第2話 濁り始める
勤務2日目。オレはまたビデオを見ていた。
昨日と違うのは、内容が社会人としての一般的なマナーから勤務内容になっていたことだ。
ビデオを見ながら、オレはこれからこういうことをするんだなと改めて実感する。
そしてこの日、社会人として初めて残業をした。それは一時間ほどではあったが、間違いなく残業だった。
3日目には、早速実際の職務をこなすこととなった。とは言っても、先輩と一緒に動くため、実地研修に近い。
内容は営業職らしく、外回りだった。一緒に行動したのはインストラクターの山田さんだ。彼はとても気さくで、常にオレのことを気に掛けてくれていた。
「お客様の店舗に入った時、何か困ったことはなかったか?」
「斎藤さんはマナーに厳しい。だからお前が注意されないように、俺が教えるよ」
先輩社員という存在はこんなにも偉大なのか、とオレは軽く感動していた。あまりにも優しかったし、オレについて考えてくれるその行為は、素直に嬉しかった。
外回りということもあり、オレと斎藤さんは車に乗って移動をしていた。車中、真面目な話から他愛のない話題まで振ってくれた。
例えば趣味であったり、この地域での娯楽、他社員の性格の話、そして女性関係の話であったり。本当に色々なことを話した。
移動中、オレはずっと笑っていたと思う。それだけ彼が話し上手であり、明るく和ませようとしてくれていたのだ。
だが、楽しい時間に陰りが見え始める。
外回りに付いて行くようになってから、目に見えて残業時間というものが増え始めた。
研修が含まれた最初の一ヶ月。その時点で月の残業は60時間を超えていた。
残業というのは殊の外、辛いし大変なものだと改めて認識する。もう帰宅して構わない時間であるにも関わらず、それができない状況と、単純な肉体的疲労。それらが否応なく襲い掛かるのは、何とも辛いものだった。
それに加え、気付いたこともある。
先輩社員達が自分より早く帰った姿を、一度たりとも見たことが無かったのだ。
上司の斎藤さん達からは、早く帰るように、といつも促されていた。だが逆に、彼らは一体いつ帰っているのだろうか。単純な疑問だった。
オレは外回りの移動中、それとなく山田さんにその疑問を投げ掛けてみた。すると彼の表情は若干曇り、言い辛そうにしていた。
「まあ、そうだな……22時過ぎが、多いかな……」
オレはそうなんだ、と思った。それ以上は何も思わず、ただ純粋に疑問に答えてくれた山田さんに感謝を述べた。だが今度は、なぜ彼が言い辛そうにしていたのかが疑問に挙がった。本人に聞けば良いのだが、なんとなくオレは聞くことができなかった。
その『なんとなく』が胸につっかえたまま、また日々の仕事をこなし続けていく。
そして後日、事務員である小林さんと話す機会があった。彼女ならきっと答えてくれるだろう、という確信のもとオレはあの時の疑問を解消するべく、それとなく彼女に疑問を投げ掛けた。
「言い辛い、というよりあなたに伝えにくかったのかもね」
彼女はショートカットの髪を揺らしながら、苦笑した。
言葉が続く。
「この会社、新入社員の離職率が結構高いのよ。このことを新入社員であるあなたに直接伝えるのは……少し、ね」
残業時間が多少長いだけで特に不満も無く、職場の雰囲気も職務内容にもある程度満足していたこの時のオレには、その言葉の真意が見えなかった。
加えて、オレは早くからリタイアしてしまうという新入社員に対して、あまり良い印象は抱かなかった。
確かに辛いし大変な仕事ではあるし、オレもそれには同意できる。しかしながら、それだけで早々に辞めていってしまうのは色々な意味で勿体無いことであるし、貴重な時間を割いて教育してくれる先輩方に申し訳ないと思わないのか、とも思った。
辞めていくのは理解できないですね、と笑いながら小林さんに言うと、彼女はまた困ったように苦笑した。
結局、彼女が何を伝えようとしたのかも、山田さんがなぜ伝えにくかったのかも、よくわからなかった。
その真意は間も無く、己の身を以って理解することとなる。
それはオレが一人で外回りを始めた頃だった。
「――以上がお前のノルマだ。ひと月で成績を出してこい」
斎藤さんからノルマというものが明確に提示され、具体的な数字を見せられた。最初はこの数字自体に理解が及ばず、また一緒に外回りをしていた山田さんのノルマよりも圧倒的に低いため、ピンとこなかった。
ノルマ、数字に対して表面上でしか見れていなかったと言っても良いだろう。
しかし、実際に一人の外回りをしてみると、そのノルマと数字に驚くこととなった。
一言で言ってしまえば、異常だったのだ。
そもそもの話をしよう。
まず先輩と新入社員の違いとして、その移動手段が挙げられる。先輩方は車の使用が許され、それによって移動が行える。しかしながら新入社員はそうはいかない。新入社員には車の使用は許されず、徒歩と公共交通機関を用いた移動となる。
移動にかかる時間というのは、効率に直結する。当たり前だろう。徒歩で1日10箇所行けるのに対し、車ならその2倍3倍は移動できる。故に、車で移動が可能な山田さんと、徒歩の自分のノルマが違うのは、先輩後輩という前提を抜きにしても、当たり前なのだ。
更に別の違いとして、営業先の有無だ。
先輩方は既に営業を掛けている『取引先』や『お得意様』というものが存在し、他にも、会社で管理されている営業先というものがある。
対して、新入社員はどうだろうか。
まだ営業を掛けたことも無ければ、会社管理の営業先には行くことができないし、行かせられないだろう。
つまりスタート地点が違う。元からあるものを活用するのと、0から作らなければいけないのとでは天と地ほどの差がある。
0から作るということは、飛び込み営業をしなければいけないということだ。
これについての研修はあってないようなものだった。
というのも山田さんと二人で行動をしていた時、彼の営業先は正に『取引先』や『お得意様』が大半を占めていた。飛び込み営業自体は数える程しかなく、必須とも言うべき知識と経験の両方が、あまりにも未熟だったのだ。
見たこともほとんどない。
やったことなどある筈もない。
何一つわからないまま、着の身着のままで飛び込んだ先。
「――――」
「興味無いので……」
「お前の会社は客の邪魔をするのか?帰れ」
無視、そもそも取り合ってくれないのは当たり前。酷い時は罵声と物がオレに向かって飛んでくることもあった。門前払いである。
しかしそうなるのは、当然の帰結と言えよう。
そしてその状況は、思っていた以上に辛いものだった。
半月が経過し、オレは自分の営業成績を見る。
当然のように、ほとんど結果を出せていなかった。その結果につられるように、残業時間は着実に増えていってしまい、40時間を優に超えていた。
半月でこの状態ということは、これからもっと仕事量を増やして取り戻す必要がある。
そう考えたオレは入社2ヶ月目にして、月残業100時間超えを覚悟した。
この頃から、仕事がプライベートを蝕んでいき、徐々に生活が崩れ始めた。
徒歩での移動、行った先々では当たり前のように門前払いを食らう。それらは肉体と精神に多大な疲労とストレスを与えていくには、十分な要素だった。
趣味によってフラストレーションを発散する性格だったオレは、仕事によって減っていく趣味の時間を謳歌できずにストレスを溜めていった。ストレス社会とはよく言ったものだ。
今までは趣味の時間を十分に取り、没頭することでストレスを解消していたのだが、ここにきて疲労と気力の喪失はそれをも奪った。趣味に興じたいけれど明日も仕事があり、疲れているから早く寝てしまう。
次第にオレの日々は、朝早く出勤し、日中は歩き回りながら門前払いを食らい、遅くまで残業する。仕事が終わればすぐさま帰宅し、簡単な食事を摂り、風呂に入り、すぐに寝るというものになった。
「……疲れたな」
そう呟きながら、空になったコンビニ弁当の容器を捨てる。この生活を始めた頃は、毎日しっかり自炊をして皿も洗っていたのに、余裕がなくなった今では24時間営業のコンビニかスーパーで買ってくる弁当ばかりだ。
眠気に襲われながら、半目で部屋を見渡す。適度にしていた掃除も今では滞ってしまい、ついには行き届かなくなった。
洗わずに放置された食器、散乱するペットボトル。客観的に見ればゴミ屋敷と同義なものになってしまう程に、生活環境は酷いと言えるだろう。
事情を知った者からすれば、この風景だけでオレが追い詰められ始めていることがわかるような状況だった。
こうして、ようやく掴んだ仕事はオレの生活を蝕み、侵食し、ついには心にまでその手を伸ばしつつあった。
その事実にオレはまだ、気付くことができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます