第15話 居心地の良い場所

 診断書を貰ったオレはその足で、会社に向かった。昨日と違うのは、午前丸々休みをもらった訳ではないことと、向かう途中で山田さんに会わないことぐらいだろう。


 道中、特に記憶が飛ぶようなことは起きず、問題なく会社に到着した。到着したのは良いが、なんだか入りづらい気がした。

 理由は明確だ。丸一日休みを貰っていた訳ではないが、仕事せずに病院へと行き、昨日の夜は体調の所為なのだが、帰ってきた後、周りに迷惑を掛けながら仕事をしていた感覚がある。

 それに今日に関しては、会社からしたらきっと『余計な物』を持ち込んできた。自分の今の現状を、診断書という医師のお墨付きの下で、周知してもらうこと自体は何ら間違ったものではないが、後ろめたさが先行していた。


 だがそれでも社会人であるならば、報告する必要性がある。それにこれからについてどうするべきか、相談するのも社会人として果たさなければならない義務だろう。


 オレは社会人の義務を果たすべく、後ろめたさを押し殺しながらオフィスへと入る。するとちょうどオフィスに入ってすぐの場所に斎藤さんが居た。同性であるオレでも見惚れてしまうその出で立ちは、普段と何ら変わりなかった。


 探す手間が省け、すぐに話し掛けられる状況ではあるものの、心の準備が不完全だったのか後ろめたさが再燃し、声を掛けることができない。


「おう、来たか。体調はどうだ?」


 なんて意志の弱い人間なのだろう、と思っていたところで、斎藤さんがオレの姿に気付き、声を掛けてくれた。オレに近付いた彼は、二日連続で仕事に遅れてきたオレに対し、嫌な顔ひとつせず、優しく肩を叩いた。

 きっと、二日間について彼は何も思っていないだろうし、言葉にしてくれた通り、オレのことを心配してくれていたのだろう。

 本当に、優しい人だ。

 だが、今はその優しさがオレに対して、鋭い棘のように突き刺さる。


 こんなにも良くしてくれているのに、オレは何もできていない。


 そんな思いがオレの言葉を詰まらせた。


「あー……そうだな、少し話さないか?」


 返事を返さないオレに、斎藤さんはそう言って窓の外に見える車を指差した。なんのことかわからないオレが固まっていると、彼は小声で「車で話そう」と言った。オレがそれに対し頷き、肯定の意志を示すと彼はオレの肩を叩き、オフィスを出て行く。

 その後を追うように、オフィス内で働いている人達から逃げるように、オレは急いでオフィスを出た。


「ここなら、大丈夫か?」


 外にある駐車場、そこに駐車された斎藤さんの車で、彼はそう訊いてきた。その言葉の真意にはきっと、優しさがあったのだろう。

 オレの状況は少なからず、山田さんから伝え聞いているはずだ。そして先程の質問に対しすぐに返せないのを見て、オフィス内で話しにくいことであり、オレ自身も周囲の目が気になって委縮しているのだろうと察した。

 そこで二人だけの空間、他の人間がいない状況であれば少しは話しやすくなる、と踏んだのだ。これが気遣いであり、優しさの現れでなく、何と言おう。

 実際オレは、車内に二人きりという状況はオフィスよりも気が楽になり、ここでなら色々と話ができると思った。


 この状況に安心したからか、ポツリ、と涙がこぼれた。


「……大丈夫です。すみません」


 オレは斎藤さんにそう言って涙を拭う。しかし、一度流れ始めたものは止まらない。

 理由は、明白だった。


 今オレ自身に降りかかっている状況が辛いこと。

 上司や先輩が、不安定で、どう扱って良いかもわからないだろうこんなオレに、とても優しく真摯に対応してくれること。

 そして、なによりも。


 そこまでして期待してくれているのに、それに答えられない自分が情けなく、悔しかったのだ。


「落ち着け。大丈夫だ。ゆっくり話してくれ」


 彼はそう言って、オレの膝を叩いた。

 その言葉が更に俺の涙を加速させた。優しくされた方が辛い、なんてことは口が裂けても言えない。

 オレは流れ続ける涙を抑えようと奥歯を堪え、少し落ち着くと話をした。内容は病院に行った日から、今日までのことだ。


 話し終えるとオレは、彼に診断書を手渡す。彼はそれを受け取ると、中身をじっくりと読んでいた。


「……なるほどな。状況はわかった」


 そう言って診断書をオレに返すと、ちなみになんだが、と話を続けた。


「その……記憶が無くなるようになってから取ってるメモ。見せてもらうことはできるか?」


 オレはその問いに対し頷き、鞄からメモ帳を取り出す。記憶障害が起き始めてから、出来事や会話をメモした、もう一つの心と言っても良いものだ。


「読みにくかったりしたら、すみません」


 そう言って、メモ帳を彼に渡した。中身は乱雑に書かれており、整理などされていない。記憶が無くなってしまう前に、急いで書いたものだからだ。

 他人から見たら、どう映るのだろうか。そんな疑問が胸の内に沸いた。

 彼は少しだけ眉間に皴を寄せながら、メモ帳を読む。

 その表情を見たオレは、やはり読みにくかったのだろうかと思い、人に読まれるならもっと綺麗に書くべきだったと後悔していた。


 メモ帳の前に読んでいた診断書よりも少し時間がかかり、読み終えた彼はメモ帳をオレに返した。

 そして彼は、腕を組み、目を閉じながら何かを考え始める。


 時間にして1分程だろうか。彼はゆっくりと目を開き、オレにその視線を向けた。


「お前は、どうしたい?」


 会社を辞めろ、こうなったらもうお前は雇えない。

 そんな言葉が来ると思っていたのに反し、彼からの言葉は質問だった。そしてその質問はオレに、自分自身のこれからは自分で決めて良いといった内容だった。


 予想外のことに、オレは返事を詰まらせた。

 働き続けたいと言うべきか、それとも会社を辞めると言った方が良いのか。どちらが彼にとって有益な回答だろうか。そんなことを考えていた。


「勿論、会社を辞めるっていうのも仕方ない。しかし、俺もそうだが、会社の連中はお前が残ってくれることを祈ってるはずだ」


 また黙ってしまったオレに対する気遣いからか、彼はそう言った。


 つまり、辞めても辞めなくても、どちらでも構わないからお前が決めろ、と。

 だが、オレが会社に残る方が嬉しいのだと、そう言ったように聞こえた。


 なんだか、父親みたいな人だな。


 オレはそんなことを考えていた。

 もちろん実の父親とは違う。似ても似つかない。

 だが、ひとつひとつ道をしっかりと示してくれて、その上で自分の意見とオレ個人の希望を言ってくれるところが、父親らしいと思ったのだ。


 オレは彼の言葉を受け、考える。


 こんな人の下で、働けるのはとても幸運なことなのではないか?世の中にはパワハラといった言葉が飛び交っている。そんな中で優しさを見せ、フォローしてくれるような会社が他に見つかるだろうか。

 それに斎藤さんだけじゃない。山田さんだってオレのことを気にかけて、しっかり見てくれている。何かあったら助けてもくれる。こんなことになってしまったオレを、だ。

 そんな環境を、自分にとって悪だと切って捨てるなんて、本当にできるだろうか。むしろ、この人達に助けてもらいながら病気と向き合っていく方が、良いのではないだろうか。


 答えはもう既に、出ていたのかもしれない。


「……会社、続けたいです。頑張りたいです」


 オレは涙を拭い、しっかりと斎藤さんの目を見てそう言った。

 すると彼は驚きながらも満足そうに、優しく微笑みながら深く頷いた。


「わかった。お前の意思を尊重しよう」


 しかし、と彼は言葉を続けた。


「一旦、現場から離れて休め。もしかしたら、良くなるかもしれないからな」


 彼はそう言った。


 そして翌日からしばらく、休みを貰うことになった。


 斎藤さんからの勧めもあり、オレは実家へ一時的に帰ることにした。

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