4
主人が散歩から戻った時、家族が崩れ始めた。
主人は家に入るなり、母親を怒鳴りつけたのだ。
「おまえがイヌを散歩させないから、私が恥をかいたぞ! しつけがなっておらん!」
母親はおずおずと答える。
「でも、あのイヌは力が強すぎて私では引きずられるばかりで……。お願い。イヌを飼うなら、もっと小さな種類にしていただけませんか……」
「馬鹿者。あのイヌがいったいいくらするのか、おまえには言ったはずだぞ。業者が何百万もする小犬を送ってくれたのは、私に権力があるからだ。主人が勝ち取ってきた財産を家で守るのは、おまえの役目だろうが」
「それはそうですが、私には大きすぎるんです。とてもじゃありませんが、あんなに強いイヌを散歩させるだなんて――」
「だからそうならんように、ちゃんとしつけろと言っておるんだ!」
「そんなことを言っても、私には……」
「まだ口答えするのか!」
パシッという鋭い音ともに、人が倒れる振動が床に伝わる。
少年の叫び。
「ママをぶつな!」
「何だと! ろくな成績も取れないできそこないが、一人前の口をきくんじゃない!」
「うるさい! おまえこそろくに家にいないくせに、父親ぶるんじゃねえよ!」
母親の叫び。
「誠治ちゃん、やめなさい!」
再び人を殴る音。父親が息子に手を上げたのだ。
父親は言った。
「生意気なことを言うな! おまえはいったい誰に養われていると思っている⁉」
少年の低い声。
「殴ったな……また殴ったな……」
「ああ、殴ったとも。貴様は私の子だ。出来損ないだが、私の子だ。そんな出来損ないを教育するために殴るのは父親の当然の義務だろうが! お前のためにしてやる、親の愛情だ」
「バカ野郎!」
少年が子供部屋に駆け込む足音がした。
息をひそめて成り行きをうかがっていたコジロウが言った。
〝このままじゃすまない……きっと、事件が起こるぞ。見にいかなくちゃ!〟
〝でも、外からじゃあ家の中まで見えないわよ〟
〝待って〟
コジロウはイヌの柵の中への出口を見に行った。
〝いいぞ! イヌは柵につながれている。おいで!〟
散歩から帰った主人はイヌの胴の革ベルトを外す手間も惜しんで、母親を殴りに家に駆け込んだのだった。
コジロウはあっという間に換気口から庭へ飛び出していた。
イヌの吠え声が起こる。柵全体が揺すられて、がしゃがしゃと音を立てた。
ミニーは恐る恐る後を追って外に出た。
イヌの引き綱の根本はしっかり柵に縛りつけられている。
それでも、形相を変えてコジロウに吠えかかる土佐犬の姿は、ミニーに恐怖を感じさせた。
〝コジロウ! よそうよ! 危ないよ!〟
コジロウはすでに木製の階段を駆け上がってテラスに出て、窓から家の中を覗き込んでいる。
コジロウは言った。
〝大丈夫だって。奴らがどうなるのか、見届けなくちゃ! もしもこの世に神様がいるなら、これは天罰かもしれない!〟
コジロウは、家族の争いが激しくなっていくことに興奮しきっていた。
ミニーも仕方なくテラスに飛び上がり、コジロウと並んだ。
背後のイヌの吠え声が一段と高まる。
しかし部屋の中では、さらにすさまじい言い争いが始まっていた。
父親は倒れていた母親の衿をつかんで引きずり上げていた。
「おまえがろくな教育をしないからみんなが私に逆らうんだ! イヌだけじゃない! おまえが誠治を能なしにさせたんだ!」
そうして父親は、母親の方を平手で叩く。何度も何度も――。
母親は泣きながら叫んでいた。
「すみません! すみません! 許してください!」
「馬鹿者! 馬鹿者!」
「許して!」
父親は母親をソファーに投げ出すと、散歩に持参していた竹刀を握った。
「まずは貴様の根性から叩き直さなければ、この家はばらばらになってしまう! ここは私の家だ! そんなことはさせん!」
そう言うなり、父親は母親の頭に竹刀を叩きつけた。額が切れて、血がにじむ。
頭を腕でおおった母親は叫んだ。
「ひー! 助けて!」
そこに、子供部屋から少年が戻った。その手には金属製のバットが握られている。
少年は叫んだ。
「このケダモノ! ママから離れろ!」
竹刀を握って振り返った父親は、自分に向かってバットを構えた息子をにらみつけた。「ケダモノだと? それがパパに対する言葉か⁉」
「おまえなんかパパじゃない! おまえなんか人間じゃない!」
少年はバットを振り上げて父親に突進した。
父親は平然とそのバットを竹刀で叩き飛ばす。
「馬鹿者! 恥を知れ!」
竹刀が少年の額に打ち込まれた。
少年は床に崩れる。
「畜生……畜生……」
父親は吐き捨てるように言った。
「まだ親を畜生呼ばわりする気か!」
再び振り上げた竹刀の前に、母親が飛び出した。
「あなた! やめて!」
「うるさい!」
母親が少年におおいかぶさる。
竹刀は母親の背中をしたたかに打ちのめした。
少年が落ちたバットに手をのばした。それを掴むと、母親を押し退けて立ち上がる。
「殺してやる……」
が、父親に飛びかかろうとした少年を、母親が背後から羽交いじめにした。
「パパになんてことを! やめるのよ!」
父親は、動きを封じられた少年の頬を軽く竹刀で叩いた。
「そうだ、私は貴様の父親だ。息子はな、父親の命令に従え」
少年が涙をあふれさせながら叫ぶ。
「おまえなんか……おまえなんか、父親なもんか……。くそう……殺してやる……。叩き殺してやる!」
母親も泣きながら叫んだ。
「謝って! パパに謝るのよ!」
少年は、はっとしたように抵抗をやめた。
「ママまで……? ママまで僕が殴られるのがうれしいのか?」
「そうじゃないわよ。でも、パパは偉いのよ。うちでいちばん偉いのよ! 立派な大学を出て、立派なお役所に努めている偉い方なのよ! 逆らっちゃいけないわ!」
父親はにやりと笑った。
「そうとも、私は偉いのだ。ゆくゆくはこの日本の舵取りをするリーダーとなる。貴様のような出来そこないとは違う! 分をわきまえろ!」
少年はうめいた。
「何が偉いもんか! 税金にたかって毎晩宴会三昧のくせしやがって。業者がおまえに頭を下げるのは、おまえが偉いからなんかじゃない! おまえが持ってる権限が恐いだけだ。おまえなんか、役所をやめたらただのゴミだ! ウジにも劣るクソ野郎だ! 賄賂は取り放題で、腹の底まで腐ったゴキブリ野郎じゃないか!」
父親の唇がぴくりと引きつった。
「宴会だと? 賄賂だと? それがどうした? そうとも、みんなは私の権限を恐れている。だが、その権限は、私の実力で手にしたものだ。私の能力そのものだ。自分の力を自由にふるって何が悪い⁉ 頭の足りない小僧が、知ったふうな口をきくんじゃない! 私はおまえのような出来そこないどもに代わって、この国をまともに動かしてやっているんだ。これほどの仕事をしている私が税金で飲み食いして何が悪い⁉ 私は出入りの業者を盛り立てて、この国の経済を支えているんだぞ。多少の礼を受け取ってどこが悪い⁉ 私たち官僚がいなければ、この国はろくでもない政治家どもにメチャクチャにされてしまうのだぞ! 日本を守っているのは、我々官僚なんだ! 大学も出られないおまえら間抜けどもは、黙って私の尻についてくればいいのだ! クソは貴様の方だ。自分の尻さえ拭えないクソどもが、小金や飲み食いのことまでつべこべ口をだすんじゃない!」
「てめえなんか警察にとっつかまればいいんだ!」
「ふざけたことを言うな! 私は成し遂げたんだ! 必至になって今の地位をつかんだんだ! 役目を果たしたんだ! 幼い頃から背負わされてきた責任を、完璧に果たしたんだ! わが家の伝統を守り抜いたんだ! その、どこが悪い⁉」
少年は冷たく父親を見返した。
「なにが伝統だよ……。おまえなんか、人間じゃない。頭でっかちの爺さんに操られた、ただのロボットだ」
母親が金切り声を上げる。
「パパに謝りなさい! パパは偉いのよ!」
少年は力を振り絞って母親を突き飛ばした。母親が尻餅をつく。
少年は叫んだ。
「こんなクソ野郎が偉いものか!」
勢いをつけて振った金属バットが父親の頭をかする。
父親の形相が変わった。
「親に手を上げるのか!」
父親は少年に竹刀を叩きつけた。頭に、腹に、足に。何度も何度も、渾身の力をこめて息子を叩きのめす。
少年は身を守るためのバットを捨てて、床で丸くなった。
竹刀は、その背中にも容赦なく振り降ろされた。
「痛いよ! 痛いよ!」
父親は少年の背中を叩き続ける。
「当たり前だ! 親に手を上げるような出来そこないは死ね!」
母親は再び少年におおいかぶさった。
「やめてください! 本当に死んでしまいます!」
母親の下で、少年は再びつぶやいた。
「おまえなんか殺してやる……」
父親は胸を張って応えた。
「おまえのような腑抜けに人が殺せるのもか。私は、母親の陰に逃げ込むようなクズには殺されやしない」
少年は母親を突き飛ばして上体を起こした。その目には涙があふれている。
「うるさい! 僕は人を殺したことがあるんだぞ! 本当に殺したんだぞ! 恵子を窓から突き落としたのは僕なんだ! おまえだって殺せるんだぞ!」
父親はその言葉にはっと身をすくめた。
床に崩れた母親が少年の腕にすがりつく。うつろな目が少年を見上げる。
「何を言ってるの……?」
「僕は人殺しだ」
母親の眼に恐怖が浮かぶ。
「うそ! 恐いことを言わないで!」
少年は母親の手を振り払って、立ち上がった。その手には、再び金属バットが握られている。
「本当だよ……恵子を殺したのは、僕なんだよ……だから、おまえだって……」
父親は叫んだ。
「うそだ! おまえは人を殺してなんかいない!」
少年は、にやりと笑った。
「本当さ……先生だって知っている……恵子を突き落とした時、先生が教室に入ってきたんだから……あいつ、全部見たんだから……僕がやったって、ちゃんと話したんだから……」
父親は叫んだ。
「馬鹿者! それは夢だ! 幻想だ! 忘れろ! 全部忘れてしまえ!」
父親は、慌ててていた。無様なまでに慌てていた。
少年の目には、むしろ怯えているように映った。家の中では傲慢で尊大な態度を崩したことがない父親が、自分の子供を見つめながら怯えている……。
少年は、父親のうろたえように小首を傾げた。
〝何だよ、こいつ……急に、どうした……?〟
そして、不意に気づいた。
「そうか……そうだったのか。てめえ、先公とつるんだな?」
父親の目に、はっきりとした恐怖が浮かんだ。
「な、なにをバカな……」
その言葉からは、怒りも迫力も消え去っていた。
逆に、少年は不気味な微笑みを浮かべる。
「だからか……。あいつとグルになって、僕が恵子を突き落としたことを隠したんだろう?」
母親の目が父親に向かう。
「あなた……まさか、本当に……?」
父親は叫んだ。
「うそだ! 私の息子が人を殺してたまるか! そんなことをしたら、私は役所にいられない!」
少年は声を上げて笑った。
「だよな。てめえが口止めしなけりゃ、あんなにあっさり片付くはずないもんな。恵子が自殺ってことになって、僕は何が何だか分からなかったんだ。いつばれるかと、ずっとおびえていたのに……。今やっと、からくりが読めたぜ」
母親が絶叫する。
「いやよ! そんなことは言わないで!」
少年は母親を見てはいなかった。茫然と立ちすくむ父親を冷たくにらみつけている。
「学校は殺人事件で名前を汚したくない。あんたは役所を放り出されたくない。だから、教師たちと口裏を合わせたんだろう? どうせ恵子は、反抗ばかりしていた不良だったもんな。いっそ自殺にしてしまえば誰も傷つかずにすむ。あんた……先公に金を渡したんだろう? 出入りの業者から受け取って蓄め込んでいた賄賂で口止めしたんだろう?」
父親の目は焦点を失っていた。
「馬鹿な……。なぜ私がそんなことを……」
しかしその放心した表情は、少年の考えが正しいことを物語っていた。
母親が叫ぶ。
「あなた! 本当なんですか⁉」
父親は答えられなかった。
少年が言った。
「それなら、てめえを殺すにはこんなものは要らねえ」
そして、バットを投げ捨てる。
父親は首をひねった。
「何をする気だ……?」
少年は言った。
「警察に全部話す。てめえは役所から放り出されるだけじゃねえ。賄賂を取ったことを暴かれ、殺人を隠したことを責められ、一生刑務所で暮らすんだ。人殺しを隠すって、多分ものすごい犯罪だよな。賄賂なんかより、ずっと罪が重いんじゃないか? もちろん、テレビ局にも知らせる。怖いのは警察よりマスコミだもんな。この家、レーポーターに取り囲まれるぜ。世の中全部が、お前を袋だたきにする」
「バカなことを考えるんじゃない……」
少年は、笑った。
「ほんと、笑っちゃうよな。なにが高級官僚の家柄だ⁉ てめえの腐った脳みそが、ご先祖様をクソまみれにするんだ。ざまあみろ! てめえにはお似合いの結末だ!」
「そんなことをしたら、おまえだってただではすまないぞ!」
「僕は大丈夫さ。だって、まだ中学生なんだから。子供は刑務所になんか入れられねえんだよ! マスコミって、こういう話が大好きだもんな。腐りきった官僚が、息子の心を歪ませたんだってな! 子供が犯罪を犯すのは、親の責任だってな! 僕は、狂った親に化け物にされた被害者なんだよ。恵子を突き落としたのだってただの弾みさ。もちろん殺す気なんかなかった。僕はその場で教師に事実を打ち明けたんだしね。その後のことは、おまえと教師が勝手にやったことさ。僕には全然関係ない。ふたり一緒に、仲良く刑務所で死ね!」
父親はつぶやいた。
「おまえのためだったんだ……。そうとも! 何もかも、おまえを守るためだったんだ。おまえを警察に捕まえさせないための、私はあの教師の誘いに乗ったんだ……。金があれば、すべて穏便にかたづけられるというから……あいつが、目撃者はどこにもいないというから……そうとも、あいつがいけないんだ。こんなことになったのは、全部あの教師のせいなんだ! 私は何も悪くない!」
少年はくくっと笑った。
「うれしいよ、パパが僕を愛していてくれたことが分かって。これで、パパがいなくなっても、僕は幸せに暮らしていける」
「何だと……?」
「だから、おまえは刑務所に入るんだよ。それがいやなら、今ここで首を吊るか? 僕の目の前で死んでみせるって言うなら、てめえの汚い真似は黙っててやってもいいぜ。それなら、お偉いご先祖様の名前にだって傷は付かない。大事なんだろう? ご先祖様が。代々続いた家柄が。それなら、死ねよ。今ここで、死ねよ」
「貴様、父親に死ねと……?」
「だから、てめえなんか父親じゃねえ」
と、父親は竹刀を上段に構えた。
「そんなことはさせない……。何があろうと、役所の名に傷をつけさせはしない……」
少年は竹刀を見つめて笑った。
「今度は役所を持ち出すのか? 勝手なことばかりほざいているんじゃねえよ! てめえが心配してるのは、てめえの懐だけだろうが! 偉そうに僕のためだとか、家柄だとか、役所のためだとかって言うんじゃねえよ! おまえ、その竹刀で僕を殺すのか? やってみろ。やってみろよ! それだけでてめえは刑務所行きだ! ほら、やれるもんならやってみろよ、このゴキブリ野郎が! てめえは、今、ここで死ぬしかねえんだよ! ほら、死ねよ! さっさと死んでみせろや!」
わなわなと震えた父親は、ついに少年の額に竹刀を叩き降ろした。
「貴様こそ死ね!」
少年は、目を見開いたまま倒れた。切れた額から噴き出す。
母親が我に返って父親に飛びかかる。
「あなた! やめて!」
と、母親を突き飛ばした父親は彼女の背中を打ちはじめた。
「死んでしまえ! みんな死んでしまえ! みんなおまえが悪いんだ! おまえが悪いんだぞ!」
「助けて!」
「おまえのせいだぞ! こんなろくでなしを産みおって! こんなクズに私の成功を壊されてたまるか! ようやくつかんだ成功を! 私は偉いんだ! 偉いんだぞ! おまえらとは人種が違うんだ!」
父親は二人を打ちのめしながら叫び続けた。
窓辺でたたずむコジロウは家族の殺し合いを見つめながら、ぼんやりとつぶやいた。
〝ケイコさん……殺されたのか……〟
コジロウは、あまりの衝撃に動くことさえできなかったのだ。
コジロウとミニーは、三人の凄惨な姿をただじっと見守るばかりだった。
コジロウの頭に、答えの出しようがない疑問が渦巻く。
〝なぜだ……なぜなんだ……? ケイコさんはあいつに殺されたのに、どうして泣きごと一つ言わないんだ……?『みんなを許す』だなんて……自分を殺したやつまで、許すだなんて……。どうしてなんだよ……〟
コジロウは考え続けた。
背後で土佐犬の綱が切れはじめたことにも気づかずに――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます