第9話 オレ達は、苦しんでいた
あの後、先生と少し会話をしつつ、今日の問診は終わりとのことで病院を出た。
話したことによる開放感と、これからに対する不安感を少しだけ抱えながら吸った外の空気は、美味しく感じた。
病院の外でオレは携帯を取り出し、斎藤さんへと電話を掛ける。3コール程で彼は電話に出て、大丈夫か? と言った。
オレは病院が終わったこと、これから会社に戻ること。そして、鬱の症状が見られる、と医師に言われたことを包み隠さず正直に伝えた。
「そうか……」
話を聞いた彼は呟くようにそう言い、唸るような声をこぼしながら悩んでいた。困らせてしまったかもしれないと思い、チクリと心に痛みが走った。
「とりあえず、今日は山田と行動しろ」
一人にするのはまずいと考えたのか、それとも山田さんと接触させることに何か意味があったのかわからないが、彼はそう言った。山田さんはここから少し離れた場所で仕事をしているようで、そこに向かえと彼はオレに指示した。
オレは一言わかりました、とだけ伝え電話を終える。あの口ぶりなら山田さんへの連絡は斎藤さんがやってくれるだろう、と思いオレはすぐに駅へと向かい、電車に乗った。
約30分程、電車に揺られていると指定された駅に着く。
時刻は昼。改札を出ると、駅前にはサラリーマンやOLで溢れていた。恐らく昼休憩なのだろう。昼食を求めて足早に歩いている姿が見受けられた。
その中に山田さんの姿は見えない。仕事が長引いているのか、道が混んでいるのかわからないがどうやらオレが先に着いたようだ。
少しの時間待つことになったので近くのベンチに座り、病院で言われたことを思い返してみる。
鬱の症状、まだオレが若いこと、仕事や環境を変えるべき。加藤医師から言われた言葉を、ひとつひとつ思い出しては嚙み締める。
総じて、これからのこと。これからオレがすべきことと、しなければならないこと。
何をするにしても、まず両親に相談しなければならない、と思った。
この前の電話を思い出す。呆れた声と興味の無さそうな声。それらが本当に相談した方が良いのか、と問いかけてくる。また同じような声で相対することになったら、と想像させる。
だが、それでも、彼らは自分の肉親だ。彼らに相談、いや話すだけでも良いだろう。これまでに何が起きて、今何が起きているのか、そしてこれからどうするのかはちゃんと話さなければならない。
オレはそう思い、携帯を取り出す。連絡先から母の携帯番号を選び、意を決して電話を掛けた。
コール音が頭に響く。1コールがひどく長く感じた。
「――はい」
コール音が突然止まり、電話の向こう側から低い男性の声が聞こえた。
父だった。
なぜ、と驚いた俺は一瞬携帯を耳から離し、画面を見る。そこには母の表示。間違いなくオレは母の携帯に掛けていた。それなのに出たのは父。
『社会人にもなってあいつは……本当に――――』
以前の言葉がフラッシュバックする。空気が張り詰めていくように感じた。
「どうした」
離した携帯から微かに声が聞こえる。オレは携帯を耳に当て直した。だが、返事ができない。何を話すべきかは定まっているはずなのに、どうしてもそれが言葉にできないでいた。
緊張し、口が乾いていく。
何のために自分は今、電話を掛けたのだろう。頭の中で回り続ける疑問。
もう成人して社会で働く人間になったのに、これからの行動を全て相談しなければならないのか。
違うだろう。
己の行動やその結果に対して、責任を果たさなければならないのは自分のはずだ。自由であり不自由であると言ったのはオレじゃないか。
なら今、彼らに相談しなけらばならないと考えるのは、無駄な思考なのではないだろうか。以前も相談しようとした。だが突き放され、一人で抱え込み『こうなった』のが今という結果だ。
無駄かもしれない。そう思ったオレは通話を切ろうと、画面に指先を伸ばす。
『自分を助けられるのは、自分だけ』
ピタリと動きが止まる。それはオレを動かしてくれた言葉。
それが今、電話を切ろうとしたオレの動きを止めたのだ。
どうしてオレはあの日、斎藤さんに泣きながら心の内側を、吐き出したのだろう。
どうしてオレは今朝、あれだけ必死だった仕事を休んでまで、病院に行ったのだろう。
どうしてオレは今、突き放された両親に電話を掛けたのだろう。
その答えはもう知っているはずなんだ。
その答えは忘れてはならない。そして今も、忘れていない。
前へと踏み出したその歩みは、止まっていない。止めては、いけない。
あの時進むことを諦めてしまった道が、目の前にある。
だから、真っ直ぐに、正面から対峙しなければならない。そうでなければ、もうこの道を進むことはこれから先できない。
閉ざされてしまうんだ。
既に口の渇きは無く、全身の緊張は解けていた。
「――あのさ」
その道に一歩を繰り出すのは、案外簡単だったと思う。
オレはありのままこれまでに起きたこと、病院でのこと、そしてこれからのことを全て話した。
父の反応は、予想外のものだった。
最初は以前同様に呆れたような口ぶりと態度だったが、話し続けていくとその様子は段々と変わっていく。
ひとつひとつの話に真摯に相槌を打ち、悲壮な声色で「そうか……」という父の姿をオレは初めて感じた。
「体調に異変が起きたのなら、それは仕方ない」
全てを話し終え、聞き届けた父から出た最初の言葉は、オレに対する理解だった。
そして感じるのは正しく、親から子への愛情だった。
「上司と連絡、取れるのか?」
父から投げ掛けられた疑問に、オレは静かにできるとだけ伝えた。
電話の向こうから、「スゥ……」と息を吸い込む音が聞こえた。
「――親の都合で仕事を辞めることになった」
「え?」
突然何の話をしているのだろうか、とそう思った。
それもそうだろう。父の言葉はそれで終わりではなく、続いた。
「そう、上司に相談しろ。俺達の所為にして良いから」
俺達、というのが父と母を指しているのはすぐにわかった。オレは驚きを隠せずになんで、と聞き返した。
あの父が。
オレを糾弾し、オレに呆れていたあの父が、仕事を辞める口実を考えてくれたこと。そしてあまつさえそれを、自分達の所為にして良いと言ったのだ。
驚くな、と言われても無理がある。その姿は今までのものとは似ても似つかぬ、最早別人かもしれないとまで思う程に乖離していたのだから。
「――少しでも早く、帰ってこい」
何で今更、そんなことを言うんだ。
心の中でそう叫びつつも、直接言えないのは自分がまだ両親に対して恐怖しているからなのか。
いや、違う。もう恐怖はない。
ではなぜ言葉に出せないのか。
それはきっと、その言葉が本心じゃないから。
嬉しかったのだ。ただ純粋に、嬉しいと思った。
父から帰ってきても良いと言われることもそうだが、それ以上に迎えてくれる場所がある、という事実が嬉しかった。
その本心は涙となって溢れ出た。最近泣いてばかりかもしれない、と考える。
同時に、昔、父から言われた言葉を思い出す。
『男なら涙を見せるな』
オレは小さい頃、泣き虫だった。何かあるとすぐに泣いてしまうオレを見て父は、そう叱った。思い返せばまるで、何かの物語に出てきそうな父からの言葉だが、そう教えられたオレはできる限り泣くことを我慢していた。
その教えはつい先日までオレの中で生きていたのだが、最近はめっきり泣いてばかりだ。
父は泣いているオレに何も言わず、ただ黙っていた。また叱られるかもしれないという思いは、杞憂に終わった。
「もしもし」
すると携帯から女性の声が聞こえる。母だ。
泣いているオレにどう接して良いか困ったのか、それとも困っている姿を見兼ねてかはわからないが、どうやら母に代わったようだ。
今までの会話を傍で聞いていたのかもしれない。
母は、オレからの返事を待たずに言葉を続けた。
「お父さんね、普段あなたに色々言ってるけど、それはあなたのことが心配だからなの」
――ああ、そうだったのか。
今なら、その意味が理解できる気がした。
それなら一言ぐらい心配だからとか言ってくれれば良いのに。
親の心子知らずとは、よく言ったものだ。血が繋がっていても、こうしてすれ違ってしまうのを実によく表している。
オレは心の中でそう答えた。だが言葉にはできない。
涙が、溢れる感情が言葉の邪魔をしてしまう。
「お父さんが厳しいのはね、あなたに幸せになって欲しいって思っているから」
きっと母は父のことをよく理解しているのだろう。何故なら、オレ以上に父とその人生を長く共に歩み、寄り添っているのだから。
反面、オレは父のことを本当に何も知らなかった。父が何を考えているのか、考えたことも無かった。
きっと父は、口下手なのかもしれない。
次に会った時は、ちゃんと話をしてみよう。一緒に酒でも呑みながら。
「診察を聞いてどうするかは、無理して決めなくてもまだ良いわ。でもね」
母は一呼吸置いた。
オレは溢れる涙を手で必死に拭いながら、全ての言葉を聞いた。
「――いつでも帰っておいで」
彼らは、この人達は、オレの両親は。
きっといつだって、オレのことを想っていたのだと思う。
それを理解できず、言葉の表面だけを掬い取って、それだけで両親の気持ちを全部わかったつもりでいた。
両親も、言葉の裏側にある想いを、オレに告げないままだった。
『オレ達』はなんて、不器用なのだろう。家族らしく、似た者同士だったのだ。
だが今、こうして、改めて繋がった。
進むことを諦めた道の先には、応援して心配して、一緒に歩いてくれるこの人達が居た。
遠い回り道を、していたんだ。
その後、静かに電話は終えられ、オレはここが駅前だということを再度認識した。
人前で泣いている姿を見られたら、父はなんて言うだろうか。
ため息と苦笑交じりにみっともない、と言ってくれるかもしれない。
「……唐揚げ、食べたいなぁ」
涙でかすれてしまった喉から出たのは、そんな言葉だった。それは実家で、母の作る料理の中で、一番好きなものだ。
昼食を食べそびれてしまったし、今日の夕食は唐揚げにしよう。
近くのスーパーに売っていただろうか。帰る頃には売り切れてしまわないだろうか。
自分でも暢気なものだと思うが、オレは赤く腫れた目元をハンカチで拭いながら、そう思っていた。
母の優しい味付けとは違っていても。
食卓に仏頂面で座る父の姿が無くても。
それでもなんだか無性に、食べたかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「今日はここまでにしよう」
そう呟き、オレはボールペンを置いた。
手元に置かれたコーヒーを少し口にする。苦みと酸味、そして少しだけ感じる甘み。それらが、少し疲れた脳に染み渡るように感じた。
コーヒーを飲みながら、これまでに書き上げたものを読む。我ながら、そこそこよく書けているのではなかろうか、と思う。
書き連ねた記憶に少しばかりの懐かしさを感じ、当時、出来事をメモしておいた自分に感謝する。メモに書かれた記憶を書き出していると、やはりと言うべきか、当時の自分を客観的に見ることができて不思議な気持ちだ。
あの時こうしたら。この時こうすれば。
たらればの話だが、今だから見えてくるものというのは、確かにそこにあった。後ろを見過ぎてはいけないが、過去から得られる教訓もあるだろう。
そうすると、この自伝小説は自分にとっては教科書なのかもしれない。
そう思い、少し笑ってしまった。
空になったコーヒーカップを置き、ふと棚を見ると財布が置いてあった。
あの頃から使い続けている財布だ。所々ほつれたり傷が入ったりしているが、それらが財布を年季の入ったもののように表現しており、悪くない。
「……まだ売ってるかな」
そう呟いたオレは椅子から立ち上がり、財布を手に取る。掛けられたコートに身を包み、ゆったりとした足取りで玄関を出る。少しずつ見え始めた星を見上げ、軽い足取りで近所のスーパーへと向かった。
小説の中の自分と、今の自分。
感情や環境など、色々なものが変わっている。
しかしどうやら、好きなものはなにも変わっていないようだ。
その事実に外だというにも憚られず、オレは笑ってしまった。
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