第11話 その位置は一体どこなのか

 会社を出て、帰路に就く。いつも通りのことだ。

 先程の現象。急に何もわからなくなるのは、一体何だったのだろうか。オレは会社から駅までの道を歩きながら考えていた。


 時としてなんとなく上手くいかない日、というのはある。それは疲れが原因であったり、時期によるものであったりと様々だ。

 だからきっと今日のことは時期によるものだろう、と結論付けた。春も終わり、そろそろ夏を迎えようとしている頃。つまり季節の変わり目だ。

 今まではここまで酷いものを経験したことが無かったからか、色々慌ててしまったのも疲労に拍車をかけたのかもしれない。


 大丈夫。明日からは普通になる、とオレは思っていた。


「――あ、れ……?」


 唐突に足が止まった。

 何か、目に留まるようなものがあったからではない。忘れ物を会社にしてしまったのを思い出したから、でもない。

 では、何故か。

 道がわからなくなったからだ。


 そう。『帰り道』が、わからない。


 会社から駅までの道はそう長くない。複雑な地形でもない。初めて会社に訪れた時でさえ、とても簡単な道のりだったはずだ。

 その単純明快な道のりが、わからない。いや、思い出せなくなったと言った方が正しいだろう。

 今自分が立っているこの地点から、どこをどう歩けば駅に辿り着くのかが、思い出せない。

 まるで今見ている景色が、全く知らない国にでもいるような感覚に陥る。

 背筋に冷たいものが走る。


「……はぁ……はぁ……」


 その恐怖からか、呼吸と鼓動が速くなっていくのを感じる。その現象とは裏腹に、体温が急激に下がっていくのを感じた。

 視界が揺れる。汗が滲む。足元の感覚も薄まっていく。


「……う……くっ……」


 揺れ動く視界と、止まらない思考が胃に異常をもたらし、何かが込み上げてくる。

 落ち着け、と心の中で自分に叫びながら、今の状況とその原因を思い返す。

 今日、会社に来る時は平気だっただろう。


 ――いや、その前提は通らない。


 午前は病院に行って、斎藤さんとの会話は電話だった。そして午後は、会社とは別の場所で山田さんと待ち合わせ、合流を果たし、彼の車で会社に戻ってきた。尚且つ、戻ってきた時のオレは、車内で眠りこけていた。

 故に、駅から会社の道を確認していない。自分の足で実際に歩いておらず、自分の目で確かめてもいない。

 もしかしたら、事務仕事での異変以前からそれは、始まっていたのかもしれない。

 事務仕事が始まりではなく、今朝の段階が始まり。だが、今となってはその答えはわからない。

 では道が思い出せなくなった原因。

 これは最初思っていた通り、時期によるものだろうか。

 いや、それも違う。


『――鬱の症状が出ています』


 今朝、加藤医師から言われた言葉を思い出す。

 原因はこれなのか、と考えるがこれもまた答えはわからない。鬱の症状というのは多岐に渡り、素人が知っているものなど、たかが知れている。それに、素人がこれが原因だと断ずることもまた、良いことではない。


 いつから始まったものなのか、何が原因で始まったものなのかもわからないまま、オレは次に家に帰る方法を考える。

 そこで思い付いたのが、街行く人々の中に紛れ、その流れに乗り駅へと辿り着く方法だった。

 会社を出た時、時刻は既に22時を越えようとしていた。会社から駅はそこまで離れていないはず。むしろ近かったような気がした。だから、この時間、会社のある方とは逆側に歩いている人達は、きっと駅に向かっているに違いない。


 オレはこの時点で冷静さを欠いていたと、今では思う。

 そんな不確定要素だらけの考え方で辿り着けるのであれば、きっと迷子の子供だって親の元へとすぐに辿り着けるだろう。だが、思考を巡らす度に、会社から駅までの距離に不安が募っていっていたのだ。

 本当に近かったのだろうか、いやもしかしたら遠かったかもしれない。そもそも今ここが、駅と真逆に位置する場所だったのなら。

 余計な思考が頭の中を支配する前に、動き出したい。歩き出さなければ何かがまずいような気がしてならなかったのだ。

 

 オレは、自分の後ろから通り過ぎて行ったスーツ姿の男性を道標とし、歩み始めた。

 男性は歩みを止めない。少し早足で、歩き続けていく。

 少し距離を空けながら、彼の背中を追う。一歩進むごとに、景色が変わっていくような感じがし、益々知らない世界に放り込まれた感覚が強くなっていく。

 心臓が早鐘を打つ。本当に大丈夫なのか、と頭の中で警鐘が鳴る。

 だがオレは、歩みを止めなかった。


 否。


 止められなかった。


 何せ今ここは己にとって、未開の地。道標を見失ったオレに、戻る道も進む道も無い。

 だから止まることは許されず、歩き続けることのみが、この時の自分にとって全てだった。


 どれ程歩いたのか、わからない。


 1時間歩き続けたような気もするし、5分しか歩いていないような気もする。

 妙な感覚だった。


 幸いにも、オレが考えた通りに事は進んだ。その男性は駅へと向かっていたのだ。

 結果、オレは無事に、と言って良いほどの精神状態では無いが、駅へと辿り着くことができた。

 歩いている途中、最寄りも忘れてしまわないだろうか、という恐怖があったものの、忘れることは結局無かった。それに、定期券があったので最寄り駅までの電車は、問題無かった。


 オレは男性の後を追うように、改札を通った。彼はオレとは違う電車に乗るようで、別のホームへと続く階段を上がっていった。


「ありがとう、ございました……」


 男性のその背中に、オレは感謝を述べた。彼が知る由もないこの声。届かないものだとしても、ここまで導いてくれた彼には、頭が上がらない。


 男性の後を追うように改札を抜け、ホームに出るとタイミングよく、電車が来た。

 オレは辿り着けた事実と、これに乗ればもう迷うことは無いという思いから安心感に満たされ、早鐘を打つ心臓を宥めながら、ゆっくりと車内へ足を踏み入れる。

 終電の一本前、ということもあり車内に人影は少なく、座席に座ることができた。

 座った途端、ドッと疲れが眠気と共に押し寄せる。

 だが、眠ることは許されない。寝過ごしてしまうのも理由の一つだが、それ以上に寝て起きた時に、先程のような道だけではなく、言葉通り『何もかも』を忘れてしまいそうな気がしたからだ。

 最寄りまでの道のりはそこまで長くない。その間、眠らないようにしなければならない。

 SNSやゲームでもしていようと考え、オレは携帯を取り出した。


「――あっ」


 取り出した瞬間、オレは今までの行動を後悔した。世の中は便利になったもので、携帯には地図アプリが入っており、それは道案内をしてくれる機能を持っている。


 道がわからなくなったあの時、これを使えば良かったのではないだろうか。


 仕方ないと言えば仕方がなかった。思い付かないほどに混乱していたし、気が動転していたのだろう。

 だがそれでも情けない、と自分を軽蔑する。そして、駅から家までの帰り道はこれを使おう、と思った。

 そして眠気覚ましの意味と、駅から家までの道、それすら忘れてしまったら、という一抹の不安を抱えながら、オレは携帯を弄り始める。

 そんなオレを乗せ、電車は走り始めた。


 それから電車は遅れることなく、最寄り駅に到着した。

 悪い予感が当たった、と言うより案の定と言った方が正しいかもしれない。


 改札を抜けた瞬間、オレは道がわからない自分に気付いた。


 だが会社から駅までの道とは違い、そこまで慌てふためくことは無かった。勿論、混乱したし、なんだったら泣きそうになっていたのだが。

 それでも、先程の状況とは違い、オレには確実な情報源である携帯の地図アプリがあった。それがオレにほんの少しだけ、安心感を与えていた。


 なんでこんなことになってしまったのだろう。

 これからもこんなことが続いていくのだろうか。

 虫食いのような記憶と共に、生きていくのかもしれない。


 オレは、携帯に表示される地図を見ながら歩き、そんなことを考えていた。


 街灯が僅かに照らす、夜闇に支配された道。

 それがまるで、オレがこれから歩む人生に見えた。

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