第4話 オレを呼んでくれたその声は

「おはよう」


 ある日の朝、オレは唐突に山田さんに声を掛けられた。

 おはようございます、と返すと山田さんは俺の顔を見つめ、一つ頷いた。


「今日は俺についてこい。斎藤さんには許可取ってるから」


 最初、何を言っているのかわからなかった。頭の中で彼の言葉が反響し、一拍置いてからようやく理解した。


「えっと、わかりました」


 戸惑いつつもそう返すと彼は優しく微笑み、行くぞと声を掛けてくれた。オレは後をついて行き、そのまま彼の車に乗り込んだ。


 山田さんはヘビースモーカーで、車のシートには煙草の匂いが染み付いていた。その匂いを紛らわそうと置かれた芳香剤がミントの香りを放っており、車中は煙草とミントが混ざり合った空気に満ちていた。

 煙草を吸わない者からすればあまり良い匂いでは無いだろうが、オレもこの時煙草を吸っていたので特に嫌な匂いではなかった。その空気を半月振りに吸ったオレは、どこか懐かしさを感じていた。安心感さえ抱いていたと思う。


 いつも通り乗ってすぐ、山田さんは煙草を咥え、火を点ける。煙草の匂いが強くなり、更に懐かしさを感じさせた。紫煙を薫らせながら、彼が口を開いた。


「どうだ?」


 一瞬、オレに煙草を勧めたのかと思ったが、どうやら違ったようだ。彼は言葉を続けた。


「一人で外回りしてるだろ? 感想は何かあるか?」


 問いかけだった。


 オレは息を飲んだ。


 どうするべきか、迷ったからだ。


 このまま正直に話すべきか、それとも誤魔化してしまうべきか。

 時間にして1分程。オレは迷い、悩んだ。そして答える。


 正直に、話した。

 営業成績が伸び悩んでおり、これからどうするべきかわからない。どうしたら良くなるかも見当がつかないと話した。


 だが、仕事が辛く、転職の2文字が頭をよぎったことなどは伏せた。なぜならば、それは無駄だと思ったからだ。既に相談し、その上でどうにもならなかったことを身を以って知ってしまった。だから話したところで無駄だと、そう考えた。

 それに彼の負担になりたくないとも思った。彼は良い人で、とても優しいのは知っている。以前、なぜ帰宅時間について言い辛そうにしていたのか。この時のオレはそれを理解していた。

 それは彼の配慮だったのだ。隠すことも、嘘をつくこともできたのにそれをせず、正直に話してくれていた。

 その事実が、オレの口から弱音を吐くことを許さなかった。


 彼はオレの話を聞き一呼吸、胸一杯に煙を吸い込み、それを吐き出すと口を開いた。


「――お前は頑張り過ぎなんだよ」


 優しい表情でオレにそう言い放った。それは咎めるわけでもなく、𠮟りつけるわけでもなく、優しく諭すようなものだった。


「頑張り過ぎ、なんですか?」

「ああそうだ。頑張り過ぎだとも。そもそも新人が簡単に契約取れたら苦労しねぇって」


 では何故あんな無茶なノルマを課すんだ、と思ったが口には出さなかった。拗ねた子供が言いそうなことで、あまりにも幼過ぎると自分で思ったからだ。

 彼は言葉を続ける。


「お前。他営業所の新人の残業時間がどのくらいか知ってるか?」

「……いや、知らないです」

「半月で10時間程度だよ。ほぼ定時で帰ってるってわけだ」


 衝撃だった。

 自分の4分の1程度で済んでいることも、それが許されていることにも、何もかもが遠い国の常識のように感じた程に衝撃だった。


「お前は他の奴らに比べて訪問件数も、営業所に戻ってからの残業時間も多い。なんでか分かるか?」

「……いえ」

「それはお前が、契約が取れないからって焦りすぎだからなんだよ」


 そう言いながら彼は次の煙草に手を付けた。いつの間に吸い終わったんだろう、と思いながらその言葉を受け止める。


「ノルマはノルマ。達成できなくても仕方がない」

「仕方ない、で割り切れるものなんですか…?」

「割り切れよ」


 そう言ってニカッと歯を見せながら笑った。

 オレはまだ割り切れ、という言葉に納得ができずにいた。当然だろう。

 ノルマは目標であり、達成しなければならないものだ。達成しなければ社会の一部、会社の一員としての責任を果たせないものと同義なのだ。そう思っていたし、それが常識だと認識していたのだから。

 その常識を『無理なものだ』と改めるには、時間が足りない。

 その心境を察したのかはわからないが、それによ、と彼は続けた。


「お前がいきなりノルマこなしたらよ、先月こなせなかった俺が浮かばれねぇし顔が立たねぇって」


 自嘲気味にそう言い、彼はばつが悪そうに笑った。

 彼の言葉は、続く。


「先月同行してる時にも思ってたけど、お前は真面目過ぎる」


「……真面目?」


 一体オレのどこを見て、そう言っているのだろうと思った。


「与えられた仕事を、当たり前にこなせないオレが、ですか……?」


 そう返したオレに、彼は少しだけ苦笑した。


「割り切れって。お前は俺の教えたことのほとんどをメモしてるし、上に送る報告書も人一倍ちゃんと書いてる。これの一体どこが不真面目って言えるんだ」


 むしろお手本のような新人だろ、と彼は言った。

 オレの中に、何か暖かいものが込み上げてくる感覚があった。その正体はわからないが、暖かい。悪いものではなかった。


「俺も斎藤さんも、もっと上のお偉いさん達も。お前のことを間違いなく高く評価してる」

「……本当、ですか?」

「少なくとも俺はそうだろ。本人が言ってんだから」


 彼はそう言ってギュッと灰皿に煙草を押し付け、消す。缶コーヒーを口に運び、鞄からミントタブレットを取り出し一粒口に放り込んだ。

 慣れた手つきで行われるその行為は、気持ち良さすら感じた。そしてその光景がとても山田さんらしくて、安心を与えてくれるものだった。


「だからこそ、根詰めすぎんな。肩の力抜いて、適度に休みながら頑張んだよ」


 俺みたいにさ、と笑いながらそう言った。


 心の内に込み上げてきたものの正体がわかった気がした。


 これは、救いだ。

 この暖かいものは山田さんによって与えられた救いなのだ。オレはそう確信した。

 なんて人だ。これまでどん底を這っていたオレの心を、こんなにいとも簡単に救ってくれるなんて。聖人なのかもしれない。オレは、恵まれている。


 そう思っていた時、彼の口から最後の言葉が放たれる。

 それは今までの言葉とは打って変わって、重く、鉛のように圧し掛かった。


「――――そんな残業して死にそうな顔すんのは、俺くらいの歳になってからで良いんだ」


 それは、一見すれば鼓舞のように感じる言葉だ。今は楽をしていい、もっと気楽でいい。そう捉えることのできる言葉だ。

 だがオレには、それがまるで『これから先はもっと辛いものが待っている』のだと、暗に告げられた気がした。

 穿った見方かもしれない。捻くれた受け取り方かもしれない。でもそう聞こえてしまった。

 そして同時に、見透かされていることに焦りを感じる。素の自分はあの日、笑顔で消した筈なのに彼は『死にそうな顔』と言った。それだけ表情に出てしまっていたのか、それとも彼の察しが良いのか、はたまたその両方なのか。


 暖かいものが、急激に冷えて氷のように心を支配していく。


 今、やり過ぎだと言われるほどに精一杯頑張っている。


 今、毎日遅くまで残って必死に食らい付いている。


 今、一番辛い時期だと感じている。


 ――それが今後増え、更に苛酷になるとしたら?


 その疑問に、オレは蓋をした。


「ありがとうございます、先輩」


 彼の言葉に救われたのは間違いない。事実だ。しかし『これから先』のことを考えると、どうにも複雑な気持ちになる。

 だからオレは考えるのをやめ、そっと蓋をした。


 それからオレは、多いと指摘されたことを意識し、訪問件数と会社に戻ってからの残業時間を抑えることにした。するとどうだろう。今月の残業時間は100時間を覚悟していたのに、終わってみると先月と同じぐらいの残業時間にあっさり抑えられた。助言というのは偉大だ。


 だからと言って、心に残された氷は解けないままでいた。

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