最初に出会ったのは、小さな動物だった。

 それは、枯れ始めた下草の間をせわしなく走り回っている。

〝あら……? 何……?〟

 小さいとはいえ、ミニーが食料にしてきた虫たちよりははるかに大きい。好奇心が首をもたげる。

 ミニーは草の間で腰を低くして息をひそめ、そっとその生き物ににじり寄った。

 自分と同じように毛皮に覆われている。

〝あら、かわいい!〟

 野ネズミだった。

 その時、ネズミもミニーに気づいた。

 次の瞬間、ネズミは地面の穴に飛び込んでいた。

 ミニーは叫んだ。

〝待って!〟

 草むらから飛び出したミニーは、ネズミの穴に鼻を近づけて懇願した。

〝お願い、出てきて。あなた、ここで暮らしているんでしょう? ここのこと、わたしに教えて〟

 ネズミが穴の奥で震える振動が、地面に触れたヒゲに伝わる。

 恐怖の匂い――。

 ミニーには意外だった。

〝恐いの? わたしが? なぜ? お話がしたいだけ。なぜ恐がるの? 大丈夫、何もしないから。だからお願い、お友達になって〟

 返事があるはずもなかった。

 ミニーは地面に座り込んで考えた。

〝わたし、嫌われてる……?〟

 ミニーは、その生き物がひどく気になった。なんとしてももう一度姿を見て、正体を確かめたかった。

 ミニーはその場を離れる気になれず、出窓に飾られた置物のように座り込んで動きを止め、じっと穴を見つめ続ける。

 木々の間から差し込む午後の光が、すっかり黒ずんでしまった背中の毛を暖める。

〝ぽかぽかして、気もちいい……〟

 しだいに、目を開けていることが苦しくなった。そしてついに、ミニーはそのままの姿勢で居眠りをはじめた。

 と、カサッという物音が耳に入った。

 ピクリと耳だけを動かしたミニーは、薄目を開けた。

 ネズミが、穴から半分身体を出している。

 ミニーの鼻に当たるかすかな風が、ネズミの匂いを運んでくる。

 ネズミは風上に顔を向け、すぐ後ろで待っていたミニーに気づいていない。

〝あ!〟

 ミニーには何も考える間もなかった。反射的に前脚が出ていた。

 我に返った時には、前脚がネズミの背中を押さえ込んでいた。

〝キー!〟

 ネズミの悲鳴が耳に飛び込んだ。

 ミニーは負けずに叫んだ。

〝恐がらないで! お友達になりたいだけ!〟

〝キキキキキー!〟

〝お願い! わたしの話を聞いて!〟

 ミニーの手の中で暴れるネズミにはさらに半狂乱の叫び声をあげると、突然黙ってしまった。手足の動きもぴたりと止まる。

 ミニーはゆっくりと前脚を上げた。

 ネズミは固くなったままだった。

〝うそ……死んじゃったの? まさか、これだけで? 押さえただけで?〟

 森で暮らした数日の間に、ミニーは死を学んだ。〝食料〟が生き物の死によってもたらされることを、本能が命じる行動によって知った。

〝そんな……たったこれだけで、死んでしまうなんて……かじってもいないのに……〟

 ミニーは動かなくなったネズミを鼻先で突いて転がした。仰向けになったネズミの腹に、耳を当てる。

 激しい心臓の動きが聞こえた。

〝動いてる! 生きているの⁉〟

 ネズミはパニック状態に陥って、硬直していたのだ。

 ミニーの耳にネズミの体温がじわりと伝わる。

 ミニーは思った。

〝温かい……。なんて温かいの……〟

 胸の奥に嬉しさがこみあげてくる。

〝温かい生き物……毛皮の生き物は、温かいのね……。わたしの仲間なのね……。ここにも、仲間がいたんだ……〟

 動物の温かさには、ケンの死以来接したことはなかった。それはミニーに、深い幸福感をもたらした。

 と同時に、心の奥に正体不明の衝動がわき上がる。

〝食べたい……〟

 そう考えてから、自分の考えにおびえた。

〝いや! わたし、何てことを⁉ 温かい仲間を、食べるだなんて……〟

 ミニーが今まで食べてきた虫は、どれも冷たかった。命を持って動き回っていることは確かだが、自分とは違う種類の生き物だという意識があった。

 それは、缶詰から出した魚と同じだ。だからミニーは、捕らえた虫たちをためらうことなく胃袋に収めることができた。

 しかし、温かい生き物は違う。

 それはネズミが、ネコや人間と同じ仲間だという証拠だ。

 温かい命は食べられない。食べてはいけない。死を与えることはできない。

 それがミニーの理性が発した言葉だった。

 それでもミニーは、激しい空腹を感じていた。

 ネズミの心臓は相変わらずぴくぴくと動き続けている。

 ミニーはネズミを前脚の先で少し押してみた。

 やはり動かなかった。

〝しかたないわね……近くで虫を食べてから、また来てみよう。目が覚めて怪我がないってわかったら、お友達になってくれるかも――〟

 その瞬間だった。

 頭上に大きな羽ばたきの音がした。

 はっと空を見上げたミニーは、大きく真っ黒い影が自分に向かって一直線に落ちてきたのを見た。

〝なに⁉〟

 ミニーは反射的に飛び起き、背後の茂みに走り込んだ。

 黒い影から伸ばされた鋭い爪が、ミニーの長い尻尾の先を引っかく。

〝痛い!〟

 ミニーは茂みの中で身をひるがえし、地上に降り立った影に正面を向けた。

 トンビだった。

 大きなトンビは翼をわずかに広げ、身体を震わせている。目の前の獲物を威嚇し、抵抗する気力を奪い去ろうという魂胆だ。

 ミニーはつぶやく。

〝何よ、あなた……? わたしをどうする気?〟

 答えはない。 

 鋭く曲がったくちばしの後ろで、鋭い目が冷たく光っている。

 ミニーは直感した。

〝うそ……わたしを食べるの……?〟

 自分が食われるかもしれないということを、ミニーは一度も考えたことがなかった。

〝そんな……ネコを食べるだなんて……〟

 トンビはぴょんと跳ねてミニーに近づいた。

 ミニーはわずかに退く。しかしその後ろの茂みは草が厚く、逃げこめそうもない。左右の草も、ミニーの行動範囲をせばめていた。真っすぐにくちばしを突っ込まれれば、避ける場所はない。

 退路を断たれたのだ。

 トンビは、さらにわずかに前進する。くちばしをミニーの身体に叩き込むために、身構える。

 餌を目の前にした喜びがじわりと伝わってきた。

 相手が敵であることはもはや疑いようがなかった。

 本能が叫ぶ。

〝戦わなくちゃ!〟

 ミニーは、ふぅーっと背中をふくらませて毛を逆立てた。いつでも爪を使えるように、右の前脚を浮かせて構える。

 トンビは動きを止めた。ミニーの戦闘能力を測るように、少し首をかしげる。

 ミニーの身体中に敵意がみなぎってくる。

 それは、初めて経験する戦いの興奮だった。

 トンビは翼をいっぱいに広げた。そのまま羽ばたきはじめる。

 強い風でばさばさと細い草が揺れた。

 ミニーはひるんだ。

〝なんて大きいの……?〟

 その瞬間、トンビはミニーに向かって大きくジャンプした。

〝来た!〟

 同時にミニーが振った前脚がトンビの胸を引っかいていた。

 トンビの爪はミニーに届かなかった。

 すぐに後ろに跳ね戻ったトンビは、ミニーにえぐられた胸の傷をくちばしでぬぐう。

 ミニーの腕には、むしり取られたトンビの羽毛と血の温かさが残っていた。

 ミニーは興奮した頭の片隅でぼんやりと考えていた。

〝鳥……。鳥も温かいのね。でも、温かい仲間なのに……わたしを食べようと……〟

 トンビはすでに、ミニーへの攻撃をあきらめていた。

 身体の大きさからいえば殺せない獲物ではないが、ネコにはウサギにはない爪としなやかな筋肉が備わっている。返り討ちにあう危険を冒すほど、空腹ではなかったのだ。

 そしてトンビは、地面に倒れたネズミを発見した。

 羽ばたいたトンビはわずかに身体を宙に浮かせると、鋭い爪で素早くネズミをつかんで飛び立った。

 ミニーは草むらから飛び出した。

〝だめ! わたしのお友達! お友達を返して!〟

 トンビはミニーをあざ笑うように、その頭上で二回旋回した。爪で強くしめつけられたネズミの口から、鮮血が吹き出す。

 ネズミの血がミニーの額に降りかかった。

 ミニーは叫んだ。

〝お友達を殺さないで!〟

 トンビは何も答えない。

 ミニーは飛び去るトンビを虚しく見上げることしかできない。

〝なぜ? なぜ温かい血の仲間を……?〟

 ミニーの目にネズミの血が流れこむ。

 ミニーは目をしばたたいて、その血を前脚でぬぐった。そして、いつもの習慣で手をなめる――。

 まだ温もりが残る血の味が、口の中いっぱいに広がった。

 それは、心がとろけるほど旨かった。

〝うそ……。なんで? いや! なんでこんなにおいしいの⁉〟

 ミニーは空高く舞い上がったトンビをぼんやりと見上げて思った。

〝恐い……恐いわ……。わたし……これから、どうなっちゃうの……?〟

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