第10話 重圧
両親との電話を終え、大体10分程経った頃、山田さんが車に乗って迎えに来た。まだ涙の跡が残っているだろうオレに対し、彼は何も言わず、オレを車に乗せた。
普段なら話題に事欠かない車内だが、今日はいつもとは全く違った。以前、彼に胸の内を明かした時とも違う、静寂が車内を支配していた。
山田さんは煙草も吸わずに、黙々と車を運転している。恐らく、斎藤さんからオレに鬱の症状が出ているということを、聞いたのだろう。オレはどう声を掛けて良いかわからずに、窓の外を眺めていた。お互い何も語らず、訊かず、ただ風景が流れていく。
乗ってから30分程経っただろうか。車はその走りを止めた。
到着した場所は人気のない喫煙所。周囲は田舎の風景といった感じで、車も人の通りも少ない。
ここで、話をするんだ。
オレはそう思い、車を降りた。山田さんの少し右後ろを歩く形で、喫煙所に入る。
「……取り敢えず、吸うか?」
山田さんは胸のポケットから煙草を取り出し、一本咥えるとオレに煙草の箱を向け、そう言った。
オレは首を横に振り、吸わないという意思を表す。これから大事な話をするのだろうから、吸うのに抵抗感があったからだ。
「良いから、さ」
そんなオレに山田さんは気付いたのか、苦笑しながらもう一度促してくる。オレはこれで断るのもなんだか失礼かもしれない、と思い、自分の鞄から煙草を取り出しそれを見せた。
山田さんは何も言わずに頷く。そして二人はほぼ同時に煙草に火を点けた。
大きく吸うと、胸一杯に紫煙が充満する。独特の風味を味わいながらゆっくり吐き出すと、心がリラックスしていくのを感じる。
それから少しだけ他愛のない話をした。一緒に仕事を回っていた時と同じような、取り留めのない会話。だが、その会話の中で山田さんは、どこか元気がないように思えた。
「あのさ」
一本目の煙草が終わる頃、山田さんは煙草の火を消しながら、オレに声を掛けた。
これまでの会話とは一変して、真剣な雰囲気を感じる言葉と声色は、オレを緊張させる。
オレが緊張しながら言葉の続きを待っていると、山田さんはオレの方を向き、真剣な表情で口を開いた。
「隠し事はしないでくれ」
オレは頷いた。オレだって彼には隠し事はしたくない。
「仕事に対する不満があるなら、全部ここで、俺に言ってくれ」
オレはもう一度頷いた。元々そのつもりだった。
不満を全て彼にぶつけたかったからだ。彼ならまた助けてくれるかもしれない、という淡い期待をしていたオレにとって、今この時間はチャンスに他ならない。
「……その……」
だが、何故だろう。
言葉が、出ない。
伝えたいことは沢山ある。聞いて欲しい話が山ほどある。打ち明けたい感情が膨れ上がっている。
それらを言葉にするのはもう簡単なのだと、両親や加藤医師との会話で理解している。
「……えっと……」
だが、出ない。
彼は、山田さんはオレに期待している。だから失望させたくなくて、不満や鬱屈した感情を見せたくないのだろうか。
――――いや、違う。
失望されることも、面倒を抱えさせたくないということよりも。
初めてインストラクターとして担当した人間が、こんな情けない人物だと見られたくなかったのだ。
山田さんは凄い人だ。仕事もできて、部下に気遣いもできて、明るくて、頼りになる存在。そんな彼の下に付いているのは、落ちこぼれであってはいけない。
今の自分のような者であってはいけない。
オレが失望されたくないのではなく、彼が周囲の人間に、部下すらまともに育成できないと思われてしまうのが嫌だった。
だから今、嘘偽りのない本心を見せることよりも、これ以上情けない姿を見せたくないという感情が、言葉を邪魔しているのだ。
そしてきっとこれからも、それを打ち明けられないままでいるのだろう。
この後の会話は、よく覚えていない。
はぐらかしながら、本心を隠しながら、当たり障りのない会話を続けていたと思う。
彼は、それに気付いていたのだろうか。
彼の本心は、わからなかった。
喫煙所での会話を終え、オレ達は仕事に戻る。仕事と言ってもオレはただ、彼に付いて回っていただけだった。
彼と一緒に居て、一番会話の少ない日だったと思う。普段ならもっと沢山の話をして、車内には笑い声と笑顔があっただろう。だが、この日はそれが無かった。
それでもオレにとって彼と一緒の空間は、心穏やかになれるものだったのだろう。
会社に戻る頃、助手席にいたオレは疲れていたのか、いつの間にか眠りに落ちていた。
就業時間中に寝ているオレを、彼は何も言わず、優しく起こしてくれた。そして二人で会社へと入っていった。
会社に戻り、自分のデスクで事務仕事をしていた時、オレは異変を感じた。
普段はスムーズにこなせた事務仕事だったが、それが突然できなくなったのだ。どうすればいいか、どうしていたのかが突然思い出せなくなっていた。
まるで今日から来た新入社員のようなレベルで、何もできなかった。
わからなくなるその度に、山田さんにどうするのかを聞く。
その姿が不審に映ったのか、それとも明らかに異変だと察したのか、彼の視線は不審と心配がないまぜになったものだった。
何度も間違えながら、わからなくなりながらも事務仕事を終えたオレは、退勤するために身支度を整える。その途中、携帯で時間を見た。
いつも通り、遅い時間。
事務仕事さえもっとちゃんとできていれば、きっともう少し早く終わっただろう。
前までできていたことができない。そのことに少しだけ不安を感じながらも、オレは会社を出た。
大切なもの。
――――記憶を失いつつあることに、この時のオレはまだ気付いていなかった。
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