3
ミニーは毒入りの団子を目の前に置きながら、じっと飛び出す瞬間を待ち構えた。
そのすぐ先には頑丈そうな犬小屋があり、新しい餌が皿に盛られている。イヌの寝息もかすかに聞こえてくる。
〝でも、やっぱり……少し恐いな……〟
ミニーにとってイヌとの争いは初めてだ。それがコジロウに深手を与えてを森に追い払った相手だとなれば、なおさら恐怖は高まる。
と、庭の反対側からコジロウの鳴き声が聞こえた。
コジロウはイヌを挑発しているのだ。
〝この間抜けイヌ! 人間の手先のぼんくら野郎! 出てこい!〟
じゃら……っと、太い鎖が音をたてた。イヌが小屋の中で目を覚ましたのだ。
ミニーの腰が反射的に引ける。
必死に自分に言い聞かせた。
〝だめ! 逃げちゃだめ! 鎖があるのよ! あいつは絶対にここまで来られないんだから!〟
真っ黒いイヌが小屋から姿を現す。
それは、ミニーが想像していたよりはるかに大きかった。そのイヌの牙で目をえぐらえたコジロウの記憶が生々しくよみがえる。
〝うそ……⁉ こいつ、怪物⁉〟
コジロウは素早く庭の中央に走り出て叫んだ。
〝ぼけイヌめ! 僕を捕まえてみろ!〟
ミニーはイヌの怒りを感じ取った。
イヌが発した言葉が理解できた。
〝貴様、懲りずにまた来たのか! 今度は食い殺してやる!〟
鎖がじゃらじゃらと激しく鳴る。イヌがだっと飛び出すと、鎖の端が引っ張られて針金のレールを滑っていく。
イヌは一瞬でミニーの目の前を通り過ぎた。
〝今よ! 行かなくちゃ!〟
ミニーは、自分がやるべきことを承知していた。しかし、すくんだ身体が思い通りに動かせない。
〝行くのよ!〟
気持ちが焦れば焦るほど、身体が硬直していく。
見ると、コジロウはイヌに追われながら庭の端へ走っていく。芝生を蹴ってイヌがはねた瞬間、ビンというような音がしてイヌをつなぐ針金が激しく振動した。
イヌは後ろ足で立ち上がり、ぴょんぴょんとはね跳びながら不気味なうなり声をたてている。
鎖が張り切ってそこから先には進めないのだ。
コジロウは安全圏に逃げ切っている。
〝バカイヌめ! 悔しかったらここまで来てみろ!〟
イヌはついに吠えた。
〝殺してやる!〟
ミニーはその狂暴な吠え声におびえた。
コジロウの計画を実行するには、イヌの行動範囲に入らなくてはならない。気づかれずにそこまで進むのは難しい。イヌが同じ速さで戻ってくれば、食い殺されるのは自分かもしれないのだ。
〝いや……〟
でも、やらなければコジロウの望みは果たせない。ケイコは浮かばれない。コジロウに無念を語って自ら命を絶った娘の魂は、コジロウから離れられない。
それは、コジロウがいつまでたっても普通のネコには戻れないことを意味した。
コジロウは命がけで犬の注意を引きつけている。素早く動けば、危険はないのだ。
〝やるのよ!〟
ミニーは気力を振り絞って、毒団子をくわえた。なえた足を引きずるようにして、犬小屋の前の皿に向かう。
皿の中に団子を置いて来さえすればいいのだ。
〝簡単なことよ……簡単な……〟
ミニーは腹を芝生にこすりつけるような体勢で這い進んだ。
と、家の窓がいきなり開いて、中から少女の金切り声が聞こえた。
「ダンディー! 静かにしなさい! レッスンの邪魔よ! こんな時に、本当に馬鹿イヌなんだから!」
男の投げやりな小声が続く。
「そんなに叱ることはない。調子が出ないようだから、今日はここまでにしようか」
と、少女は急にネコなで声を出した。
「先生待って。今、ケーキとお紅茶を持ってきますから」
男の返事には、深い落胆がこめられている。
「そんなことより、もっと真面目に練習してほしいね。時間は充分にあったはずだよ。全然上達していないじゃないか。君には恵子君の代わりを努めてもらわなくちゃならないんだから。しっかりしてくれたまえ」
「先生! 自殺なんかするような弱い人間と比べないでください。私は不良の恵子と違って、ピアノの他にもたくさん勉強しなくちゃいけないんですから」
「それは分かる。でも、未熟さの言い訳にはならない」
「だって、ママが塾にも行きなさいってうるさいんだもの! 恵子なんか、いつも居残り授業を受けていたんですよ! 規則だって守らないし、勉強もできなくてもいいなら、私だって――」
家庭教師の忍耐力が限界に近づいていることが声に表れた。
「それでも恵子君は、ピアノに真剣だった。いや、音楽を心から楽しんでいた。君のように、お嬢さんの暇つぶしで鍵盤に触れていたわけじゃない」
男の怒りを感じとった娘は、逆に腹立ちをあらわにする。
「失礼ね! 暇つぶしなんかじゃありません!」
「それなら、履歴書に箔をつけるための花嫁修業かい? とにかく、僕は甘ったれたお遊びにはつき合っていられない。今度の発表会には、うちの教室の評価がかかっている。僕だってこんなことは言いたくないが、あまり不様な演奏をされて他のみんなの足を引っ張られては迷惑だ。みんなはそれこそ必死で頑張ってきているんだからね」
「お願い! チャンスをください! もう少し時間があれば、きっと上手になってみせます。恵子なんか、すぐに追い越しますから。ね、だから、もっとたくさん教えてね」
男のため息が聞こえる。
「君にはもっとはっきり言わなければ理解できないのかもしれないね」
「どういうこと……?」
「君と恵子さんには、誰がみてもはっきりした才能の違いがあるんだ」
「うそよ! 私だって、恵子みたいに勉強もしないでピアノばかり練習していれば、あれぐらい弾けるようになるわよ! あんな不良にだってできることなんだから!」
「君には才能の意味が分かっていない。恵子さんはピアノを愛していた。ピアノを弾くことを心から楽しんでいた。だから、私でさえかなわないセンスを発揮できたんだ。それに、彼女は自分がやりたいことを知っていて、それを守り通そうとしただけだ。彼女は不良なんかではなく、強い意志を持った大人だった。校則を守らないだけで不良のレッテルを張りつけるのは見当違いだ。本当に心が歪んだ人間なら、あれほど真剣に音楽に取り組みはしない」
「私は違うって言うんですか⁉ 私だってピアノが好きよ。精一杯真剣に取り組んでいます!」
「君が愛しているのは、ステージで喝采を浴びることだろう? 音楽そのものは、君にとっては手段でしかない。そんな底の浅い考えは、どんなに技術が上達してもかならずボロをだす。決して人を感動させはしない。だから君は、自分と恵子さんの演奏の違いにも気づけないんだ」
「だって、私がスポットライトを浴びるのがパパの願いなんですもの。私はパパを喜ばせたいのよ。だからパパは、あなたの教室に大金を寄付したんじゃない!」
「そりゃあ僕だって寄付は欲しい。でも僕も、かつては本気でピアニストを志した男だ。残念なことに恵子君ほどの才能には恵まれなかったが、それでも君にピアノを弾く資格がないことは見抜ける」
「そんなひどいことを言わないでください! お願い、私をステージに立たせて! もう少し時間をください! どんなことでも頑張ってやりますから!」
「そうは言っても、その時間が少ない。気力だけではセンスは磨かれないからね……。君にはまだステージは早すぎるんだ。君の演奏は来年にのばした方がいいだろう。それまでやる気が持続すれば、だがね……。悪いが、お父さまと相談させて頂くよ」
「そんな……」
その間も、ダンディーと呼ばれたイヌは植込みの陰からうなるコジロウに向かって吠え続けていた。
娘は再び窓から顔を出した。苛立ちを叩きつけるように叫ぶ。
「黙れ、このクソイヌ! ギャンギャンって、うるせえんだよ! 叩き殺すぞ!」
興奮しきったイヌの耳に、ようやく少女の声が届いた。吠え声が止まる。
そしてイヌは振り返った。
コジロウの叫びが聞こえる。
〝ばか! そっちじゃない! 僕を見ろ! うすのろめ!〟
ミニーはちょうど皿に二個目の毒団子を入れたところだった。犬小屋が作る死角に入るため、家の窓から娘に姿を見られる心配はなかった。
だが、イヌはミニーを発見していた。
コジロウが叫んだ。
〝ミニー! 逃げろ!〟
ミニーはイヌを見た。
イヌは狂暴そうな牙をむきだして、自分に向かって突進してくる。
〝うそ……〟
ミニーは動けなかった。
走りながら飛び上がった黒い巨体がミニーにのしかかる。
〝いや! やめて!〟
イヌの熱い息と牙がミニーの喉に触れる。
同時に、少女が窓から叫ぶ。
「ダンディー! うるさいってば!」
そして少女は、何かをイヌに投げつけた。
イヌの背中に当たって芝生に落ちたのはピアノの教則本だった。
我に返ったイヌは牙をミニーから離し、その場に座った。
ミニーは腰が抜けたまま動けなかった。
少女がイヌに向かって苛立ちをあらわにする。
「あんたがうるさいから、先生、帰っちゃったじゃないさ! あんたが吠えなけりゃ、私だってもっと上手に弾けたんだよ! 今年の発表会に出られなくなったら、あんたのせいだからね!」
少女は乱暴に窓を閉めた。
と、イヌは再びうなった。倒れたミニーに食らいつこうとする。
その瞬間、コジロウがミニーと犬の間に飛び込んだ。
コジロウは素早く身をひるがえし、その勢いで犬の鼻の先をおもいきり引っかく。
キャイン!
イヌはとたんに悲鳴をあげた。爆発寸前だった狂暴さが、一瞬で恐怖に変わる。
コジロウはさらに前に出て前脚を振った。その爪が今度もイヌの鼻を切り裂く。
〝うすのろめ! おまえらの弱点はお見通しなんだよ! こっちは野性のキツネと戦ってきたんだ!〟
イヌはたじろぎ、尻を芝生につけたままあとずさった。
〝もう一発お見舞いしてやろうか!〟
イヌがひるんだのを確認したコジロウは、ミニーの首筋をかんだ。
〝起きろ! 走れ!〟
ミニーはうなずき、震える足で立ち上がった。コジロウに守られながら、よろよろと生け垣に向かう。
が、戦意を失ったイヌは、それ以上二匹を追おうとはしなかった。
一時間後、餌の皿を空にしたイヌは口から泡を吹いて気を失った。
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