第2話 葵×ケン【約束】前編 Pure Heart番外編

◆◆◆◆◆


「……そうですか。分かりました。はい、本人には重々注意をしておきますので、今日のこの件はできるだけ穏便にお願いできないでしょうか?」

葵はスマホを耳に当て、声を潜めるようにして話をしている。

『……――……』

そのスマホからは時折、男性の声が漏れ聞こえてくる。

「はい。今後、このようなことはないように言い聞かせますので……。分かりました。また後程ご連絡させていただきます。はい、失礼いたします」

通話を終えた葵は深く息を吐く。

それは溜息ともとれるもので、葵の表情は疲れているようにも見える。

しばらくの間、スマホをじっと見つめていた葵は、細く長い呼吸を数回繰り返すと、慣れた手付きでスマホの着信履歴を削除する。

それを終えた葵は、足早に自分の部屋に戻る。

ドアを開けた葵は、ソファに座り、雑誌を開いたままウトウトとまどろんでいるケンに徐に近寄った。


今は12月の末。

年の瀬で季節はもちろん冬。

しかし室内はエアコンのお陰で寒さを感じない温度がキープされている。

それに加えてケンは暑がりなので、スウェットのパンツは膝辺りまでまくり上げられているし、上に至ってはTシャツだったりする。

寒がりな葵からしたら季節にそぐわないこの格好を見るだけで体感温度が2度ぐらい下がってしまうような気がするが、ケンはこれがいちばん快適らしい。


瞼を閉じ、微動だにしないケンを葵はマジマジと観察する。

そして膝と肘を確認すると、また小さな溜息を零した。


「ちょっと、ケン」

葵はケンの腕辺りに手を当てると身体をゆするようにして声をかける。

まだ深い眠りについていなかったケンは

「ん?」

すぐに反応を示した。

ケンの瞼が開いた途端

「私に隠していることがない?」

葵はケンに問いかける。


起きてすぐに葵が放った言葉に

「へっ?」

ケンは半分寝起き眼で葵の顔を見つめ返す。

どうやら状況が全く理解できていないらしい。

「へっ? じゃないわよ。隠していることがないかって聞いてるの」

「隠していること?」

「そう」

「……」

「……」

つかの間の沈黙の後

「……別にねぇけど」

ケンは答えた。

話はこれで終わるかと思いきや

「……は?」

葵は眉間に深い皺を寄せる。

どうやら話はまだ終わりではないらしい。

……というか、室内には不穏な空気が広がり始めている。

もちろんその不穏な空気は葵が放っている。

なにがどうなってこのような状況になっているのか全く分からないケンは

「えっ?」

困惑していた。

「……本当にないの?」

「な……ないですけど」

困惑のあまりケンは無意識のうちに敬語になってしまっていた。


……このままだといつまで経ってもダチがあかない。

そう察した葵は

「今日、またケンカしたでしょ?」

本題を切り出した。

葵がそう尋ねた瞬間、ケンの顔色が変わり引きつった。

「ケ……ケンカ?」

青ざめた顔でケンが聞き返す。

その瞳は不自然すぎるくらいに泳いでいる。

ケンの反応はあきらかに挙動不審であり、まだ問い正している段階だというのに結論を聞いているようなものだった。

この調子ならもう“黒”だと判断してもよかった。

判断するには十分な反応なのだから。

だけど葵は敢えてそうはしなかった。

葵にはケンの口から事実を聞き出す必要があるからだ。

「そうよ」

「な……何を言ってるんだ? 俺が、ケ……ケンカとかするわけないじゃん」

ケンはそう答えるけど、声は上擦っていて、明らかに動揺していてそれが事実には聞こえない。

残念というべきか、幸いというべきかケンは嘘が吐けない人間なのだ。

嘘を吐くと分かりやすい。

それは今も例外などではなかった。

どこからどう見ても嘘をついているようにしか見えないのだから……。

しかし葵はそれにも気付かないフリを続ける。

「本当に?」

「お……おう」

「本当にケンカしてないの?」

「そ……それは……」

「それは?」

「してないっす」

しつこく尋ねる葵にケンは答えた。

しかしやはりその口調と半端じゃない動揺加減は葵の質問に“Yes”と答えているようなものだった。

それなのにケンはあくまでも認めようとはしない。


葵はこうなることを少なからず予想していた。

予想していたからこそ、この話をする前にちゃんと確認をしていた。

「じゃあ、腕と脛の傷はなに?」

まどろんでいるケンを観察していたのは、この証拠を探すためだった。

「こ……これはちょっと転んで……」

もちろんこういう言い訳も葵にしてみれば想定内だった。

「転んだの?」

「あぁ」

「どこで?」

「繁華街」

「繫華街のどこ?」

「……」

「ケン?」

「……駅……」

「駅?」

「駅前です」

「そっか。大丈夫だった?」

「このくらい全然大丈夫に決まってるだろ」

「良かった。いい歳なんだから人の多いところで転んだりしないでよ。目立つし、恥ずかしいじゃん」

「そ……そうだな。今度から気を付ける」

自分の言い分を信じてくれたとケンが油断した時

「うん、そうしてね……というとでも思った?」

葵は態度をガラリと変えた。

この豹変っぷりに

「へっ?」

ケンは間の抜けた声を発し、呆気にとられたように葵を見つめる。

そんなケンをまっすぐに見つめ返しながら葵は口を開いた。

「知り合いから聞いたんだよね」

「な……なにを?」

「今日、B-BRANDのトップが繁華街の駅前で大乱闘をしてたって」

「B-BRANDのトップが!?」

「そうなんだよね。どう思う? 繁華街の駅前って人がいっぱいじゃん」

「そ……そうだな」

「そんなところで大乱闘とかありえなくない?」

「……大乱闘……」

「そう」

「あ……ありえないよな」

「だよね。B-BRANDのトップっていったい何を考えてるんだろうね」

「そ……そうだな。てか、意外になんも考えてないんじゃないか?」

「……」

葵はケンの言葉に苛立った。

ケンののんきな言葉にももちろんイラっとしたが、それ以上に“意外に”というフレーズが葵の怒りに火をつけてしまったのだ。

「あ……葵?」


今にも爆発してしまいそうな感情をグッと抑え込み

「ケン」

葵は淡々と言葉を紡ぐ。

口調こそは冷静だが、彼女が纏う雰囲気は不穏以外のなにものでもない。

その雰囲気にケンは無意識のうちに崩していた足を正座に変えた。

「は……はい」

不穏な空気を発する葵と正座のケン。

どこからどう見てもケンは説教されているようにしか見えない。

この見た目が全てを物語っているというのに、ケンは未だに事実を認めようとはしない。

「B-BRANDのトップって誰か知ってる?」

「……」

「誰か知ってるかって聞いてるんですけど?」

「……俺です」

「だよね」

「……はい」

「じゃあ、今日繁華街の駅前でケンカしてたのは誰?」

「……俺です」

「もう一度聞くよ」

「……はい」

「今日、ケンカしたの?」

「……はい……ケンカしました……」

ここでようやくケンは自分の行いを認めた。

その瞬間

「ケン!!」

葵の怒りは爆発した。

「はい、すみません!!」

「すみませんじゃないわよ。この前約束しなかったっけ?」

「……約束……」

「ケンカは控えるって」

「はい、約束しました」

「だよね。それなのにもう破ってるじゃん」

そうこの約束を交わしたのはついこの間のことで、まだ日にちもそんなに経っていないのだ。

それにケンカを控えるように葵がケンにいうのは今に始まったことではない。

それこそ付き合い始めた頃からずっと言っているのだ。

それなのにケンはことごとく葵との約束を破りケンカを繰り返しているのである。

仏の顔も三度目まで。

そんなことわざがあるが葵が約束を破られたのは3度とかそんな回数ではないのだ。

……というか、これがまだ3度目とかなら――いや、一桁であれば葵が修羅のごとく怒りを露にすることはなかった。

葵は決して短気で怒りっぽい性格などではない。

どちらかといえば、気は長い方で滅多なことで怒ったりはしないのだから。

「……ちょっと……」

「なに?」

「言い訳みたいなものをしてもいいでしょうか?」

「言い訳?」

「言い訳みたいなものです」

……ちょっと待って。

言い訳みたいなものってなに?

意味不明なケンの言い分に

「それって言い訳なの?」

葵はもっともな質問をする。

すると

「言い訳じゃなくて言い訳みたいなものです」

こんな状況にもかかわらずケンは自信満々に答えた。

「みたいなものってなに?」

「俺的には言い訳じゃないけど、聞く方からしたら言い訳に聞こえるかもしれないので言い訳みたいなものです」

……よく分からないんですけど。

それは葵の率直な感想だった。


分からないから聞くしかない。

「じゃあ、とりあえず聞くから言ってみて」

「ありがとうございます」

「早く言いなよ」

「はい。ケンカはできるだけ控えていたんですけど」

「……」

「今日はどうしても回避することができなくて」

「……」

「ケンカをしてしまいました」

「……控えてた?」

葵の眉がピクリと小さな反応を示す。

「はい」

「ふ~ん」

「……」

「……じゃあ、聞くけど」

「はい」

「ケンカは控えてたんだよね」

「はい」

「それってケンカはしてないってこと?」

「いいえ」

「なに?」

「ケンカをしていない訳ではなくあくまでも控えていたんです」

「……」

「それってケンカはしてたってこと?」

「時と場合によって、やむを得ない時は仕方なくケンカをしていました」

「ふ~ん」

「……」

「……じゃあ、要は避けれない場合はケンカをしてたってことなの?」

「はい。その通りです」

「……そうなんだ」

葵は小さく頷いた。

その後、葵は少しの間なにかを考えるように黙り込んでしまった。

一方ケンは葵がなにか言葉を発するのを黙って待っている。

忠犬のように大人しく、行儀よく待っていた。


「ねぇ、ケン」

「はい」

「私はね、別に絶対にケンカをするなって言ってるわけじゃないの。それはいつも言ってるでしょ?」

「はい」

「ケンの立場を考えればケンカをするなっていくら言ってもそれは無理だってことは私だって分かってるわけだし」

「はい」

「だからどうしても必要なケンカは仕方がないって思ってるの」

「はい」

葵がなにかを言う度にケンは丁寧な相槌を返してくる。

どうやら葵の怒りが静まるまで“おりこうな忠犬キャラ”で通すつもりらしい。

それがいちばんの良策だと判断したようだ。

このキャラを押し通せば、そんなに時間は掛からず葵の怒りは収まるだろう。

ケンはそう思っていた。

話の流れ的にもケンはそう信じていた。

「でもね、ケンはケンカを控えてたって言ったでしょ?」

「はい」

「だけどそうは思えない話がチラホラと私の耳に入ってきてるんだよね」

「……はっ?」

しかし、ここで明らかに風向きは変わった。

終盤に向かっていたはずの話が、違う方向に流れ始めてしまったのである。

もちろんケンはその異変を敏感に察知していた。


葵×ケン【約束】前編 完


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