第20話 二人の顔、零になる部屋

 社内で泣き出さないよう、必死にこらえながら手続きを進めていく。


 入社する前の就職活動と、入社する時の様々な手続きに比べて、退職手続きというのは簡単なものだった。

 新人ということもあるだろうが仕事の引継ぎなどはほとんど無く、やることと言ったら数枚の書類に目を通し、サインを書き、捺印するだけだった。

 その簡素さが何故か無性に悲しく見え、それがまたオレに泣くことを強要する。


 それから十数分と経たずに、全ての手続きが終わった。達成感は無く、ただ空しさと情けなさが押し寄せる。

 だがそんなことを思っていても、終わりは終わりだ。もうこの会社にオレの居場所は無く、オレは今からこの会社とは無関係になる。


 オレは立ち上がり、印鑑や筆記用具を鞄にしまう。

 後は、帰るだけだ。

 そんなオレを見て、斎藤さんと小林さんが口を開いた。


 「離れてしまうけど、何かあったら……いつでも連絡して来いよ。いつでも助けになるからな」

 「君のこれからを応援しています。大丈夫、仕事を辞めても意外と何とかなるものだよ」


 彼は、彼女は。

 最後までオレのことを気に掛け、あまつさえ優しい言葉を投げ掛けてくれる。


 オレはこの会社のことを、俗にいうブラック企業だと思っていたところがある。

 繁忙期に週6日勤務は当たり前。新人でひと月の残業平均時間は60時間を超え、長く勤めれば勤めるほど、その残業時間は伸びる。短くなることはおそらく無い。

 そんなことを聞けば、ブラック企業じゃないかと思っても仕方ないことだと思う。



 だが、今、ここに立つ自分の状況はどうだろうか。

 普段から丁寧に接してくれて、辞めていく人間にも優しくしてくれる。そんな人達がいる環境が、悪いものなのだろうか。それに繁忙期などの話は日本において当たり前なのかもしれない。

 

 ――――本当に、辞めて良いのだろうか。


 そんなことを考えても、もう遅い。裁定は下り、オレに選択する権利は無い。

 辞めないと言えるのは社会人としての当たり前をこなし、体調を崩さないようにできる人間だけだ。

 オレは、違ったのだ。そんな人間ではなかった。


 我慢の限界だった。

 彼らの顔を見ながら、オレは泣いた。ここ最近、泣いてばかりでおかしくなりそうだった。


 「ありがとう……ございました……」


 その一言しか、言えなかった。

 その一言が、限界だった。


 オレは今更隠せない涙を隠すように、深々と頭を下げて礼を述べる。そしてそのまま、顔を俯かせた状態で出口へと足早に向かった。

 後ろで、彼らが何かを言っていたような気がするが、オレは気にしていられなかった。そんなことよりもただ、この場をすぐに去りたかった。


 いつも「行ってきます」と言ってから元気よく出て行く扉。それが何故だが鉄でできたもののように重く感じる。この会社から去りたくないのか、もっとちゃんと彼らと話すべきだと思っているのか。それとも、ただの罪悪感によるものなのか。もしかしたらそれら全てが扉を重くしているのかもしれない。


 よぎる思考を払って、抉じ開けるように、扉を開ける。

 外の空気が入ってくる。冷たい空気だ。

 そのまま外に出て扉を閉める。その時一瞬、閉じていく扉の隙間から彼らの姿が見えた。

 だが、その表情はわからない。二人は去っていくオレを見て、どんな顔をしていたのだろう。哀れみなのか、悲しみなのか。

 オレには、もう知る由もない。






 退職手続きを済ませてから数日後、オレは部屋を引き払うことにしたので、その準備と手続きに追われることになった。この部屋にいる意味も理由も、既に無い。

 まずは不動産会社に退去する旨を伝える。すると諸々の書類が必要になるので、一度店舗に来てほしいとのことだった。

 店舗に行った時、オレを見た職員達が少し驚いたような顔をしていたのが印象的だったが、それ以外は特に何かあるわけでもなく、手続きはスムーズに終わった。


 その後、引っ越しをするにあたって家具や私物の運び出しをするのだが、流石に自分一人では無理があるので、業者を呼ぶことにした。

 運び出してもらう前に今まで使ってきた食器や家具、服など全ての物を、段ボールに詰めていく。休暇を取っている間にある程度片付けを済ませていたため、段ボールに詰めるだけの作業に時間はかからなかった。


 物が無くなった部屋は、とても広く感じた。それと同時に、この部屋に引っ越す前に、下見に訪れた時のことを思い出す。

 その時の自分は、これから始まる新生活、社会人としての一人暮らしに不安と期待に胸を膨らませていた。だが今、オレの胸の内にあるのは空しさと情けなさだ。

 一年も経っていないのにこの心の変わりようは、オレの弱さが招いたことなのだろうと考える。


 業者は、オレが片付けを終えてから数日と待たずにやって来た。

 オレは運び出されていく段ボールと、忙しなく動き続ける彼らを、部屋の隅で眺めていた。


「こんな時期に引っ越しなんて、珍しいですね」


 そんなオレに、一人の中年くらいの男性が話し掛けてきた。

 仕事柄だろうか、鍛え上げられた筋肉が作業着の上からでもわかる。その体が、顔の見た目の年齢とは裏腹に、若々しい印象を与えていた。


「ええ……まあ、その……」


 なぜ話し掛けて来たのかわからないオレは、戸惑いながら返事をする。答えにもならないその言葉を、彼は笑って「大変ですね」と言い、作業に戻っていった。


 徐々に減っていく部屋の中の荷物たち。

 その光景が何故だか、とても寂しく見えた。


「――実は、仕事……辞めたんです」


 オレは、背を向けて作業をしている彼に、唐突に話し掛けた。

 寂しさを埋めたい衝動にかられたのか、単純に誰かに吐き出したいものがあったのかはわからないし、それが何故全く関係の無い業者の男性だったのかも、自分のことながら理解できない。

 オレが突然話し掛けたというのに振り向いてくれた彼に、オレは全部話してしまおう、と思ったのはよく覚えている。


 それから、入社してから先日の退職した日までのことを、プライベートなことはぼかしながら彼に話した。

 彼の反応は覚えていない。人並みに相槌を打ち、ありきたりのない言葉で何か応援してくれていたような気もする。彼自身の苦労話や成功した話なども聞いた気がするが、定かではない。


 だが、ひとつ。

 たったひとつではあるが、彼との会話で知ったことがある。


 それは吐き出すことの大切さだ。


 これまでも山田さんや斎藤さん、両親や友達に色んなことを吐き出してきた。

 だがそれは全て、自分に関わりのある人達であり、無関係では決してない。無関係ではない人達に吐き出すことを、相談と表現するのだろう。


 そうであるならば、相談することと、吐き出すこと。

 この二つの違いは明白だ。前者は吐き出した上でどうしたらいいかを模索する行為で、改善策を見つけ出すものである。

 対して後者は、ただ吐き出す。その行為に意図するものは無く、解決するための何かを見つけるわけでもない。思っていること、考えていることを言葉に変換し、文章として語り出し、その感想や批評を求めない。

 その行為に何の意味があるのか。それは心に溜まった膿を、少しでも絞り出すためなのだろう。

 全てが解決しなくても、スッキリしなくても。

 ほんの少し心が軽くなり、ゆとりが持てるのであれば。


 きっと明日の自分は、今日の自分よりも足取り軽く、進むことができるのだろう。


 これが、オレが社会人最後の日になって、ようやく理解できたことだった。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





 オレは書き終えた文章を眺め、読み返す。

 これでブラック企業に勤めていた頃の話が終わりを迎えた。


 なんだか長いようで、短いような、そんな感じがした。

 実際、文章は短いのだが、経験したあの頃というのは長い時間の流れの中で生きているものだ。

 そう考えると、もっと沢山のことを詳細に語りたいと思うが、それは蛇足というものなのだろう。


 この文章の最後、業者の男性と話した時のことを思い出す。


 吐き出すことの大切さ。身を以て知った出来事だ。


「――ああ、そういうことか」


 合点がいく。

 

 何故オレはあの頃の思い出を、こうして文章として書き出し、再構築して物語にしているのか。


 それに答えを出す。


 これもきっと、吐き出す、という行為のひとつなのだろう。


 ――――溜まった膿を、絞り出す行為。


 オレはまだ、あの頃に縛られているのだろうか。


 選択を間違え、選択することを許されず。

 全ての歯車が狂った挙句、全てが掌から零れ落ちていったあの頃。

 オレに関わった全ての人達に対して、罪悪感を拭い切れない感情が、まだオレの中にあるのかもしれない。

 許される時を待っている、あの頃のオレが心の中にいるのかもしれない。


 ――――オレはまだ、苦しんでいるのかもしれない。


 筆を置いたオレは、そう思った。

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