第16話 今、やるべきこと

 実家に帰って来ると、家族は皆一様に優しくオレを出迎え、受け入れてくれた。


 前回両親とのすれ違いは解消され、いつでも帰って来て良いと言われたが、正直不安はあった。

 もしかしたらあの時はああ言ってくれていたけれど、実際帰って来たとなったら、また何か言われてしまうのではないかと思っていた。

 だがそんなことは杞憂に終わり、むしろ家を出る時よりもずっと暖かく、そして居心地の良いものだった。

 今まで取れていなかったプライベートな時間を、満足のいくまで過ごし、崩れていた食生活も母の手料理により改善され、どこか体調が良いような気にもなった。


 何よりも、記憶障害が殆ど起きなかったことが心に平穏をもたらした。


 加藤医師の言葉を思い出す。

 今回起きていた記憶障害はストレスによるもので、特に自分にとってのマイナスな出来事、ストレスを感じさせるような事柄を忘れてしまうのだと言っていた。

 人間だれしも嫌なことは忘れてしまうものだが、それが突発的であり、尚且つ鬱に近いような精神状態になるのがこの病気だと。


 実家にいる今、オレの心は平穏そのものだ。

 残業しないと終わらないようなノルマに追われることも無く、家に帰ってきたらシャワーを浴びてすぐ寝てしまうような環境でもない。

 ストレスを感じない、心休まる空間。そのため、記憶障害が起きないのだろうとオレは考えた。

 加藤医師が言っていた、治したいなら環境を変えた方が良い、という言葉を裏付けるような結果だ。


 このままあの日々から離れ、ここで穏やかに過ごしていればあの恐怖――記憶を突然失ってしまうことも少なくなっていき、いずれ起きなくなるだろうか。


 そんなことを考える。

 だがそれはつまり、仕事を辞める、ということに他ならない。


 それは、駄目だ。

 オレはここに帰ってくる前に、斎藤さんに言ったはずだ。

 会社を続けたい、と。


 続けたい理由も明白だ。

 確かに辛い日々だったのは間違いない。だが、あの会社にいる人々の温かさに救われていた事実もある。

 与えてくれた優しさには報わなければならない。そうでなければあの人達の優しさは無駄になる。

 他人に優しくすることがどれだけ難しいかなんて、こんなオレにだってわかる。


 だから今は、少し長い休憩だ。

 必ず、戻らなくてはならない。


 オレは一人決心し、穏やかな日々を過ごしていった。


 実家でただゆっくりと過ごしているだけではなかった。


 少し落ち着いた頃、オレは二日間だけ一人暮らしをしていた家へと帰った。

 理由は掃除だ。それだけのことで帰るのか、と問われれば確かにその通りなのだが、如何せん部屋の中は、とてもじゃないが人の住んでいる環境ではなかった。

 使った後そのまま放置された食器、ゴミ袋に入れられていない床に散乱したゴミ、ペットボトル。その他にも掃除が滞ったトイレや風呂場など、どこを切り取って見てみても悪影響としか言えないような空間に、部屋はなっていた。


 そんな空間で生活をしていたのだが、気にならなかったと言えば嘘になる。自分はどちらかといえば綺麗好きだし、整理整頓された部屋というのも好きだ。だがそんなオレが、仕方ないと諦めてしまっていたほどに、時間と機会が無かった。


 時間ができた今、機会は自分で用意しなければならない。

 そう思い、一時的に帰宅したのだ。


 掃除を始めると、よくもまぁここまでゴミを溜めたものだと、我がことながら感心してしまうほどだった。

 空になった煙草の箱、数週間前の弁当の容器などざらで、こんなもの達とひとつ屋根の下で寝食を共にしていたと考えると、なんだかゾッとする。

 同時に、こんなことにまで気が回らないような状況に自分が陥っていたのだと、客観的に見ることができる良い機会でもあった。


 朝から始めて昼下がりになる頃、ようやくある程度のゴミの搬出が終わった。そしてその後、水場や風呂場の掃除をし、終わる頃には夜になっていた。

 丸一日を掃除に使い、結果、部屋は見違えるほど綺麗になった。とはいっても、他人から見たらまだ足りていない箇所があるかもしれないが、少なくとも人間が生活する空間にはなったと思う。

 夕方に終わらせて、今日中に実家へと帰るつもりだったが予定を変更し、今日はこちらに泊まることにした。次の日の朝に帰ると母に伝えると、夕食を作ってしまったのに、と少し残念そうな声が聞こえた。


 夕食は近所のスーパーで安くなった総菜にした。ここ数日、母によって作られたまともな食事を摂っていたため、なんだか新鮮味があり、懐かしくも感じた。数か月、数年と経っている訳でもないのにそんな感覚があり、オレは不思議に思った。


 夕食を食べていると、視界の端に仕事の鞄が映った。何を思ってかは自分でもわからないがそれを手に取り、中に入っている書類に目を通しながら総菜をつまんでいく。

 書類を見ていると、必死に働いていた自分が遠く感じ、同時に胸に小さな痛みが走る。


 ――呑気に夕食を食べているオレとは違って、今もまだあの会社で働いている人が居る。


 そんな思いが、湧き上がってくる。

 初めて病院に行った時と、同じ感情だった。


 オレは逃げるように書類を鞄の中へと急いで戻し、鞄を自分の視界内に捉えないよう、クローゼットの中へと押し込んだ。

 今のオレは、今後仕事を続けていくために休んでいるんだ。病院に行った時と同じで、前向きな決断の下にいる。だから、マイナスに捉えてはいけない。ストレスを感じてなどいない。


 オレはそう、自分に言い聞かせた。

 働いている人たちに申し訳ないという気持ちが大きくなったこと、そしてまた何かの切っ掛けで記憶を失うのが怖かったからだ。


 その後、食事を済ませきちんと処理し、風呂を済ませると夜更かしもせず、床へ就いた。

 実家の時とは違い、寝つきは悪かった。


 朝起きても、気持ちはどこか落ち着かず、逃げるように家を出て実家へと戻った。

 帰りの電車内で、そろそろこの休暇も、限界が近いのかもしれないと薄っすら思い始めていた。


 部屋の掃除から数日後、仕事を休み始めてから二週間が経とうとしていた日。


 有意義と言って差し支えない日々から一転して、オレは現実を正面から見るべく、斎藤さんへと電話を掛けた。

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