コジロウが撃退したボクサーは、うろたえた母親に獣医に連れていかれた。

 その間にコジロウたちは家の基礎をじっくりと調べ、床下に通じる通気孔を見つけだした。そして、子供部屋の床下に陣取る準備を整えた。

 イヌは傷を消毒されたうえに胃を洗浄され、その日のうちに帰ってきた。

 が、それ以後、コジロウの姿を見ても二度と吠えなかった。それどころか、尻尾を股に挟んでこそこそと逃げ去るのだ。

 コジロウに反撃されたことよりも、病院でのつらい体験がこたえていたようだった。

 コジロウはイヌに厳しく命じた。

〝今度襲ってきたら、死ぬほど毒団子を食わせるぞ〟

 それは、イヌの主人がケイコに言ったことの繰り返しだった。

 イヌは、コジロウの配下になったのだ。 


          *


 夜――。

 床下に入り込んだコジロウは、小声でつぶやいた。

〝ここまで来れば僕の力があいつに届く。あいつがケイコさんにしてきたことを、残らず思い出させてやる〟

 ミニーはコジロウがやろうとしていることを正確には理解していなかった。

〝何をするの? 大きくて強い人間を相手に、何ができるの? しかも、こんなに離れた場所から……〟

〝あいつの夢に入りこむ。ネコが見る夢は、人間の頭にも侵入できるんだ。あいつが夢を見はじめたら、その夢の中に僕が化けて出てやる。そうして、かじったり、殴ったり、毒団子を食わせてやる。あのばかイヌのみたいに、顔じゅう思い切り引っかいてやったっていい〟

〝そんなことで呪いになるの?〟

〝あいつはきっと恐くて眠れなくなる。ケイコさんはあいつがやったことが恐くて死んでしまったんだよ。同じ目にあえば、あいつだってその苦しみが分かる。そして、夢を見たくなくなる。つまり、眠りたくなくなるのさ。それが呪いだ。あいつは、自分がケイコさんにやったのと同じことを見せられて苦しむんだ。あいつを追い詰めるのはあいつ自身だ。自分自身の醜さに苦しむんだ。眠れなくなったら、こっちのものだ。眠りたくなくたって、動物は眠らなければならない。だんだん意識がぼんやりしてきて現実と夢の区別がつかなくなる。きっと本当に化けネコに襲われたような気になってくるだろう。本人にしか見えない亡霊の出来上がりだ。だけどその実態は、あいつ自身の歪んだ心なんだ〟

 ミニーはつぶやいた。

〝何だか、かわいそう……〟

 コジロウは怒ったように言った。

〝かわいそうなもんか! あいつは自分の手で、実際にそうやってケイコさんを苦しめたんだ! 同じことしてやるといったって、僕にできるのは夢を見せることだけじゃないか。あいつは、自分自身の醜さに向き合うだけだ〟

〝でも……〟

 コジロウには、ミニーの気持ちも分かっていた。

 ネコは本来、そのような〝暴力〟に精神力を使うのが好きなわけではない。人に夢を見させるネコの力は、飼い主と幸せを分かち合うために備わっているのだ。

 コジロウは、ケイコに抱かれて眠った日々を思い起した。

 ケイコの長くしなやかな指先が背中の毛をなでる時、コジロウの心はとろけそうに暖かくなった。ケイコの心の中が読み取れたわけではないが、あの時はケイコも同じように幸せだったと信じている。自分は、ほんの一時でもケイコに幸せを与えることができたのだと信じている。

 悔しくてたまらないのは、自分の精神力がもっと強ければケイコの心をいやせたかもしれないと思えることだった。もしそうなら、ケイコはいじめに敗けないで今も元気でピアノを弾いていたかもしれない。

 コジロウは哀しげに言った。

〝僕だって、こんなことが好きなわけじゃない。できることなら、ケイコさんと一緒にずっと幸せに暮らしていたかった。いや、そうできるはずだったんだ。僕たちの幸せを邪魔したのはあいつの方だ。これぐらいの仕返しをしたって当然だろう?〟

〝うん……〟

〝ねえ、君は今から手を引いたっていいんだよ。ボスのところへ行きなよ。野良ネコで生きていく方法をちゃんと教えてくれるから。誰か新しい飼い主を見つけたっていい〟

 ミニーはおびえたように言った。

〝わたしが嫌いになった? あの子がかわいそうだ……なんて言ったから?〟

〝とんでもない。君の優しさだ好きだから言っているんだ。僕はこれから、化けネコになって人間を呪う。それはきっと、僕の心も変える。復讐が終わったら、僕はきっと元の僕とは違ったネコになる。元には戻れないだろう。僕は、それでもいい。でも、君には復讐にネコの力を使うところなんか見られたくない。化けネコになってしまった僕を見られたくない。君が大好きだから……〟

 ミニーはコジロウに寄りそって言った。

〝お願い。それなら、山に帰って――〟

 コジロウはミニーの言葉をさえぎった。

〝もうその話はすんだ。これ以上僕の決心をぐらつかせないでくれ。できれば、ここでの仕事が終わるまで僕から離れていてほしい〟

 しかしミニーは、うなずかなかった。

〝分かったわ……。あなたがそこまで考えているなら、もう止めません。でも、わたしもあなたから離れない。あなたが化けネコになるなら、わたしもなります〟

〝君にはそんなことはさせたくない! だから……本当はこんなところまで連れてきたくなかったんだ……。僕の望みを分かってくれるなら、お願いだからボスのところへ行って、ネコらしい暮らしを――〟

〝わたしだってあなたが大好き! 一緒に化けネコにさせて!〟

 コジロウはじっとミニーを見つめた。

〝僕は変わるよ。きっと、醜く変わってしまうよ〟

〝変わってもいい! あなたと一緒なら〟

〝だめだ〟

〝やだ!〟

 コジロウはしばらく口をつぐんでから、重苦しいため息を漏らした。

〝前に言ったよね、人間を呪うために僕は怪物になるって〟

〝私も一緒になる!〟

 コジロウは、穏やかに言った。

〝でもそれは、ネコがやっていいことじゃない。本当のネコの生き方とは反対の、自然の決まりに反することだ。だからきっと、僕には罰が下る。もしも僕の願いが叶ってみんなを呪い殺せても、僕自身はきっと死ぬことになる。そんな気がするんだ……〟

〝それなのに……?〟

〝僕は死んでもいい。ケイコさんの仇が打てるなら、どんな罰だって受ける。でも、君まで死ぬことになったら、僕は自分が許せない……〟

〝ケンさんだって、死んでしまった。あなたがいなかったら、私もあの森でとっくに死んでいた。あなたが死ぬなら、私だって生きていたくない。お願い、一緒に怪物にならせて。一緒に罰を受けさせて……〟

 ミニーは、思い詰めた目でコジロウを見つめた。

 コジロウも、じっとミニーを見返した。そして、ミニーの鼻をなめた。

〝僕らだって、きっと怖い思いをするよ〟

〝頑張るから。足手まといにならないように〟

〝わからず屋〟

 ミニーは少し笑った。

〝がんこ者〟

 そしてコジロウは眠った。

 眠りながら、ケイコから聞かされてきたつらい話を、一つ一つ思い出していった。


―――――――――――――――――――――――――――――― 無理やり口を開かれて、舌の上に押し込まれる泥だらけの毒団子。

 給食のシチューに入れられていたカエルの死骸。

 いつの間にか折られていた筆箱のシャープペンシル。

 教師の目を盗んで廊下の片隅で行なわれた殴打。

 体育の授業中に盗まれたスカート……

――――――――――――――――――――――――――――――


 ケイコが語ったいじめの現場は、コジロウの夢の中でデフォルメされた映像に変わっていく。


―――――――――――――――――――――――――――――― 毒団子は無数の手足を生やした不気味な昆虫の固まりに変わる。

 カエルの死骸ははらわたを飛び出させたままシチューからはね上がって顔に張りつく。

 折れたペンは先端を先にして眼球に突き刺さる。

 平手打ちを受けた皮膚は切り裂かれて鮮血を吹き出す。

 洋服は切り裂かれて、傷だらけになった裸体をクラスメートが笑いながら眺める。

 そして最後には、決まって赤い目をぎらつかせた巨大な化けネコが喉元に爪を立てて頚動脈を切り裂く……

――――――――――――――――――――――――――――――



 その〝夢〟は、コジロウの頭からゆらゆらと立ち昇って家の床を通り抜け、子供部屋のベッドへと入り込んでいく。そして、ピアノ発表会で喝采を浴びている自分を見ていた少女の夢に溶け込んでいった。

 コジロウは、夢を見ながらぴくり、ぴくりと震えた。

〝僕のケイコさん……。かわいそうなケイコさん……〟

 夢を見ながらコジロウは、自分を呪った。

 コジロウは夢の中で、そのケイコが受けた身体と心の傷をもう一度隅々まで掘り起こさなければならなかったのだ。同時に、すべてをケイコから聞かされながら、結局は助けることができなかった無力感がよみがえる。

 夢でケイコの苦痛を追体験することは、コジロウにとって悲しすぎる試練だった。

 コジロウが、また震える。

 そして、やり場のない怒りと絶望感をはらんだうめき声がもれる。

 そのコジロウに寄りそったミニーは、つぶやいた。

 目を閉じたミニーもまた、コジロウの夢の断片を垣間見ながら、その凄惨な光景にじっと耐えていたのだ。

〝かわいそうなコジロウ……かわいそうなケイコさん……人間って、なんて悲しいことばかりするんだろう……〟

 そしてミニーは、意志の力を振り絞って、眠った。

 コジロウの夢のすべては、ミニーの夢になって共有されることになった。

 ミニーは夢でつぶやいた。

〝みんな、悲しいよ……どうしてこんなに傷つけ合うの? どうして仲良く暮らせないの……?〟

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