第14話 一枚の紙、押し寄せる現実

 次の日、オレの姿は再び病院にあった。

 昨日の出来事、記憶が突然無くなる現象を、加藤医師に相談するためだった。


 一晩眠ったことで今はある程度落ち着いており、昨日のことはうろ覚えながら思い出せる。仕事中のことも、帰り道に起きたことも、山田さんとの会話も。


 そして、それらを思い出せば思い出すほどに、自分に起きている現象に恐怖を抱く。

 相談、というよりこの恐怖から助けて欲しいというのが、本心かもしれない。


 昨日と全く同じように問診票を書き込み、呼ばれるのを待つ。昨日と違うのは、待っている間、呆然としておらず不安から貧乏ゆすりをしていることだろう。そしてそれを自覚している自分を、奇妙に感じていた。


 しばらく待っていると、待合席にアナウンスの声が響く。昨日と同じ、女性の声だ。


「……良かった」


 オレはホッと胸を撫で下ろす。そして席を立ち、指定された扉の前へと進む。


 昨日と同じ声ということは、つまり。


 扉を開けるとそこには女性が居た。長い黒髪を後ろで結った、柔らかい印象を纏っている人物。


「おはようございます。どうぞ、お掛けください」


 加藤医師。

 二回目に見るその表情は、一回目と同じ優しい笑顔だった。


 オレは、病院から出た後の出来事を、全て包み隠さずに加藤医師に話す。

 彼女は相槌を打ちながらメモを取り、オレの話を訊いていた。


「そう、ですか」


 話し終えた後、メモを取り終えた彼女はそう言い、少しだけ眉間に皴を寄せながら何かを考えていた。


 昨日は見せなかった表情。

 オレの現象に対し、どんなことを考えていたかはオレにはわからない。理解もできないだろう。

 ただ、彼女の表情が変わる程のことであるのは間違いない。


 悪化している。それも、急速に。


 そんな考えが脳裏を過ぎる。

 病気というのは悪化する前に処置を施し、快方に向かわせるのが基本的な流れだろう。

 しかし、急速に悪化していく病気というのは厄介だ。何せ、悪化するという過程があって無いようなものなのだ。進行を止めることよりも、進行を遅らせる治療法になるだろう。

 日に日に、自分の体が目に見えない病気というものに侵されていく。恐怖、でしかない。

 オレは彼女の曇った表情を見て、これからに対する不安を募らせる。

 すると彼女は、不安になったオレに気付いたのか、表情を元の柔和なものに変え、オレに語り掛ける。


「大丈夫ですよ」


 優しい声色だった。


「昨日も言いましたが、治ります」


 だから不安にならなくていい。安心して任せて欲しい。

 そう言っているような気がした。


「取り敢えず、聞いた話から今の状況について説明するなら……」


 そうですね、と彼女は一呼吸置いた。


「おそらく、心因性の記憶障害。解離性健忘、という病気です」


 加藤医師の話を纏めよう。


 解離性健忘。

 外部、または心的な要因から起こる健忘症のことをそう呼ぶらしい。女性や若い人に多い病。

 自分が誰なのか。今まで何をしていたのか。誰と会話し、誰と会ったのか。そういった部分的なものを忘れてしまうもので、忘れてしまう記憶は基本的に、自分にとってストレスとなる出来事なのだという。

 つまり、自分にとって嫌なこと、ストレスとなる事柄を忘れてしまうものなのだそうだ。

 記憶障害の他にも、抑うつ症状、つまり鬱病に近い症状や、睡眠障害。抜け切らない疲労感や、脱力感と言った症状も、この解離性健忘という病気からくるものだと加藤医師は説明した。


 そう。病気なのだ。


 昨日の段階ではまだ、症状が出ていますという説明だった。つまり、病気であると断言はされていない。

 だが、今回は違う。

 彼女は、加藤医師はオレに向かってはっきりと、病気だと言ったのだ。それもしっかりと病名まで出して。

 これからは病気にならないように、という指針から、病気と上手く折り合いを付けながら治すために、というものに変わった。


 もう後戻りができないところまで、来てしまったような気がした。

 そしてその感覚は、オレに更なる不安を与えるには十分なものだった。


 説明を受けてからの会話、そして病院を出るまでの間、思い出せることは少ない。

 記憶障害の所為なのか、それとも不安になった心が彼女の言葉を受け止めきれなかったのか、定かでは無い。

 だが、医師から正式に病気だと診断されたため、必要かもしれないという理由から診断書を貰ったのはよく覚えている。


 たった一枚、薄っぺらな紙が入った白い封筒。


 その封筒が酷く重たく感じ、オレの歩みを緩慢なものにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る