第三章・神の裁き
1
ボスは廃材置場の古材木の間にもぐり込み、中で休んでいたコジロウの前にでっぷりと太ったネズミを置いた。
〝今日はちょっと遠出をしてきてやったぜ。町外れの原っぱには、まだこんな野ネズミがたくさんいる。人間の匂いがしみついたドブネズミなんかとは味が違う。一匹しかくわえて来られないから、二人で分けてくれよな〟
ネズミはまだ息が残っていて、ぴくぴくとヒゲを震わせている。
コジロウは新鮮な食物に目を輝かせた。
〝ありがたい……。人間の食べ残しには飽き飽きしていたんだ……〟
コジロウの隣で目を覚ましたミニーも、うれしそうに鼻をひくひくさせる。
〝おいしそうね。わたし、頭の方でいいわ。おいしいところはコジロウが食べて〟
ボスは笑った。
〝このところ、俺はすっかりおまえらの召使いだな。とびっきりのネズミを獲物にしたって、他人に取り上げられちゃあザマはねえ〟
ミニーはつぶやく。
〝ごめんね。すっかり迷惑をかけてしまって……〟
コジロウもうなずいた。
〝でも、そろそろ力もついてきた。これならまた、人間に一泡ふかせてやれそうだよ。おまえのおかげだ〟
ボスはうなずく。
〝それが楽しみで、こうやって柄にもねえ人助けをしてるんだ。ま、充分回復するまで、ゆっくりしてりゃあいいさ〟
歯医者の床下から出たコジロウとミニーは迷わずにボスのねぐらに転がり込んで、彼の保護を求めたのだった。
精神力を使い果したコジロウたちには、力を回復する時間と安全な場所が必要だった。街に暮らす人間やイヌやネコ、そして他の動物たちと戦いながらでは休養を取ることは難しかったのだ。寒さを防ぐねぐらを持ち、自分の縄張りをきっちりと守れる支配力があるボスに助けを求める他に、深い傷をいやす方法はなかった。
ボスも二人を拒まなかった。
コジロウが歯医者の乱暴なボクサーを懲らしめて手なずけてしまったことは、すでに近所じゅうのネコの噂になっている。何匹もの野良ネコをその牙で葬ってきたイヌに真正面から戦いを挑んで打ち負かすことは、まさに奇跡だった。その奇跡を現実にした〝英雄〟を歓待するのは地元の親分の務めなのだ。
コジロウの爪で鼻を切り裂かれて以来、ボクサーはネコの姿を見ると逃げ出すくせがついているという。すでに彼は、ネコ社会の笑い者になっていた。
それからおよそ一週間――。
コジロウとミニーはボスが出かけている間、彼のねぐらの廃材置場を野良イヌたちから守れるほどに回復していた。
ネズミの腹にかじりつくコジロウを見ながら、ボスは笑った。
〝いい話を聞いたぜ。あの歯医者な、病院を売り払って別の街に引っ越したってよ。娘の病気が一向に良くならないんで、住む場所を変えたらしい。毎晩、毎晩『化けネコが来るよ……』ってうなされちゃあな。それにしても〝化けネコ〟っていうのは、傑作だったよな。爺さんたちからネコにはそんな力もあるんだとは聞かされていたが、俺でさえ人間をやっつけられるなんて本気にしてなかった。あれからずっと、このあたりのネコはおまえの噂でもちきりさ。おまえみたいな豪傑を助けることができて、俺も鼻が高いぜ〟
コジロウがネズミから顔をあげて尋ねた。
〝イヌも一緒に引っ越ししたのか?〟
〝そうそう、それがなおさら傑作だ。あのぼけイヌ、なんと保健所へ連れていかれちまったそうだ〟
ミニーが問う。
〝ほけんじょ……って、何?〟
ボスが答えた。
〝人間ってやつは勝手なものでね。いらなくなったイヌやネコを始末したい時は、そこに持っていくんだ〟
〝いらない……?〟
〝人間の都合で、な〟
〝あのイヌ……可愛がられていたんじゃないの?〟
〝俺たちネコにさえビビるようになっちまったら、番犬にもならないものな。引っ越しには邪魔だったんだろうよ〟
〝ほけんじょ……っていうお家ににあげちゃったの? それなら、逃がして自由にしてあげればいいのに……〟
〝そいつはいただけねえな。もともと乱暴者だったイヌだ。ここしばらくはコジロウに恐れをなして大人しかったが、いつまたネコを襲うようにならないともかぎらねえ。野犬にうろうろされたら俺たちネコの商売敵が増えちまうじゃねえか。奴は生まれた時から強欲な歯医者に飼われていて、性根がねじ曲がっていやがった。そんな性悪は一生治るもんじゃねえ。しかも、図体がでかくて力も強い。あんなのが野放しになったら人間の大人だって襲われかねないぜ〟
〝じゃあ、ほけんじょって、イヌを閉じこめておくお家なの?〟
ネズミを半分食べたコジロウが、残りをミニーの前に押しやる。
〝保健所は、お家じゃないんだよ。そこに連れていかれた動物は、みんな毒を飲まされて殺されるんだ〟
〝殺す⁉ うそ⁉〟
ボスがうなずく。
〝人間は、俺たちネコやイヌをペットとして飼う。でも、みんながみんな動物たちと暮らすことを心から楽しんでいるわけじゃない。ただちょっと面白半分でとか、金を持っていることを見せびらかしたくてとか……ま、飾りのつもりで買ってくるふとどき者も少なくねえ。しょせん必要もねえ飾り物だから、始めから自分たちと違う生き物と暮らすっていう覚悟がねえ。家を汚されたり一緒にいるのがわずらわしくなると、さっさと保健所で殺して厄介払いをするて寸法よ〟
〝恐い……〟
〝ま、俺の母親のように山ん中にほっぽりだされるだけの奴も多いがね。その点、野良ネコは自分の才覚で生きていけるだけ気が楽だ。野良の中にだって保健所に捕まってあの世行きって間抜けもいるが、コツを覚えちまえば餌にも不自由はしねえ。飼い主のご機嫌をうかがってびくびくしている必要もねえ。ただ、これからの季節は、ストーブの前でぬくぬく丸まってる飼いネコが羨ましくなる時もあるがよ〟
コジロウがミニーにうなずきかける。
〝街には街の厳しさがあるって教えただろう? ここでは人間が自然を支配して、全部の決まりを自分たちで作ろうとしている。だから森みたいに新鮮な餌は多くない。食べられるわけでもないのに、無意味に殺されてしまうこともある。ボスが言う通り、あのイヌはきっと歯医者が他人に自慢をするためにだけ飼われていたんだ。『どうだい、立派なイヌだろう? お金がたくさんかかったんだぞ』ってね。本当に愛されていた動物ならあんなに狂暴だったはずがないし、大体引っ越しをするからって捨てられたりはしない〟
ミニーはじっと半分になったネズミを見つめながら、つぶやいた。
〝なんだかわたし、食欲がなくなっちゃったな……〟
コジロウがたしなめる。
〝食べなけりゃ力がつかないよ〟
ボスがつぶやく。
〝最高のご馳走を無駄にするんじゃねえ。そもそもあいつは、コジロウの片目を奪った仇なんだぞ。保健所へ連れていかれたからって同情する価値なんぞありゃあしねえ〟
ミニーはうなずいた。
〝うん……〟
ミニーはしかたなさそうにネズミを食べはじめた。
それでも、久しぶりに口にする温かい血の味に心が浮き立ちはじめる。いったん野性に目覚めたネコには、やはり生きた餌が必要だったのだ。
ボスがコジロウに言った。
〝おまえたち、ようやく毛並みも元に戻ったみたいだな〟
〝ああ、君のおかげだ。もう自分たちで餌も探せるだろう。そろそろ次の仕事にかかろうと思っている〟
〝やっぱり続けるのか?〟
〝まだ二人も残っているからな〟
ボスは一心不乱にネズミを食いちぎるミニーを横目で見た。
〝もういいじゃねえか。あれだけ狂暴なイヌをやっつけて、目玉をえぐられた仇もとったんだ。それだけでもたいしたもんだぜ。死んだ飼い主のための復讐なんて、もう忘れちまえよ。ネコにはもともと、そんなややこしい生き方は似合わねえ。それより、このねえちゃんとガキでもこしらえろ〟
コジロウはほほえんだ。
〝春になったら、な。僕は君みたいにしょっちゅう発情しているわけじゃないからね。でも、やっぱり今はやり残したことが忘れられない。森にいる間、ずっと僕を支えてくれた『生きる目的』なんだからね〟
〝だからよ、今は別の目的ができたじゃねえかって言ってるんだよ。ミニーを守って、のんびり暮らせよ〟
〝僕だって、そうしたいが……〟
〝なんべん死にそうになってもあきらめないのか? 本当に融通のきかない阿呆だぜ。ま、それがおまえのいいところなんだがよ〟
ネズミを一気に食べ終えたミニーが言った。
〝わたしやケイコさんが言ってもだめなんですもの。コジロウは最後までやらなくちゃ気がすまないのよ。一度心に決めたことですからね〟
コジロウはミニーを見つめた。
〝ごめんよ。苦労ばかりかけて〟
〝しかたないわ。それがあなたの生き方なんだもの〟
ボスの表情が暗くなった。
〝でも、次の家にもイヌがいるんだぜ。今度の奴は歯医者のぼけイヌより手強いぞ。うまくやっつけられるとは限らねえ〟
コジロウもうなずく。
〝君のおかげで、情報は充分集まった。たしかに、戦うことになれば手強い相手だ。でも家の作りから考えれば、イヌと顔を会わせなくても悪夢を届けてやれそうだ。試してみるまでさ〟
〝今度もミニーを連れていくのか?〟
ミニーが答えた。
〝もちろんよ。歯医者さんの時だって、私が一緒じゃなかったらコジロウは死んでいたかもしれないわ。今度だって何が起こるか分からないもの。力を合わせなくちゃ、人間たちには勝てないから〟
ボスはうらやましそうに笑った。
〝おまえら、最高のコンビだな。これなら今度もうまく行くかもしれねえな〟
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