それは自分本位過ぎるのではないだろうか、とも考えた。
その心境を知ってか知らずか、彼は言葉を続けた。
「でも、結局さ――、自分を助けられるのは、自分だけなんだよ。」
一言だった。
その一言は、彼にとってどのような意味を持つ言葉だったのだろうか。
彼自身が勤めていた会社に合わなかったから『自分で』抜けた、という意味なのか。
色々なしがらみから抜け出す勇気、前向きに物事を捉えようとする意思、それらは『自分で自分を』奮い立たせなければならない、という意味なのか。
それとも大手企業に入り、両親や世間の状況、周囲からのプレッシャーに耐え続けながら体と心を犠牲に歩み続けるオレを見て、オレに見えない『何か』に気付いて欲しいという思いからなのか。
理由は今でもわからない。
しかしオレはその時、間違いなくその言葉で気付かされた。
そしてその一言はこれからのオレにとって、大きな、とても大きな意味を持つ言葉だった。
その後もオレ達は話し続けた。
時計は何時を示していただろうか。かなり遅い時間だったのは記憶している。
それでも、オレ達はずっと、ずっと話し続けていた。
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