第19話 いくつ零れ落ちたのか
会社を辞めると言ってから数日後、オレの姿は会社にあった。
偏に辞めると言っても、そこには色々な手続きと準備が必要であり、それらを消化するために会社に来たのだ。
時刻は正午前。
この時間帯は他の社員達が外回りで出払っており、会社にはほとんど人は残っていない頃だ。
敢えて、この時間帯にしたのには明確な理由がある。とはいっても手続き等に何ら関わりもない、個人的な感情の話だ。
顔を合わせ辛い。
ただそれだけの理由だ。
周囲の人間から称賛され、期待されていたことがあった。
お前は他の新人とは違う、と特別視されるような言葉を投げ掛けられた時もあった。
だがそれは、過去のものになってしまった。
こんな形で会社を辞めることになるとは、オレ自身が予想できていなかったし、きっと周りもそうだろう。先輩達は、このような結末を迎えてしまった自分を見て、何を思うのだろうか。結局お前も同じなのか、と嘲笑を向けるかもしれない。期待してたのに裏切ったなんて思われていたら、と考えると吐き気すら感じる。
オレは彼らに、顔向けできない。
そんなことを考え、気付いたら人の少ない時間帯にオレは来ていた。
ありがたいような気もするし、逃げているような気もする。そんな不安定な感情のまま、オレは会社に足を踏み入れた。
オフィスに入るとそこには斎藤さん、事務員の小林さん、そして何度か話したことのある先輩社員の三人がいた。
先輩は少し遅く外回りに出る直前だったようで、鞄を持ち、オフィスから出ようとしていたところだった。
「お、久しぶりだな」
彼はオレを見るとそう声を掛けた。
いつも通りの態度。表情などに普段と違うところは見受けられなかった。
こんな時間に出社する自分を見て、何も言わない辺り、恐らく斎藤さんから諸々の説明は受けていたのだろうか。それとも何も知らないから、オレに対して何も思うところが無いからいつも通りだったのか。
前者なら、少しは気分も晴れる。邪推や僻みも無く、ただいつも通り振舞っただけだというのなら、その気遣いや態度に優しさを感じる。
「行ってきます」
そしてそれだけ言い、オレの横を通り、外回りへと出て行った。
オレは彼に何も返すことができず、ただ黙って視線だけ彼に向けていた。
いつも通りじゃないのは、自分自身だ。
普段であれば彼の言葉に何か返していたはず。行ってきますと言っている先輩がいるのなら、行ってらっしゃいませと返すのが当たり前だった日々。
身に染みて、習慣となったはずのことすらできない自分は、本当に会社にとって価値の無い人物になったのかもしれない。
オレはそんなことを思っていた。
なぜこの時、いつもと同じように「いってらっしゃいませ」と言えなかったのだろう。
今でもその理由は、わからない。
オレはデスクに座り、小林さんに教えてもらいながら退職届を書いていた。
彼女もまた、いつも通りだった。
ここがわからないと言えば、どうすればいいかを優しく丁寧に教えてくれる。入社して最初の研修の時を思い出した。あの時もこうして、色んなことをオレは教わっていた。研修が終わった後も、何か書類などについて聞きたいことがあれば、彼女を頼った。
オレはこの人をも裏切るのか。
そんな考えが、脳裏にちらつく。
退職届を書き終えると、今度は二人でオレのデスクの片付けを行った。
名刺や不要になった書類、文房具など。
仕事で使っていたもの、必要だったもの。その全てをゴミ箱やシュレッダーで片付けていく。その全てに何かしらの思い出があり、オレは後ろ髪を引かれるような思いがし、片付けの手が止まることがあった。
そんなオレの横で、彼女は、淡々と手伝ってくれていた。
躊躇も、逡巡も、後悔も無く。
ただ捨てるという行為を実行する機械のようで、その様子は先程までと違い、どこか普段とは違ったような気がした。まるで、物を捨てるみたいに無理矢理オレのことを忘れようとしている風に見えた。
途中、斎藤さんが電話を掛けているのを目撃した。そしてその近くを片付けのために通った時、たまたま会話の内容、その一端を聞いた。
「新入社員が退職することになって、退職届の一部、書き方がわからないのですが……」
会話を聞いて、ようやく、オレの中でカチリと何かが嵌った。
その何かは、すぐにわかった。
――オレ、逃げるんだ。たった二ヶ月ぐらいで。
そのことを実感として、理解する。
以前、山田さんや小林さんから聞いた、新入社員の離職率が高いという話。
あの時はオレは、辞めていく新入社員に対して、どんなことを言っていたか。
『辞めていくのは理解できないですね』
井の中の蛙とは、このことかもしれない。
何も知らないオレが、仕事が楽しくて上手くいっているような気がして、吐いた言葉がこれだ。自分の価値観と知っていること、感じていることだけで構成されたこの言葉は、一体何様のつもりなのか。
何を言っても、弁明しても、全てが遅い。
己の無知と、弱さに、また涙がこぼれそうだった。
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