クリスマスが近づいた街――。

 通りにはジングルベルが流れ、ケーキ屋の前には年中行事の行列ができていた。その足元に、凍える身体を寄せあって走り続けるミニーとコジロウがいた。

 森へ――。

 二人の頭にはそれしかなかった。

 街にとどまれば、これから訪れる冬の厳しさがしのぎやすいことは分かっている。だが、つらい思い出が多すぎた。

 愛しているがために、愛する者を傷つける人間たち。愛し合っていながら、傷つけ合わなければならない人間たち――。

 人間と暮らしをともにする以上は、本来憎しみとは無縁のはずにネコもその渦に巻き込まれてしまう。それは飼いネコの、逃れようのない宿命なのだ。その宿命から開放されるには、ネコを飼う人間の側が憎しみを越える他に方法はない。

 ネコは人に悪夢を見せることより、その心を穏やかに和ませることの方が得意な動物だった。人がネコに心を開きさえすれば、互いに穏やかな関係を持つことができる。ネコは人間を幸せにすることで、自分も幸せになれるはずだった。

 しかしそれは、人が本当に心を開いた時だけだ。なのに人間は、人間同士で傷つけ合うことに疲れ、ネコをささくれた心の逃げ場にしかしない。

 どんなに強い精神力を持ったネコでも、心底疲れ果てた人の心をいやすことは難しい。並みの力しか持たないネコであれば、人の抱えた心の重荷に一緒に押しつぶされてしまうことになる。

 コジロウは、結局は自分がその悪循環から逃れることができなかったことを思い知らされた。

 ケイコは、自分を殺した者さえ許した。

 なのにコジロウは、彼らを許すことができなかった。人間が憎しみから解放されたのもかかわらず、逆にネコが憎しみにとらわれてしまったのだ。

 ネコのコジロウの心が、いつの間にか人間と同じになっていた。

 それに気づいたコジロウは、おびえた。自分がネコに戻るには、もはや人の世界を捨てるしかなかった。

 コジロウはこれ以上、人もイヌも傷つけたくはなかった。

 そしてミニーも、コジロウの気持ちを深く理解した。

 ミニーと気持ちを通じ合ったケンは、一方でケイコも愛していた。なのにケンはケイコを傷つけ、ケイコはケンを傷つけまいとするあまり、自らを死へと追い込んでいった。そしてそのケイコの決断が、ケンをも追い詰めてしまったのだ。

 ミニーには理解できなかった。

 一人一人の人間は優しく、他の人間のことを大切に考えているように見える。なのにその人たちが家や学校で一緒に暮らすと、なぜか優しさが暴力に変わってしまうのだ。

 どうしても理解できなかった。

 理解はできなかったが、人を狂わせる何かが〝街〟にひそんでいるのだと思えた。

 だからミニーは、街を憎んだ。

 街を忘れたかった。

 二匹のネコが傷ついた心をいやせる場所は、もう森にしかなかったのだ。

 彼らは死の危険を覚悟の上で〝街〟を捨てたのだった。

 

          *


 街の喧騒が届かなくなってからさらに数日――。

 二匹は森へ急いだ。そして、目印にしていた農家へたどりついた。

 それは、クリスマスイブの夜だった。

 澄み渡った夜空に真っ白な月が輝いている。その農家の脇を流れる小川をさかのぼっていけば、二匹が出会った森に着けるのだ。

 しかし、寒さは厳しかった。

 食料を狩る間も惜しんで走り続けてきたコジロウには、もう体力が残っていない。ミニーの精神力も消耗しきっている。

 二匹を突き動かしていたのは『一刻も早く森に帰りたい』という願いだけだった。

 農家の明かりを目の前にして足を遅めたミニーの鼻先に、ひとひらの雪が舞い落ちる。〝寒い……〟

 コジロウも、鋭い寒さに身を切り裂かれる思いだった。

〝あそこに明かりが……少し休もう……〟

 ミニーはうなずき、コジロウに寄り添って小川の脇の家に向かった。

 農家の建物は傷んでいた。壁は所々が朽ちて、その上に真新しい板が打ちつけてある。かつては一色で塗られていたらしいペンキもはげ、さまざまな色が塗り重ねられていた。しかも壁にはさまざまな道具や大小の木箱が立てかけてあり、まるでボスが暮らしていた廃材置場と同じように雑然としている。

 街の、人工的な小綺麗さとは違う。

 貧しいのだ。

 だが、その木箱の間にはたくさんの隙間があった。体を寄せ合い、休める場所が。

 二匹は身体の大きさにちょうど合う隙間を探してもぐり込んだ。

 互いの体温が相手に届く。家の中からのほのかな温もりも隙間を暖めていた。

 コジロウはつぶやいた。

〝あったかい……。なんてあったかいんだ……〟

 ミニーも幸せそうにうなずく。

〝何だか久しぶりね……こんなあったかいところで眠るの。ずっと急いできたから、ろくに食べ物も取らなかったし……〟

〝一晩休んだら、何か食べ物を探そう。何日かここで休んでいってもいい〟

〝ちょっと、無理をしすぎたみたいだものね……〟

 コジロウの目に、不安がにじむ。

〝ごめんね。僕の身勝手でこんなところまでつきあわせてしまって……〟

 ミニーは、さらに体をすり寄せた。

〝だけど、私たち、生きている〟

 コジロウの声は、暗い。

〝うん……生きているけど……〟

〝なに?〟

〝生きていてもいいんだろうか……あんなことをしてしまったのに……〟

 ミニーは、とっくに結論を出している。

〝それは、神様が決めること〟

〝でも……僕はもう、怪物なんだよ……?〟

〝それなら、私も怪物。神様があなたを罰する時は、私も罰を受ける時〟

〝君には生きてほしい〟

〝私は、あなたと一緒にいる。死ぬ時も〟

〝これで良かったんだろうか……〟

 ミニーは少し笑った。

〝あなたは、他の道を選べなかった。わたしも、あなたしか選べなかった。だから、いいの。これで〟

〝うれしいけど……それがつらい。……でも、ありがとう〟

 言いながら、コジロウに目蓋は下がりはじめた。

 互いの温もりが互いを包む。張り詰めていた気持ちが、急速にゆるんでいく。

 と、不意にミニーが言った。

〝コジロウ?〟

〝ん?〟

〝わたし、どうしてケンさんの心が読めなかったんだろう……。ケンさんが他人をいじめていたなんて、全然知らなかった……。今でも、それだけが悔しくて……〟

〝街のことは忘れようよ〟

〝街のことなんかじゃない。これはケンさんとわたしのこと。どうしても分からなくて……。毎晩身体を触れ合わせて眠っていたのに、ケンさんの本当の気持ちが見抜けなかっただなんて……。あなたがケイコさんのことを全部知っているのが、とても羨ましい……。なぜわたし、何もできなかったの……?〟

〝僕は、ケイコさんが何もかも話してくれたから知っていただけだ。心の中のことを読み取ったわけじゃない。ネコ同士のように心を読むなんてことは、人間が相手じゃできっこないのさ〟

〝でも、ケンさんは何も話してくれなかった……。わたしを信じていなかったのかしら……〟

〝そうじゃない。きっと君に重荷を押しつけたくなかったんだ。だから自分の苦しみを遺書の中に詰め込んで、じっと耐えていたに違いない。そうやって、きっと自分を罰していたんだ。ケンさんは、君を愛していたんだよ。愛し方は人それぞれだ。ケンさんとケイコさん、僕と君を比べることなんかできない〟

 ミニーは少し笑った。

〝そうね……。それならわたし、今度こそ本当にケンさんを忘れることができる〟

 コジロウはうなずいた。

〝君は君なんだからね。僕の愛するネコさんなんだ〟

〝ありがとう、コジロウ……〟

 二匹はほほえみ合い、身を寄せて眠ろうとした。

 その時、廃材の間に鼻先をつっこんでうなり声を上げたネコがいた。

〝てめえら! 何者だ⁉〟

 コジロウは身を硬直させながらも、ミニーをかばうように身を動かした。

 身体の大きな黒ネコだった。

 コジロウは思わず目をむいてつぶやいた。

〝ボス……?〟

 ミニーが言った。

〝そんなはずはないわよ……〟

 黒ネコが言う。

〝どこから来やがった? 見かけねえ顔だな。街から来たのか?〟

 コジロウは懇願した。

〝お願いだ、休ませてくれ……。せめて明日の朝まで……〟

 その黒ネコはうなり声を止めた。

〝おい……怪我をしてるのか?〟

 ミニーがコジロウの陰から顔を出してつぶやく。

〝やっぱり、ボスなの……?〟

〝誰だ、ボスって?〟

〝違うの……? そうよね……ボスは死んでしまったんですものね……〟

〝怪我をしているのかって聞いているんだ〟

〝ええ、少し……〟

 コジロウが言った。

〝腹も減っている……〟

 黒ネコはうなずいた。

〝待ってろよ〟

 そして黒ネコは消えた。

 コジロウはぼんやりと考えた。

〝あいつ、何をしに行ったんだろう……?〟

 しかし二匹は、襲ってくる睡魔には勝てなかった。

 ミニーがつぶやく。

〝なんだか、寒い……寒いわ……〟

 二匹は眠った。

 

          *


 目をさました時、二匹は暖かいストーブの前で横にされていた。

 ぼんやりと目を開けたミニーの前で、彼らに『待っていろ』と言ったネコがほほえんでいる。

 黒ネコは言った。

〝食えよ〟

 そこには、皿に盛られた煮魚が置いてあった。

 ミニーはコジロウを突いて起こし、魚をむさぼった。コジロウも状況が分からずにおびえながらも、魚の匂いに吸い寄せられる。

 その姿を、家の主人がにこにこと見守っていた。少し太り気味の、中年の男だった。

 男は、年季が入った旧式のストーブに薪をくべながらのんびりと言った。

「クリスマスイブにネコのお客さまとはね。ま、にぎやかになっていい。あいにく女房は入院中なんでろくなおもてなしはできないが、暖まっていきなさい。もうすぐ、私たちの子供が産まれるんでね」

 黒ネコも笑った。

〝俺にもガキができるんだぜ。ほら〟

 黒ネコが鼻の先で示した場所には、毛布にくるまったネコがいた。背中にうっすらと淡いシマがある白ネコだ。その腹はでっぷりとふくらんで、腹に並んだ乳首もぱんぱんに張っている。

 彼らは揃って、魚に食らいつくコジロウとミニーを笑いながら見守っていた。

 母ネコが言った。

〝とってもお腹が空いていたのね。ご夫婦なの?〟

 食事の手を休めてミニーが答えた。

〝ええ。一緒に森に帰るところだったの。でも、なぜ私たちを助けてくださったの?〟

 母ネコは不思議そうに質問を返した。

〝あら、助けちゃいけなかった?〟

 コジロウが言った。

〝僕らが見てきた街のやり方とは違うから……〟

 黒ネコは鼻の先で笑う。

〝おまえら、それで街を捨ててきたのか? なかなかやるじゃないか。ここのご主人も、もとは街に住んでいたらしい。そこの暮らしが嫌になって、こっちに移ってきたんだとさ。俺たちはここの生まれで街のことは何にも知らねえが、相当息苦しいところらしいな。ご主人はいつも『街なんか生き物が住む世界じゃない』って言っているぜ。だからここのご主人は俺たちを自由にしてくれるし、俺たちもご主人に力を貸している。お互い様で暮らしているのさ。やっぱり、街とは違うのかい?〟

 ミニーがうなずく。

〝うん。全然違うみたい〟

 主人がほほえみながら黒ネコの背にふれる。

「おまえたち、何を話しているんだ? 私にも教えてくれよ」

 黒ネコは主人の手に鼻をすり寄せる。

〝『好きなだけここで暮らしていればいいよ』って言ったんですよ〟

 主人がうなずく。

「ま、喧嘩にならなくてよかった。新入りさんたちは、好きなだけここで暮らしていっていいんだよ。大したご馳走はあげられないけど、ネコ二匹ぐらいの食料はいつでも用意できるから。近くで釣れる魚ばかりだけど。家が古いから隙間風は入るけど、外で眠るよりは快適だろう?」

 黒ネコが笑った。

〝な〟

 コジロウは驚いた。

〝君のご主人はネコの言葉が分かるのか⁉〟

〝まさか。ただ、ときたま気持ちが通じるだけさ〟

 ミニーはつぶやいた。

〝本当に? 人間がネコの心を見抜くの?〟

 黒ネコは当然のことのようにうなずく。

〝俺にもご主人お気持ちが分かる時があるぜ。いつも、ってわけじゃないけどな〟

 ミニーはつぶやいた。

〝優しい人たちね……〟

 コジロウもうなずく。

〝何だか、別世界みたいだ……。なぜ人間たちは、みんなこんなに暖かい世界に住めないんだろう……〟

 黒ネコが言った。

〝人間が悪いんじゃねえよ。街が人間をおかしくさせちまうのさ。生き物には、自分のままでいられる場所が必要なんだ。まわりに他人が多すぎると、気が休まらねえ。寂しすぎるのもよくねえが、休みなしに他人と鼻ずら突き合わせてるのはもっとよくねえ。こっちのやりてえことがあっちの迷惑だったり、あっちの当たり前がこっちには我慢できなかったり、な。ちっこい街にぎゅうぎゅう詰めにされたら、誰だって息が詰まって気が変になっちまう。ここのご主人は利口だ。それが分かっているから、二度と街には近づかねえ〟〝そのとおりだ。人間は、みんな何かに縛られて苦しんでいた……〟

〝俺たちネコは、そんなことに関わっちゃいけねえんだ。さ、そんなことより、食ったら眠りな。疲れているんだろう?〟

 コジロウはうなずいた。

〝ありがとう……〟

 ミニーはコジロウに寄りそい、彼の腹に鼻を押しつけてつぶやいた。

〝暖かいわ……幸せ……〟

 コジロウはミニーの毛をなめた。

〝うん……幸せだ……〟

 そして二匹は、警戒心を解いて眠った。

 深く、深く、眠った……。


          *


 クリスマスの朝、外は降り積もった雪で銀色におおわれていた。

 そしてその朝、二匹もストーブの前で身を寄せ合い、冷たくなっていた。

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