5
五日後、歯医者の娘は学校を休んだ。
一週間後、娘は一切部屋から出なくなった。
十日後、子供部屋には頻繁に精神科医が出入りするようになった。
十二日後、歯医者の玄関には長期休業の貼り紙が出された。
半月後、インチキ霊媒師が子供部屋に入り、歯医者は一千万円もする『魔よけの壷』を買うことになった。
そしてミニーとコジロウは、床下で痩せ細っていた。
餌はボクサーの皿から失敬して、充分に足りていた。しかし〝夢〟を見続けるつらい作業は二匹の精神力を極限まで使い果させていたのだ。
二匹が限界を自覚したその日、彼らの耳に子供部屋での会話が聞こえてきた。
父親が気も狂わんばかりの口調で訴える。
「美紗……おまえはいったいどうしてしまったんだ……? みんながこんなに心配しているというのに、いつまでたっても化けネコが出るだなんて……。お父さんはこれ以上何をすればいいんだ……」
少女の声には生彩がなく、他人に八つ当りする攻撃性さえも姿を消している。
「恐い……恐いよ……」
母親の声。
「精神科の先生もおっしゃっていたわ。学校のことは気にしないで、何か熱中できるものを探しなさいって。ねえ美紗ちゃん、またピアノでもはじめたら――」
少女は突然叫んだ。
「ピアノ⁉ いやよ! ピアノなんて絶対いや! 発表会なんていや! そんなことをしたら本当に呪い殺されちゃう!」
父親のうろたえた声。
「呪うだと? 馬鹿なことを言うんじゃない。おまえみたいに優しくて可愛い娘を、いったい誰が呪ったりするというんだ。そんな奴がいるなら、わたしが放ってはおかん! 捜し出して、叩き殺してやる!」
「パパ……恐いよ……恐いよ……」
「そうだ美紗、パパに甘えなさい。そうやって思いっきりパパに抱きついて、嫌なことは全部忘れるんだ。そうして、早く元のおまえに戻っておくれ。元気で明るい美紗に戻っておくれ。だから今は、ゆっくりと休むんだ。そうそう、横になって……こら、起きるんじゃないって!」
「でもネコが……眠ったらネコが……ネコが私を襲うのよ……恐いよ……あんなことされたくないよ……私は嫌だよ……恵子みたいになりたくないよ……」
母親は初めて娘の口から出た『恵子』という名前に敏感に反応した。
「恵子さん? もしかして、しばらく前に学校で自殺した同級生のこと?」
「恐いよ……ネコが、私を自殺させようとしているんだよ……」
父親も少女の言葉の重要さに気づいたようだった。
「恵子って誰なんだ? そいつがおまえに何かしたのか?」
「恵子がいじめる……ネコを使っていじめる……恵子のネコが……」
母親が娘に代わって答える。
「ほら、学校の四階から飛び降りたっていう子。自殺の原因はいじめじゃないかって噂になったけど、遺書も何もなかったから結局ウヤムヤになってしまって。決まりも何も守らない不良だったそうよ。あなたが学会に行っている間に、警察の方がうちにも事情を聞きにきたわ」
「知らなかったな……」
「あら嫌だ、ちゃんとお話しましたよ」
「そうか……?」
「恐いよ……ネコが来るよ……」
「でも、あの恵子さんが何か関係しているのかしら」
「馬鹿なことを言うんじゃない。死んだ人間が幽霊になったとでも? 大体、うちの娘に限って幽霊のいやがらせなんかにあうはずがないじゃないか。こんなに明るくて思いやりがあって……学級委員にだっていつも推薦されているんだろう? 誰が美紗を嫌ったりする? 死んだのは不良なんだろう? 素直で優しいうちの子が、そんな生徒と関係しているはずがないじゃないか」
「でも、霊媒師の方は強い悪霊が取り憑いているって……」
「それならあの壷で追い払えるんじゃないのか? 娘が一向に良くならんのは、壷で撃退できるような相手じゃないからだろう。そもそも私は、あんなものはインチキだと思ってるが……」
「恐いよ……もうネコは嫌だよ……死にたくないよ……」
「あ。そういえば恵子さんって、ピアノの発表会に出るはずだったのよね。あの子が自殺してしまったんで、一人空きができて、この子がメンバーに入ったんだわ……」
「いや! ピアノなんかいやよ!」
「おい、起きるんじゃないってば。パパに任せて、おまえは寝ているんだ。おまえは何も心配しないんでいいんだからね。おい、母さん、ピアノの話はやめなさい」
「でも……。それが原因で恵子さんの怨念が取り憑いたんだったら……」
「美紗がメンバーに入ったのは、私が寄付をしたからだろう? 他の歯医者には赤字で苦しんでいるところも多い。だがうちには親の遺産がある。あれぐらいの寄付は何でもないし、お前が欲しいと言ったわけの分からん壷も買える。できることは全部やってるじゃないか」
「恵子さんは寄付する前に自殺してます」
「じゃあ、なおさら恨まれる筋合いなんかないじゃないか。私たちが恵子とかいう娘を殺したわけじゃあるまいし」
「でも、何か関係はあるんじゃなくて? この子、恵子さんにおびえているみたいですもの……」
娘がうめく。
「恐いよ……恵子が恐いよ……」
「うむ……たしかに何か関係はありそうだな。恵子という不良娘は、美紗に何かをしていたのか?」
「うちの子がいじめられていた、と? じゃあ、こっちが被害者? 相手は名うての不良ですから、もしかしたらそんなこともあったのかもしれませんけどね……。でも、それならどうして恵子さんは自殺なんかしたんでしょうね……?」
「私にそんなことが分かるか」
「恵子が来る……化けネコが来るよ……」
父親の頭の中で、ケイコと化けネコがはっきりと結びついた。
「母さん、恵子という娘のうちにはネコはいるのか?」
「知りませんよ、そんなこと……」
「調べるんだ。もしいるなら、買い取って殺してしまえ。いくら金をかけたっていい。それで娘も安心できるんじゃないのか?」
「そんな……いくら娘のためでも、ご近所に知られたらどんな陰口を叩かれるか。それでなくても、うちの暮らしをうらやんで、ありもしない噂を立てられて困っているんですから」
と、不意に娘が正気に戻ったような口調でつぶやいた。
「ごめんね……」
父親が聞き返す。
「うん? どうした? 何か言ったか?」
だが、娘はその言葉に反応しない。
「恵子……ごめんね……」
母親が、その弱々しい言葉に耳を澄ませる。
「あら、この子何を言っているのかしら?」
娘はつぶやき続ける。
「いや……毒団子はいや……食べさせないで……」
父親も首を傾げる。
「毒団子……って、私が庭に仕方たネコよけか?」
「ごめんね……あなたにむりやり食べさせたりして……謝るから……お願い……私には……食べさせないで……」
娘の両親は、その言葉の意味に思い当たって言葉を失った。
父親がつぶやく。
「この子がいじめを……?」
「もういじめないから……許して、恵子……私が悪かったわ……いや……同じことをしないで……謝るから……あんなひどいこと、私にしないで……」
母親がうめく。
「この子が……? 何でそんなことを……?」
娘が叫ぶ。
「いや! カエルなんていや! 私は食べたくない! いや!」
そして不意に両手で顔を覆う。
「目に刺さないで! 怖い! 痛い! いや! そんなことしないで! たすけて! 私がやったことは謝るから……」
母親はぺったりと座り込んだ。
「そんなことをしたの……? なぜ……?」
「ごめんね、恵子……恐かったのね……私も恐い……だから、助けて……もう許して……ネコを来させないで……」
床下では、コジロウとミニーが耳をそばだてていた。
二人は立ち上がる気力もなかったが、自分たちの夢がケイコの恐怖を伝えたことに満足していた。
コジロウがつぶやいた。
〝許すものか。おまえが死ぬまで呪ってやる。僕を金で買って殺すだなんて……〟
ミニーはうなずいた。
〝あなたがそうしたいなら、わたしも……。でも、人間ってとても奇妙な生き物なのね。両親からあんなに大事にされている子が、ケイコさんにはあんなにひどいことができただなんて……〟
と、コジロウは不意に身を起こした。ぴんと耳をたてて辺りを見回す。
〝何⁉〟
ミニーもその異変を感じた。
どこからか、か弱い言葉が聞こえてきたのだ。
〝コジロウ――〟
それは、ケイコの霊だった。
〝ケイコさん!〟
〝コジロウ……。ごめんなさいね、あなたにこんなつらいことをさせてしまって〟
コジロウの目が、不意に潤む。
〝ケイコさん……うれしいよ……声が聞けるなんて……〟
〝私もあなたの気持ちがうれしかったわ。でも、もう復讐なんてやめにして。私は死んでしまったんですもの。もう、いじめられることもないんですもの。だから、こんなかわいそうなことはもうやめて。美紗を許して。みんなを許してあげて……〟
〝でも……〟
〝私、つらいの。私が味わった悲しさを他の人に与えるのは、もう嫌。あんなこと、誰だって嫌なんだから。本当に、苦しかった……。つらくて、つらくて、どうしていいのか分からなかった……〟
〝知ってる! ケイコさんが苦しんでいたことを、僕は知ってる! だから、やめられない! あいつらを、許せない!〟
〝私も悔しかった。だから……今まではたしかに仕返しを望んでいたわ。だから……あなたを止めようとはしなかった。でも、今、やっと分かった。美紗だっていじめられる立場になれば死にたくなるんだって。あなたがちょっと脅かしただけで、あんなに怖いんだって〟
〝そんなの、当たり前じゃないか! 僕は夢を見せただけだ! あいつはもっとひどいことをケイコさんにしてきたんだ。笑いながら、ケイコさんをいじめたんでしょう⁉ なのに、自分がいじめられるのは怖いなんて、勝手すぎる!〟
〝それでも、もう嫌なの。こんな思いをしながら人が死んでいくのは。だからお願い、もう復讐は忘れて。あなたが愛するこのネコさんと森に帰って。二人で幸せに暮らして〟
〝でも、僕は許せない……とてもじゃないけど、許せないよ……〟
〝私はもう許しました。何もかも許しました。みんなを許しました。もう、いいの。もう怖くないし、悔しくもない。あなたは忘れるだけでいいのよ。私のことは全部忘れて。私がされたことも、忘れて〟
〝忘れるなんて、できない……〟
〝ダメよ、忘れなくちゃ。あなたの大事なネコさんのためにも、忘れて。あなたまで、こんなに醜い傷つけ合いに巻き込まれちゃいけない。人間の醜さに染まっちゃだめ。全部忘れて、ただのネコに返って。普通のネコになるだけでいいの。あなたらしいネコに戻るだけでいいの。そうして、そのネコさんと一緒に暮らして。幸せに暮らして。あなたが私を忘れて幸せなネコになってくれれば、私もあなた方を見守って幸せになれる。この世界のことも、みんな忘れられる。ね、お願いだから、こんなに不幸なことはもう続けないで……〟
ケイコの声はしだいに小さくなっていく。 コジロウは叫んだ。
〝ケイコさん! 待って! お願い、待ってよ!〟
〝お願いよ。約束してね……〟
〝ケイコさん! 行かないで! もっと声を聞かせてよ!〟
しかし、返事はなかった。
コジロウはつぶやいた
〝だって……だって……〟
ミニーが言った。
〝ケイコさん……行っちゃったみたいね……〟
ケイコの声はそれ以上聞こえない。
コジロウがぼんやりとつぶやく。
〝ケイコさん……僕はどうすればいいのさ……?〟
ミニーが言った。
〝本当に優しいのね、ケイコさん……〟
〝でも、僕は嫌だ……。嫌だよ、そんなの……。まだ、あいつらを許せないよ……〟
ミニーがうなずく。
〝あなたの気持ちも分かる。でも、この家の娘は充分に償いをしたんじゃなくて? わたしたち、少し休んだほうがいい。ここはもう終わりにして、体力が回復するのを待ちましょうよ。まだ二人も相手が残っているんだもの。どうするかは、休んでから考えましょう〟
ミニーには、頭ごなしに復讐を否定してもコジロウは受け入れないだろうと思えたのだ。ケイコの考えがはっきりと示された今、コジロウのこだわりは時間が解決するはずだった。
二匹は歯医者の床下から姿を消した。
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