第二章・街へ
1
公園の片隅のゴミ置場に陣取ったミニーは、サンマの骨をゴミ袋の裂け目から引きだした。まだ身がたっぷりとついている。
コジロウは傍らで、人間や野良犬、カラス、そして他のネコが襲ってこないかを悠然と見張っていた。
その公園はかつて、コジロウが縄張りにしていた一角だった。コジロウの物腰には自分のすみかに舞い戻った自信が満ちあふれている。
サンマの骨をうれしそうに引きずるミニーは、公園のトイレの陰に駆け込んだ。
コジロウは改めて周囲を見回し、ミニーの傍に寄った。
ミニーは黒焦げのサンマで口をいっぱいにふくらませたまま言う。
〝やっぱりすごいね、街って。こんなおいしい物がいつでも食べられんだから!〟
コジロウは呆れたよう答える。
〝よく言うよ。泣き言ばかりだったくせに〟
〝わたし、何も言ってないよ!〟
〝ずっと泣きべそかいていたじゃないか〟
〝そりゃあ、つらかったもの……。でも、ここが目的地なんでしょう? わたし、やり遂げたのよね!〟
〝たしかに、よく頑張った。でも、君だって街に住んでいたんだろう? ゴミ捨て場に食べ物がいっぱい詰まっていることぐらいに驚かれちゃ、こっちの方が驚いちゃう〟
〝うん。でも、外のことは全然分かんなかったから、何を見ても不思議に思えるの。わたし、ケンさんの部屋から出ただけでお父さんに怒られてたでしょう。本当に、見るもの全部が始めてなんだ〟
ミニーと並んでサンマの骨をかじりながら、コジロウはうなずく。
〝それだもの、ネズミが食べられなくて当然だね。最初は、どうなることかとひやひやしていたんだぜ〟
〝ごめんね。心配ばかりかけて〟
〝いいんだ。こうやって、たどりつけたんだから。僕一人だったら、気力が続いたかどうか、はっきり言って分からない〟
ミニーは意外そうにコジロウを見つめた。
〝本当?〟
〝僕だって、つらかったんだ……。でも、ここまで来れば安心さ。このへんの地理は詳しいから。でも、いつも言ってることだけど、気をつけてね。ゴミ捨て場には食べ物がたくさんあるけど、それを狙ってくる敵も多い〟
〝でも、やっぱりすごいよ〟
〝僕は森の方が自由で好きだったけどね〟
ミニーは笑った。
〝今から帰ってもいいのよ。お腹がいっぱいになってから、だけど〟
〝ああ、仕事がすっかり終わったらね〟
予想どおりのコジロウの返事に、ミニーはまたくすりと笑った。
〝やっぱり復讐があきらめられないのね〟
〝そりゃそうさ。でなければ、なんのためにここまで来たんだ?〟
〝分かってるわよ。でもそれじゃあ、最初のお家はもう近いのね?〟
〝近い。これからが本当にたいへんな仕事になる〟
〝それも分かってる。でも『だから来るな』なんて言わないでね。わたしにだって、覚悟はあるんですから〟
コジロウはミニーをじっと見つめた。
ミニーの目には、たしかに強い意志があった。
そんなミニーのけなげな姿を見て、コジロウは言った。
〝君、本当に強くなったね……〟
〝そうかしら。わたし、ちっとも変わっていない気がするんだけど〟
〝自分の変化には、なかなか気がつかないものだ。君を助けているのは、きっとケンさんだ。『しっかり生きなくちゃいけないぞ』って〟
ミニーは少し哀しげな顔でうなずいた。
〝そうなのかな……〟
*
森の奥から街の中心への旅は、ミニーにとっては驚きの連続だった。
主人の部屋からいきなり森へ捨てられたミニーには、その間の道のりに関する知識が欠けている。森の小川をたどって最初に見かけた民家――ちょっとの風でも崩れそうに古びた農家を自分の家だと思い込んでしまったほど、世間知らずだったのだ。
実際には、そこからが本当に苦しい行程だった。
なにしろ、歩く距離が長かった。子供部屋が全世界だったミニーはすぐに息を切らせ、体力の不足に苦しめられた。それでもコジロウは辛抱強くミニーをエスコートし、休む先々で食料を調達しながら、ミニーの体力と野性を取り戻させていったのだ。
そのたびにミニーはすまなそうに言った。
〝ごめんね……足手まといで……〟
たしかにコジロウは先を急いでいた。
冬が来れば行動範囲は格段に狭められ、復讐の機会が減る。厳しい寒さを乗り切れる保証すらない。
それでもコジロウは、内心の焦りを表情に出さなかった。
疲れ果てたミニーがコジロウが捕まえたネズミを頬ばりながら詫びるたびに、優しく語りかけたのだった。
〝気にしなくていい。君の助けが必要なんだ〟
それは真実でもあった。
片目のコジロウにとって、死角をカバーする位置に仲間がいることはとても心強かったのだ。動くものを察知して警告してもらえるだけでも、危機を避ける可能性が格段に高まる。
しかも長い一人暮らしで気持ちが荒んだコジロウにとって、ミニーの出現は忘れかけていた潤いをもたらした。
それは、コジロウに生きる目的を与えた。ミニーさえいれば、復讐が終わった時に途方に暮れる心配はない。逆に今は、復讐にだけ専念することができる。
コジロウも、もう一人にはなりたくなかった。
少なくとも、街に着くまでは――。
人と戦うのは、容易ではない。一度は、犬に深手を負わされている。命を捨てる覚悟がなければ、近づくことさえできない。
同時に、もう一つの覚悟も決めていた。人間や犬たちの恐ろしさを身を持って知っているコジロウは、ミニーの身に危険が及びそうな時は、心を鬼にして別れるつもりだったのだ。飼い主の敵討ちは、もともと自分一人で行なう決心をしていたのだから。
かつて愛した者の無念を晴らすためとはいえ、その代償に愛し合う者の命を奪われることになったら、自分を許すことができない。
だが今はまだ、コジロウの心はミニーを求めていた。
川べりの農家から次の民家までは、長い砂利道をひたすら歩いた。何日もかかって歩き続けると道の両側に次第に民家があらわれ、雑草に覆われた荒れ放題の道も舗装道路に変わった。道路には歩道がつけられ、しだいに車の行き来も激しくなる。
それは、危険が増大することも意味していた。
ただでさえ、街には敵が多い。
放し飼いになっている犬たち、空から不意に襲いかかってくるカラス、そして縄張りを守ろうとする野良ネコ。なによりも恐ろしいのは、ネコ嫌いの人間だった。
それでもミニーはさまざまな危険を避ける方法を着実に学んでいった。二匹は協力して敵を撹乱し、餌を探し、進み続けた。
そうして一週間後、ようやくコジロウが見慣れた風景に出会うことができたのだ――。
*
そこに、しわがれた太い声が割り込んだ。
〝おい。おまえ、コジロウか?〟
ミニーははっと身をすくめて辺りを見回す。
〝誰⁉〟
コジロウは身をよじってトイレの屋根を見上げた。
〝ボスか?〟
屋根の縁からでっぷりと太った黒ネコが顔をのぞかせる。
黒ネコの目はミニーの白い毛に止まった。
〝ほう……きれいなねえちゃんじゃねえか。しばらく消えていたと思ったら、そんな彼女を見つけてきたのか?〟
コジロウは警戒した。
ネコの力関係はその場の状況で大きく変わる。一般的に、高い場所に陣取った方が圧倒的に有利になる。
かつて、常に些細な対立を繰り返していたボスとコジロウは、この公園のトイレの屋根を最高の陣地と考えていた。トイレの脇に植えられた街路樹をよじ登ると、そこから飛び移ることができるのだ。しかし彼らの他に、屋根まで木を登れるネコは縄張りの中にいない。つまりコジロウが街を空けていた間、そこはボスの指定席――縄張り一帯を監視する場所だったのだ。
しかしボスと呼ばれた黒ネコは、屋根から飛び降りる気配は見せなかった。
コジロウは逆立てた毛を収めて答えた。
〝この子は、不粋な野良には似合わない〟
〝ああ。てめえが生きてるうちは、ちょっかいをだす気はねえ。それでなくたって、女が多すぎて困ってるんだ〟
それは、重なる縄張りの中で勢力を張り合ったオスネコ同士の挨拶だった。
ボスは生まれついての野良で、体力で勝負する野性的なネコだった。その力にものをいわせて、長い間ボスの地位を維持してきた。対するコジロウは俊敏さと知力で彼の座を脅かしていた。しかしまったくタイプの違う二匹ではあったが、互いの存在を強く意識し、尊敬し合ってもいた。
ボスは言った。
〝だがよ、てめえになら似合うのか? たかがイヌころにかじられただけで逃げだしやがって。あれからどこにいやがった?〟
〝野良ネコのおまえには関係ない。それに、僕を笑いたいなら、あいつと戦ってからにしてくれ〟
〝俺はごめんだ。てめえみたいにお人好しじゃねえ。死んでまで飼い主に義理を立てやがって〟
〝バカで結構。やりたいことをやるまでだ〟
〝だが、そのねえちゃんは? まさか、おまえにくっついて仇討を手伝おうって気じゃねえだろうな?〟
コジロウとボスとの関係がぼんやりと分かってきたミニーは、落ち着きを取り戻して答えた。
〝わたしも、わたしのしたいことをするわ。口を挟まないで〟
ボスは笑った。
〝威勢のいいねえちゃんじゃないか! 気に入ったぜ〟
そしてボスは、トイレの屋根から飛び降りた。
身を引いたミニーに近寄り、くんくんと背中の匂いを嗅いでうなずく。
ミニーは言った。
〝何よ。何が言いたいのよ〟
〝やっぱり、あんたにも人間が取り憑いてるな。でなけりゃ、コジロウなんかにひっついてるはずはねえ〟
コジロウが静かに命じた。
〝ミニーに手を出すな〟
ボスはわずかに身を引く。そして初めて、えぐられたコジロウの片目に気づいた。
〝おまえ、目をどうした⁉〟
コジロウは言った。
〝イヌにやられたん。傷を治すのに時間がかかった〟
ボスはうめくように言った。
〝本当にバカな野郎だ……こんなにまでされて……。悪いことは言わねえ。もうあきらめろ。イヌだけが相手じゃねえんだろう? 野蛮な人間どもに逆らえば、ろくなことはねえぞ〟
〝人間みんなが野蛮なわけじゃない。それに、僕が死んだらここは君の天下だろう?〟
〝そりゃあそうだが、まともに張り合える相手がいなくなっちまったら面白くねえ。毎日退屈してたんだぜ、てめえが雲隠れしていた間〟
コジロウはわずかに身構えた。
〝今ここで、やり合おうって気か?〟
ボスはぺたりと座り込んで、顔を洗いはじめる。
〝とんでもねえ。これから大事な一戦があるんじゃ、手出しはできねえ。どうしても気が変わらねえんなら、心いくまで戦ってこいや。くたばったら、骨ぐらいは拾ってやる。そのねえちゃんも頂き、だがな〟
〝そう簡単にくたばってたまるか。今の僕は、ここを去った時の僕じゃない〟
〝ああ。俺ももう退屈はしたくねえ。かならず帰ってこいよ〟
ボスは芝生にころりと横になると、すぐに寝息をたてはじめた。
コジロウは笑った。
〝こいつ……相変わらずだな〟
ミニーがコジロウに身を寄せる。
〝お友達なの?〟
〝好敵手〟
〝でも、嫌な奴〟
〝そうでもないさ。ちょっとつき合えば君にも分かる。ねえ、もし僕に万一のことがあったら――〟
ミニーは反射的に叫んだ。
〝聞きたくない!〟
コジロウも引かなかった。
〝聞くんだ! もしものことがあったら、このボスに相談するんだぞ。きっと助けてくれるから〟
ボスは寝息をたてながらもつぶやいていた。
〝ああ、助けるとも。今度はイヌころなんぞにコケにされるんじゃねえぞ〟
コジロウはうなずいた。
〝だてに山にこもっていたわけじゃない〟
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