2
コジロウは右の後足を引きずりながら、狭い路地の角を曲がった。土佐犬との戦いで筋が切れた足は、どうしても回復しなかったのだ。
その後ろを、ミニーがゆっくりと追う。
今のコジロウにとっては、背後から誰かに襲われるのがもっとも恐い。ミニーは命じられたわけでもないのに、ずっとその死角をカバーする位置についていたのだ。
コジロウは足を止めた。
〝ここだ〟
小ぢんまりとした、まだ新しい家の前だった。
家の前の小さな庭には充分に手が入れられておらず、芝や植木もないむき出しの土の状態だ。駐車場の部分に敷石が置かれているだけだった。
ミニーは思った。
〝あれ……? どこかで見た景色みたい……。何だかこの家、匂いも懐かしいわ……。でも、そんなはずないわよね。私が知っているお家は、ケンさんのお部屋だけなんだもの〟
と、コジロウが言った。
〝車が来たぞ! 隠れて!〟
コジロウはあわてて駐車場を突っ切り、家の陰に飛び込んだ。
ミニーも後に続く。
建物にぴったりと身を寄せると、部屋から漂う香りの正体が分かった。
コジロウが言った。
〝この匂い、ケイコさんが死んだ時にもしていた……〟
ミニーがうなずく。
〝ケンさんの時にも……〟
線香だ。
その香りの意味を詮索する間もなく、駐車場に車が入って停まった。
黒い高級乗用車だ。
ドアが開く音――。
コジロウが家の陰から顔をのぞかせて、出てくる人間を観察する。
〝主人らしいね……。子供は乗っていないみたいだな〟
ミニーも顔を出した。
そして主人を見た瞬間、叫んだ。
〝父さん!〟
車から降り立ったのは、ケンの父親だったのだ。
コジロウはミニーを見た。
〝えっ? 知っているの?〟
一瞬で事態を見抜いたミニーの身体は、かすかに震えはじめていた。
〝うそ……うそよ、そんなの……ここがケンさんの家だなんて……それじゃあ、ケンさんがケイコさんを……? うそよ……〟
コジロウにもミニーのつぶやきの意味が理解できた。
〝まさか……ケンさんの家なのか⁉〟
ミニーはぼんやりと答えた。
〝よく分からない……わたし、外に出してもらったことがないから……でも、あの人はケンさんの父さんよ……〟
コジロウは動揺を隠しきれずに言った。
〝そんな……ケイコさんをいじめていたのが、君のケンさんだったっていうのか……?〟
〝そんな……うそよ……〟
〝そういえばあの車、イヌに喰い殺された父親を迎えにきていたのと同じ車だ……〟
〝あ……〟
〝あの車を見た時、気がつかなかったの?〟
〝ケンさんの部屋からは、駐車場が見えないの……。だから私、この家の車も見たことがなくて……〟
主人を迎えるために玄関のドアが開く。
中から女の声がする。
「あなた、ご苦労様でした。これで警察にはもう行かなくていいんでしょう?」
玄関に入った主人が答える。
「ああ。そうらしい。部長が飼い犬に殺されるなんてことがあったんで、検察のほうも戸惑っているみたいだ。どっちにしても、私のような下っぱの出る幕は終わったよ」
ドアが閉じて話し声は小さくなった。
ミニーがつぶやく。
〝母さん……母さんと父さんの声よ……〟
コジロウは念を押した。
〝間違いない? 絶対に間違いはないね? もし本当なら、ケンさんが……〟
ミニーはうなずいた。
〝間違いないわ。ここはケンさんの家よ。あなたの方こそ、この家で間違いないの?〟〝もちろんだ! そんな大事なことを間違えるものか! 僕はいつもケイコさんに聞かされてきたんだから……。ここでケイコさんとあいつが話しているのを見たことだってあるんだから……〟
〝でも……〟
〝そうか、君のケンさんって……。ケンって、本当の名前なの⁉〟
〝え?〟
〝あだ名かなにかじゃないの⁉〟
〝ケンさんの本当の名前? ケンイチロウだけど。でもみんな、ケン、ケンって呼んでいたから……〟
コジロウはがっくりと首を落とした。
〝間違いない……。僕の三人目の相手は、ケンイチロウって名前なんだよ。まさか、それが君のケンさんだったなんて……〟
〝でも、なぜ? どうしてケンさんが……? 女の子をいじめるような人じゃないわよ、絶対に。それに、そんなことをケンさんから聞いたことだってないわよ。何でもわたしに話してくれたのに、一度だってケイコさんの名前が出たことなんてなかったもの……〟
〝でも、ケイコさんはケンイチロウって子にいじめられたんだ……。それは間違いない。僕はその場を見たこともある。悔しくて、この家まで追いかけてきたこともある。二人は幼稚園の頃から仲良しで、ケイコさんはケンイチロウが大好きだったのに……。なのにケンイチロウは、他の奴らと一緒になってケイコさんを……。だからケイコさんは悲しくなって……それでもじっと我慢し続けていたのに、あんなやつに殺されてしまって……〟
〝うそよ! じゃあなんで、わたしがケイコさんのことを何一つ知らなかったの⁉〟
〝僕に分かるものか! ケンさんが君にケイコさんことを知らせたくなかったなら、何も気づかなくたって当然じゃないか!〟
コジロウに怒鳴られたミニーは、茫然とうめいた。
〝そんな……どうしてよ……なんでわたしのケンさんが……あんなに優しかったケンさんが……?〟
〝あんまりだよな……。僕たちの飼い主同士がそんなことになっていただなんて……〟
〝そんな……ひどすぎるわよ……〟
〝それに、ケンさんはもう死んでしまったんだろう? それじゃあ、テレビに出てもらうことだってできないじゃないか。ケイコさんがなぜ死んだのか、誰にも分からなくなってしまうじゃないか……〟
ミニーは力なくつぶやいた。
〝そうよね……ケンさんはもう死んでしまったのよね……。本当にケイコさんをいじめたんだとしても、その償いはしたのよ……。しかたないじゃない。ねえ、コジロウ。復讐はもう終わりにしましょう〟
コジロウは悔しそうにうめいた。
〝そんな……せっかくここまでやってきたのに……やっと、いちばん憎らしかった相手の家にたどりついたっていうのに……。これじゃあ、ケンイチロウのために黙って殺されていったケイコさんが浮かばれない……〟
〝だって、ケンさんも死んでしまったのよ? 原因が事故だとしたって、死んでお詫びをしているんだろうし……。ケイコさんだって許すって言ってくれたんだし……〟
コジロウは言った。
〝ともかく、もう少し家の様子を見てみたい。いいかい?〟
ミニーはうなずいた。
〝わたしはかまわないけど〟
二匹は家を回って、裏の庭へ向かった。
周囲に立ち並んだ真新しい家々に囲まれたわずかな庭。そのベランダにケンの両親が出ていた。
父親はコートも脱がずにテラスに座り、ぼんやりと煙草をくゆらせている。
「母さん……。私、役所をやめようと思っているんだがな……」
母親はその横に腰を下ろした。
「何だか、立て続けにいろんなことがありましたからね……」
「私のような世間知らずにどんな仕事ができるのか分からんが、もうあんな暮らしはこりごりだ」
母親は笑った。
「私だって働けますよ。家も車もまだ新しいんですもの、売ってしまえば身軽になれます。ケンももういないことだし、私たちだけなら、何とでも……」
ミニーはその懐かしい声に引き寄せられるように、テラス下へ進んでいった。
コジロウは、黙ってミニーの後ろ姿を見つめていた。
母親がミニーに気づいた。
「おや……? あら! ミニーじゃないの⁉」
母親は裸足で庭へ降りて、ミニーを抱き上げた。
「おや、こんなに汚れて――尻尾も怪我したの⁉」
ミニーは鳴いた。
〝ただいま、母さん……〟
父親も立ち上がってミニーに手をのばす。
「おまえ……あんな山の中から、一人で戻ってきたのか⁉ そんなにこの家に帰りたかったのか⁉ もうケンはこの世にいないというのに……」
父親の頬に涙が伝う。
母親は家の陰で様子を見守るコジロウにも気づいた。
「あら、お友達? こっちにいらっしゃいな。おや、あなたも傷だらけじゃないの。お腹は空いていないの? 何か食べ物を探してくるから、待っててね」
そして母親はミニーを父親の手に預けた。
コジロウは迷った末に、父親の足元に進み出た。
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