第7話小雪×桔梗【初体験】Heaven&Hell

◆◆◆◆◆


桔梗は忙しい男だ。

それは今に始まったことじゃない。

1年中、365日いつでも忙しいのだ。

しかも桔梗が忙しい年末年始を過ごすのは幼い頃から毎年のことである。

父も祖父も曾祖父も、如月家の男達は代々如月組の組長を務めてきた。

組には独特な年末年始の行事があるためもともと忙しい桔梗にも拍車がかかる。


12月を師走というくらいだから年末忙しいのは誰でも同じだ。

しかし如月組の若頭を務める桔梗の忙しさは尋常ではなかった。

特にここ数週間はいつにも増して忙しそうである。


小雪はちらりと壁時計に視線を向けて時間を確認する。

ただいまの時刻は午前2時を過ぎている。

だけど桔梗はまだ帰ってこない。


毎日夕食を準備しているがそれも無駄になる日が続いている。

……今日も無駄になっちゃうのかな。

小雪がそんなことを考えている時、玄関の方で物音が聞こえた。


小雪はソファから立ち上がると、玄関に急いだ。


玄関で靴を脱いでいる桔梗に

「おかえりなさい」

小雪は声を掛ける。


「ただいま。まだ起きていたのか?」

「はい」

「先に休んでいていいのに……」

「まだ眠くなかったので」

「そうか」

リビングに向かう桔梗の後を歩きながら

「お腹は空いてないですか?」

小雪は尋ねる。

「あぁ。会食があったから」

「そうですか。なにか飲みますか?」

「熱い緑茶が飲みたいな」

桔梗からのリクエストに

「分かりました。すぐに淹れますね」

小雪はキッチンに向かう。

「ありがとう」

小雪の背後から桔梗の声が追いかけてきた。


桔梗の前に湯呑を差し出す。

「どうぞ」

「ありがとう」

湯呑を受け取った桔梗はそれを口に運び、一口飲むと深く息を吐いた。

「お疲れですね」

小雪は思わず声を掛ける。

「ん?」

「そう見えたので」

「そうだな。疲れてないって言ったらそれはただの強がりになってしまうな」

珍しく桔梗は疲れていることを認めた。

それは桔梗がかなり疲れている証拠だった。

「そうですね」

ふわりと小雪は笑う。

それにつられるように桔梗も笑みを零した。


小雪は疲れている桔梗に何かしてあげたい気持ちはあったが、なにもできないことに無力さを痛感していた。


「あぁ、でもこの時期は忙しくて当然だからな」

「そうなんですか?」

「あぁ、この時期に暇だと逆にまずい」

「そうですか」

「忙しいのは元旦を挟んで1ヶ月程度だ。これが永遠に続くわけじゃない」

気丈に振る舞う桔梗に

「無理だけはしないでくださいね」

小雪が掛けた言葉は彼女の心からの言葉だった。

その気持ちが伝わったのか

「あぁ、ありがとう」

桔梗は素直に頷いてくれた。


◇◇◇◇◇


数日後の朝。

起きてきた桔梗の顔を見て、小雪は思わず声を掛けた。

「あの桔梗さん」

「ん?」

「もしかして体調が悪いですか?」

「いや、別になんともないけど」

「本当ですか?」

「あぁ」

「そうですか」

……桔梗さんの顔色が悪い気がする。

小雪はそう思い尋ねたのだが、桔梗はなんともないという。

……気のせいかな。

小雪が考えていると

「なんでそんなことを聞くんだ?」

桔梗に尋ねられた。


「なんだか顔色が悪いような気がしたから」

「気のせいだろ」

「そうですかね」

「もしくは……」

「……?」

「昨日飲みすぎたせいで、まだ酒が残ってるのかもしれないな」

桔梗が言う通り、昨晩も彼は帰りが遅かった。

会合や付き合いがあったらしく帰宅した桔梗からは酒の匂いがしていた。

それを思い出した小雪は

「あぁ、そうかもしれませんね」

納得した。


「小雪、お茶を淹れてくれるか?」

「はい。朝食はどうしますか?」

「今日は和食? それとも洋食?」

「和食です」

「そうか。あまり食欲がないんだ」

「少しだけでも食べたほうがいいですよ」

「そうだな。じゃあ、みそ汁だけもらおうか」

「分かりました」


その朝。

桔梗は食欲がないにもかかわらず小雪が作ったみそ汁だけはちゃんと食べてくれた。


◇◇◇◇◇


その数時間後。

昼過ぎに家事を終え、一段落ついた小雪は考えていた。


……今日も桔梗さんは帰りが遅いのかな?

夕食は何にしよう。

桔梗さんは疲れているからさっぱりと食べられて、栄養がしっかりと摂れるものがいい。

小雪はパソコンでレシピを検索をする。

冷蔵庫の中にある食材を思い出しながらマウスを動かしている時だった。


来客を知らせるインターホンが鳴った。


……えっ? 誰?

聞きなれないインターホンの音を聞いた瞬間、小雪は戸惑いを感じた。

来客者がインターホンを鳴らすことは珍しいことなんかじゃない。

だけどこの家に来客者があることはとても珍しいことだった。

このマンションのこのフロアーには桔梗の部屋しかない。

セキュリティーがかなり強化してあって、エントランスにはコンシェルジュが24時間365日常駐しているし、このフロアーには専用のエレベーターを使用しないと上がってくることは不可能なのだ。

一般的なマンションはエントランスにインターホンがあり、そこから部屋主に連絡を取ることができる。

でもこのマンションはエントランスにインターホンはない。

その代わりにコンシェルジュに目的の部屋番号を伝え、取次ぎを頼まないといけない仕組みになっている。

だけどコンシェルジュに頼んだからと言って誰でも取り次いでもらえる訳じゃない。

コンシェルジュは部屋主から事前に許可を受けている人物しか取り次いでくれないのだ。

桔梗が取次ぎを許可しているのは、一ノ瀬だけ。

小雪が知る限りではそう認識している。

なぜならば一ノ瀬以外の人がここを訪ねてきたことはないのだから。

その一ノ瀬だって、桔梗が留守の時、何か用事があってここに来るときは前もって連絡がある。

だけど今日はなにも連絡を貰っていない。


珍しい来客に小雪は困惑し、オロオロとしながらもインターホンのモニターに歩み寄る。

モニターを確認した小雪は

「……えっ!?」

驚いた声を発して、すぐに玄関に走った。


玄関のドアを開けるとそこには桔梗が一ノ瀬に支えられるようにして立っていた。

「ど……どうしたんですか?」

桔梗は小雪の声に閉じていた瞼を微かに開いたのだが、辛いのかすぐに閉じてしまった。

顔色も悪く呼吸も荒い。

喋ることもできない桔梗の代わりに

「どうも風邪をひいてしまったみたいで」

答えたのは一ノ瀬だった。

「えっ? 風邪ですか?」

「うん。とりあえず中に運んでもいい?」

「は……はい」

小雪はスリッパのまま一旦、外に出てドアを支える。

桔梗が一ノ瀬に支えられ中に入ったのを確認してから、小雪も中に入りドアを閉める。

「寝かせたいから寝室に入っても大丈夫?」

一ノ瀬に聞かれ

「大丈夫です」

小雪は即答した。


小雪は一ノ瀬の脇をすり抜け、先回りして寝室のドアを開ける。

起きてすぐにシーツを交換しベッドメイキングして掃除も済ませていたので一ノ瀬を寝室に入れるのもそんなに抵抗はなかった。

……いや、もしそれらが終わってなくてもこの状況では気にする余裕はなかったかもしれない。

予期せぬ桔梗の帰宅に小雪はかなり動揺していた。

それでもパニック状態に陥らず、なんとか冷静さを保っていられたのは一ノ瀬が全く慌てていなかったからだ。


小雪がベッドカバーと掛布団をめくると、一ノ瀬が桔梗をそこに座らせる。

小雪はクローゼットから桔梗の着替えを取り出す。


「俺が着替えさせておくから、飲み物を持ってきてもらってもいい? 薬を飲ませないといけないんだ」

「分かりました」

「本当は少しでもなにか食べたほうがいいんだけど食欲はないみたいだから……」

「それならスムージーを作ってきましょうか?」

「あぁ、それなら飲めるかも」

「すぐに持ってきますね」

小雪は部屋を飛び出していった。


◇◇◇◇◇


野菜と果物のスムージーとミネラルウォーターを持って小雪が寝室に戻ると、桔梗は着替えを終えてベッドに横になっていた。

「これでいいですか?」

「うん、ありがとう」

小雪から飲みものを受け取ると

「カシラ、ちょっといいですか?」

一ノ瀬は桔梗に声を掛ける。


「……ん?」

「これを飲んでください」

一ノ瀬は桔梗の身体を支えるようにして身体を起こすと、まずスムージーのグラスを手渡した。

「……ん」

「それを飲んだらこの薬を飲みます」

桔梗がスムージーを飲み終える少し前に、また声を掛ける。

すると桔梗はスムージーを飲み終え

「……ん」

グラスを一ノ瀬に渡すと差し出された薬を口に放り込む。

タイミングよく一ノ瀬がミネラルウォーターのグラスを差し出すと、桔梗がそれを口に運ぶ。


桔梗が薬を飲んだことを確認した一ノ瀬が

「よし。じゃあ、しばらく寝てください」

そう声を掛けると、

「……分かった」

桔梗はもぞもぞと布団に潜る。


息の合った2人のやり取りを見つめていた小雪に

「ちょっと出ようか」

一ノ瀬はドアの方を指さして言った。


「はい」

小雪はそれに素直に従って部屋を出る。


リビングに移動すると一ノ瀬が説明してくれた。

「朝から顔色が悪いなと思ってたんだ」

「あっ、私もそう思って桔梗さんに聞いたんです」

「カシラは『大丈夫』って言ったんだろ?」

「どうして分かるんですか?」

「いつものことだから」

「いつものこと?」

「そう、カシラって自分の体調には鈍感なんだ」

「鈍感?」

小雪が首を傾げると

「そう」

一ノ瀬は困ったような笑みを浮かべた。


「それってどういう意味ですか?」

「忍耐強いっていうか、我慢強いっていうか……普通の人間なら体調が悪いと思う程度でも普通に動いちゃう人なんだ」

「そうなんですか?」

「カシラって自分の体調管理もしっかりできる人ではあるんだけど、いくら気を遣って管理していても人間なんだから体調を崩すことはある」

「うん。そうですよね」

「あぁ、でもそういう時もちょっと体調が悪いって感じていても休もうとか考えないし、なによりも周囲に隠そうとする癖があるんだ」

「どうしてですか?」

「カシラは他人に弱みを見せたくない人だから」


……あぁ、そうか。

桔梗さんって確かにそういう人かもしれない。


「でも、さすがに生身の人間だから限界っていうのがあって」

「はい」

「限界を超えると今回みたいにぶっ倒れてしまうんだ」

「えっ? 桔梗さん、倒れたんですか?」

「朝一でホテルで商談があったんだけどそこではいつもとなんら変わりはなかったんだ」

「えぇ」

「で、相談が終わって車の乗った瞬間に意識を失って」

「えっ⁉」

「そこで俺は初めて高熱があることに気が付いて、そのまま病院に連れて行ったんだ」

「そうだったんですね。それで病状の方は……」

「おそらく疲労と風邪が熱の原因だって。点滴を2本打ってもらって今はだいぶん落ち着いている。とりあえずしばらくの間、安静に寝てれば悪化はしないだろうって」

「……良かった」

「途中、ここにも連絡を入れようと思ったんだけど、余計に心配させるかなと思って」

「お気遣いありがとうございます」


一ノ瀬の言う通り、もし途中で連絡を貰ったとしても小雪は焦ってパニックになるだけだっただろうと思った。

だから一ノ瀬の判断に感謝した。


「組長にも報告は済んでて、しっかり休ませるように言われてるから仕事の方は何も心配はいらないから」

「じゃあ、しばらくはゆっくりできるんですね?」

「うん。年末年始のカシラの予定は代理の人間で補うことになったから、カシラにはゆっくりしてもらえる。風邪と疲労は安静がいちばんの薬だから」

「そうですね」

「そもそもこの時期はいろいろと忙しいから体調を崩しやすいんだ」

「一ノ瀬さんも気を付けてくださいね」

「俺?」

「はい」

「俺はそんなに真面目に働いていないから大丈夫だよ」

一ノ瀬は手をひらひら仰ぐように動かしながら笑っていた。

いつもはどうか分からない。

でも桔梗がこんな状態の今、少なからず一ノ瀬の負担は増えているはずだ。

おそらく小雪や桔梗が気を追わなくていいように言っているんだと小雪は気付いた。


「それでカシラの体調が戻るまで看病が必要なんだけど、頼めるかな?」

「もちろんです」

「良かった。もしまた悪化したりしたら連絡をもらえたらすぐに来るから」

「はい」

「それから必要なものは、あとから届けるよ」

「お願いします」

小雪が頭を下げると

「こちらこそお願いします」

それ以上に一ノ瀬も深々と頭を下げた。



◇◇◇◇◇


それから桔梗は3日間、熱が下がったり上がったりを繰り返した。

その間、小雪は付きっきりで献身的に看病をした。

食欲のない桔梗の為に少しでも食べやすいものを作り、病院で指示をされた通りに薬を飲ませる。

熱があって汗をかくので、こまめに着替えをさせ、体温の変化によって室温にも気を配る。

その甲斐があって、4日目には完全に熱も下がり食事も自分で食べられるようになった。

ベッドから降りた桔梗はまずシャワーを浴びたがった。

小雪は

「もう少しの間は止めといたほうがいいですって」

そう言って説得を試みたが

「無理だ」

桔梗は全く聞く耳を持たなかった。


仕方なく小雪は湯船に湯を張り、ちゃんと身体を温めてから上がることを条件に許可した。

寝込んでいる時は、素直でちゃんと言うことも聞いていたのに……。

小雪は思わずため息を吐いたが、桔梗が元気になった証拠だといい方に考えることにした。


バスルームから出てきた桔梗はすぐに寝室に向かった。

……もしかしてまた体調が悪くなったのかも……。

心配した小雪が慌てて様子を見に行くと桔梗はクローゼットを開け、着替えをしていた。


「なにをしているんですか?」

「ん? 着替え」

「着替えてどうするんですか?」

「仕事に行ってくる」

「……はい?」

「なんだ?」

「まだ熱が下がったばかりですよ」

「熱が下がったんだから仕事に行くのは当然のことだろ?」

「……いや、もうしばらくはゆっくりしておいた方が……」

「十分に休んだから大丈夫だ」

きっぱりと断言した桔梗をこれ以上止める自信がない小雪はリビングに行くとすぐに一ノ瀬に連絡をした。


『なんかありましたか?』

開口一番そう聞いてきた一ノ瀬に、小雪は事情を説明した。

すると

『分かりました。大丈夫ですよ。小雪さんはそのままなにもしなくていいですから』

一ノ瀬はそう言って通話を切ってしまった。

そのまま何もしなくていいと小雪は言われたが、落ち着かずリビングを右往左往していた。

すると寝室から桔梗のスマホの着信音が聞こえてきた。

どうやら桔梗に誰かから電話がかかってきたらしい。

小雪は立ち止まり耳を澄ませたが、当然のことながら話声は全く聞こえなかった。


しばらくすると桔梗が寝室から出てきた。

着替えをしていたはずの桔梗は部屋着を着ている。


様子を窺うように見ていた小雪の視線に気付いた桔梗が

「しばらく仕事は休まないといけないらしい」

溜息交じりに言いながら、ソファに腰をおろした。

「えっ? そうなんですか?」

「あぁ、今組長から連絡があって年明けまでは事務所に来るなって言われた」

「年明けまで?」

「あぁ、他の組員に風邪がうつったらどうするんだって怒鳴られた」


……そうか。

一ノ瀬さんは組長さんに頼んで仕事に行こうとする桔梗さんを止めてくれたんだ。

小雪は気が付いた。


小雪の言うことは全く聞かない桔梗。

だけどさすがに組長の言うことは聞くらしい。

小雪は一ノ瀬と組長に感謝しながら

「それなら仕方ないですよ。ゆっくりしていてください」

桔梗の前に淹れたてのお茶を置いた。

そのお茶を口に含み

「そうだな」

桔梗がぽつりと呟く。

「すぐに食事の準備をしますね」

「あぁ、頼む」


小雪が食事の準備に取り掛かろうとしていると

「……なんか……」

桔梗が口を開く。

「はい?」

「することがないと落ち着かないな」

「そうですか?」

「あぁ、年末年始は猫の手を借りたいぐらい忙しいのが普通だからな」

「もしかしてのんびり過ごす年末年始って初めてですか?」

「……そう言われてみれば初めてかもしれない」

「じゃあ、初体験ですね」

ふんわりと笑顔を浮かべる小雪に

「……初体験か……」

桔梗はそう繰り返した。



小雪×桔梗 【初体験】完結

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