その家は、周囲を鉄の柵で囲まれていた。

 絶え間なく車が走りすぎる大きな通りに面した広い敷地に、大きな建物が建っている。通りの側からは、柵越しに芝生の庭と盛りを過ぎたバラの花壇が見通せる。

 建物の前の駐車場には六、七台の自動車やたくさんの自転車が停まっていた。建物の中からはかすかに子供の泣き声が聞こえる。

 建物に近づいたミニーは、伸びをして壁を引っかいてみた。

 コンクリートの冷たく硬い壁には、爪を食い込ませることはできなかった。

 ミニーはコジロウに尋ねた。

〝ここ、何だか変。こんな壁じゃ爪も研げないじゃない。普通のお家じゃないみたいね〟

 コジロウは建物の入り口を避け、路地に入って裏側の柵へと向かう。

〝歯医者なんだってさ〟

 ミニーはコジロウを追った。

〝はいしゃ……って、何?〟

 コジロウは意外そうに聞き返した。

〝君のケンさんは、歯医者に行ったことないの?〟

〝うん……。聞いたことないよ〟

〝人間はぜいたくな食べ物ばかり食べるから、すぐ歯が腐ってしまう。ここは、それを直す病院なんだ〟

〝ここにきている人、みんな病気なの?〟

〝そんなところだね。僕がやっつけたいのは、この歯医者の娘だ。病院の後ろがそいつの家になっていて、敷地をぐるっと囲んでいる柵をくぐれば庭に入れる〟

 裏手の柵のすぐ後ろは、びっしりと葉を茂らせた常緑樹の生け垣になっていた。人間の視点からは庭の中を見ることはできない。

 しかしネコにとっては、目の荒い柵も生け垣も存在しないも同然だった。だからその庭には、花壇を荒らされないために二重の警備がなされていた。

 コジロウはあらかじめ、ミニーにそれを警告している。

 その一つは、庭に張った針金につながれたボクサー犬だ。

 ボクサーの首輪からのびるチェーンは庭を横切って張られた針金に通され、そこを滑って自由に行き来できる仕組みになっている。その一方には家に接して置かれた丸太製の犬小屋がある。

 イヌは好きな時に小屋を出て、芝生で存分に運動ができるのだ。イヌの手が届かない場所は、庭の両端の細長いスペースだけだ。

 そのボクサーは、かつてコジロウの片目を奪ったイヌだった。

 コジロウは柵の間に身をくぐらせて庭に入った。

 ミニーが続く。

 ミニーは生け垣の下を這いながら、そこに〝食べ物〟が落ちていることを発見した。くんくんと匂いを嗅ぐ。

〝これが、あなたが言っていたお団子?〟

 コジロウはうなずいた。

〝毒入りの、ね。医者の主人が自分で作るらしい。自慢のバラや芝生をネズミや僕らネコたちに荒らされたくないんだろう。昔、仲間がそれを食べて、血を吐いて死んだことがある。カラスもしょっちゅう死んでいる〟

〝動物の命より花の方が大切なの?〟

〝ここの人間にとってはそうだ。ネコを嫌う人間はたくさんいるからね。人間の好き嫌いを責めることはできない〟

〝そんな……。だからって殺さなくたっていいのに……〟

 コジロウは庭の奥を覗き込んで様子をうかがった。

 イヌが歩き回っている気配はない。小屋で昼寝をしているようだ。

 コジロウはミニーに言った。

〝花壇を掘り返して糞をするような不作法な生き物は許せないのさ〟

〝それなら、ネコが入れないようのもっとちゃんとした柵を作ればいいのに〟

〝通りを行く人や車に、花壇を見せびらかしたいんだろう。『俺はこんなにすばらしい家に住んでいるんだぞ』ってね。そのことには別に腹は立たない。人間が何を自慢しようが、僕らには関係ないからね。僕が怒っているのは、自分が育てた娘が他人をいじめ殺しても知らんぷりしていることさ。見かけはきれいに飾っていても、ここに住んでいる人間の心は腐っている〟

 ミニーは毒団子を前脚でつついた。

〝これ……かじっても死なない?〟

〝飲み込まなければ大丈夫。イヌぐらい大きな生き物なら、一つぐらい食べても死なないと思う〟

〝なぜ分かるの?〟

 コジロウは哀しげに答えた。

〝毒で死んだカラスのはらわたを食っても、あの犬はぴんぴんしていたから。それに、人間はその団子を食べても死ななかった……〟

 ミニーはコジロウを見つめた。

〝人間……って?〟

〝……ケイコさんだよ〟

〝まさか⁉ ケイコさん、このお団子を食べたの⁉〟

〝この家の娘に無理やり食べさせられた。いつだったか、ひどい下痢をして何日も学校を休んだことがあってね。ここの娘が『お見舞いだ』といって家にやってきた……。僕はその時の話をすっかり聞いてしまったんだ……〟

〝食べさせたって、どうやって? 普通のお菓子だとか嘘をついて、ケイコさんを騙したの?〟

〝そうじゃない。学校の帰りに二人の男の仲間がケイコさんを押さえつけて、ここの娘が力づくで口に詰め込んだんだ。おかげでケイコさんは病気になった。娘はケイコさんが誰かに告げ口をするのを恐れた。だからお見舞いのふりをして、僕の家まで脅かしにきたんだ。あいつは平然と言ったよ。『親とか先生に言いつけたら、今度は十個食べさせてやる』ってね〟

〝そんな……。でも、その人たちは何でそんなにケイコさんをいじめたの? 死んでしまうかもしれないのに……〟

〝なぜ、ケイコさんを……かい? 僕もずっとそれを考えている。でも、分からない。ケイコさんは学校の成績は良くなかったみたいだけど、可愛くて、生き物みんなを優しくいたわってくれた。他人から嫌われる理由なんかないはずなんだ。家の人たちだって、みんな僕に親切だった。そりゃあ、こんなに立派なお屋敷に住んでいたわけじゃない。父さんも母さんも二人で働いて、それでも生活は苦しそうだった。でも、人に迷惑をかけたことなんかない。僕だって、家の人がまわりから嫌われないように、他の家には迷惑をかけないように気を使っていた。それでも、ケイコさんの家で暮らせて、僕は本当に幸せだった。なのに、ケイコさんが殺されそうになるほど嫌われるなんて……。僕には、人間の考えることが全然分からない〟

〝でも、なんで誰もケイコさんをいじめた人たちを止めなかったの?〟

〝いじめられていることを知らなかったんだ。父さんも、母さんも……。いや、うすうすは勘づいていたのかもしれない。ケイコさんが学校に行っている時に、母さんが父さんに『学校をやめさせたらどう』って聞いていたことがあったから〟

〝それで、父さんはどうしたの?〟

〝『ケイコの考えに任せよう』って答えていた。『自分の人生なんだから』って……〟

〝ケイコさんは、いじめられていたことをはっきり他の人に言わなかったのね?〟

〝そうみたいなんだ……。だからみんな、ケイコさんが自殺するまで何も手を打てなかった。あれほどひどいいじめがあったことを知らなかったらしい〟

〝どうして……? 言えば助けてもらえたかもしれないのに……。仕返しされるのが恐かったの?〟

〝そうじゃない……。学校の決まりを守らなかったケイコさんは、不良って呼ばれていたんだ。不良って、普通とは違う子って意味らしいよ。だから、不良のケイコさんの言うことは、もとから誰も信じなかった。例外は父さんと母さん――それから、ピアノの先生だけ。たとえいじめられたことを学校の先生に知らせても、信じてもらえたかどうか分からない〟

 ミニーには、学校を嫌いながらもそこに通い続けたケイコの気持ちがどうしても理解できなかった。ピアノが好きなことは分かっても、そのために命を危険にさらす価値があるとは思えない。

〝どうして学校をやめなかったんだろう……。やめるのが恐かったのかな?〟

〝逆だね。ケイコさんはね、『学校をやめるのは簡単だけど、逃げるみたいで悔しい。学校に立ち向かって、自分を貫き通したいんだ』って言っていた……。僕にもどういうことだかよく分からないんだけどさ。それにケイコさんには、好きな男の子がいたんだ。幼稚園の時からの友達でね。でもその子は、ここの娘たちと一緒になってケイコさんをいじめたんだ。だからケイコさんは、その子が叱られるのが嫌だったから、告げ口をできなかったんだ……〟

〝自分をいじめた子を、守ろうとしたの?〟

〝そうだ。本当にその子が好きだったからね。ケイコさんは、自分が我慢していればその子に迷惑がかからないんだと思って……〟

〝その男の子は、ケイコさんが好きじゃなかったの?〟

〝いや、好きだったはずだ。ずっと仲良しだったんだから。たとえ嫌いになったとしたって、みんなと一緒になっていじめることはない。なのにそいつは、なぜか悪い仲間に引きずられてケイコさんをいじめ続けた。だから僕は、その男の子をいちばん憎んでいる。悪いと分かっていながら好きな人をいじめるなんて、最低だ。ケイコさんの気持ちをふみにじるなんて、絶対に許せない〟

〝分かるわ。でも、何だかとても悲しい話……〟

〝悲しいより、腹が立つ。ケイコさんは誰にも本当のことを言わなかったけど、僕はいつも聞かされていたんだからね。ケイコさんは布団に入って泣きながら僕をなでて、その日にあったつらい出来事をみんな話してくれたんだ。僕が人間のことばをしゃべれれば、力になってあげられたんだけれど……〟

〝このお団子を食べさせられただけじゃないの?〟

〝そんなの、いつものことさ。ケイコさんの身体には年中アザができてた。理由もなくぶたれたりしてね。ケイコさんは母さんに、学校で転んだとか言い訳していたけど、僕は全部知っているんだ。誰がどうやってぶったか、僕は知っている。それどころか、みんなでここのイヌをけしかけて、わざとかじらせたことだってあるんだ〟

〝イヌを⁉ 恐い……〟

〝脅かされてお金を取られることもしょっちゅうだったよ。『たいした額じゃない』って言ってたけど……その意味は、よく分からない〟

 そもそもミニーは〝お金〟が何かを知らなかった。

〝おかね……? ときどき聞いたことがあるけど、それって何?〟

〝人間が何かを手に入れる時に交換に使う金属の塊のことさ。紙切れのこともあるけど。どっちも、とても大切なものらしい。でもケイコさんは、それをあいつらに取られていたんだ。『お金を出さないと犬をけしかけるぞ』ってね。この歯医者には、お金なんかたくさんあるはずなのに……。きっと、お金そのものが目的じゃないんだ。ケイコさんが好きだった男の子にお金を取らせて、二人の気持ちを引き裂きたかったんだと思う〟

〝ケイコさん、かわいそう〟

〝だから僕は、あいつらを許せない〟

〝わたしも許せないわ〟

 と、家の中から、ピアノの音が聞こえてきた。たとたどしく弾かれるピアノは、聞く者の神経をいらつかせる。

 コジロウは言った。

〝ここの娘だ。ケイコさんの先生だった若い家庭教師にピアノを習っているんだ。今も来ているようだね。いつまでたっても巧くならないって、ボスが言っていたことがある。本当だね。ケイコさんのピアノと比べたら、野ネズミとミミズぐらい違う……〟

 そしてコジロウは、ミニーに自分の計画を教えた。

 ミニーはうなずいた。

〝恐いけど、やってみる。でも、あなたは大丈夫なの? あのイヌ、あなたに大怪我をさせたんでしょう?〟

〝あの時は、やみくもに突っ込んでいったからね。でも、今日は違う。この庭の様子はすっかり知っている。イヌが動ける範囲にさえ入らなければ奴は手出しできない。キツネと戦ってやっつけ方も分かったしね〟

〝でも、片目じゃ……〟

 ミニーは、片目のコジロウの遠近感が狂っていることを知っていた。ネズミを捕らえるぐらいのことなら勘でカバーできても、イヌとの戦いになれば危険が増す。

 コジロウはうなずいた。

〝たしかに不利だ。でも今は、その代わりに君がいる。イヌは僕が引きつけておくから、安全な間に仕事をすませてくれればいい。僕は一人じゃないんだからね。でも、恐ければ無理をしなくてもいいんだよ。これは君の復讐じゃないんだ〟

〝そんな悲しいことを言わないで! わたしだって、一生懸命やってきたのよ!〟

〝そうだったね。ありがとう。でも、本当に危険だと思ったら、僕を置いて逃げるんだよ。後は、ボスが面倒を見てくれるから〟

 ミニーはうなずいた。

〝わたし、がんばる。あなたをがっかりさせたりしない〟

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