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その家は、歯医者と同じように広い庭を鉄の柵で囲んでいた。やはり柵の間隔は広く、ネコなら自由に通過できる。
つまりその柵は、ネコなどの小動物の侵入を防ぐためのものではない。庭で放し飼いにされている獰猛な土佐犬が逃げ出さないように、ひたすら頑丈に作られていたのだ。
飼い主はネコが庭に入ることなど恐れてはいなかった。ネコであれネズミであれ、うっかり庭に入った動物は土佐犬がたちどころに〝処分〟してしまうのだから。
ボスが言う通り、ネコがまともに戦って勝てるような相手ではなかった。
だが反面、鉄柵は家の建物の裏側の庭にだけ巡らされていて、イヌは正面に出てこられない。イヌは家の裏の階段を上ってテラスまでは自由に上がれるが、ベランダの扉はいつも閉まっていて室内に入ることは許されていないのだ。イヌが正面に回るには、鉄柵の扉が開いた時に敷地の側面の通路を通る他にない。
鍵が開かれるのは週に一、二回の散歩の時間だけで、その時はかならず飼い主が太い引き綱を握りしめている。
つまり家の正面から側面にかけての基礎部分に床下にもぐり込む通路が発見できれば、柵の中に入る必要はないわけだ。イヌの心配をせずに子供に化けネコを見させることができるはずだった。
コジロウとミニーは向かいの家の塀に上って陽なたぼっこをしながら、目的の家を観察した。
子供は一人。外見は大人しそうな中学生の男だ。母親と父親との三人暮しで、母親は家にいることが多かった。だが、父親の帰りはいつも遅いらしく、なかなか姿を見ることができなかった。
問題は母親が常に玄関前にびっしり並べたプランターの手入れしていることで、野良ネコの接近には神経を尖らせているようだった。うかつに近寄ると、いつ母親と鉢合わせをするか分からない。
だがコジロウは、危険を冒して何回か家のまわりを偵察に出かけた。一度は母親に小さなシャベルを投げつけられはしたが、目的は達することができた。
一メートルほどの高さがある家の基礎のコンクリートの壁には何箇所も通気孔が取りつけられていたが、そのすべてに格子がはまっていて通り抜けられない。半地下のガレージの上に配置された一階の床は高すぎて、外側から念じても〝悪夢〟を確実に届けるのは難しそうだ。
どこかの窓が開け放されるのを待って室内に飛び込むことは可能だが、母親に発見されれば保健所に送られる危険が高かった。捕らえられるまでに子供に〝悪夢〟を見せられる保証もなく、それは自殺行為に近かった。
コジロウはじっと家を観察し、作戦を考え続けた。
それでも三日目には、コジロウは子供部屋床下への侵入路を発見していた。
それはガレージ内の奥の壁にあった。
母親が買物に出かけるために車を出す際に、突き当たりに格子のない換気口が開いているのが見えたのだ。その穴にたどり着ければ、床下への侵入路が確保される。
だが、父親は滅多に車を使わない。
彼は仕事場への行き帰りとも、迎えに来る部下らしい男の車で通勤していたのだ。それは、ガレージのシャッターの開閉の回数が極めて少ないことを意味している。床下へ侵入することは比較的に簡単でも、そこで何日も暮らすとなると食糧の確保が難しくなる。
ミニーは言った。
〝どうしよう……。こないだの時みたいに長くかかると、お腹が空いて死んでしまうかもしれない。悪夢を見せるには、とても力を使うし……〟
コジロウは平然と答えた。
〝なるようにしかならない。床下に餌になるものがあるかもしれないし、中からなら他の出口も見つかるかもしれない。とにかく入って家の中を調べてみよう。作戦はそれから決めたっていい〟
次の日、ガレージのシャッターが開いて母親が車で出ると、入違いに二匹のネコは家に飛び込んだ。
コジロウの言う通り、中から探すとテラスの下に格子が壊れた通気口が見つかった。しかしそれは、イヌの柵の中に通じている。ネコなら柵を通り抜けることは簡単だが、出入りの際にイヌの行動範囲内を横断する必要がある。庭を走り抜ける間にイヌに気づかれれば命はない。緊急時以外には使い道のない通路だった。
それでも、夜が来るまでには子供部屋の位置が分かっていた。
コジロウは言った。
〝これでは毎日続けて夢を見させるのは無理だろう。一晩頑張ったら次は外に出て、充分に餌をとって体調を整える。それからまた中に入って化けネコを見させる。時間はかかるかもしれないが、それでどうだい?〟
ミニーはうなずいた。
〝他に方法はないわね。おっかないイヌと顔を会わせない分だけ、安全だものね〟
二匹はそのまま床下で眠って、体力を温存した。
*
深夜――
コジロウは再び『化けネコの夢』を子供部屋に送り込んだ。
が、コジロウは少年の夢に入りこめなかった。少年は、眠っていなかったのだ。
コジロウはつぶやいた。
〝おかしいな……。こんなに遅い時間なのに、まだ眠っていないのか?〟
ミニーはうなずいた。
〝きっと、お勉強をしているんじゃない? ケンさんも、いつも夜遅くまで机に向かっていたわよ〟
〝そうなのかな……。それにしたって遅すぎやしないか? 人間って、少ししか眠らなくて大丈夫なのかい? ケイコさんは、いつももっと早くから眠っていたけれどな……。寝なくて平気だなんて、僕らには考えられないことだね〟
ネコは本来、一日の大半を眠って過ごす動物なのだ。
ミニーはケンが語ったことを思い出しながら言った。
〝子供たちは、きっとたくさん眠りたいのよ。でも、父さんや母さんが『もっと勉強しなさい』って言うの。そうして、参考書とか問題集だとか、いっぱい買ってくるのよ〟
〝ケンさんも?〟
〝うん。いつも『自由になりたい』って、悲しそうに言っていたわ〟
〝人間の世界って嫌なことが多いみたいだね。でも、こいつはケイコさんをいじめた張本人だからな。ざまあみろ、だ〟
と、家の外に車が横づけされる音が聞こえた。
ミニーが言った。
〝父親かしら……? こんなに遅く帰ってきたの? まるで、ケンさんの父さんみたいね〟
コジロウが呆れたように尋ねた。
〝君の家の人も、こんなだったの?〟
〝うん……。わたしいつも眠っていたから、何時に帰ってくるのかよく分からなかったけど。でも、毎日遅かったわよ。人間の男の人って、みんなこうなのかしら?〟
〝僕の家はいつももっと早くから家族が揃っていたけどね。もしかしたら普通の家って、父さんがなかなか帰ってこないものなのかな……。ケイコさんの父さんの方が普通と違っていたのかも〟
車のドアが開いて、誰かが降りる音と話し声が聞こえた。しかし、遠すぎて内容までは分からなかった。
車はすぐに去っていった。
耳を澄ませていたコジロウがうなずいた。
〝やっぱり父親らしいね〟
コジロウは、真上の子供部屋で机に向かっているはずの少年も外の物音に気づいたことを感じ取った。
少年の心におびえが生まれるのが分かる。
コジロウは首をひねった。
〝変だぞ? あいつ、自分の父親を恐がっているみたいだ……〟
玄関にチャイムが鳴った。
チャイムに答える声はない。
と、今度は立て続けに何回もチャイムが鳴らされた。
しばらくして、廊下を走る足音が響く。
母親らしい。
玄関の鍵が開かれる音。
ドアが開いたとたんに怒鳴り声がした。
「馬鹿者! 私にチャイムを鳴らさせるんじゃないと何度言えば分かる⁉ 車の音がしたらさっさとドアを開けんか!」
おびえをあらわにした女の声。
「すみませんでした。ついうとうととして……」
と、どさっという物音。そして押し殺した悲鳴が続く。
母親が殴られたらしかった。
「口答えをするんじゃない! 主人より先に眠る馬鹿者がどこの世界にいる⁉」
「ご、ごめんなさい……」
部屋に入った父親は怒鳴り続ける。
「今日は風呂はいい。食事はあるのか⁉」
「はい、ただ今!」
母親が走り回る音。
その間中、子供部屋からは少年の恐怖が発信されていた。
コジロウはつぶやいた。
〝ひどい騒ぎだな……。あいつ、この騒ぎにおびえているだろうか?〟
しばらくはそのまま物音が途切れる。
と、食事中らしかった父親がいきなり怒鳴りだした。
「なんだこの点数は⁉ 奴はまだ起きているのか⁉」
「は、はい。でも、勉強中で……」
いきなり席を立つ音。食卓の椅子が倒れたらしい。
そして、父親は子供部屋へと突進していった。
ドアが開くと、子供はいきなり叫んだ。
「パパ、ごめんなさい! お願い、ぶたないで!」
「馬鹿者!」
父親は有無を言わせずに息子を殴ったようだった。平手打ちの音とともに、少年の恐怖がぐんと高まる。
「ごめんなさい……」
「謝ってすむか! 何なんだ、このテストは⁉ 五十五点だと⁉ 貴様はこんなことで一流大学に入れると思っているのか⁉ 私のような高級官僚になれると思っているのか⁉ わが家の家系に泥を塗る気か⁉」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「性根を叩き直してやる。ベッドにうつぶせになって尻を出せ!」
少年は泣き叫んだ。
「やめて!」
背後に母親の声。
「あなた! およしになって! 誠治だって一生懸命なんですから! そんなものでぶったら……」
父親は、何か武器になるものを握っているらしかった。
父親は冷たく言い放つ。
「おまえがそんなに甘いからこいつがつけ上がるんだ。一生懸命だと? そんなものに価値はない。こいつの根性を叩き直すには、こうするしかないんだ。たかが竹刀だろうが。こんなもので叩かれたところで、人様に恥じない人生が送れるようになるなら安いもんだ。男の価値は、一流の仕事をつかめるか否かにある。公立中学のテストでさえこの程度の成績しか取れないクズなど、世に出る資格はない! 我が家の名誉を汚す出来損ないめ! 根性を入れ直してやる!」
「自分の子供にそんなひどいことを言わないでください!」
「女のくせに一人前の口をきくな。大体おまえが無能だから、こいつに怠け癖が遺伝したんだ。まともな教育もできんような女が、主人に口答えするな!」
「そんな……」
「何だ、その目は? 私の言うことに文句があるのか? たかが短大卒のくせに、私と結婚できただけでは不満だというのか?」
と、少年が怒鳴った。
「黙れよ! ママをけなすんじゃない!」
「それが父親に対する口の聞き方か! 反省しろ!」
そして父親は、息子の尻を〝竹刀〟というもので叩いた。
少年の心に痛みと恐怖が炸裂する。同時に、どす黒い敵意が渦巻くのをコジロウは感じ取った。
ミニーがつぶやく。
〝何よ、このお家……恐い……〟
コジロウがうなずく。
〝たしかに変な家だ。家族が憎しみ合っている……〟
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