土曜日の早朝――。

 父親は土佐犬を引いて散歩に出た。

 餌を取りに外に出ていたコジロウとミニーは偶然にその姿を見つけて、後を追うことにした。

 コジロウは、少年の父親に強い関心を持っていたのだ。

 イヌを引く父親の姿には異様な雰囲気が漂っていた。

 普通、イヌの散歩には糞を拾うためのゴミ袋を下げていく。しかし彼は、その代わりに剣道に使う竹刀を握りしめていたのだ。

 小綺麗に整備された川沿いの遊歩道の街路樹に隠れながら、二匹は後を追う。遊歩道には、まだ人の姿はまばらだった。

 ミニーは不思議そうに言った。

〝あの棒……何に使うのかな?〟

 コジロウには見当がついている。

〝見ていれば分かる。あれが、竹刀っていうものだと思う〟

 その通りだった。

 久しぶりに柵の外に出た土佐犬は、主人に遠慮しながらも外の空気を楽しんでいる。自分の縄張りでは控えていた糞をさっそく街路樹の脇に出そうと、脚を止めて後ろ足を広げて腰を落した。

 イヌが引き綱に素直に従わないことに腹を立てた主人は、いきなり怒鳴った。

「止まるんじゃない!」

 主人はいきなり竹刀をイヌの頭に振り降ろした。

 それは、単に不作法をたしなめるだけのサインではなく、まさに殴打だった。しかも主人の頬には満足気な薄笑いが浮かんでいる。

 殴られたイヌは身を縮め、主人が握る縄に渋々引きずられていく。しかし後ろ足は不様に開いたままで、しかもその尻からは半分出かかった糞がぶらさがっていた。

 その卑屈な姿からは、そのイヌが散歩の際には常に殴られていることが読み取れた。

 糞はすぐに歩道に落ちたが、主人は振り返りもせずに、おかまいなしにイヌを引っ張り続ける。

 ミニーがつぶやく。

〝なんで? あのイヌ、ウンコもさせてもらえないの?〟

〝それがあいつの散歩のやり方らしい〟

 そう答えながらも、コジロウは呆れはててていた。

 イヌに同情する気はない。しかし、飼いイヌを殴りつけることに快感を感じる主人の野蛮さには背筋が寒くなる。

 コジロウもミニーも、そんな飼い主がこの世に存在することが信じられなかった。

 さらに後を尾けると、向かいから若いシェルティーを引いた老婦人が通りかかかった。

 土佐犬は闘犬の本能をよみがえらせ、反射的に主人の前に飛び出た。牙をむき出しにしてシェルティーにうなりかかる。

 おびえたシェルティーは夫人の陰に走り込み、尻尾をたれてしゃがみこんだ。

 主人は綱をぐいと引き、土佐犬の背を竹刀で殴る。振り返った土佐犬はうなり声を主人に向けたが、さらに三度続けて頭に竹刀を振り降ろされて、やっと腰を落とした。

 主人は土佐犬の胴に巻かれた革のベルト握り、驚きに目を丸くしてシェルティーを抱え上げた婦人に愛想よく言った。

「いやあ、申し訳ありませんな。驚かせてしまいましたね。しつけがなってないイヌでして。さあどうぞ、お通りください」

 婦人は主人が握った竹刀を不気味そうにながめながら、低くうなり続ける土佐犬の脇を通り抜ける。

 夫人はかすかな声で言った。

「ありがとうございます。でも、そんなふうに叱らなくても……」

 主人は軽やかに笑う。

「いやあ、いつもは女房が散歩をさせておるもので、こいつ、人間を甘く見とるんです。たまにはがっつりと叱ってやらないと、つけ上がります。しょせんイヌですから、殴らんと何も理解できませんのでね」

 ミニーがつぶやく。

〝あのイヌ、散歩なんてさせてもらったことなんてあった?〟

 コジロウは笑った。

〝そう言わないと格好がつかないからさ〟

 婦人は主人の言葉に答えもせずに、シェルティーを抱いたまま小走りにコジロウたちの前を通り過ぎ、脇道に姿を消した。その顔には、イヌへの支配欲をむき出しにした主人への嫌悪感があらわれていた。

 土佐犬が立ち上がる。

 と、主人は鋭い声で命じた。

「馬鹿者! 私に恥をかかせるんじゃない! こら、まだ立てとは言っておらん!」

 主人は竹刀を振り回して、土佐犬の尻を散々に打ちのめした。

 土佐犬は地面にへばりついてじっと身を硬くする。

 それでも竹刀の殴打はしばらく止まなかった。

 主人は力を使い果したのか、息を荒くして命じた。

「よし。立ってよろしい。今度言いつけにそむいたら、今の倍は殴るぞ」

 イヌは立ち上がった。

 そして同時に、走りだした。

 主人の手からつかんでいたベルトが離れる。イヌは縄を引きずったまま、だっと走り続けた。

 主人が叫ぶ。

「馬鹿者! 戻ってこい!」

 十メートルほど先まで走ったイヌは、そこで止まって振り返った。じっと主人の様子をうかがう。

 戻りたくないのだ。

 主人は口のなかでぶつぶつと悪態をついた。そして、竹刀を背中に隠す。

 ミニーがつぶやく。

〝どうするの?〟

 コジロウにも分からない。

〝さあ……?〟

 主人は前に出た。

 土佐犬は、同じだけ後退りする。

 大きなため息をついた主人は、ぽつりとつぶやく。

「間抜けな畜生め」

 そしてその場にしゃがみこむと、開いた手をポケットに入れた。

 イヌに向かって愛想よく語りかける。

「何をしている? 戻ってこい。さあ、おまえが好きなビーフジャーキーだぞ」

 ポケットから出した手には、たしかに干し肉が握られていた。

 イヌがぴんと尻尾を立てた。大好物を目の前に出されて、足が自然に主人へと向かっていく。近寄っても、主人はにこやかにほほえんでいるだけだった。

 イヌの警戒心が食欲に敗けた。

 鼻をクンクンと鳴らしながら干し肉にかじりつく。

 と、イヌの縄を主人がつかむ。

 そして今度は、はっきりと言った。

「畜生め」

 主人は引き縄を近くの街路樹の幹に回した。そして力をこめて引っ張る。

 引きずられたイヌは、瞬く間に木の幹に縛りつけられた。

 主人は両手で竹刀を握りしめると、罠にはまったことに気づいておびえをあらわにしたイヌに静かに言った。

「約束だ。さっきの倍、殴る。私を恨むな。礼儀を教えるために、しかたなくしていることなんだからな」

 そして竹刀を振り降ろした。上から、横から、犬の顔は殴られるたびにぐらぐらと揺れた。

 イヌは怒りのうなり声をあげた。

 だが、その声は主人の腹立ちに油を注いだだけだった。

「主人に逆らうのか⁉」

 際限なく強くなっていく竹刀の殴打に、イヌのうなり声は次第に卑屈な命乞いへと変わっていく。

「おまえの主人は私なんだぞ! それを思い知るまで、何度でも殴ってやる!」

 そんな彼らを、朝の散歩を楽しむ人々が遠巻きにながめていく。

 それに気づいた主人は、むしろ誇らしげに胸を張っていた。

『イヌへのしつけはこうするべきなのだ』と言わんばかりに、最後の一撃を背骨に叩き降ろした。

 コジロウはたまりかねてつぶやいた。

〝あのイヌ、本当に哀れだな……〟

 ミニーも言った。

〝信じられない……自分のイヌに、あんな仕打ちができるだなんて……。もう見ていられないわ。お家の方へ行ってみましょう〟

 二匹は少年の家へ戻った。

 

          *


 ガレージは開いていなかったが、イヌが外出中なら裏手から侵入しても襲われる心配はない。

 二匹は庭を横切って子供部屋の床下にもぐり込んだ。

 子供部屋では母親が息子と話していた。

「ママ、なんだって今日のパパはあんなに怒っているの? 朝からママを殴るだなんて、初めてだ。僕の成績が悪かったせい?」

 母親はため息混じりに答えた。

「それだけじゃないのよ。パパの上司が汚職の疑いをかけられて、お役所が警察の捜査を受けていてね……。だから、ご招待されていたゴルフも中止になってしまったの」

「ゴルフがそんなに大事なのかよ……」

「私たち家族が大事なのよ」

「ウソだ」

「ウソじゃない。お父さんは大事な仕事をしているんだし……」

「じゃあなぜ、ママをあんなにぶったりするんだ? パパが捕まるわけじゃないんだろう?」

「上の人が捕まるってことは、パパが捕まるのと同じなのよ。パパは、ずっと同じ派閥で上へ上がる機会を待っていたんですもの。一番目をかけられていた人ですしね。その上司が捕まってしまったら、派閥は解消……。しかも、ここ何年かはお役所への風当たりが強くなる一方だし……。もしかしたらパパは、お役所での居場所をなくしてしまうかもしれないのよ」

「役所勤めなんて、つまらない仕事をしてるからさ。僕は絶対にパパみたいにはならない。もっと自分の才能を生かした仕事をしたいんだ」

「そんなこと、パパが許すものですか。高級官僚を三代続けたことが一家の誇りだっていう方なんですから。お爺いちゃんの手前だってあるしね。あなたは何が何でも東大に受からなけりゃならないのよ」

 少年は不意に叫びだした。

「変な期待をかけないでよ! ママが言うとおりに塾にだって通っているけどさ、僕はそんなに利口じゃない! 学校のテストでさえこのザマなんだよ。いまさら東大なんて無理だって分かりきっているじゃないか! そんな期待が重荷なんだよ!」

「そんなことはないわよ! 誰だって、本気になれば実力を発揮できるものよ。実力以上の力を出せることだってあるわ。パパの子なんですから、あなたにだって才能があるはずなのよ。お願い、頑張って。ママもできることは何でもしますから。でないと、私が責められるのよ……。あなたが受験に失敗したら、パパに何をされるかわからない……」

「ママには関係のないことだ」

「そんな理屈は通用しないのよ。だからお願い、私のためだと思ってしっかりお勉強してね」

「僕はこんな暮らしはもういやだ! 息が詰まって、気が狂いそうだ!」

「そんなことを言わないで。お願い、ママのためだと思って……」

「あんな野蛮な奴にペコペコするのはやめろよ!」

「だって……従わなければ……。それに今日は、朝からちょっとお酒を飲んでいらっしゃるから、少し乱暴なだけなんです。お役所ではみなさん口を揃えて『ご主人はいい方だ』って……。お中元やお歳暮だって、いつも山ほど送られてくるじゃない……」

「お世辞に決まっているじゃないか! どうせパパの部下や、仕事を回してもらっている業者が言うことなんだろう? 賄賂を贈って気に入られようとしているだけじゃないか。パパに嫌われるのが恐いだけだ!」

「そんなことはありません! ご近所の方たちだって――」

「そんなの、外では愛想を振りまいているだけさ。ただのかっこつけじゃないか。あいつの心の中は、悪魔のように腐り切っている! 本当にいい人なら、ママや僕をぶったりはしない!」

「そんなことを言ってはいけません! パパが私たちをぶつのは、私たちを教育するためなんです。パパのおかげでこうして家族みんなが幸せに暮らせるんですから、絶対にパパの前ではそんなことは言わないでね」

「こんな家、何が幸せなもんか! あいつが今度ママに暴力を振るったら、僕が黙ってないぞ!」

「恐いことは言わないで! もしあなたが事件を起こしたら、パパは本当にお役所にいられなくなってしまうのよ!」

「どうなったってかまうもんか! 僕は自由になりたいんだ!」

 ミニーは少年の叫びにはっと身を起こした。

〝自由になりたい⁉ なんだか、ケンさんみたい……〟

 コジロウも二人の会話に意外な思いをかみしめていた。

〝本当にこの家はどうなっているんだ……? あの子供、ケイコさんをさんざんいじめていたくせに、父親の前ではまるで奴隷じゃないか……〟

 人間の世界の複雑さは、ネコにはとうてい理解できないものだった。

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