第12話「お姉さまをよろしくね、メリッサ」






 色鮮やかな草花がぐしゃりと踏みつぶされ、咆哮と悲鳴が庭園を揺るがした。

 畜産科から溢れ出した魔獣の侵攻は勢いを増している。教師や本科生たちの防衛網をすり抜けた少数の機敏な個体は、遺物が構築した対魔獣用の斥力障壁を強引に突破して花の塔に侵入を果たしていた。


 封術士は直接的な戦闘に向かない。教師陣の誘導によって上層の『封術院』への避難が始まっているが、広い『花園』に散らばっている全ての生徒がすぐに移動できるわけではなかった。外部から架けられた橋に近い中層で生徒たちの悲鳴が響く。

 逃げ遅れた一年生の少女に襲い掛かる猛牛の魔獣。激突の寸前、両者の間に無数の槍が突き刺さって防護の柵を作り出した。


「仲間を守れ、『思いやり』!」


 廊下に響く力強い命令。投射された二本の槍に足を乗せながら飛来したのは左右非対称の髪を靡かせる封術士。金槌と鉄床アンビルを鋭く打ち合わせると、遺物が接触する瞬間に不可視だった精霊が物質化されてインゴットとなる。神秘の力を宿した金属は衝撃によって変形し、弾け飛び、槍として再構成される。


「正道を往け、『美徳』! そこの一年生、早く逃げるっすよ!」


 『絶対正義ユーネクタさま』という文字を背負って立つのはセリン。その迫力に言葉を失いつつ逃げていく一年生。まっすぐに射出された槍の群れが魔獣を貫くが、出入口の向こうに見える橋から次々と魔獣が殺到する。セリンは鉄柵を生み出して侵入を食い止めるが、あまりの物量に鋼鉄が軋み、ひしゃげていく。


「解放、『思いやり』!」


 響き渡った声にセリンの表情が華やぐ。

 駆け付けたユーネクタはセリンと全く同じ遺物を振るい、セリンよりも遥かに大量の槍を生み出して出入口を封鎖した。分厚い鋼鉄は魔獣たちの突撃ではまるで歯が立たない。

 ユーネクタは手に持っていた遺物を光の粒子に変えて消滅させた。


「先生方が構築している上層の封鎖方呪は完成間近です。生徒もほとんどが避難済みですから、この階はもう大丈夫でしょう」


「敵の侵入経路はこれで全部封鎖完了っす! ジュネたちの方は大丈夫っすかね?」


 他の仲間たちはタイミング悪く最下層近くにいた。リリーフォリアが主催する動物愛護サークルの勧誘説明会を行うために下層の教室を借りており、それなりの数の賛同者が集まっていたはずだ。テジアとジュネもいるとはいえ、十数人が一斉に動くとなると襲撃を警戒しながら階段を上るのは骨が折れるだろう。速やかな救援が必要だった。


「遺物を無効化する魔獣、まさか昇降機まで機能停止させられるなんて」


「復旧を待つより私たちが直接援護に向かった方がいいでしょうね」


「了解っす!」


 ここ最近、メリッサをリリーフォリアに任せきりにしていたのもまずかった。

 情報源としての活用を諦め、『出立』の際に使う鍵として見なすという割り切りはユーネクタの精神衛生上は必要だったが、今となっては余計な心配を増やしただけだ。万が一あれの身に何かあれば全てが台無しになる。それだけは避けなければならない。


「解放、『戦奴の秘録』。敵の反応が思ったより少ない? テジアは戦闘中、と」


 走りながらユーネクタが出現させた水晶板は魔導書と呼ばれるタイプの遺物で、情報の取り扱いを得意としていた。その表面に遠く離れた場所の映像が浮かび上がる。全く同一の遺物を所持するテジアが細剣を振るって戦っている場面だった。魔導書同士を『繋げる』ことで、遠隔地の情報を共有することができるのである。


 テジアが対峙していたのは巨大な狼の獣化者だ。

 凛々しくも勇ましい剣士は泰然と構えている。

 細剣の切っ先がゆらりと宙をなぞった。


「あなたは恐れている。心に作り出した部屋の扉は閉ざされ、鍵は三重にかけられているようだ。自分でも気づかないほど深い所に不安を抱えている。利き手が重いと感じたことがあるんじゃないかな。違うかい? じゃあ背中、それか左足だね」


 幻惑するような刃と、捉えどころのない言葉。

 軽やかな足運びで獣の攻撃を躱し、いなし、翻弄する。


「余裕が無い時、咄嗟に最も使い慣れた道具に頼りがちだ。そうだろう?」


 焦った魔人が腰に手を伸ばした瞬間、愛用の『闇の遺物』が弾き飛ばされた。『悪夢』を広げる手段を失い、獣の顔から冷静さが失われていく。


「不幸は予想外の方角からやってくるだろう。目に見えない脅威に注意すべきだろうね」


 惑わされまいと言葉を無視した魔人の身体が傾いだ。その背で閃光が弾ける。ジュネの『苦痛の弓』が放った矢が直撃したのだ。硬直の瞬間を狙いすました刺突が襲い掛かる。

 第七等級遺物『鏡像の細剣』の刃が瞬間的にぶれる。複数同時に放たれたように見える攻撃を回避できず、魔人は血を流しながら呻いた。


 いかにテジアの剣術が優れているとはいえ、刃が複数に見えるほど素早い連撃を放てるわけではない。これは彼女が持つ遺物のささやかな力の一つだった。

 等級の低い遺物は初心者や戦闘を専門としない封術士が護身用に持つのには丁度よいとされている。とはいえ、主武装とするにはいかにも心もとない。テジアが属する家の格を考えれば、単に軽んじられていることの証明でしかなかった。


 だがその屈辱の証を、テジアは誰よりも華麗に使いこなす。

 持ち主に追従して浮遊する水晶板が淡く輝く。第四等級の魔導書『戦奴の秘録』は物理的な破壊力を一切持たないが、先人が積み上げた膨大な数の戦闘経験から敵対する相手の行動を予測するという機能を持っていた。


「あなたの未来を影が覆うイメージが見える。だが勇敢に立ち向かう意思があなたにはある。苦難を恐れぬ勇猛な戦士よ、その心のありようが影を打ち払うだろう」


 テジアは魔導書と占術を組み合わせた水晶王国の伝統的剣術を修めている。振る舞いと話術による誘導。敵が選ぶであろう行動を狭め、望む未来を的中させる。

 卓越した占術の使い手は未来を見るという。テジアがやっているのはある意味で未来を掌握することに等しい。覚悟を決めた魔人の荒っぽい突撃に対し、麗人は優雅に宣言した。


「誇れ、『あなたは美しい』」


 細剣が紫色の輝きを放つ。

 幻惑するような閃光が消えた時、魔人の前には万華鏡の如き光景が広がっていた。

 そう広くはない下層の通路を埋めつくす無数の人影。

 宙に、床に、壁に、天井に、至る所に。

 バラバラに広がって細剣を構えているのはいずれもテジア。

 無数の分身たちが別々の動きで魔人に殺到する。


 四方八方から襲い来るテジアに翻弄され、魔人が絶叫して動きを止めた。

 やがて分身たちの姿が一か所に収束していき、魔人の背後でただ一人のテジアが細剣を振るった。血が払われ、廊下に一条の赤い線が走る。

 直後、五体が分断された魔人の体が音を立てて崩れ落ちた。


「お見事です、さすがはテジアお姉さま」


 ぱちぱちと拍手の音。テジアの前に愛犬を連れたジュネの姿があった。

 水晶王国の占星親衛隊の教えを幼少期から受けていたというテジアの実力は、かの国の最精鋭と比較しても何ら遜色がないほどである。しかしテジアは首を横に振って謙遜した。


「あんなのは虚仮威しに過ぎないよ。実体のない分身を十人程度見せて翻弄する手品では、せいぜい祭司級の魔人までしか相手にできない。『本物』には遠く及ばないさ」


「その手品で戦えていることが尊敬に値するのですわ。それにお姉さまにはもっと素晴らしい特技があるでしょう? ほら、現在進行形で」


 ジュネが示した先、上層に続く階段近くの開けた空間ではもう一つの戦いが繰り広げられており、ちょうど終わりを迎えようとしていた。

 そこでは背後にメリッサを庇ったリリーフォリアと、その友人である一年生を中心とした生徒たちが中型の魔獣を囲んでいた。全員が腕を前方に突き出して集中している。


「一年生とは思えないほどしっかりとした方呪です。あれもテジアお姉さまの指示あっての成果。戦いながら作戦指揮をこなすとは、流石ですわ」


 ジュネが賞賛した通り、一年生たちの封術は見事なものだった。魔獣が咆哮した次の瞬間には光の球体に閉じ込められ、生徒の一人が遺物を定義して戦斧を生み出す。

 封術を準備している間、下級生たちの前にはずっと文字と映像が表示されていた。

 テジアの魔導書は情報を扱う遺物である。音や光による遠隔通信などもお手の物で、下級生たちに行動手順を指示して堅実な立ち回りを行わせていたのだ。


 危機が去って緊張の糸が切れたのか、一人の生徒がふらりと倒れそうになる。

 その身体を柔らかく受け止めていたのはいつの間にか駆け付けていたテジアだ。

 そよ風のような微笑みに、支えられた少女の頬が赤く染まる。 


「あ、あの、ありがとうございます」


「無事で何よりだ。むしろ私こそお礼を言わせて欲しい。こんなにも可愛いプリンセスを守ることができたのだから、ナイトの誉れというやつさ」


「まあ。えっと、でも、あれ?」


 書記伯カンツラーの令嬢である生徒は真っ赤になりながら混乱したように首を傾げた。それから自分より位の高い貴族が下級貴族ナイトを気取って手の甲に口づけている状況に妙な倒錯でも感じたのか、ぞくぞくとした表情になってテジアを熱っぽく見つめる。何かに目覚めてしまったようだが、よくあることなので誰も深くは追及しない。


「おや、君の瞳に良い兆しが見えるね。どうやらラッキーアイテムはリボンのようだ。それから不安な時は友人に優しくするといい。それが自信につながり更に成長できるだろう」


「テジアさまに占って頂けるなんて光栄です。ああ、なんて素敵なんでしょう。私を守ってくれる、星の占い師さま」


 テジアの『占い』は単なる指示であることも多いが、助言をきっかけにした自発的な行動だと思わせた方が能率が上がることもある。テジアはそうしたやり方を好む性格だった。

 同じように尊敬と憧憬を集める身でありながら、ユーネクタが多くの生徒に『遠い』と言われているのとは対照的に、テジアは『親しみやすい』と言われているという。


 メリッサはユーネクタを力で支配することしかできないと罵倒した。

 ユーネクタもまた、メリッサには従属だけしか求めていない。

 そんなやり方しかできないのは、ユーネクタの本質がそうだからだ。

 『花園』の生徒たちは、取り繕った仮面の内側を実は正しく見透かしている。

 最も高貴で正統な貴族であるテジアとユーネクタは違う。あまりにも違い過ぎる。


「お疲れ様、みんな。よく頑張りましたね。テジアも見事な采配でした」


「ユーお姉さま!」


 声を弾ませて階段を駆け上がるリリーフォリア。優しくを抱き留めた。

 付近の魔獣を掃討しながらセリンと共に駆け付けたユーネクタがいつもと変わらない優等生然とした表情で現れると、その場に安堵が満ちる。『花園』の至宝、『花穂の君』が来てくれた。これでもう自分たちは大丈夫。そういう演出効果を狙ったつもりだったが、どうやら上手くいったようだ。テジアに歩み寄り、互いに労い、無事を確認して喜びを分かち合う。同じ魔導書で情報を共有していたため、ユーネクタとテジアは既に互いの状況を把握済みなのだが、これも空気づくりの一環だ。


「確認できた限りの敵はほぼ殲滅できました。残る魔獣は一体」


倭黒猩々パンの投降、やはり罠だったね。とはいえ学院の判断や畜産科の警備体制を責めても仕方がない。不可解な点は他にもあるし」


 上級生たちは話し合いながら二人で魔導書を突き合わせる。

 索敵能力を有する遺物の力でも姿をくらませた魔獣の行方がわからない。

 パンという猿の魔獣は古い神秘を操るというが、これもその力の一つなのだろうか。


「恐らく大型魔獣とは性質の違う脅威になるだろう。遺物無効化能力も有していると考えた方がいい。全員で外向きの遮蔽方呪を維持しながら守りを固めて移動しよう。まとまって動いて、襲撃されたら即座に封術で対抗する。方針はこれでいいかな?」


「それが無難でしょうね。速度は遅くなってしまいますが仕方ありません。テジア、皆に隊列の指示をお願いできますか? 私が先導します」


 いずれにせよ、下層に取り残された生徒たちを速やかに教師たちがいる上層まで避難させなければならない。上級生たちが下級生たちを等間隔に並ばせていく。方呪構築に必要な精神集中をさせようとした所で、どこかそわそわした空気を感じた。

 なにやら生徒たちに落ち着きがない。ユーネクタは首を傾げた。リリーフォリアやテジアの表情が暗いように見える。自分が知らない間に何かがあったのだろうか?


 ひそひそとした囁き。生徒たちの視線が一か所に集まっていることに気付く。

 どうやらリリーフォリアが庇うようにしている首輪をした妖精エルフ、メリッサが噂されているようだ。それも、よくない類の。

 囁きに混じる言葉は『裏切者』とか『亜人なんか招き入れたから』とかいった不穏なものだった。状況を考えれば想定してしかるべきだったとユーネクタは後悔する。


 ひとまずの危機が去り、ユーネクタという絶対的な存在が現れたことが安心と油断を産んだのだろうか。人間という生き物は当面の脅威が目の前からいなくなればたとえ敵が滅び去っていなくとも内輪で揉め始めるものだ。それは邪神が倒されてから千年経っても残党を滅ぼせていない人類の歴史が証明しているが、これでは下級生たちを集中させるどころではない。悩んでいると、出し抜けに高圧的な声が響く。


「可能性に怯えて疑心暗鬼に陥るより、はっきりさせておいた方が良いのではなくて? 明らかにこの襲撃は異常です。『花園』に内通者が潜り込んでいるかもしれません」


 犬の耳を思わせる特徴的なリボンの少女が腕を組みながら言い放った。

 大きな黒犬を侍らせているその姿には独特の威圧感がある。

 ジュネははっきりとメリッサを示し、良く通る声で続けた。


「しかし、妖精であるメリッサさんはユーネクタさまの支配下に置かれています。物珍しさから注視されがちな彼女が怪しげな動きをすればすぐにわかるでしょう。とすれば、次に怪しいのは本科から移ってきたばかりのよそ者であるわたくし、ということになりますわね」


 不安そうに周囲を見回すメリッサにジュネが一瞬だけ目配せした。愛犬と一緒に餌をつついたりボールだったり木製の骨型だったりするおもちゃで遊んだりしているメリッサのことを、どうやらジュネが気に入っているらしいことには気付いていた。しかしここまであからさまに助け船を出すとは予想外だ。


「テジアお姉さま、わたくしを拘束して頂けませんか」


「ジュネ? しかしそれは」


「これで皆さまが安心できるのであれば安いものでしょう。わたくしの可愛いバドもずいぶんと恐がられているようですし、纏めて縛って下さいな。少しくらい我慢できますわ」


 茶番ではある。結果として生徒たちは気を遣わせてしまったジュネに頭を下げ、メリッサを疑ってしまったことをユーネクタに謝罪した。もともと封術専科は攻撃的な気質の者が少ない校風である。緊張感さえほぐれてしまえば冷静に行動できる者ばかりだった。

 ジュネのお陰でまとまりを取り戻した集団は整然と隊列を作って上層を目指し始めた。


「パンはどこかに隠れているはずですが、誰か姿を見た者はいますか? 今は少しでも情報が必要です。何でもいいですから、気付いたことがあれば教えてください」


 先導するユーネクタはそれとなく探りを入れた。背後で一人の生徒が答える。


「私、障壁が壊されるところを見ました。でもあの猿の魔獣、おかしかったんです。まるで貴族がそうするみたいに、遺物を使っていて。信じられないけど、本当なんです!」


 その情報に一年生たちが不安そうにざわつきだした。

 遺物適性は聖神が貴族に与えた恩寵であり特権でもある。それが脅かされたように感じたのだろう。神と同じ名を持つユーネクタの胸も早鐘を打つ。

 ここでも下級生を安心させるために動いたのはジュネだった。こういうところは『姉』のテジアに似ている。面倒見の良さは愛犬家であることと関係しているのかもしれない。


「魔人や魔獣は『悪夢』と呼ばれる闇の遺物を使いますが、人間社会に潜伏する獣化者も通常の遺物を使います。負の神秘性、すなわち痛み、病、死、破壊、戦争、災いといった力を宿した『苦痛型』の遺物は彼ら闇の住人と親和性を持つのです。魔の力を封じて作り出したものですから当然と言えば当然なのですが」


 魔人や魔獣が持つ神秘の力は封印できる。

 かつて『遺物の父』が神々の力を封じて作り出した高い等級の遺物と違い、封術士たちが実戦で作り出す中位から下位の遺物はそのほとんどが魔人や魔獣を素材としたものだ。

 実戦を知る封術士にとっては、むしろ『苦痛型』の遺物の方がなじみ深いとも言える。

 ジュネは背負っていた弓の遺物を指差しながら一年生向けの説明を続けた。


「魔獣との相性の良さから、調教用や支援用に魔獣使いが愛用することが多い遺物でもあります。本科主席が持つ『皮剥ぎの王』を始めとして『懲罰の鞭』や『激痛の荒縄』、わたくしの『苦痛の弓』などが代表的ですわね。非殺傷兵器でもあるので、流血を好まない性格の方が制圧用に使うことも多い遺物です」


 魔獣使いを養成している本科には所有者が多いし、封術士たちが作り出して護身用に持っていることもある。魔獣が道具を使うことはほぼ無いのだが、理屈としておかしなことではないと知った一年生たちが少しだけ落ち着きを取り戻し、ユーネクタもほっと息を吐く。

 ふと視線に気づいた。メリッサがじっとこちらを見ている。


 ひどく、嫌な感じがした。

 視線を逸らす。まるで恐れるように。何を? ばかげている。絶対者であるユーネクタが、首輪をつけられた妖精を恐れる必要なんてどこにもない。動揺などするものか。

 警戒していたはずだ。集中を途切れさせてもいない。


 予兆も気配もまるで察知できなかった。下層から中層に差し掛かる手前、『枝』の回廊が向こう側に見える開けた空間でそれは起きた。封術の補助として用いる霊薬や装飾花を育てるための温室や実験室などの施設が並ぶ『園芸の階層』。そこは常春の地と呼ばれる『花園』内でもとりわけ植物だらけの場所だ。


 周囲一帯の草花が一斉に蠢き、鎌首をもたげ、寄り合わさって長大な姿を形成していく。

 それは茎と根が蠢く首であり、花開く大顎であり、葉が鱗となった大蛇の群れだった。

 即座に反応したユーネクタたちは遺物による攻撃を試みるが、破壊された草花の蛇たちは瞬く間に周囲の植物を素材にして再生してしまう。ゆらゆらと蠕動する動きは全体が連動しているようで、複数の大蛇と言うより巨大な一個の生命体のようにも見えた。


「ユーネクタ。まずいかもしれない。おそらくあれは多頭蛇ヒュドラだ」


 魔導書を操るテジアは部隊の分析担当でもある。博覧強記で古い神秘に詳しい彼女が珍しく焦りを見せていた。ユーネクタの表情もつられてこわばる。


「それ、確か召喚術の」


「ああ、現代では失われた神秘のひとつだ。月光に頼らずに異界の門を開き、この世の理にそぐわない存在を招く。召喚獣という定義を与えられた異界の存在はこの世の物質を媒介として顕現し、大型魔獣すら凌ぐ災厄になるという」


 十数の首が同時にうねりながらにじり寄る。

 その背後からゆっくりと浮かび上がる葉の玉座と、そこに座す猿の魔獣の姿を認めてユーネクタは強く歯噛みした。今度こそ、殺さなければならない。この状況でなおも捕獲を主張するのは自殺行為に等しい。感情を押し殺し、正しいユーネクタとして意識を整える。


 先陣を切ろうとしたユーネクタは、猿の目に妖しい輝きを見た。

 パンの口が流暢な古代語を紡ぎ、祈祷のような呪文が地の底に沈んでいく。

 揺らぐ。ユーネクタの全身から力が抜けて虚脱状態に陥る。立ち上がれない。再起する意志力さえ欠落している。周囲で仲間たちが叫ぶ声がどこか遠い。


 親愛なる友よ、血の双子よ、思い出せ。

 大いなる我らの主、墓の下で眠る白き獣、夢見る骸の爪と牙を。

 その唸り声を聞け、そして探せ!

 『神々の墓所』にこそ我らの未来がある。今こそ目覚めの時。同胞よ、微睡みと倦怠を打ち払い、まことの希望を手にするために立ち上がるのだ。


 不可思議な猿の歌によって封術士たちの戦線は半壊しかけていた。

 実戦経験に乏しい下級生たちはリリーフォリアを除いて恐慌状態に陥り、ジュネの愛犬は泡を吹いてぐったりとしている。寄り添う飼い主も鼻血を出しながら瞳孔が開ききった状態で荒く息を吐いていた。最もひどいのはユーネクタで、元々生気の乏しい顔にはっきりとした死の色がにじみ出ている。


「ユーネクタ、ユーネクタ! しっかりするんだ! 汚染の波を乗せただけの無意味な鳴き声に耳を貸すな、このままではまずい!」


「ジュネ、立って! バドを連れて後ろに下がってるっす!」


 かろうじて戦えるテジアとセリンが迫りくる植物のヒュドラを迎撃しながら叫ぶ。

 やや遅れて、鼻血をぬぐいながらジュネがよろよろと立ち上がった。


「だい、じょうぶですわ。防御が間に合わなかっただけです。その点、咄嗟に精神防壁で歌に対処するなんて優秀な封術士はさすがですわね。わたくしも戦います。暴走した魔獣の対処なら魔獣使いが必要でしょう?」


 一方、ぐったりとしたユーネクタを抱き上げて後方まで退避したリリーフォリアがメリッサに声をかける。自分より長身の相手を持ち上げているというのに動きに無理がない。予想外の光景に面食らうメリッサの前で、リリーフォリアがユーネクタを横たえる。後頭部のリボンをほどいてふわりと広げると、それは遺物としての力を発揮し始めた。


「メリッサ、一生のお願い。ユーネクタお姉さまを連れて最下層まで逃げて。あの場所はどういうわけか精霊が豊富なの。私が誘因のサインを刻んだから、『開かずの門』の近くにいるだけでお姉さまを回復させられるはず」


 上層への階段はヒュドラから繁茂した植物によって封鎖されている。逃げるなら下層しかないが、そこから先は行き止まりだ。メリッサは新しい友人の身を案じて問いかけた。


「あなたは?」


「私はここでみんなを守ります。癒しと守りの力が必要な時だから」


 既に最前線で戦闘を継続できているのはテジアとセリン、どうにか復帰したジュネだけだ。敵の初撃で倒れ、心折れてしまった一年生たちを守りながら前衛を支援できるのはリリーフォリアだけなのだ。

 覚悟を決めた表情のリリーフォリアを見て、メリッサもまた唇を引き結んだ。


「わかった。無事でいてね、リリー。私、せっかくできた友達を失いたくない」


「私も同じ気持ちです。お姉さまをよろしくね、メリッサ」


 リリーフォリアがリボンをくるくると動かすと、光の粒子が集まって蝶の形になった。

 それらは倒れているユーネクタの四肢に留まってぱたぱたと羽ばたいている。メリッサがユーネクタの両脇に手を挟むと、驚くほどに軽い。リリーフォリアの遺物の力だろう。

 不確かな意識の中、かろうじて把握できた状況に危機感を覚え、必死に抵抗を試みる。しかし指先さえ動かせない。リリーフォリアが妖精などを友人として信頼していることがたまらなく恐ろしかった。


「おとなしくして。死にたくないでしょう」


 ユーネクタは言われるがままメリッサに引きずられていくしかない。

 パンがそれを見逃すまいと叫び、ヒュドラの首が猛然とこちらに迫る。

 鋭い命令と同時に、花の頭に無数の蔦が絡みついた。


「しがみ付け、『死んでも離れない』。ユーネクタさまには指一本だって触れさせないっすよ、親衛隊の名にかけて!」


 セリンの手首で、第十等級遺物『束縛の腕輪』が輝きながら幾本もの蔦を伸ばしていた。主武装である鍛冶道具と同時に全力解放することはできないが、複数の遺物を自在に操れる彼女もまた傑出した貴族だった。

 助けて、と縋ることさえできない。自分に無垢な憧れを向けてくる後輩のまなざしが、いつだって心地良く、そして恐かった。


 ユーネクタは引きずられていく。仲間たちが遠ざかる。

 ずるずると下層へ進む。

 妖精に攫われる。妖精郷の近くに住む幼子はそう脅されながら育つという。

 スペアミント家に生まれたユーネクタにとって、それは誰より切実な恐怖だった。


 戦え。殺せ。そうだ、ためらうな。お前はもう妖精など恐れない。

 日々の殺戮。意思のない肉の塊を叩き潰すだけの作業。たまらなくおぞましい苦行。

 けれど、その時に見た父の表情がどうしても忘れられなくて。

 克服した。自分は克服しなければならない。

 だというのに、どうしても身体が動いてくれない。


「すぐ楽にしてあげる。もう少しの辛抱だから」


 メリッサの声は、死刑執行人の言葉のように暗い響きを伴っていた。

 ずるずる。ずるずる。妖精が誘う。

 くすくす。くすくす。妖精が嗤う。

 そうして、ユーネクタは奈落に引きずり込まれていった。




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