第6話 救われたのなら、その向こう側へ
今日もまた、いつも通り仕事に励んでいた。
しかし、今までと違うこともある。
『――結局さ、自分を助けられるのは、自分だけなんだよ』
心の中でカオルが言った言葉が反響する。
言葉の真意はわからないままではあったが、何故だかその言葉がずっと心に残っていた。
そして彼の言葉の所為なのかはわからないが、前に振り払った『転職』を考え始め、本格的に行動し始めた。
例えば転職アプリ。存在はコマーシャルやネットの記事で知っていたが、使うのは勿論初めてだった。
まず驚いたことがある。それは求人情報の量だ。
自分が就職に苦労していた頃もそこそこの数の求人情報を見てきたが、転職アプリに掲載されていた情報は、それをゆうに超えてくるものだった。
更に言えば、これは転職希望者に対しての求人である。つまり新卒ではなく中途採用のものなのだ。失礼な物言いになってしまうかもしれないが、途中で会社を辞めていった者に対する求人だ。それが、新卒の頃に自分が見た量よりも圧倒的に多いというのであれば、驚いても無理は無いと言えるだろう。
そんな驚きを抱えながら、転職アプリの情報を昼休憩や手が空いた際に眺めていた。良い企業があるかどうかはわからなかったし、見分ける為の知識なども当然持ち合わせていない。
だが、その行為自体には意味があった。日々の辛さから少しでも逃れようとする現実逃避に、この行為は利用できた。それによって、ほんの少しばかりではあるものの、心持ちが軽くなったような気がしていた。
だがそれは、あくまで現実逃避で、気休めでしかないものだ。目の前の問題全てがあっと言う間に解決し、何もかもが上手くいき始めるなんてことは、ありえない。
山田さんの助言によって、減っていくだろうと思われた残業は、月が替わって更新されたノルマによりまた増えつつある。
ノルマが増えたということは、訪問件数もそれに比例して増加することとなり、その訪問した数だけ門前払いを受ける機会も増える、という結果に直結する。
そしてそれらの事実は、肉体的にも精神的にも更なる苦痛を招くものだった。
それに加えて、このような出来事もあった。
先月の成績はノルマにこそ到達しなかったものの、それなりの働きと努力の甲斐あって、新入社員として全国で十本の指に入るほどであった。
勿論、疑問はあった。
何故ノルマを達成していなかった自分が、そのような目覚ましい成果を残せたのか。他の新入社員の成績は一体どの程度のもので、それは本当に新入社員に対して適したノルマだったのか。
オレにはどこか、適正とは言えないような感覚があり、腑に落ちなかった。
しかしその感覚とは別に、大手企業に勤めている自負があったオレは、全国でも上位に入った結果に対して大いに喜んだ。
周囲の反応もノルマを達成していないとはいえ、良いものだった。
斎藤さんから直々に褒められ、山田さんからも称賛の言葉を貰い、小林さんからはまた缶コーヒーを奢って貰った。
この出来事自体は微笑ましく、誇らしいものではある。
とはいえ、今のオレにとってそれは重圧となる出来事でもあった。
成績をより良いものにしなければならない、努力を怠ってはならない、弱音を吐くことを斎藤さん達は望んでいないだろうし、良い結果を残す人材だと期待されている。
期待を裏切ってはならない。なんとしても結果を残さなければならない。
これらの一種の強迫観念は、オレに無理矢理やる気を湧かせてくる。
一人での飛び込み営業をひと月経験した自分なら、更新された今回のノルマこそ、達成できると思い込んでいた。
だから、また頑張った。努力した。
気力と体力を振り絞り、止まりそうになる足を奮い立たせ、もっと先をと目指し続けた。
心と体の悲鳴を振り切って、振り返らぬようにただ前へと進む。
ノルマというゴールラインを目指し、周囲からの期待を原動力に変え、裏切ることの無いようにただ歩く。
そんなことを続けていたからなのか。
それとも、当然の結果だったのだろうか。
自分の中でプツリと、何かが切れる音がした。
それを皮切りに『駄目だ』という感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「――頑張れない」
溢れ出した感情は、言葉となって現れる。
「――自信が無い」
次々に吐き出される言葉に主語は無いものの、それが何を意味するかは、はっきりと理解できる。
これ以上はもう駄目だ。
頑張れない。
頑張り続ける自信が無い。
隠し続けていたものが、心という名の器から溢れた負の感情が。
言葉という姿になって、濁流のように溢れかえる。
止めようと思っても止められない。今まではできていたはずだ。いつも通りグッと押し止め、仮面を被っていれば良い筈なのに、それだけの筈なのに。
それだけのことができない。
わからない。
どうしたら良いのか。
何も、わからない。
「はぁ……」
ひとつ大きなため息をつき、倒れるようにベッドに転がった。
困惑と激情の中、唐突にカオルの言葉が蘇る。
『――結局さ、自分を助けられるのは、自分だけなんだよ』
横になり白い天井を見ていると、ふと気付くことがあった。
堪えることができなくなった今だからこそ、動き出すべき時なのではないか。今ここで動き出さなければ、次はきっと無いかもしれない。
そう思った。
すると、どうだろう。
濁流の如く溢れかえっていた言葉が、ピタリと止まる。
代わりに心を支配したのは、彼の言葉についてだった。彼の言葉はオレに安定と理性を取り戻してくれた。
頭の中が、クリアになっていく感覚がある。安定はまるでスイッチを捻るように、落ち着いた思考をオレに与えた。
考える。
彼が言った自分を助けるというのは、どういうことなのだろう。それは物理的になのか、それとも精神的なものなのか。
その言葉に対する答えをまだ持ち合わせていないオレは、自分の今の状況を省みる。
指先で自分の顔を触り、今どんな表情をしているのか確かめる。当たり前ではあるが、到底笑顔には程遠いものだとすぐに理解した。
体の具合はどうだろうか。節々に疲労を感じ、ともすれば膝から崩れ落ちそうになるほどだった。
心も体も、悲鳴を上げていた。
そう。悲鳴を上げていたのだ。
それに目を向けず、気付かないようにしていた自分の行動は、どのように表現されるべきものなのだろうか。
それは『犠牲』だ。
己の全てを犠牲にして行われる今の行動は、果たして正しいものなのだろうか。
それが人間のあるべき姿であり、他者から称賛される行動なのか。
それは『正しくない』はずだ。
ではどうすれば正されるのか。その方法をオレは知らない。ならば知っている人物に聞けば良い。
山田さんはどうだろう。
それに対してオレは自分に否、と答える。彼からは既に助言を貰い、その上で今の自分がある。
『正しくない』自分が、だ。
では誰が適任だろうか。オレはまた考える。
考えた上で、一つの、一人の結論に至る。
オレは携帯を取り出し、登録された連絡先を漁る。
電話を掛けたい人物の名前は、すぐに見つかった。
通話と表示されたボタンをタップし、携帯を耳に当てる。3コール程で『彼』は電話に出た。
自分を助けるために、自分で助けるために。
オレはその一歩を踏み出した。
「おう、どうした?」
優しい声色が電話の向こうから発せられる。
それを聞いたオレは少しの緊張を感じ、息を吞む。
――オレは斎藤さんに、助けを求めた。
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