4
コジロウのねぐらは、小高い山の下に投棄された自動車の中だった。山肌を這う砂利道の下には、人間たちが道路から投げ捨てていく雑多なゴミが散乱している。
コジロウの車は、スプリングが飛び出したマットレスと子供用の学習机の下に埋もれていた。よほど近づかなければ、そこに車一台分の空間が隠されていることは見抜けない。ネコにとってはきわめて安全で快適な隠れ家だった。
割れた窓から運転席にもぐり込んだコジロウは言った。
〝好きな場所で眠って。僕も、疲れたから……〟
コジロウは倒れるようにシートに丸まった。
ミニーは、その時はじめてコジロウの身体をじっくりと見た。それまで、草むらの間を駆け抜ける彼の尻尾を必死に追いかけてきたのだ。
だからコジロウがオスであることは分かっていた。身を挺して自分を救ったネコは、ミニーにとってはケンに代わる〝頼れる男〟――スーパースターだった。
ミニーはうっとりとした目で、寝息をたてはじめたコジロウを見つめた。
そして気づいた。
コジロウの身体は小刻みに震えている。まるで、重い風邪にかかった時のケンのように。コジロウの前脚はざっくりと切り裂かれて血をしたたらせていたのだ。
キツネとの争いで負った傷だ。
〝ごめんね……。こんなことになっちゃって……〟
ミニーはコジロウの傍らに寄りそい、傷をなめた。血の味が口に広がる。しかしその味は空腹をかきたてるのではなく、パートナーを得た喜びでミニーの胸をつまらせた。
〝温かい……。お願い、わたしを見捨てないでね〟
深い寝息を立るコジロウは、動かなかった。
ミニーはしばらくコジロウの傷をなめ、そして知らないうちに眠りはじめた。
コジロウにぴったりと身を寄せて眠ったミニーは、その夜、ケンに抱かれている夢を見た。
〝暖かい……〟
しかし翌朝のまどろみの中で見た夢は、そんなに穏やかなものではなかった。
〝熱い! 燃えてる!〟
ミニーが見たのは、自分が炎に取り巻かれて右往左往している夢だったのだ。
はっと飛び起きたミニーはまず、自分の傍らに屈強なオスネコが横たわっていることに安心した。しかし恐ろしい夢の原因がコジロウにあることに気づくと、その喜びは一瞬でなえた。
コジロウの身体は、まさに燃え上がっているように熱かったのだ。
〝いや! どうしたの⁉〟
コジロウは、熱でうるんだ目を少し開けた。薄く開いた目の半分には、白い膜がかかっている。それは、ネコが意識を朦朧とさせているときの表情だ。
コジロウはつぶやいた。
〝動けない……〟
ミニーは、コジロウの目にたまった目ヤニをなめ取った。
舌の先にも体温の異常な熱さが伝わる。
〝大丈夫……?〟
〝分からない……何だか、目の前がぼんやりして……〟
〝わたしに何かできる?〟
〝腹が……腹が空いた……〟
ミニーはその答を聞くと、すぐに窓から外へ飛びだした。ボンネットの上で周囲を見回し、餌のありそうな場所を調べる。
地面に降りたミニーは必死で辺りに散乱した古雑誌の山をかき分け、太いミミズをかじり出した。ミニーにとってはそれが最大のご馳走だったのだ。
ミニーはシートに戻って言った。
〝食べて!〟
コジロウは目の前に置かれたミミズを見つめた。
が、虚ろな目はすぐに閉じられる。
〝なに、これ……?〟
〝食べ物!〟
コジロウは目を開けもせず、ミニーを哀れむようにうめいた。
〝こんなものを食べてたのか……?〟
ミニーには、コジロウの言いたいことがよく理解できない。
〝そう。形は変だけど、おいしいから。お願い、食べて!〟
〝こんなのはネズミの食べ物だ……。僕らは、ハンターなんだ。こんな卑しい食べ物を口にしちゃいけない……〟
ミニーは、ようやく自分が叱られていたことに気づいた。
しかし、いまは少しでも何かを食べさせなければならない時だ。
〝でも、少しでもいいから食べて。じゃないと、死んじゃう……〟
コジロウも力なくうなずいた。
〝たしかにそうだな……でも、君はネズミは取れない?〟
〝ネズミ?〟
〝地面の穴に住んでいる、黒っぽくてふわふわした、すばしこくて温かい生き物……〟
ミニーは、大きな鳥がさらっていった〝友達〟を思い出した。
〝ああ……あれ。知ってる。ネズミっていう生き物だったの?〟
〝取れる?〟
〝取ったことはある。でも……〟
〝でも?〟
ミニーは恐る恐る問いただした。
〝あの生き物をどうするの?〟
〝もちろん、食べる。おいしいし、力がつく。ネコには血が必要なんだ。温かい血が……。特に、傷を負ってしまった時は……〟
ミニーは小さく息を呑んだ。
聞く前から答えは分かっていた。なのに、温かい血を持つ仲間を食べることは受け入れられなかった。
一方で、ネズミの血の味がもたらした狂暴な幸福感がよみがえっている。
〝食べる……〟
コジロウはミミズを半分飲み込んでから、ため息まじりに言った。
〝ネズミの肉が食べたい……君は、生き物は食べたことがないの?〟
〝ええ。餌はいつも缶詰……〟
〝僕も人間に飼われている時は、大体そうだった。ネコは生きた獲物を食べるように作られているのに、ね……〟
〝そうなの? わたしたち、あのネズミを食べるように作られているの?〟
〝その通り。僕は街で人間に飼われていたけれど、外に自由に出ることを許されていた。街には、自分たちで餌を探さなけりゃならない野良ネコも多い。僕はそいつらともいつも喧嘩していたし、教えられたこともたくさんある。ネコが生れつきのハンターだってことも、その一つさ。だから人間から餌をもらっていても、時々野ネズミやスズメを捕まえる練習はしていた。おかげで、ここにきても餌には困らなかった。むしろ新鮮な獲物がたくさんいて、のびのびと暮らせた〟
ミニーはうつむいてつぶやいた。
〝わたし……一度も外に出たことがないから……〟
〝そうらしいね。森に来てまだ日が浅いの?〟
〝そう。だから何かも初めてで、恐ろしくて……〟
〝それでキツネの穴になんか……。あんな危険な奴のすみかに……〟
〝ごめんなさい。あなたをこんな目にあわせちゃって。わたしがもっと注意深ければ、こんなことには……〟
コジロウは上体を少し起こしてミニーを見つめた。
〝それはもういい。二人とも生きているんだから。僕も、大きな獣と戦う方法がわかった。でも、僕には大事な仕事がある。冬まで、時間も少ない。長い時間をかけて、やっと目の傷を直した。体力も取り戻した。なのに、また寝込むわけにはいかない。お願いだ、ネズミを捕ってきてくれ。スズメでもリスでもいい。とにかく、腹いっぱい肉を食わなくちゃ、新しい傷が直せない。だから――〟
ミニーはためらいもせずに答えていた。
〝分かったわ。やります〟
ミニーにも『自分はネコなのだ』という意識がはっきりと芽生えはじめていた。
ケンは、もういない。
どうあがいても、ケンとの幸せな日々は戻らない。ケンの家に帰ることもできない。
これからは、人間に抱かれることが仕事の〝きれいな飼いネコ〟でいる訳にはいかない。ネズミを狩って食らうのがネコの本性なら、そうするべきなのだ。
何より、命の恩人に報い、その命を助けるためには、狩りを学ばなくてはならない。
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