テラスには煮干しと削り節、そして新鮮な水が出された。コジロウとミニーは迷わず煮干しにかじりつく。

 それを見て母親は哀しげにほほえんだ。

「ミニー、こんなに痩せちゃって……。ごめんなさいね、いきなりあんな山奥に捨ててきちゃったりして。でも、あなたがいるとどうしてもケンのことを思い出してしまって……。つらくてつらくて、耐えられなかったのよ。まさか保健所で殺すわけにもいかないし、食べ物がありそうな山に捨てるしかなかったのよ……」

 ミニーは母親を見上げた。心の中に居座っていた疑問を口に出してみる。

〝母さん、ケンさんはなぜ死んでしまったの? 本当に車に轢かれたの?〟

 母親にはまるで、ミニーの言葉が分かったようだった。そっとミニーの背をなでながらつぶやく。

「ケンね……実は遺書を残していたのよ。最初はてっきり事故だと思っていたんですけど、後で机の奥から封筒が出てきてね。自殺……だったのね……」

 その淡々とした口調には、修羅場をくぐり抜けた末に平静さを取り戻した女の強さがにじみ出ていた。

 コジロウが顔を上げた。

〝ケンさんが自殺だって? なんでケイコさんを殺した方が自分から死ななければならないんだ?〟

 ミニーは訂正した。

〝ケンさんはケイコさんを殺したりはしていない。あれはあの男の子がはずみでやったこと。ケンさんは何も知らなかったに決まってる〟

〝でも、みんなと一緒にケイコさんをいじめて、死にたくなるほど悲しませたことは事実だ〟

 ケンが遺書を残して自殺したことを知ってしまったミニーは、もはやケンがいじめに加わっていたことを否定することはできなかった。

〝それはそうだけど……〟

 コジロウはうなずいた。

〝だからきっと、自分が原因でケイコさんが自殺したと思い込んだんだろうな……。それでケンさんも、後を追って自殺を……〟

 父親が、二匹のネコに向かって真剣に語りかけた母親を、さみしげに笑う。

「おまえ……ネコにそんな話が分かるはずはないよ」

 母親は穏やかに父親を見つめた。

「あら、どうして? ミニーはずっとケンと一緒のネコだったのよ。しかも、私たちの都合で訳も分からずに捨てられて……。何が起こったのか、知る権利はなくて?」

 父親は小さく肩をすくめ、次の煙草に火をつけた。

「好きにするさ」

 母親はミニーを抱いてそっと膝に乗せた。

「あのね、ケンの遺書の中には死んだ恵子ちゃんからのお手紙も入っていたの。あら、恵子ちゃんていってもあなたは知らないわよね。幼稚園の時からとても仲良しだったお友達よ。中学でもケンの同級生でね、ケンが死ぬしばらく前に、学校でやっぱり自殺してしまったのよ……」

 ミニーはつぶやいた。

〝わたし、知ってる……。でもケイコさんは、殺されたんだよ〟

 母親はミニーのつぶやきに気づかない。

「恵子ちゃんは、自殺する直前にケンに手紙を送ったのね。そこにはこう書かれていたわ。『健一郎さんが好きです』って、ただそれだけ……。ケンも恵子ちゃんが好きだったのよ。小さな時からのおつきあいですものね、母親の私にはよく分かるわ」

 コジロウが思わず口走った。

〝うそだ! 本当に好きだったなら、なんでケイコさんをいじめたんだよ⁉〟

 母親はゆっくりと語り続けた。

「ケンね……遺書で、本当のことを何もかも書き残していたわ。あの子、恵子ちゃんをひどくいじめていたんですってね……。私たち、全然知らなかったの。まさか、大人の世界のことが子供たちの暮らしまで縛りつけていただなんて……。ケンは、お父さんのお仕事を気にして、いじめのリーダーに逆らえなかったのよ……」

 コジロウがつぶやく。

〝みんな、今でもケイコさんが自殺したと思っているんだ……〟

 父親がぽつりと言った。

「まさか、リーダーが誠治君だったとはね……」

「あの子の父親がお役所の部長で、お父さんの上司なのよ」

 父親は訂正した。

「いや、『だった』と言うべきだな。飼い犬に食い殺されて、もうこの世にはいないんだからね……」

「とんでもないことになったものですよね……」

 父親は自分の記憶を掘り起こすように語りはじめた。

「私は、言ってみれば彼の召使いだったんだ……。役所への送り迎えのために自腹を切って高級車を買い、毎日宴会で遅くなる彼を待って深夜のサービス残業を繰り返す……。つまりそれが、派閥にがんじがらめにされた役所の仕事の実態さ。派閥のお偉方に気に入られなければ昇進などおぼつかない。昇進できなければ家のローンも支払えない。しかも、今度の汚職事件のように派閥のトップが退陣を迫られれば、幹部全員が運命をともにすることになる。トップに近ければ近いほど他の派閥には乗り移れなくなるからね。私など下っ端は、まだ気楽なほうさ……」

 口を閉ざした父親に代わって、母親が後を引き取る。

「召使いなんてものじゃないわ。お父さんは、あの人の奴隷だったのよ。だから誠治君も、いつも自分の父親にペコペコ頭を下げているこの人を見ていたわけ……。親の上下関係がそのまま自分たちにも当てはまると勘違いしたって、責めることはできないのかもしれないわよね。誠治君も、ケンを奴隷にしていいものと思ったんでしょう。ケンも、自分が奴隷になるのが当然だとあきらめていたようね。私たちが『家を維持するためには上司には逆らえないわね』なんて話していたのを、いつも聞かされていたんですから。誠治君はケンが恵子ちゃんを好きだったことを知っていたようね。だからわざとケンを仲間に引き込んで、恵子ちゃんをいじめさせたみたい。お互いに好き合っている者同士を見て嫉妬していたんだわ、きっと。自分にはない友達を持っていることが悔しくて、その友達同士を傷つけあわせようとしたのね……」

 父親はつぶやいた。

「ケンがもっと強い男だったらな……」

 母親は哀しげにほほえむ。

「そんなの無理よ。私たちの子供だったんですから。私たち、長いものには巻かれろとしか教えてこなかったじゃないの。あなたは、毎日の生き方でそれを示していたのよ。ケンだって内心では、あなたの卑屈な態度を責めていたに決まっているわ。でも、そうするしかない事情も充分に分かっていた。だから、じっと我慢していたのよ。自分の気持ちを押し殺して……」

「それはそうだな……。ケンを殺したのは、結局この私なのか……。それじゃあ、恵子ちゃんを殺したのも私ということか?」

「そこまで考えなくても……」

「でも恵子ちゃんは、ケンたちにいじめられたから死を選んだんだろう……?」

 母親はかすかに笑って、ミニーを抱きしめた。

「ケンの遺書には日記も入っていて、毎日どうやって恵子ちゃんをいじめたかまで詳しく書いてあったわ。あの子、そうやって日記に事実を書き続けることで自分を罰していたんじゃないかしら」

 父親が驚いて母親を見つめる。

「日記……? 聞いてないないぞ」

 母親は父親と目を合わせずに、淡々と言った。

「あなたは見せられないことが書いてあったのよ」

「なぜ、見せられない?」

「だって誠治君の親はあなたの上司。あの子たちが恵子ちゃんにどんなにひどいことをしたのか、あなた、知ったらどうしました? 何もしないでしょう? 何もできないでしょう? 何ひとつ人間らしいことができないまま、子供たちの気持ちをねじ曲げてしまったことを悔やみ、自分を責め続けることになる。あなた、耐えられる?」

「ケンは、そんなにひどいことを……?」

 母親の目に涙がにじむ。

「私でさえ死にたくなりました……」

「そんなに……。それを、お前が一人で抱え込んだのか……? 私の負担を減らすために……?」

「母親、ですから……。女の神経って、そこそこ強くできていますし。……リーダーだった誠治君はね、歯医者の娘の美紗さんが好きだったんですって。美紗さんも神経がおかしくなって、最近引っ越してしまったけど……。どうやらいじめの始まりは美紗さんにあったみたいね。美紗さんは、恵子ちゃんがピアノの発表会でいつもスターになっていることを羨んでいたわ。美紗さんのお母さんはいつも言っていたもの。『恵子さんは勉強もしないでピアノばかり弾いているからあんなにうまくなれるんだ。うちの子だって本気で練習すればスターになれます』ってね……。私なんかには才能が違うとしか思えなかったけれど、美紗さん自身も才能があると思い込んでいたようね。美紗さんは傍から見ても甘やかされているのが分かる子で、自分の望みは何でも叶うと疑っていなかったようだから……。で、誠治君は美紗さんのために、恵子ちゃんに『発表会に出るのは止めろ』って言ったらしいの。でも恵子ちゃん、心底ピアノだ好きだったから、言いなりにはなれなかった。それがいじめの口火を切らせてしまったのね……。それ以後はエスカレートする一方で、二人とも歯止めが効かなくなってしまったみたい。自分が押しつけられた不自由さを忘れたいがために恵子ちゃんに欝憤をぶつけて、ケンまで巻き込んでどんどん陰湿ないじめに走っていったんだわ。そんなことをしたって、自分が幸せになれるはずがないのにね……」

 じっと聞耳をたてていたコジロウはついに叫んだ。

〝じゃあなんで、その遺書や日記をみんなに見せなかったんだよ! ケイコさん一人を犠牲にして、自分たちが責められるのを避けていたんだろう⁉〟

 父親が目を伏せた。

「遺書のことは、真っ先に部長に知らせた。あれが、私にできる精一杯の抵抗だった……。自分の息子が恵子ちゃんを自殺に追い込んだと知った彼は、私に命じたよ。『遺書は燃やせ。こんなことが世間に知られたら私は役人を辞めなければならない。おまえも道連れだし、役所の名に泥を塗ることにもなる。絶対に誰にも知らせるな』……とね。結局部長は、自分の息子が引き起こした事件に巻き込まれて地位を失うのを恐れただけだったのだがね。私は腹を立てたが、逆らえなかった。逆らうことはすなわち、今の生活のすべてを捨てることになるからだ。そんな私の弱さに反発して、ケンは自殺を選んだのかもしれないな……」

「しかたないわ。あなたはずっとそうやって生きてきたんですから。いまさら生き方を変えることなんか……」

「たしかに、人間は急に強くはなれないものだな……。とことん傷つけ合わなければ、自分のまわりで何かが狂いはじめたことにさえ気づけない。幸せになりたい……みんながそう思っているはずなのに、どうしてこんな不幸ばかりを招くんだろうな……」

 母親がうなずく。

「恵子ちゃんはね、いつかはケンが自分の味方になってくれると信じて、いじめをじっと我慢していたのね。それに、誠治君に逆らえばケンの立場が悪くなるって心配していたんでしょう。ケンもそんな恵子ちゃんの気持ちを知っていたのに、誠治君の命令を拒否することができなかった。結局何もかも、大人の世界を映し出したにすぎなかったのよ。あの子たちは、鏡に映った私たちの姿なの。それなのに、恵子ちゃんは純粋だった。だからケンを非難することもできず、いじめから逃れることもできず……死ぬしか楽になる方法はなかったのね。それを知ってしまったケンだって、他に選べる道はなかったにちがいないわ……。二人とも、苦しんだんでしょうね……」

 コジロウは叫んだ。

〝違う! ケイコさんはいじめから逃げるために自殺したんじゃない! ケイコさんはいじめと戦って、耐え続けたんだ。ケイコさんは、あんたたちと違って強い人だったんだ。なのに……なのに、殺されてしまったんだ……〟

 父親が言った。

「私は正直いって恐い。恵子ちゃんをいじめていた美紗君は、正気を失ってこの街から去っていった。誠治君の家も、もうメチャクチャだ。そして、私たちのケンは自ら命を絶ってしまった。まるで、誰かが復讐をしているような――」

 母親がとがめるように父親の言葉を封じた。

「やめてください! それじゃあまるで、恵子ちゃんがみんなを呪っているみたいじゃありませんか。あの子はそんなことはしません。私には分かります。恵子ちゃんは心底ケンを好いてくれていたんです。こともあろうに、そのケンを呪うだなんて」

「そうは言っても……」

「私にだって恵子ちゃんみたいな少女の頃があったのよ。あの子の気持ちは痛いほど分かるわ」

 コジロウは悔しそうにつぶやいた。

〝そんなのないよ……ケイコさんだけが損をしなければならないのかよ……〟

 と、父親が言った。

「でも、このままじゃ恵子ちゃんが浮かばれないな。ケンの遺書さえ残しておけば……」

「遺書があったらどうなさるっていうの?」

「公表できるじゃないか? 公にするなと言っていた部長は死んでしまったし、役所にだって未練はない。それより、これ以上こんな悲しい出来事を起こさないようにするほうが大切だ。このまま事実を闇に葬ってしまったら恵子ちゃんだけじゃなくて、ケンもかわいそうだ。なのに、もう何もかも手遅れだなんて……」

 母親はにっこりと笑った。

「やっとその気になってくれました? 私、ずっとそうしたかったのよ」

 父親が母親を見つめる。

「だって、遺書はおまえが燃やしたんじゃ……?」

「ちゃんと取ってありますよ。遺書も日記も。ケンが命と引き替えに残した真実の記録なんですよ。燃やしたりできるものですか」

「そうなのか! よくやったぞ! じゃあ、公開してもいいんだね!」

「もちろんですとも。斜向かいのお家のご主人、新聞記者をなさっているのよ。後でお時間を取って話を聞いていただきましょう」

 父親はかすかに涙を浮かべていた。

「分かった。これで、やっとケンの魂も救われるな……」

 コジロウがつぶやいた。

〝それならいい……。僕も、これでケイコさんのことを忘れることができる。……ありがとう〟

 そしてコジロウは立った。

 テラスから跳んで庭へ降り、ミニーを見上げる。

 ミニーは言った。

〝どこへ?〟

 コジロウは目を合わせずに答えた。

〝僕の役目は終わった。森へ帰る〟

〝でも、ケイコさんを自殺に見せかけた先生はどうするの? その人には復讐をしなくていいの?〟

〝事実は警察が調べだすさ。僕らなんかよりずっとふさわしい罰を下してくれる。あんなにひどいことをした奴なんだからね。それに……僕は……もう疲れた。人間たちのことは何もかも忘れて、ただ眠りたいんだ……。もう街は嫌だ……〟

 そしてコジロウは歩き始めた。

 ミニーが叫ぶ。

〝待って! 私も!〟

 ミニーは母親のひざから降りた。

「ミニー! どこへ行くの?」

 振り返ったミニーは、母親に向かって鳴いた。

〝私の行きたいところへ〟

「待って! お願い、ケンの代わりに私たちのところにいて!」

 父親が母親の手を握って言った。

「母さん、よしなさい。ミニーには、大事な友達がいるようだ。私たちと同じように、やり直させてやろうじゃないか」

 母親はわずかに涙を浮かべてうなずいた。 

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