2
最初に出会ったのは、小さな動物だった。
それは、枯れ始めた下草の間をせわしなく走り回っている。
〝あら……? 何……?〟
小さいとはいえ、ミニーが食料にしてきた虫たちよりははるかに大きい。好奇心が首をもたげる。
ミニーは草の間で腰を低くして息をひそめ、そっとその生き物ににじり寄った。
自分と同じように毛皮に覆われている。
〝あら、かわいい!〟
野ネズミだった。
その時、ネズミもミニーに気づいた。
次の瞬間、ネズミは地面の穴に飛び込んでいた。
ミニーは叫んだ。
〝待って!〟
草むらから飛び出したミニーは、ネズミの穴に鼻を近づけて懇願した。
〝お願い、出てきて。あなた、ここで暮らしているんでしょう? ここのこと、わたしに教えて〟
ネズミが穴の奥で震える振動が、地面に触れたヒゲに伝わる。
恐怖の匂い――。
ミニーには意外だった。
〝恐いの? わたしが? なぜ? お話がしたいだけ。なぜ恐がるの? 大丈夫、何もしないから。だからお願い、お友達になって〟
返事があるはずもなかった。
ミニーは地面に座り込んで考えた。
〝わたし、嫌われてる……?〟
ミニーは、その生き物がひどく気になった。なんとしてももう一度姿を見て、正体を確かめたかった。
ミニーはその場を離れる気になれず、出窓に飾られた置物のように座り込んで動きを止め、じっと穴を見つめ続ける。
木々の間から差し込む午後の光が、すっかり黒ずんでしまった背中の毛を暖める。
〝ぽかぽかして、気もちいい……〟
しだいに、目を開けていることが苦しくなった。そしてついに、ミニーはそのままの姿勢で居眠りをはじめた。
と、カサッという物音が耳に入った。
ピクリと耳だけを動かしたミニーは、薄目を開けた。
ネズミが、穴から半分身体を出している。
ミニーの鼻に当たるかすかな風が、ネズミの匂いを運んでくる。
ネズミは風上に顔を向け、すぐ後ろで待っていたミニーに気づいていない。
〝あ!〟
ミニーには何も考える間もなかった。反射的に前脚が出ていた。
我に返った時には、前脚がネズミの背中を押さえ込んでいた。
〝キー!〟
ネズミの悲鳴が耳に飛び込んだ。
ミニーは負けずに叫んだ。
〝恐がらないで! お友達になりたいだけ!〟
〝キキキキキー!〟
〝お願い! わたしの話を聞いて!〟
ミニーの手の中で暴れるネズミにはさらに半狂乱の叫び声をあげると、突然黙ってしまった。手足の動きもぴたりと止まる。
ミニーはゆっくりと前脚を上げた。
ネズミは固くなったままだった。
〝うそ……死んじゃったの? まさか、これだけで? 押さえただけで?〟
森で暮らした数日の間に、ミニーは死を学んだ。〝食料〟が生き物の死によってもたらされることを、本能が命じる行動によって知った。
〝そんな……たったこれだけで、死んでしまうなんて……かじってもいないのに……〟
ミニーは動かなくなったネズミを鼻先で突いて転がした。仰向けになったネズミの腹に、耳を当てる。
激しい心臓の動きが聞こえた。
〝動いてる! 生きているの⁉〟
ネズミはパニック状態に陥って、硬直していたのだ。
ミニーの耳にネズミの体温がじわりと伝わる。
ミニーは思った。
〝温かい……。なんて温かいの……〟
胸の奥に嬉しさがこみあげてくる。
〝温かい生き物……毛皮の生き物は、温かいのね……。わたしの仲間なのね……。ここにも、仲間がいたんだ……〟
動物の温かさには、ケンの死以来接したことはなかった。それはミニーに、深い幸福感をもたらした。
と同時に、心の奥に正体不明の衝動がわき上がる。
〝食べたい……〟
そう考えてから、自分の考えにおびえた。
〝いや! わたし、何てことを⁉ 温かい仲間を、食べるだなんて……〟
ミニーが今まで食べてきた虫は、どれも冷たかった。命を持って動き回っていることは確かだが、自分とは違う種類の生き物だという意識があった。
それは、缶詰から出した魚と同じだ。だからミニーは、捕らえた虫たちをためらうことなく胃袋に収めることができた。
しかし、温かい生き物は違う。
それはネズミが、ネコや人間と同じ仲間だという証拠だ。
温かい命は食べられない。食べてはいけない。死を与えることはできない。
それがミニーの理性が発した言葉だった。
それでもミニーは、激しい空腹を感じていた。
ネズミの心臓は相変わらずぴくぴくと動き続けている。
ミニーはネズミを前脚の先で少し押してみた。
やはり動かなかった。
〝しかたないわね……近くで虫を食べてから、また来てみよう。目が覚めて怪我がないってわかったら、お友達になってくれるかも――〟
その瞬間だった。
頭上に大きな羽ばたきの音がした。
はっと空を見上げたミニーは、大きく真っ黒い影が自分に向かって一直線に落ちてきたのを見た。
〝なに⁉〟
ミニーは反射的に飛び起き、背後の茂みに走り込んだ。
黒い影から伸ばされた鋭い爪が、ミニーの長い尻尾の先を引っかく。
〝痛い!〟
ミニーは茂みの中で身をひるがえし、地上に降り立った影に正面を向けた。
トンビだった。
大きなトンビは翼をわずかに広げ、身体を震わせている。目の前の獲物を威嚇し、抵抗する気力を奪い去ろうという魂胆だ。
ミニーはつぶやく。
〝何よ、あなた……? わたしをどうする気?〟
答えはない。
鋭く曲がったくちばしの後ろで、鋭い目が冷たく光っている。
ミニーは直感した。
〝うそ……わたしを食べるの……?〟
自分が食われるかもしれないということを、ミニーは一度も考えたことがなかった。
〝そんな……ネコを食べるだなんて……〟
トンビはぴょんと跳ねてミニーに近づいた。
ミニーはわずかに退く。しかしその後ろの茂みは草が厚く、逃げこめそうもない。左右の草も、ミニーの行動範囲をせばめていた。真っすぐにくちばしを突っ込まれれば、避ける場所はない。
退路を断たれたのだ。
トンビは、さらにわずかに前進する。くちばしをミニーの身体に叩き込むために、身構える。
餌を目の前にした喜びがじわりと伝わってきた。
相手が敵であることはもはや疑いようがなかった。
本能が叫ぶ。
〝戦わなくちゃ!〟
ミニーは、ふぅーっと背中をふくらませて毛を逆立てた。いつでも爪を使えるように、右の前脚を浮かせて構える。
トンビは動きを止めた。ミニーの戦闘能力を測るように、少し首をかしげる。
ミニーの身体中に敵意がみなぎってくる。
それは、初めて経験する戦いの興奮だった。
トンビは翼をいっぱいに広げた。そのまま羽ばたきはじめる。
強い風でばさばさと細い草が揺れた。
ミニーはひるんだ。
〝なんて大きいの……?〟
その瞬間、トンビはミニーに向かって大きくジャンプした。
〝来た!〟
同時にミニーが振った前脚がトンビの胸を引っかいていた。
トンビの爪はミニーに届かなかった。
すぐに後ろに跳ね戻ったトンビは、ミニーにえぐられた胸の傷をくちばしでぬぐう。
ミニーの腕には、むしり取られたトンビの羽毛と血の温かさが残っていた。
ミニーは興奮した頭の片隅でぼんやりと考えていた。
〝鳥……。鳥も温かいのね。でも、温かい仲間なのに……わたしを食べようと……〟
トンビはすでに、ミニーへの攻撃をあきらめていた。
身体の大きさからいえば殺せない獲物ではないが、ネコにはウサギにはない爪としなやかな筋肉が備わっている。返り討ちにあう危険を冒すほど、空腹ではなかったのだ。
そしてトンビは、地面に倒れたネズミを発見した。
羽ばたいたトンビはわずかに身体を宙に浮かせると、鋭い爪で素早くネズミをつかんで飛び立った。
ミニーは草むらから飛び出した。
〝だめ! わたしのお友達! お友達を返して!〟
トンビはミニーをあざ笑うように、その頭上で二回旋回した。爪で強くしめつけられたネズミの口から、鮮血が吹き出す。
ネズミの血がミニーの額に降りかかった。
ミニーは叫んだ。
〝お友達を殺さないで!〟
トンビは何も答えない。
ミニーは飛び去るトンビを虚しく見上げることしかできない。
〝なぜ? なぜ温かい血の仲間を……?〟
ミニーの目にネズミの血が流れこむ。
ミニーは目をしばたたいて、その血を前脚でぬぐった。そして、いつもの習慣で手をなめる――。
まだ温もりが残る血の味が、口の中いっぱいに広がった。
それは、心がとろけるほど旨かった。
〝うそ……。なんで? いや! なんでこんなにおいしいの⁉〟
ミニーは空高く舞い上がったトンビをぼんやりと見上げて思った。
〝恐い……恐いわ……。わたし……これから、どうなっちゃうの……?〟
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