第12話 ひとつ、ふたつ、消えていく
帰宅したオレは鞄を落とすように床に置き、スーツから着替えずそのままベッドに倒れ込んだ。
仰向けになり天井をジッと見つめながら、大きく息を吐いた。今までの疲労感や焦燥感とも違う感情。それらの感情よりも、もっと深く暗い何かにオレの心と体は支配されていく。
俯いていた顔を上げ、仮面を取り払い、諦めていた道を進み始める。
光輝く何かに向かって、歩き始めたと思っていたのに。
顔を上げたと思ったら上から押さえつけられ、仮面を強要され、その道は無駄なのだと後ろ指を指されるような感覚。何をしても上手くいかないのだと、お前には進む力も意味も無いのだと嘲笑われた気がした帰り道の出来事。
今胸中に犇めくこれはなんなのか。オレには全くわからない。ネガティブなものには間違いないが、それが何と呼ばれているものなのかをオレは知らないし、経験したことも無い。
オレの心を表すかのように、目の前に広がる真っ白な天井が、真っ黒に染められていくように見えた。
「どうしちゃったんだよ」
わからない。
「どうしたら良かったんだよ」
わからない。
「どうすれば良いんだよ」
わからないから、こうなっている。
今の自分がどうなっているのかを、正しく認識できる人間は殆ど居ないだろう。
逃げ道の無い不確かな日々。それを迷わず、間違えずに進む者も居ない。
答えを求めたところで、正解なんて言うものは人によって変わるのだから、完全な答えを持つ者もまた、居ない。
そんな不確かで、戻ることができない、未来もわからない人生を生きるのが人間なのだとしたら。
オレは、生きることができるのだろうか。
不透明で、不確定で、不定形なこれからに、オレは一体どんな希望を心に抱いて進み続ければ良いのか。
――ああ、そうか。
オレは今己が支配しているものが何か、その答えに辿り着く。
希望の裏側。闇色の感情。否定の象徴。
――これが『絶望』なんだ。
オレは枕に顔を埋めた。
もう、何もかもが、嫌だった。
ベッドに倒れ込んでから、どれくらい時間が経ったのか。
何も考えず、眠ることもできないまま時間が過ぎていくのを感じていた。
何か意図があったわけではないが、携帯を見る。携帯のディスプレイには通知などの情報は表示されず、ただ時計だけが機械的に、帰宅してから一時間程経っていたことをオレに伝える。
「……喉、乾いた」
からからになった喉を潤すために、オレは携帯を持ったまま立ち上がり、冷蔵庫に向かう。
こんな状況でも、生理現象や欲求というのはしっかり働くものなのだな、と考える。そして少し前にも同じような状況で、同じようなことを考えていたのを思い出す。
あの時、決定的に壊れてしまったと感じた両親との関係は、今は全く逆の状態と言えるだろう。
であれば、今のオレも近い未来、また逆転しているかもしれない。
そう考えると少し楽になった。
結局、いくら考えたところで悪いことは起きるし、腹も空く。喉も乾く。眠ってしまえば次の日が訪れる。
だからオレはどんなに辛くても、心が折れてしまいそうでも、頑張るしかないのだ。
自分を助けるためにも、自分で助けるためにも。
まだ黒いものは、心の中でケラケラとオレを笑っている。
どうせ無駄だと叫ぶ。
それでも、先程よりはマシになった。
オレは冷蔵庫からペットボトルに入った水を取り出し、一口飲む。
ゴクリ、と喉を震わせ飲み込むと一瞬、視界がブレたような気がした。
そして視界が定まった時。
――何もかもが、消え去った。
手からペットボトルが落ちてから先のことは、よく覚えていない。
きっと色々なことを考えたと思う。考えたと表現するよりは、思い出そうとしていたの方が正しいかもしれない。
自分の名前、生年月日、年齢、生家の住所、両親の顔、友人の誕生日。
自分は何者なのか、何をしているのか、兄弟は居たのか。
ここがどこなのか、何故ここにいるのか。
きっと、そんなことを泣きながら考えていたのだと思う。正しい答え、それすらも今となっては忘却の彼方だ。
そして迷子の子供が何かに縋りつくように、オレは携帯を取り出した。使い方は覚えていた。
記憶には種類が存在する。
例えば今日何を食べたか、昨日何があったかなどをエピソード記憶と呼び、扉の開け方や電車の乗り方は手続き記憶と言う。
きっとこの時、オレは前者を失ったのだと思う。だからこそ、自分の名前すら思い出せないが、携帯は扱えるという奇妙な状況だったのだろう。
オレは発着信履歴から、一番上の人間に電話を掛けた。正直誰でも良かった。助けてくれさえすればそれがどんな人物であろうと、自分が知らない人間であろうと。
「はい」
電話を掛けた人物は深夜だというのに、3コール程で出てくれたと思う。
オレは履歴からその人物の名前を把握し、涙声のまま声を掛けた。
「――――山田さんですか? すみません……助けてくれないですか……?」
色々なものを忘れてしまった中で、オレをずっと気遣ってくれていた山田さんに電話を掛けられたのは、本当に幸運だったと思う。
「……わかった。待ってろ」
そして次に幸運だったのは、そんな彼が善人だったことだ。
状況も説明されず、何が起こっているかも把握していないのに、彼は一呼吸置いてから二つ返事で快諾した。
いや、もしかしたらオレの異変に気付いていたのかもしれない。会社での出来事の際、彼はオレのことを不審がっていた。だから察して、快諾してくれたのかもしれない。
その時のオレにとって、そんな彼が世界で一番信頼できる人間に見えていたと思う。
オレはその言葉に頷き、電話を切るとそのまま、床に崩れ落ちるように座り込んだ。
そして思い出そうと必死に頭を働かせながら、彼の到着を待つ。
彼が家に来たのは、それからしばらくした後だった。
待っている間に思い出したことは、何一つ無かった。
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