ミニーは変わった。

 たっぷりと動物の蛋白質を腹に収めたネコは、瞬く間につややかな毛を取り戻した。

 コジロウの傷からも大量の膿が出て、その下からピンク色の肉が盛り上がった。傷口が塞がれば、回復は時間の問題だ。

 それは、ミニーが捕ってきたネズミやリスの肉のおかげだった。

 コジロウは言った。

〝もう大丈夫だ。あと少しで狩りができる。三、四日ここで暮らせば、いつでも街に戻れる〟

 ミニーは改めてコジロウに尋ねた。

〝どうしても戻るの?〟

 ミニーは、このまま二匹で森にいたかったのだ。

 街に戻っても、ケンはいない。自分を捨てた家族のもとに帰ることもできない。新たな飼い主を探すにしても、これまでの安穏な暮らしに戻れる保証はない。

 たとえ戻る道があったとしても、本能を呼び覚まされたミニーはそれを望んでいなかった。

 何よりも、コジロウの傍を離れたくなかった。

 コジロウが街に戻るために森で体力をつけようとしていたことは、充分に知っていた。それでもミニーは、コジロウの心変わりを期待していた。

 コジロウは呑気なあくびをしてからうなずいた。

〝そうだ。戻る〟

〝わたしはどうなるの?〟

〝君が決めることだ。もう君は立派なハンターだ。キツネや野犬にさえ気をつけていれば、この森で自由に暮らしていける〟

〝一緒に行っちゃだめ?〟

〝僕と?〟

〝離れたくない〟

 コジロウは少し考えた。

〝僕も離れたくない。でも、僕に与えられた役目を捨てることもできない〟

〝役目って、なに? わたしにできることならお手伝いする。何でも言いつけて〟

 コジロウはミニーの首筋をなめながら言った。

〝つらい思いをする。君にはそんな思いをさせたくない〟

〝狩りの勉強もつらかった。でも、今は楽しい〟

〝それは、ネコがもともと狩りをするようにできているからだ。君がこれまで、本当のネコの姿に気づいていなかっただけだ。でも、今度は違う。僕はこれから、ネコがやってはいけないことをする〟

 ミニーはコジロウの真剣な口調に、少しおびえた。

〝やってはいけないこと……?〟

〝それをやったら、僕はネコじゃなくなる。ネコではない、怪物になる〟

〝なんなの、それ……〟

〝人間に危害を加える〟

〝人間に⁉〟

〝呪い殺すんだ〟

〝うそ……〟

 コジロウはじっとミニーを見つめた。

〝君には、僕らが森の生き物たちと話ができない理由が分かるかい?〟

 ミニーも、それを不思議に思っていた。

 ネズミを狩るトンビでさえ、獲物のネズミと心を通わせているように見える時があったのだ。

 森の生き物の輪に溶け込めない自分が悔しく思えることも多かった。

〝なぜ?〟

〝僕らが、人間の魂を背負っているからだ〟

〝たましい……?〟

〝森の生き物は、森で生まれて森で死んでいく。食ったり食われたりはするけれど、お互いに同じ森の生き物だから言葉が通じる。でも、人間は森を出て自分たちだけの世界を作ってしまった。自分たちの方から、森の動物と話をすることを拒んだ。そして人間は、森そのものを殺しはじめた。そんな連中の言葉は、森の生き物の言葉とはまるで違う。だから人間と暮らして彼らの言葉を覚えたネコに、森の生き物は冷たい。野蛮な破壊者の手先に見えるんだろう〟

〝どうしてそんなことを知ったの?〟

〝ここの暮らしが長いからね。本能って奴が目覚めてくれば、それぐらいは自然に理解できる。夏からずっと、この車に住んでいたんだ〟

〝それならいっそ、森の生き物になってしまえばいいのに……〟

〝君は今でも、飼い主を忘れていないだろう? 僕も、僕をいつも抱いてくれた女の子が忘れられない〟

〝でも、ケンさんは死んでしまった〟

〝それでも忘れていない。一緒にいれば分かる。ねえ、君の飼い主はどうして死んでしまったの?〟

 ミニーはもう、ケンの死を冷静に語れるようになっていた。

〝お父さんたちは、車に轢かれた……って言っていたけど。車の下敷きになると本当に死んでしまうの?〟

〝ネコの仲間だって、しょっちゅう車に殺されている。でも、それは事故だね。事故なら僕ほど苦しむ必要はない。忘れても責められない〟

〝あなたの女の子は車に轢かれたんじゃないの?〟

〝その女の子はね、学校という場所で先生っていう人たちや一緒に暮らしていた仲間にいじめられて、自分で命を絶ってしまったんだ。自殺……とか言っていたっけ。ネコにはとても考えられないことだけど、人間はつらいことがあるとそんなこともするらしい。死にたくなるほど、いじめられるだなんて……。とても優しくて強くて、僕を大切にしてくれた女の子だったのに……〟

〝名前は?〟

〝ケイコ。僕のケイコさんは、本当に……心の真っすぐな――人間にしておくのはもったいないほどの女の子だった……〟

 ミニーには、コジロウがケイコを誉めることがちょっぴり癪にさわった。それでも、最愛の理解者を失う苦痛は痛いほど分かる。

 しかもコジロウは、その理解者を誰かに奪われたらしい。

〝ケイコさんは、なぜそんなにいじめられたの?〟

〝僕にも全部が分かっているわけじゃない……。でも、先生たちがケイコさんを嫌っていた理由は知っている。ケイコさんは気持ちの強い人で、学校が決めた規則って奴が納得できないと、堂々と逆らったりしていた。制服って知ってる?〟

〝うん。ケンさんも、いつも黒い服を着ていた〟

〝ケイコさんはあれが嫌いで、自分で選んだ洋服を着ていったこともある。嫌いな勉強はやらなかったり、だめだって言われているお化粧をしていったりもした〟

〝なんで? ケンさんは学校に行く時、言われたことはちゃんとしていったよ〟

〝ケイコさんは、よく僕に言っていた。『先生がどうしてやっちゃいけないか筋を通して説明できない規則なんか、守りたくない』って。ちゃんと理屈が通った決まりなら、ケイコさんは絶対に破らなかった。それどころか、朝早く起きて通学路でゴミを拾ったり、他の生徒がやった落書きを消したり……。誰にも言われないのに、そんなこともしていた〟

〝不思議な人ね……。でも、ケイコさんの父さんや母さんは何も言わなかったの? ケンさんは、いつも勉強しなさいって怒鳴られていたけど……〟

〝そんなことなかったよ。父さんはいつも言っていた。『ケイコはケイコが生きたいように生きればいい』って。なんでも、長い間遠い国で働いていたことがあって、父さんもケイコさんが行っている中学校ってところが嫌いだったみたい。父さんはケイコさんに言っていた。『十三才を過ぎたらもう大人だ。何をするかしないかは、自分で決めればいい。自分の頭で考えて責任を持ってする行動なら、応援する』ってね〟

〝だったら、学校なんてやめてしまえばよかったのに……〟

〝でもケイコさんには、どうしても行きたい別の学校があったんだ。ピアノが大好きだったから、音楽を勉強したいんだって。そこに行くには、中学校はやめちゃいけないらしい。ネコにはよく分からないけど……〟

〝でも、先生って恐い人たちなんでしょう? そんな人とけんかをしたら、もっといじめられるんじゃなくて?〟

〝先生にぶたれることも、よくあったみたいだよ。でもケイコさんは平気だったみたい。それどころか、先生たちのことをかわいそうな人たちだって言ってた。『本当は自由に教えたいのに、どこかの偉い人たちが勝手に作った決まりに縛られて何もできないんだ』って。ケイコさんは、先生たちを哀れんでいたんだ。だから、余計に嫌われた。自分がケイコさんにバカにされていると思ったんだろうね。人間は大人になると、決まりきったことしかできない機械みたいにされてしまうらしい。誰がそんなことをするんだか分からないけど〟

〝じゃあ、ケイコさんはなぜ死んでしまったの?〟

〝先生たちなんかどうでもよかった。最初から無視していたんだから。でもケイコさんはきっと、同じ仲間からいじめられたことがつらかったんだ。先生から嫌われているケイコさんは、学校の仲間からも嫌われた。だってケイコさんと仲良くしていると、その子も先生から嫌われてしまうんだから。本当はみんな、ケイコさんが自由にふるまっていることがうらやましかったんだ。時々仲間が家に遊びにきて、みんなでケイコさんを誉めていたもの。『かっこいい』とか言って。でもその子たちだって口だけで、学校に行ったら先生と一緒にケイコさんを無視していたようだ。中には本気でケイコさんをいじめていた同級生もいる〟

 ミニーはようやくコジロウの考えを理解した。

〝あなた、ケイコさんをいじめた人に仕かえしをする気なのね?〟

 コジロウはうなずいた。

〝殺したい人間が、三人いる。二人は男、一人は女。その三人がよってたかってケイコさんをいじめた。僕は、その悔しさを噛みしめながら死を選んだケイコさんの魂を背負ってしまった。だから、何があってもそいつらを放っておくわけにいかない。やつらをケイコさんと同じように苦しめて、殺さなくちゃならない〟

〝殺すって……? そんなこと、できるの? わたしたち小さなネコが、大きくて力が強くていろんな機械を持っている人間を殺すだなんて……?〟

〝ネコには、人間を化かす力が備わっているから〟

〝化かす?〟

〝人間の心を気持ち良くさせたり、反対につらくさせたりする力さ。ほら、僕らの毛をなでて人間が気持ち良さそうにすることがあるだろう? あれは僕らの心地よさが、なでている人間にも伝わるからだ。逆に、僕らが嫌な気持ちの時は、人間もおびえたり恐がったりする。ネコ同士のように黙っていても気持ちが通じることはないけれど、習ってもいない人間の言葉が分かるのもその力のおかげさ〟

〝あなたにもあるの、そんな力?〟

〝あるはずだ。だけど、力の強さはみんな違う。僕に人間が殺せるかどうかは、やってみないと分からない。力が足りなければ、僕の方が死んでしまうかもしれない〟

〝それでも、やらなくちゃならないの? ケイコさんに頼まれたの?〟

〝僕が、そう決めたんだ。ケイコさんは、他人を傷つけることなんか喜ばない〟

〝それなのに……?〟

〝僕は、ケイコさんの優しさも裏切ることになる。そんなことは分かってる。だけど、あいつらは絶対に許せない。それなのに……僕は失敗してしまった。呪うどころか、逃げ出すのが精一杯だった……〟

〝どうしたの?〟

 コジロウはつらそうに眼を伏せた。

〝最初に女の家に行ったんだ。後先を考えずにね。でもそこには大きなイヌがいた。僕の方が襲いかかられて、大怪我をしてしまった〟

〝あ、あれ……〟

 キツネとの戦いの最中によみがえったコジロウの記憶は、今もミニーの頭に焼きついていた。イヌの牙で眼球をえぐられた痛みまではっきりと思い浮べることができる。

〝それで森へ逃げてきたの?〟

〝ほとんど意識がなくなっていたけれど、なんとかゴミ捨てのトラックに這い上がってね。行き先なんか分からなかった。でも、運よくこの森に連れてこられたんだ。それからずっと森で暮らし、体力が回復するのを待っていた。あいつらに仕かえしをする作戦を考えながら〟

〝じゃあわたしが来たのは、あなたには邪魔だったの……?〟

〝そんなことはない。僕だって淋しかった……。だから、人間の匂いをさせている君の後を追いかけていた。なかなか姿を現すふんぎりがつかななったけど、あのキツネのおかげで、こうして……〟

 ミニーは満足気にコジロウの耳をなめた。

〝ありがとう。あなたが来てくれなかったら、食べられていた〟

〝僕だって、淋しくて死んでいたかもしれない。どうしても乗り越えられなかった自分の弱さも打ち破ることができた。だからこそ、ケイコさんの復讐をあきらめることはできないんだ。お願いがある。君はここで待っていてくれないか? かならず帰ってくるから。約束するから〟

〝いや! イヌに殺されるかもしれないんでしょう? それなら一緒にいく〟

〝君まで殺したくない〟

〝わたしだって、あなただけを殺させたくない。傷が直ったって、片目は見えないんだから。そんな身体で街に戻るなんて無茶よ。でも、二人で力を合わせれば何とかなる。わたしも、もう狩りができるんだから〟

〝でも、イヌと戦ったことはある?〟

〝それはないけど……〟

〝とても恐いよ。キツネより大きくて強い奴らがいくらでもいる〟

〝キツネより……⁉〟

〝そう。とても恐ろしい連中だ〟

〝でも、あなたはキツネに勝ったじゃない。もうあなたの目を奪ったイヌにだって勝てるんじゃなくて?〟

〝戦い方は分かった。だからといって、勝てるとはかぎらない〟

 ミニーはイヌと戦ったコジロウの記憶を思い起した。自分があんな状況でコジロウを助けられるかどうか、自信はない。

 しかし今は、一人で森に残される恐怖の方が切実だった。

〝でも、イヌにはわたしたちの話は通じないの? 相手だって生き物だもの、じっくり話し合えば……〟

〝通じることは通じる。僕らと同じ、人間に飼われる身だからね。でも、ネコとイヌは正反対の生き物なんだ。あいつらの頭には、支配されるか支配するかのどちらかしかない。ネコのように自由な生き方は、不安なんだ。しかも飼われているイヌは、主人に絶対的に服従するように教え込まれる。僕らが主人を傷つけようとしていることを知れば、命を捨ててでも防ごうとするだろう。勝手気ままなネコとは、生き方が違う種族だ〟

 ミニーの気持ちは固まった。

〝それならなおさら一人では行かせられない。わたしも一緒に戦います。どんなに恐いイヌが相手でも……〟

 コジロウはじっとミニーを見つめた。

 ミニーの目の中には、動かしがたい決意が輝いている。

 コジロウはうなずいた。

〝ありがとう〟

 ミニーはコジロウに身を寄せた。

〝わたしだって、あなたに命を救われた女ですもの〟 

 ミニーは森に捨てられてから二週間後、野性に目ざめたネコとして、街へ戻る第一歩を踏み出した。

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