第四章・クリスマスの雪

 廃材置場の小さな水たまりが底まで凍りついた朝、ボスは死んだ。

 ボスとコジロウは土佐犬との死闘で深い傷を負い、ミニーの助けを借りて命からがらねぐらに帰った。そして、ともに意識を失ったのだ。

 ミニーも尻尾の半分を食いちぎられるという重傷を受けたが、幸い化膿は軽く、二匹のオスのためにゴミ捨て場から食料をくわえて往復する毎日を続けることができたのだ。

 そうして一週間――。

 コジロウは次第に体力を回復したが、すでに老年に達していたボスは内臓に受けたダメージをいやしきることができなかった。そして厳しくなる一方の寒さが、残された体力を容赦なく奪っていった。生まれついての野良ネコであったために栄養状態が悪いことも、ボスにとっては不運だった。

 その朝、目覚めたコジロウは鼻の先でボスの脇腹をつついた。

〝おい……起きろよ……〟

 ボスは硬く、冷たくなっている。

〝起きろって……起きてくれよ……たのむから……〟

 コジロウは言いながら、悲しみをこらえている。ボスがすでに死んでいることは分かっているのだ。

 コジロウに寄りそったミニーが、ぽつりと言った。

〝また、二人になっちゃったね……〟

 コジロウはうめいた。

〝そんなことはない! こいつは死んだりしない! こんなに野蛮な野良ネコが、簡単に死んでたまるもんか……〟

 コジロウは、ボスの身体を温めるかのようにぴったりと身を寄せている。

〝死んでたまるかよ……こんなことぐらいで……〟

 ミニーは小さくうなずいた。

〝そうよね……。しぶとい野良ネコさんだもの、きっとどこかで生まれ変わっているわよ。今度は野良ネコなんかじゃなくて、優しい人間と暮らせるといいわね……〟

 コジロウは涙をこらえながらうめいた。

〝こいつなら『人間に飼われるのはごめんだ』って言うだろうがね……。なにも、助けに来なくたってよかったのに……。そうすれば、まだまだ親分面をしてのさばっていられたのに……〟

 コジロウの頭にボスの言葉がよみがえる。


          *


 ねぐらに戻ってからずっと高熱にうかされていたボスは、それでも意識が戻った短い間にコジロウと話を交わしていた。

 コジロウは尋ねた。

〝何だって助けにきたんだ? あんなに危険なイヌを相手に……〟

 ボスは傷口に繁殖した細菌と戦いながらも、心地よさそうにほほえんだ。

〝何でなのかな……俺にも分からねえや。仲間を助けるなんざあ、天涯孤独の野良ネコがやることじゃねえもんな……。でもよ、おまえらのことが気になってしかたなかったんだ。何の得にもならねえのに、人間やイヌ相手に戦争なんか仕掛けやがって……。そういう無茶に血が騒いじまったんだよな……。俺も、おまえと同じバカだからな……。 最初は、ただおまえらが何をするのか見届けるだけのつもりだったのによ……。イヌに襲われているのを見たら、黙っていられなくなっちまってさ……〟

 とぎれとぎれに話すボスに、コジロウは言った。

〝分かった。もうしゃべらなくていい。本当に感謝している。君が来てくれなかったら、僕たちはあのイヌの餌になっていた〟

 ボスは精一杯かっこをつけて、鼻先で笑った。

〝感謝なんかされる柄じゃねえ。俺だって、あんなの獰猛なイヌを相手に互角に戦ったんだ。親分としては、もう思い残すことはねえ。前からずっと、こんな派手な立ち回りをやってみたかったのさ……〟

 コジロウはうなずいた。

〝本当にバカな奴だよ、おまえは〟

〝お互いに、な〟

 ボスのねぐらには、ときたま差し入れをくわえた野良ネコたちもやってきた。

 ボスに野良ネコ暮らしのノウハウを教え込まれた若い衆や、子種を仕込まれたことのあるメスたちだ。

 彼らは一様にボスを恐れてはいたが、畏敬の念も抱いていたのだ。ボスはそれだけ強い力を持った、ネコ社会の中心だった。

 そして見舞いに訪れるネコたちからの情報で、役人一家のその後が判明した。

 母親は殴られたはずみに頭を打って入院中。子供も竹刀で滅多打ちにされて同じ病院に通っている。

 当然学校には行けずに、私立進学高校への道は絶たれた。一流大学から高級官僚へというエリートコースも手の届かぬものになった。しかし受験勉強から開放された子供の方は、逆に性格が明るく、優しくなったとも聞く。

 土佐犬に喉を食いちぎられた父親はその日のうちに絶命した。

 しかしそれは、ある意味では幸運だとも言えた。

 たとえ命をとりとめたとしても、その先には汚職を追求する捜査機関の厳しい調査が待ち構えていただけだったのだから。

 上司の汚職によって地位を失いかけていた高級官僚の突然の転落は、しばらくの間マスコミをにぎわせた。だがマイクやカメラを抱えてワゴン車を連ねた報道陣が取材していったのは、主人の性格の二面性や豪奢な私生活、そして公費で賄われてきた派手な接待の実態ばかりだった。

 ケイコを〝殺した〟その息子は、今では横暴な父親に人生を歪められた〝被害者〟でしかなかった。

 彼がケイコを死に追いやった張本人であることには誰一人気づかない。

 そして主人の命を奪った土佐犬は、保健所ですみやかに処分された。

 それを知ったボスは、こうつぶやいた。

〝考えてみれば、あのイヌもかわいそうな奴だよな……。いつも主人に八つ当りされていたんだから、気持ちがねじ曲がったってしかたねえじゃねえか。なのに人間に反抗すれば、あっさりとあの世に送られちまう。どうして奴の気持ちがあんなに歪んでしまったのか……そんなことは誰も考えやしねえ。ただ人に噛みついたってだけで、頭っから処分だと決めつけやがる。何が大事なことか、人間はさっぱり分かっていやがらねえんだ。あのイヌころだって、もっとましな飼い主にさえ当たっていれば、こんなバカげたことはしなかったにちがいねえのにな……〟

 コジロウはうなずいた。

〝でも、あいつは自分の力で飼い主に復讐をしてから死んでいった。主人面した最低野郎に食いついた時は、さぞ幸せだったろうさ。でも、ケイコさんは何もできずに殺されてしまったんだ。自分を突き落とした張本人が、実の父親にいじめられていた人間だっていうことも知らずにね。それさえ知っていれば、もしかして話し合う方法もあったかもしれないのに……。なのにケイコさんは、あいつらまで許すと言って……〟

 声をつまらせたコジロウに、ミニーがつぶやく。

〝いじめられるつらさがあれほど分かっている人が、どうして平気でケイコさんをいじめられるんだろう……? 私には人間のやることが全然分かんない〟

 コジロウがかすかにうなずいた。

〝ケイコさんは、父さんにも母さんにも愛されていた。勉強を押しつけられたことなんかないし、中学に入ってすぐの頃は好きなピアノに打ち込んで幸せそうだった。『成績』っていう点数は良くなかったみたいだけど、父さんも怒ったりしなかったしね〟

〝いじめた子たちに迷惑をかけたこともないんでしょう?〟

〝もちろん。でも僕は、だからこそケイコさんはいじめられたんだと思う。あいつらは、親の言いなりにされて、次から次から勉強を押しつけられて息を詰まらせていた。あれをしろ、これはするな、もっと頑張れ、休むんじゃない、って……。なのに成績が悪いとか不良だとか言われていたケイコさんは、ピアノだけに熱中して幸せそうだった。あいつらはケイコさん自身ではなくて、自由に生きることを許されていたケイコさんの幸せを憎んだんだ、きっと……〟

〝そんな……。そんなことをしたって、自分たちの暮らしがよくなるはずないのに。他人に八つ当りするぐらいなら、自分の親と喧嘩をした方がましじゃない……〟

 ボスが首を振る。

〝喧嘩ができる気力があるなら、はじめから親の言いなりになったりしねえ。結局、他人を踏みつけにする奴ほど心が弱いんだ……〟

 コジロウがうなずく。

〝僕にもそれがはっきり分かったよ。二人目の家族は、僕が何もしなかったのに勝手にばらばらになってしまった。しまいには、殺し合いだ。あんなのは家族とは呼べない。家族のふりをしてお互いに傷つけ合っていただけだ。復讐する価値もない連中だった〟

 ミニーが目を輝かせた。

〝じゃあ、もう復讐は終わり?〟

 しかしコジロウは目を伏せた。

〝そうはいかないよ……。だってそうだろう? こんな騒ぎになったっていうのに、あいつらがケイコさんをいじめていたことは――ケイコさんがあいつの手で殺されたことは、誰も知らないんだよ。それどころか、今じゃ殺した張本人まで『親にいじめらていた、かわいそうな少年』ってことになっているっていうじゃないか。そんなの不公平すぎる。ケイコさんを殺したのはものの弾みかもしれない。いじめた原因はやつらの親のせいかもしれない。だけど、殺してしまったことに変わりはない。ケイコさんが殺されたことに変わりはない。僕はみんなにそれを分かってもらいたい。だから三人目の奴には、テレビで本当のことを話してもらいたいんだ〟

〝テレビで? そんなことできるの?〟

〝化けネコを見せて『テレビ局に本当のことを話せ』って言ってやる。きっとうまくいく。本当のことが分かれば、ケイコさんの魂も少しは救われる〟

〝でも、ケイコさんはみんなを許すって……。自分を殺したあいつだって許すって、はっきり言ったのよ?〟

〝僕は許せない! そんなインチキがあってたまるものか! 僕に力があれば、ケイコさんが殺されたことを隠した教師だって殺してやりたいぐらいだ。でも、僕の〝夢〟では弱すぎて大人には通用しない。せめて……せめて……〟

 ボスはミニーをかばうように、かすかに笑った。

〝おまえはいつまでたっても、ケイコさん、ケイコさん……だな。少しはミニーのことも考えてやれよ。いいもんだぞ、子供をこしらえるのは〟

 ミニーが恥ずかしそうに言った。

〝わたしも……子供がほしい〟

 コジロウがうなずく。

〝最後の家にはイヌもいないはずだ。危険はないさ。もう体力もついてきたし、長くはかからないだろう。街で冬を越して春になったら、一緒に森に帰ろうね〟

〝うん……〟

 ボスはわずかに羨ましさをのぞかせて言った。

〝おまえ、本当にケイコって女の子が好きだったんだな……。そんなにいい飼い主だったら、俺も飼われてみたかったな〟

 ミニーが言う。

〝ケンさんだって優しかったわよ〟

 ボスは笑った。

〝人間か……。俺、一度も一緒に暮らしたことがないからな……。冬の最中に暖かい家の中でごろごろしていられるっていうのは、呑気で幸せかもしれねえな……〟

 それがボスの最後の言葉だった。

 それ以来ボスは意識を取り戻さず、そして、冷たくなっていったのだ。

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