クリスマス・キャッツ

岡 辰郎

第一章・ネコの森

 つむじ風が落ち葉を巻き上げた。

 赤や黄色の葉がひらひらと踊る。葉が落ちた木々の枝を通り抜けた陽光が、落ち葉を透き通らせる。

 秋は深まっていた。

 それでも、差し込む光にはまだわずかな暖かさが残っている。

 白ネコのミニーは、ぼろぼろになったバスケットシューズの箱の中で身をすくめた。鼻の先をかすめた風は、ナイフのように冷たい。

 しかしミニーの目は、落ち葉の万華鏡を見上げて輝いていた。

〝きれい……。なんてたくさんの色があるの……? ケンさんが言っていた「天国」って、ここ?〟

 それは、捨てられてから四日もたって、初めて感じた幸福だった。

 森の美しさを受け入れることができるようになったのは、生きる気力がよみがえってきた証拠だ。

〝本当にきれい……。こんなにきれいな世界でなら、わたし、生きていけるかしら……〟 

 落ち込む一方だったミニーの心の中に、ほのかな炎が燃え上がる。

 それは、〝恐怖〟が〝慣れ〟に変わる瞬間だった。

 ネコのミニーの頭に、森に置き去りにされてからの苦しい日々がよみがえる。ジグソーパズルのピースのような記憶の断片が、一つ、また一つと脳裏をかすめた。


――むせ返るほど濃厚な土の匂い……。

――肌を刺す枯れ枝や視界をさえぎる草木……。

――得体の知れない獣の叫びや、風に揺られる木々がたてる不気味な物音……。

――夜の深い闇と、空気の冷たさ……。


 飼い主の部屋を出たことがないミニーにとって、すべてが衝撃だった。ある日突然、未知の世界に放り出されてからは、恐怖の連続だった。

 何よりも恐ろしいのは、あたりに見知らぬ生き物たちがうごめいていることだった。


――長くうねるもの……。

――耳元を飛び回るもの……。

――枯れ草の下を這い進むもの……。

――あるものは小さく、あるものは大きく……。


 それらはみんな生きていた。生きて、意志を持っていた。

 遠巻きにミニーに向けられる、彼らの視線。そこに潜んでいたのは、敵意だ。

 人間以外の生き物と出会った記憶は、ミニーにはない。

 何もかもが、きれいに整った〝家〟とは違った。

 ミニーの白く柔らかい毛には、たちまち泥がこびりついた。絶え間ない恐怖が絞りださせる肉球の汗の臭いが、飼いネコの自尊心を粉々に打ち砕いた。

 だがいちばん手強い敵は、寒さだった。全身を毛皮に包まれていても、初めて経験する外気は身にしみた。

 ミニーにとって、秋は〝冬〟の予告でしかない。その冬は、暖かいストーブの前で眠り続けることができる〝喜びの季節〟だ。

 ミニーは、冬が寒いことすら知らなかった。

 そして絶え間ない寒さと空腹が、生きる意欲をじわじわと奪い取っていった。

 ミニーの頭は、解くことができるはずのない疑問で占領された。

〝ここはどこ? なんでこんな所に連れてこられたの……?〟

 思い起こせば、住み慣れた部屋から引き離される前ぶれはあった――。


          *


 その日、飼い主のケンは部屋に帰らなかった。ミニーが冷えきった布団の中で一夜を明かした後、ケンはようやく戻った。

 ケンもまた冷えきって、動かなくなっていた。

 死――。

 ネコのミニーにとって、それは不可解な現象だった。

 部屋の日だまりで丸くなってケンの帰りを待ち、夜はベッドの中で温もりを分かち合う――それがミニーの生活のすべてだったのだから。

 餌にも水にも、不自由したことはない。プラスティックの囲いがついたトイレの砂はいつも清潔だった。爪を研ぎたくなれば、そのためにだけ作られた段ボール製の道具が用意されている。

 ケンは、塾から戻ると真っ先にミニーが散らかしたゴミ屑を片づけ、そっと抱き上げて頬ずりをしてくれた。

 ミニーは感謝の印に、ケンが勉強机に向かっている間、その膝の上に横たわる。そこで毛づくろいをして、いつの間にか寝息をたてる。ケンは時折ミニーの背を優しくなで、心を和ませるのだ。

 ミニーとケンの暮らしに死が入りこむ余地などなかった。ミニーは、汚れを知らない真っ白なネコでいることが許されていた。

 ケンさえいれば、ミニーは幸福だった。その幸福が、ミニーから死への恐怖を忘れさせていたのだ。

 実はミニーもかつて、死の影に怯えたことがあった。

 生まれて間もなく、彼女は兄弟たちとともに捨てられた。生ゴミ回収の日に、古びた木箱に入れられてゴミ捨て場に置かれたのだ。まだ、母親から引き離されたことの意味さえ分からない頃のことだ。

 兄弟の中でもっとも好奇心が旺盛だった彼女は、箱から這い出して辺りを見て回った。そして、ケンと出会った。

 子ネコは、中学校から帰る途中のケンにやさしく拾いあげられた。

 ミニーは、手のひらの温もりに安心してあくびをもらしてから、ケンの手を少しかじった。

 ケンは小さく笑った。

「おまえ、元気だな」

 ケンは子ネコを家に連れて帰った。

 それを見た母親は即座に言った。

「家では飼えないわよ。新築したばかりなのに、汚されるし……」

「でも、どうしても飼いたい」

 母親は、ケンの表情に思い詰めたような色があることを見抜いたようだった。

 ミニーは、ケンとともに暮らすうちに、母親がネコを飼うことを許した理由を知った。

 母親は、その頃のケンが、何かの重圧に押しつぶされそうになっていることを感じていたのだ。親の希望を叶えるために、必至に背伸びをしていることも分かっていた。重荷の一つは明らかに、詰め込まれる一方の勉強を消化できないことだ。ネコを飼うことで気持ちが安らぐなら、少しぐらい部屋が汚れてもしかたないと思ったという。

「あなたが全部面倒みられるの?」

 ケンは、真剣な目で答えた。

「みる」

「じゃあ、お父さんに聞いてみましょう」

 父親は別の条件を出した。

 本気で一流大学進学をめざすこと。少なくとも、公立進学高校に進める程度の偏差値を確保すること――。

 ケンは子ネコを子供部屋から出さないという約束で、飼うことを許された。

 ケンが彼女につけた名前は、ミニー。

 もちろんミニーは、それがミッキーマウスの恋人――ネズミの名前であることなどは知らない。たとえ知っていても、不服は言わなかっただろう。ミニーは、実物のネズミを見たこともなかったのだから。

 こうしてミニーは死の恐怖から解放された。冷たい雨に打たれながら死んでいっただろう兄弟のことも忘れた。

――そしてケンは、突然、冷たくなった。

 一週間後、ミニーは父親に靴の紙箱に押しこめられ、車に乗せられた。

 車も初めてだった。

 揺れと排気ガスの臭いに酔ったミニーは、吐き気をこらえながら思った。

〝これが、車? どこへ行くの……?〟

 しかしまだ、恐怖は感じなかった。家族を疑う理由はなかった。それに、狭く暗い場所は、嫌いではない。

 車が停まると、箱は外に置かれた。

 湿気をはらんだ地面の匂いがミニーの鼻を突く。

 父親の声がした。

「すまないね。こうするしかないんだ」

 ミニーは不意におびえた。

〝やだ! なに⁉〟

 鼻先で蓋を押したが、動かない。

 何かで縛ってある。しかたなく、箱の隅から前脚を出してこじ開けようとする。

 ミニーが蓋を開こうともがいているうちに、車が去る音が聞こえた。

〝待って! 置いてかないで!〟

 蓋の隅から首をのぞかせた時には、もう車は見えなかった。

 そこは見知らぬ場所だった。

 紅葉した葉をいっぱいにまとった木々。ミニーの背丈を軽く超える草むらから聞こえる、虫たちの鳴き声。森の斜面を削って、雑草だらけの細い砂利道が通っている。近くに小川でもあるのか、せせらぎの音も聞こえた。

 しかしそれは、後にミニーが死と隣り合わせた体験を繰り返しながら、本能によって把握した情景だ。

 置き去りにされた瞬間のミニーには、そこがどこなのか、それらが何なのか、理解できるものは一つもなかった。

 分かったのは、人間の匂いがない、ということだけだ。

〝捨てられちゃったの……?〟

 何時間その場でぼんやりしていたのかも覚えていない。空腹感に襲われなければ、何日でもそうしていただろう。

 食べるものを見つけなければならなかった。

 森の生き物たちは奇妙な形をしていた。

 のたうち回るピンクの紐のようなミミズ、地を這う黒い虫、何かの死骸を覆い尽くすウジたち――。

 それらを口にするには、最初はひどく勇気が必要だった。

 ミニーは、口の中でうごめく生き物を食べたことなど一度もなかったのだ。

 それでも〝彼ら〟が食料になることはすぐに分かった。外見や匂いへの嫌悪感が薄れると、缶詰のキャットフードとは違ったおいしさがあることも知った。

 ミニーは、自分の中で野性が目覚めはじめたことを感じた。

〝一人は淋しいけど、これが自由っていうもの……?〟

 深夜、参考書を乱暴に投げ出して頭を抱えたケンが、ぽつりと言った言葉が思い出される。

「おまえはいいよな、自由で。もう、勉強はたくさんだ。僕には向いていない。受験勉強なんて……。自由になりたいよ……」

 それ以来ミニーは小さな虫たちを餌にしながら、靴箱をねぐらにして時を過ごしてきたのだ。

 ミニーは、その靴箱を中心にして自分の世界を作り上げた。靴箱だけが、ミニーとケンを――人間の世界とを結ぶたった一つの実体だった。

 それでもミニーは、次第に森の暮らしに慣れていった。

 そして、自分の中から新しい欲望が起こりはじめていることに気づいた。

 ミニーは、靴箱よりも広い世界を求めていたのだ。

〝天国、か……〟

 それも、ケンが使った言葉だ。

 冷たくなって帰る数日前、布団の中でミニーをなでながら、ケンはつぶやいた。

「天国って、きれいな所らしいね。僕も早く行ってみたいな……。でも、僕なんかじゃ行けないよね。勉強勉強で、人を蹴落とすことしか考えてないし……あんなことまでしちゃったんだから……」

 ミニーは言った。

〝天国にいこうよ、わたしと一緒に〟

 だが、ミニーの鳴き声の意味がケンに伝わるはずもない。

 ミニーはそっとケンの手をなめた――。


          *


 かさかさと音をたてて、靴箱の中にも小さな枯葉が舞い込む。

 我に返ったミニーは、ついに決心した。

〝外へ出よう〟

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