3
陽がかたむくと、冷たい雨が降りはじめた。あたりの枯葉が一斉にひたひたと音をたてる。
ミニーには初めての大粒の雨だった。ぼろぼろになった靴箱に戻っても、これほどの雨は防げそうにない。
〝眠る場所を探さなくちゃ……。まだ明るいうちに〟
濡れた草をかき分けて山の方へしばらく走ると、小高い丘のふもとに積み重なった岩があった。その隙間なら雨やどりできそうだ。
ミニーは毛皮が濡れることを嫌って、充分に周囲を確かめずに岩の間に飛び込んだ。
とたんに、奥からうなり声が聞こえた。
ミニーは硬直した。
〝いや! また、鳥⁉〟
暗い穴の奥に二つの目が光る。
ミニーは背中を思いきり丸め、毛を逆立ててうなった。
〝来ないで! お願い! わたしに構わないで!〟
奥から現われたのは、ネコよりもはるかに大きい四つ足の動物だった。
身体中にこびりついた血の臭い、獰猛そうなうなり声、そして長くのびた鼻先の下には鋭い歯がびっしりと並んでいる。
キツネだ。
ミニーは叫んだ。
〝あなたは誰? わたし、何もしないわ。だから、怒らないで!〟
キツネは低くうなるだけで答えない。
〝ごめんなさい。あなたのお家だとは知らなかったの! すぐ出ていきます。だから、許して!〟
さらにミニーににじり寄るキツネは、全身から狂暴なオーラを発散させる。
ミニーの目がくらむ。
〝いや……どうしてわたしの言葉が分からないの? あなただって同じ動物じゃない!〟
ミニーは身をひるがえし、走って逃げようとした。だが、すくんだ足は思うように動かない。
ミニーの目の前のキツネの巨体が迫る。
黄金色の毛皮は傷だらけで、そのキツネが何度も修羅場をくぐり抜けてきたことを物語っている。興奮で太くふくらんだ尻尾が振られる。
その目が、獲物に食らいつく瞬間を前にして、ぎらりと輝く。
キツネは飢えていた。
ミニーは、話し合える相手ではないと理解した。対等に戦える動物でもない。
キツネの全身から放射されているのは、獲物を前にしたハンターの喜びなのだ。
〝恐い……〟
腰をぺったり地面にこすりつけてあとずさるミニーを、穴から出たキツネが追う。
ミニーは必死にうなり、前脚を振った。
キツネはわずかに身を引く。しかしその動きは余裕に満ちていた。それは、口にくわえたスズメをいたぶるネコと同じ余裕だ。
ミニーはどちらに逃げ出すべきか、あたりを見回した。
その時、キツネはぴょんと跳ね上がってミニーの視界から消えた。
〝どこ⁉〟
次の瞬間、ミニーの額は真上から落ちてきたキツネの前脚で押さえ込まれていた。
ミニーは反射的に身をよじった。腹を上に向け、後ろ足を激しく蹴り上げる。
ミニーの爪はキツネの喉もとをえぐった。
しかしキツネは飢えていた。ひどく飢えていた。
皮膚を切り裂かれる痛みを無視して、ミニーの首筋に牙をたてる。
ミニーは痛みに悲鳴をあげた。
〝いや! やめて!〟
が、首を絞めあげる力はゆるまない。
ぐいぐいと突き刺さる牙、そして強力なアゴの力で呼吸が止められる……。
ミニーの意識は次第にかすんでいった。
〝わたし……死ぬの……?〟
と、もう一つのうなり声が耳に入った。
ぼんやりとしたミニーの視界の中で、すばやく動く黒い影――。
その影がキツネの首筋に飛びかかる。
キツネの牙が離れた。
ミニーは反射的に身をひいて後ろ足を強く蹴り、キツネの身体の下から転がり出た。
ミニーは雨で濡れた土の上に倒れ、空気をむさぼり吸った。
そして、キツネを見た。
キツネは自分を襲った何者かの牙から逃れようと、気が狂ったように身をよじっていた。黒い影が激しく振り回される。
キツネに食らいついていたのは、ネコだった。
ミニーよりも二回りほど大きく、尻尾が短く曲がっている。ベージュ色に近い身体は、全体が黒いしま模様に覆われていた。
恐怖に身をすくませたミニーはその場に倒れ、動けなかった。傷は大したことはないと分かっていたが、腰が抜けて立ち上がることができなかった。
キツネとしまネコは、激しくうなりながらあたりを転げ回った。草の先から飛び散る雨水がミニーにも降りかかる。
ようやく立ち上がったキツネは、何度もジャンプしてしまネコを首から引きはがそうともがいた。だがしまネコは、かじりついたままキツネの顔面に爪を立て、振り回されるままになっている。キツネが暴れれば暴れるほど、しまネコの爪が深く食い込んでいく。
キツネは今度は自ら岩の上に倒れた。
しまネコが下敷きになる。
キツネの体重で押しつぶされたしまネコは、ようやく牙を抜いた。
二つの身体は離れると同時に体勢を立て直し、向かい合って激しくうなった。
キツネは狂暴さをむき出しにしている。
岩を背にしたしまネコは、全身の毛をふくらませて身がまえた。
命を賭けた戦いだった。
ミニーの心に、しまネコの〝声〟がふくれあがった。
〝恐れるな! 今度こそ、真正面から突っ込むんだ!〟
それは、しまネコが自分を励ますために、頭の中で叫んだ言葉だった。その雄叫びが、ミニーの心に流れこんできたのだ。
続いて、見たこともない情景がミニーの頭にふくれ上がった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
目の前に巨大なイヌがいた。
敵意をあらわにした黒いイヌは、真っ赤な口の中に鋭い牙を輝かせてうなる。
心にすさまじいおびえが生まれる。
そしておびえは、一時的に身体を麻痺させた
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
しまネコの脳裏によみがえった記憶だった。過去の〝敗北〟の記憶が、息を呑んで戦いを見守るミニーの脳に注ぎ込まれたのだ。狂暴な敵と対峙した興奮がしまネコの意識を拡大させ、二匹のネコの心がつながったのだった。
ミニーは、突然頭の中に爆発した映像にすくみあがった。
〝何、これ⁉〟
ミニーは、それが〝しまネコの記憶〟であることを感じ取った。
他人の記憶であるのもかかわらず、ミニーの身体はすくんだ。
過去から不意に現われたしまネコの恐怖と、目の前で牙をむいているキツネの恐怖が二重写しになって、ミニーの恐怖を極限にまで高めていた。
なのにしまネコの記憶はとめどなく流れ込んでくる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
目前に迫るイヌの牙。熱く、生臭い息。
〝逃げなければ!〟と思いつつも、思い通りに動かせない自分の足。そして、顔面に突き刺さる牙。
その時はじめて、手足が動いた。
思いきり爪を立てて前脚を振り回す。爪がイヌの皮膚に食い込む手ごたえ。
だが、イヌの牙は放れない。
さらに身をよじって力を振り絞る。後ろ足がイヌの目を蹴る。その勢いで、自分の身体をイヌの口からもぎ離した。顔面に襲いかかる灼熱の痛み。
頭の中に生存本能が爆発する。
〝逃げろ!〟
大地を捕らえる爪。後先も考えずに走りだす。
そして、背後で吠えるイヌ。イヌは、獲物を逃すまいと追いかけようとする。だがイヌをつないだ鎖はいっぱいに張りきって、それ以上は進めない。
振り返ると、イヌの口にはぬめぬめと光る〝赤い玉〟がくわえられていた。
それは、牙にえぐられた自分の眼球だった
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
しまネコの記憶は、まるで現実に体験しているかのような生々しさで容赦なくミニーの脳に叩き込まれた。
ミニーは叫んだ。
〝いやぁ!〟
しかし次の瞬間、しまネコの意識が〝恐怖の記憶〟をねじ伏せていた。記憶の爆発は不意に消え去った。
しまネコは、息を整えながらじっと敵を観察する。
キツネをにらみつけるしまネコは、もう一度自分に命じた。
〝同じヘマはしない。逃げるから、捕らえられる。恐れるから、やられる。戦えば勝てる。敗けるな! 恐怖に敗けるな! 自分に敗けるな! 戦え!〟
ミニーは願った。
〝そうよ! 敗けないで! ネコさん、敗けないで!〟
キツネが跳んだ。その牙が真上からしまネコに迫る。
その瞬間、勝負は決まっていた。
しまネコはじっと目をそらさずにキツネの動きをうかがっていたのだ。その冷静さが、張りつめた筋肉を柔軟に動かした。
しまネコは巧みにキツネの前脚をかいくぐっていた。そして、目にも止まらぬ速さで振った前脚の爪で、キツネの鼻先をざっくりと切り裂いたのだ。
〝弱点はここだ!〟
地面に落ちたキツネは、鮮血を吹き出させる鼻を押さえて転げ回った。
〝やった! 戦い方が分かった! もう恐くない! まだやる気ならかかってこい! 目玉をえぐり出してやる!〟
しまネコのうなり声に威嚇されると、キツネは飛ぶようにして自分の穴に逃げ込んだ。
しまネコは思った。
〝やった……。僕は恐怖を乗り越えたんだ……〟
そして、キツネの穴に意識を集中させる。
キツネが戻る気配はない。予期せぬ強敵に深い傷を負わされたキツネは、完全に戦意を喪失していた。
しまネコはゆっくりと敵意を静めていった。ふくらんだ毛をすぼめる。
そして、倒れたミニーに近づく。
しまネコはミニーに言った。
〝大丈夫かい?〟
ミニーは仰向けに倒れたまま、じっとしまネコを見つめた。
濃いしまに縁取られた顔は傷だらけだった。傷はどれも古く、深い。しかも片目はえぐり取られている。
ミニーは悟った。
〝その目……イヌに……?〟
しまネコはうなずいた。
〝そうだ。昔、イヌと戦ってこの傷を負った。でも、今度は勝てた。キツネも追い払った。君は安全だ〟
しかしミニーは、傷だらけのしまネコのすさまじい形相に身をちぢめた。
〝恐い……〟
しまネコはそっとミニーの腹に鼻先を触れて言った。
〝恐がらなくてもいい。僕は仲間だ〟
ミニーはようやく、言葉が通じる相手に出会えたことに思いあたった。はっと顔を上げる。
〝分かるの⁉ 気持ちが通じるの⁉〟
しまネコはミニーの鼻に自分の鼻を押しつけた。
〝もちろん分かる。ネコ同士だから。言葉も通じるし、心だってつながる〟
〝心が?〟
〝君、僕が考えていたことを読み取ったんじゃないのか?〟
〝ええ……。そうみたい〟
〝それがネコの力だ。どう? 立てる?〟
ミニーは立ち上がろうとした。しかし、やはり足に力が入らない。
〝だめ……〟
〝頑張るんだ。キツネは追い払ったが、森にはもっと狂暴な敵もいる。弱ったところを見せると、また襲われる〟
しまネコは場所を変え、鼻先でミニーの背を押した。
ミニーはぐるりとうつぶせになり、わずかに力が戻った。
ミニーはつぶやいた。
〝わたし、ミニー〟
しまネコはミニーの首の傷をなめた。
〝やっぱりね。人間がつけた名前だろう? 僕はコジロウ〟
〝あなたも人間と?〟
〝うん。でも、今は話し込んでいる暇がない。なんとか立ち上がるんだ〟
ミニーは力を振り絞って身体を起こした。
〝やったわ〟
〝よかった。走れる?〟
〝やってみる〟
〝ついてきて〟
コジロウはミニーに寄りそって、さらに森の奥へと入っていった。
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