ブラック企業時代

第1話 始まりの一歩目


 この時期の世間は、まさに混乱の中にあった。


 混乱の始まりは2019年12月。それは突然発生し、瞬く間に世界中に広がっていった。とあるウイルスによって巻き起こされたこの災禍は、経済の停滞化や沢山の規制が行われるなど、人間の生活に多大な影響を及ぼしていた。


 そしてその影響は、現在に至るまで留まることを知らない。


「ここ、受けてみようかな」


 その渦中にあった夏頃、オレの姿は求人票の前にあった。

 何をしていたかと言えば、仕事を探していた。所謂、就職活動というものだ。


 当時の就職活動を一言で表すなら『とても大変だった』だ。

 ほぼ毎日エントリーを行い、履歴書を書き、それを送り、書類選考が通れば面接を̪しに行き、合否を緊張しながら確認する。

 オレは就職活動を中心とした日常を過ごしていた。この時の自分を振り返ってみると、我ながらかなり頑張っていた方だと思う。履歴書も面接も、就職活動に関することは人並み以上に努力していた。


 だからこそ、結果が出ないことに焦りを感じるのは仕方のないことだろう。

 努力空しく、オレを雇ってくれる会社は中々見つからなかった。


 今でこそ落ち着いて考えてみれば、中々採用が決まらなかったのは当然だった。なぜなら、世の中はウイルスによって様々なあおりを受けている最中だったのだ。


 『就職氷河期というのは今から何年前の話だろうか』

 『いや今もまだ続いているのではないだろうか』


 そう思う程に、就職活動は上手くいかなかった。間違いなく、辛かった時期だ。


「なんでこう、上手くいかないのかな…」


 遅々として努力が実を結ばないまま、疲れと焦燥感が増していく。だがそれでも続けなければいけないのは、自分には良識があるからだと思う。この日本において古来より『働かざる者食うべからず』と言われるように、働かなければ衣食住全てが滞る。

 それを理解していたからこそ、努力を続けていたのかもしれない。


 それから流れるように季節が移り変わり、2月になった。

 寒さの中に少しずつ春の兆しが見え始め、ニュースでは桜の蕾が現れ始めたなど春についての話題が増えていた。


 この頃になって、ようやく就職が決まった。しかもそこは業界大手の会社の営業部、これまでの苦労が実を結んだ瞬間だった。

 嬉しくない訳がない。心から喜んだし、表情にも出ていたと思う。それに安心もした。


 何よりも両親からのプレッシャーから解放されたことが大きい。両親は厳しく、ことあるごとに『早く就職してくれ』とオレに言った。その言葉が、上手くいかないオレの心に棘のように刺さっていたのだ。


 先行きの見えない就職活動、毎日擦り減る精神、溜まっていく疲労。


 その全てが報われたと感じ、オレは大きな安心感を得ていた。

 

 それから状況は、とんとん拍子で進んでいく。


 就職することとなったオレは、まず引っ越しをしなければいけなかった。

 移り住む先は広大な森林と山々が聳える、雪降る地。その為の住居、家具、必要機器などを揃えることに奔走することとなる。

 これもまた大変だったが『大変だな』と思う以上に、オレはまだ見ぬ地での新生活と、一人で暮らすというこれからに対して、期待と不安を膨らませていた。


 自由であることは同時に不自由であることだ。哲学書にでも書いてありそうな言葉だが、事実ではある。

 これからオレは自由になる。自由に生活し、何かを食べ、娯楽に興じることができる。

 だがそれは不自由でもある。規則正しい生活を心がけ、健康に配慮した食事を摂り、無駄遣いをしないように遊ぶ。つまり、自分自身を律しなければならないのだ。


 そうしてオレは複雑な感情を抱えながら、これまで過ごしてきた生家を出て、新たに生活を始めた。

 慣れない内はやはり苦労した。ただでさえ、社会人として初めての仕事を日中しながらとなると、大変さは仕事と生活の両方で味わうことになる。


「でも、なんか良いな。大人というか、立派な社会人してるみたいだ」


 仕事について振り返ってみる。

 勤務初日。初日の勤務内容は凄く簡単なものだった。

 まず初めに、社内で自己紹介から始まった。自分で言うのもなんだが、元気よく自己紹介ができたので印象は良かったと思う。そしてその後に続き、同じ勤務先に勤める上司や先輩が、次々と自己紹介をしてくれた。

 

 勤務先で一番の上司は斎藤さんという方だった。眉目秀麗で顔のパーツひとつひとつが整っており、オレが見惚れてしまうほどの男前だった。その上声色は優しく、まるで物語から飛び出てきたかのような、いかにも仕事の出来る上司というような風貌だった。

 幼い頃からスポーツをやっているらしく、マナーにはとことん厳しいと聞いた。


 次にインストラクターをしてくれる先輩は山田さんと言った。どうやら社内でオレの次に若いらしく、歳が一番近かった。背丈はオレより高く、お兄ちゃん肌の素敵な方だ。

 彼が新入社員の頃は斎藤さんがインストラクターをしていたらしく、どこか似た雰囲気を感じた。インストラクターの経験が無く、指導を行うのはオレが初だったようで、オレのことを気に入ってくれているということもあり、とても丁寧な対応と積極的に色んなことを教えてくれた。

 ちなみに彼女がいるらしく、暇さえあればオレに彼女の話をしてくれた。


 最後に事務員の小林さんという方がいた。営業で基本的に外回りが多い社員に対し、一日中社内で事務作業をしている人だ。この人も非常に整った顔立ちをしており、ショートカットの髪がよく似合う方だった。

 勤務を始めてすぐの頃、オレは社内で動画を見て勉強をすることが多く、その関係でよく話をすることが多かった。山田さんの次に多く会話をした人かもしれない。オレのことをよく気に掛けてくれる方で、敢えて上司のいない時に「調子はどうですか?」と心配してくれたり、長時間座って動画を見ている俺を見てコーヒーを奢ってくれたりした。

 小林さんに助けられたことは、本当に多い。


 他にも営業成績が全国トップクラスの先輩や、金曜の晩にほぼ毎週風俗に通っている変わった先輩。主任や、技術職専門の社員など、多くの先輩方がそこにいた。

 

 自己紹介が終わると、社会人としてのマナーを学ぶための簡単なビデオを見た。

 そうしてオレの社会人初日は、定時にしっかり終わりを迎えた。

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