第3話 見掛け倒しの味方と笑顔

 幾ばくかの時間が経つ中で、オレは捌け口を求めるようになった。

 疲弊していく毎日。その事実を、誰かに打ち明けたかったのだ。


 今思えばそれが最初の危険信号であり、心のSOSだったのだと思う。鬱屈した感情を吐き出せる場でもあった趣味を封じられたオレの心が、助けて欲しいと叫んでいたのだろう。


 ただ話を聞いてもらう。その行為に救いを求めていたのだ。


 まず最初にと思い、ある日の夜、オレは母へと電話を掛け愚痴をこぼした。


 今自分が置かれている環境、崩れている生活、捌け口が無く溜まり続けるストレス。それらを飾ることもなく正直に、ただ湧き上がる感情をぶつけていった。厳格な両親からしたら、不満を募らせた幼い子供が癇癪を起こしているように聞こえるだろう。


 もしかしたら怒られるかもしれない、と思いながら話し続けた。

 だが同時に、もしかしたら理解してくれるかもしれないという期待もしていた。


 期待は、あっけなく裏切られることになる。


「そう」


 母からの返事は、とても素っ気無いものだった。

 時折見せる相槌にも、どこか適当な雰囲気を感じた。

 その声色から感じられるのは怒りでもなく、悲哀でもなく、ただの呆れだった。


 ――あれ、オレはお母さんになんでこんなこと話しているんだろう。


 オレは話しながらそう思った。

 救いを求めていたはずなのに、どうしてこんなにも薄暗いモノが心に溜まっていくのだろう。

 心臓がドクドクとうるさい気がした。どうにも落ち着かない。

 自然と無意識の内に左手で胸を抑えていた。嫌な汗が出てくるのを感じる。


「――なんだ、またあいつからか?」


 電話の向こうに、無骨な低い声が聞こえた。

 それは間違いなく、父の声だった。


 ドクンと一つ、心臓が鳴ったのを確かに感じた。


「社会人にもなってあいつは……本当に――――」


 瞬間、オレは電話を切った。

 

 逃げるように。


 その先の言葉を絶対に聞かないように。


 携帯を床へと放り、オレはベッドへと飛び込んだ。

 涙がこぼれそうになるのを無理やり枕へ顔を押し付けることで我慢した。

 助けを求めたその手が払いのけられた悲しみから来る涙ではなく、己の浅はかさを実感し自分に対しての恥ずかしさから来るものだった。


 こうなるのは当然だったのだ。昔からずっと厳しく、就職の決まらない日々の中でも変わらずにオレを追い立てたのは彼らじゃないか。

 ならば、社会人となってすぐの自分が彼らに救いを求めたとしても、呆れられるのは不思議じゃないことは、想像できたはず。そんなこともわからないほどに自分は疲弊していたのだろうか。


 彼らは何も変わっていない。


 ああ、そうだとも。


 普段と違って追い詰められている自分の声を聞いたとしても、何も変わらないのだ。

 だから、泣くな。泣いたって変わることも、変えられることも何もない。


「……今日はもう、疲れた」


 オレはベッドの上から動けず、そのまま毛布にくるまった。

 何かから自分を守るように。


 夕食も食べず風呂にも入らず、ただ眠ろうと思い、眼を閉じる。

 その瞼の裏は真っ暗だった。それがまるで今の自分の胸中と、これから先の人生を暗示させるものに感じてしまい、また涙がこぼれそうになる。それをグッと堪え、無理やり楽しい思い出を振り返る。

 眠ろうとしたら悪い未来を考えてしまい、その度に楽しかった過去を振り返り安心しようとする。

 そんなことをベッドの中で繰り返していた。


 ふと頭をベッドの外に出し、カーテンを見た。外が明るい。

 どうやら一睡もできないまま、夜が空けてしまったらしい。携帯のアラームが鳴る。その音がやけに喧しく、耳に突き刺さるような感覚に陥った。

 オレはノロノロとした動きでベッドを這い出て、重い頭と足取りで風呂へと向かい、汚れを落とす。風呂が終われば朝食を摂る。昨日は夕食を抜いたので、普段よりも少しだけ多く食べた。こんなにも疲弊しているのに空腹を感じ、食べることができるのは不思議だと感じた。


 今日もまた仕事が始まる。


 支度をしながらそう思うと、鞄にも重みを感じてしまった。同時に昨日の彼らの言葉と声色を思い出してしまう。仕方のないことだと理解したはずなのに、棘のように深く心に突き刺さっているのを実感した。


 ――――行きたくない。


 ――――転職しようか。


 思わず口からこぼれ落ちそうになったその言葉達を、必死に飲み込んだ。

 それを言ってしまえば何もかもが崩れ落ち、終わる気がした。それに、言ったところで誰も助けてはくれないと思った。

 そして自分にとっても良くない言葉だ。甘えてしまいそうになるし、気持ちが落ち込んでいく一方だ。

 両頬を叩き、己を奮い立たせる。鏡で自分を見つめると、そこには笑えていない疲れ切った顔をした男がいた。その姿を消し去るように口の端に人差し指を当てて、無理矢理口角を吊り上げる。そして、オレは大手企業の営業部に勤める一端の社会人であり、ドアの外側の世界において自分は他人からそういう存在として見られるのだと強く思う。


 考える必要はない。笑顔になった今、素の自分はどこかへと消えた。

 どんなに辛くても、苦しくても、弱音を吐いたところでそれを優しく拾ってなんか貰えない。

 ただ自分を追い込んでいくだけだ。


 精一杯の笑顔を作り出し、己を鼓舞したオレはドアノブに手を掛ける。

 

「よし……行くか!」


 そして言葉と共にドアを開けた。


 その言葉と表情に、感情が籠もっていたどうか。


 そんなことは、覚えていない。


 道をただ、進んだ。

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