第18話「一流の条件は『好き』ってこと」




 友情は存在していたはずである。

 テジアとユーネクタは『花園』に咲き誇る二輪の華。

 何があろうとその絆だけは変わらない。

そう在ろうと願い続ける限り、テジアはユーネクタの『剣』だ。


 森が落とす不揃いな暗色の影が顔に纏わりつく。

 だから何だと言うのだ。振り払うように刃で魔獣を追い立てた。

 愛すべき『花園』を襲った魔獣の掃討任務はじきに終わる。周辺への被害を防ぐためにも残敵を討ち漏らすわけにはいかない。気を抜かずに集中しなければ。


 テジアは呼吸を整えて走った。効率的に殲滅を行うため、仲間たちとは別行動だ。

 不意に押し寄せてくる孤独。ひとりの時が嫌いだった。周囲からの憧れ、期待、尊敬、『貴公子』や『王子様』を求めてくるまなざし。庇護すべき可憐な乙女たちを『お姫様』と呼んで愛おしむ芝居じみた言動は、『自分』への忌避だと気付いていた。


 縛るような視線は己を律するための支えでもある。

 それがなくなれば、否応なく剥き出しの『自分』を突きつけられることになるだろう。

 『自分』を直視したいと思う者がいるだろうか。周囲に見せる姿は出来の良い幻でいいはずだ。醜いテジアの心を見たいと望む者などいないのだから。


 『花園の貴公子』は誰より強い無二の友に尊敬と憧憬を抱いている。

 劣等感と嫉妬心まみれの『自分』は祖国に置いてきた。

 それでいい。そうでなくてはならない。

 ずっとそういう自分を作り続けてきた。これからもそうあるべきだ。


 本当に? 戦いの熱にうかされたテジアは幼い幻影を見た。

 小さなテジアが、華美なドレスを身にまとってこちらを見つめている。

 昔から、年上の兄たちに自分が劣ると考えたことはない。

 優れた遺物の力に依存して研鑽を蔑ろにし、戦場から遠い宮廷で醜い権力闘争に明け暮れる俗物。形ばかりの信仰をひけらかし、聖職を売買して聖教国に媚びへつらう醜態。


 自分は違う。幼少期から親衛隊に混じって訓練を積み、魔人との戦いを率いる者としての責任を自覚して行動してきた。自分は特別。自分はあんな偽物ではない。自分は本物だ。

 なんて幼い自意識。こんなもの、強迫観念に駆られた逃避の産物だ。

 すぐ後ろからゆっくりと追いかけてくる脅威。分をわきまえ、力を誇示することなく姉を立ててくれる穏やかな弟の笑顔にずっと恐怖していた。


 ほとんど同い年も同然の、腹違いの弟。彼はそれが必要になる時まで己の才覚を周囲に示すことはなかった。たとえそれが世界を変えうるほどの圧倒的な才であったとしても、それが存在すると知られることが歪みを生むのだと幼い理性は理解していた。

 弟は怪物。テジアにずっと付きまとう影だ。


 恐怖と屈辱、そして絶望。

 正統な始祖の血を色濃く引いているという誇りは苦痛となり、彼女の退路を断った。

 テジアの夢と自尊心は粉々に打ち砕かれ、自分は本物などではないと思い知らされた。

 だから、『花園』で再びどう足掻いても届かない高みにいる本物と出会った時、テジアは同じ過ちを繰り返すまいと決意したのだ。


 次世代を担う貴族たちの頂点が競い合う月光祭。

 競演の舞台であの恐るべき弟と互角以上に渡り合うユーネクタの姿を見た瞬間、テジアの心は熱狂に憑りつかれていた。それは屈辱や絶望が裏返るような衝撃で、諦念や自虐よりどうしようもない、執着じみた夢の成れの果てだった。


 だからそれを友情と呼ぶことにした。

 友情でなければ、『自分』にはとても耐えられなかったからだ。

 水晶王国第三王女、テジア・イオ・シプトツェルムの夢は親友のユーネクタが叶えてくれる。歴史ある六大王国を背負い、貴族たちの頂点に立ち、魔人たちと勇ましく戦う象徴。

 

 本物ではないテジアは、本物であるユーネクタの傍らで美しい夢を共に見る。

 それがあるべき未来。

 それが正しい二人の友情だ。

 そうでなければならなかったはずなのに。


「違う、私は」


 苛立ってなどいない。

 魔獣を追い立てる細剣の切っ先が荒ぶるのは戦意と使命感のせいだ。

 動揺はない。何も変わらない。何度も自分に言い聞かせる。

 ならばなぜ、お前はユーネクタに打ち明けていないのだ?


 あの戦いの最中、テジアたちは確かに気を失っていた。

 だが愛用の魔導書が『自動手記』の機能を働かせていたことには誰も気づいていない。

 ユーネクタにさえ教えていない『状況を記録する力』は祖国を旅立つその日に持たされたものだ。共同開拓国の内情を探り、王の手から離れようとしている水晶王国の総督の動向を報告するための機能。テジアという純血の王族をこの国に嫁がせるのは『牽制』の意味合いが強い。全てはこの歪で不安定な国を『水晶王国の善き友人』のままにしておくために。


 そう、全ては友情のためだ。

 安定と平和。友好と互恵。絆を維持するためには秘密が必要になることもある。

 本国への報告はまだしていない。

 妖精の王女が明らかにした致命的な情報は、まだテジアの魔導書の中に眠ったままだ。


 共同開拓国と水晶王国。

 『竜脈の大障壁』という巨大遺物が象徴する両国の絆は深い。テジアたちの個人的な友情よりも大きな歴史の重みが大陸を隔てた二つの国を結びつけている。

 その関係性は崩れてはならない。魔人との戦いが激化しつつあるこの時代だからこそ、貴族たちは団結しなければならないのだ。


 テジアは善良で賢明な人間でありたいと常々思っている。

 きっと誰もがそうであるはずだ。

 それでも、ふとした拍子に想像してしまうことまでは止められない。

 たとえばその手に親友の、あるいはより大きな世界の運命を左右する秘密の鍵を握ってしまったとして。目の前にある破滅の錠前に差し込むことを我慢できるだろうか。


 絶望し、心折れ、身の程を知ってしまったはずである。

 だからこそ友情は確かにあった。ちっぽけなテジアは強く正しく理想的な封術士ユーネクタの腰巾着つるぎとして共に歩むことに満足していた。

 その立場に甘んじて、彼女の善き友人のままでいてやることを選べるはずだ。


「は、ははは!」


 獣を斬り裂く。浴びる血しぶきがこんなにも熱く心地良い。

 運命は、世界は、いまこの手の中にある!

 圧倒的な実感。大切な親友を破滅させるも救うも自分次第。

 矮小なテジアが、こんなにも簡単に偉大なる存在の運命を左右できるのだ。

 

 自分の本性がねじ曲がっていることなんてずっと昔に気づいていた。

 どこまでも卑屈で、そのくせ羨望と嫉妬に胸を焦がしている諦めの悪さ。

 絶望を直視することができず、棄てられない願望を抱えて他人に寄生する惨めさ。

 ここには誰もいない。ここは水晶王国じゃない。

 『花園の貴公子』でも『水晶王国の姫君』でもない剥き出しのテジアが刃を振るう。


「さあ、弱く惨めな魔獣たち。もっと私と遊んでおくれ!」


 逃げ惑う魔獣を掃討する。

 彼女を咎める者など誰もいない。

 貴族が魔獣を狩るのは当たり前だ。

 その命を弄び、痛めつけ、死を楽しんだとしても。

 文句を言うのはリリーフォリアやジュネのような稀有な博愛主義者だけ。

 そう、『まともな貴族』であれば心が痛むはずはない。


「すっかり怯えて、私が恐いのかな。かわいそうに。助けてあげようか?」


 血まみれでうずくまる魔獣を見下ろして手を止める。

 この哀れな生き物の生殺与奪をテジアは握っているのだ。

 なんという愉悦、なんという全能感!

 無造作に刃を振り下ろす。


「そうか。こんなに簡単だったのか」


 今の自分はどんな姿をしているのだろう。使用者の意思に呼応した『鏡像の細剣』がその力を発揮する。目の前に現れた自分の幻影を見て、テジアは思わず溜息を吐いた。

 生まれて初めて、自分を美しいと思った。

 血まみれのまま歪んだ笑みを浮かべる女を、『花園』の少女たちは恐れるだろう。破滅的な空想さえ心地良い。このままどこまでも堕ちて行ったらどんない楽しいかわからない。


「ああ、なんて楽しいんだろう。私はいま、誰よりも強く、誰よりも自由だ」


「いいね。嗜虐趣味は狩人向きだよ、テジアさま」


 唐突に響いた声。ぎょっとして振り返る。

 そこに魔獣がいた。刃を握って突きつけるが相手は動じない。

 直前まで全身に満ち溢れていた全能感は萎んで消えた。

 かわりに湧き上がったのは恐怖。そして敗北の記憶。


 長い手足に夜のような黒い毛並み。

 その手で器用に握っている棒のような遺物は『召喚術』の行使を助ける祭具。

 遺物を使い、古い神秘を操る脅威。

 テジアたちを追い詰めた恐るべき猿の魔獣がそこにいた。

 正しくは、その皮を被ったもっと恐ろしい存在が。


「でもね、成功体験に浸って魔獣を侮るのはいけない。それは未熟な狩人を殺す甘い毒」


 声は魔獣の中から響いている。

 恐怖は消えない。正体が猿の魔獣などではないと理解できていても、目の前にいる怪物が恐ろしいという事実は変わらないのだから。


「獲物を蔑んだり侮ったりする狩人は三流。自分は狩りの中で運命を支配できていると勘違いした奴は二流。では一流は?」


「アデル。戦場でそれは趣味が悪い、顔くらい見せてくれないか」


「間違って攻撃しちゃうからって? 大丈夫、怒って反撃したりしないよ。私、テジアさまが結構好きだから。そう、一流の条件は『好き』ってこと。愛と尊敬、とっても大切」


 猿の皮がほどけていく。

 内側から現れたのは熊のぬいぐるみを抱いた可憐な少女だ。



 あの日の戦いでテジアたちが不甲斐なく敗北して気を失っている中、アデルだけがその牙を恐るべき妖魔ダークエルフに届かせた。そして強大な猿の魔獣を打倒してユーネクタたちの勝利に大きく貢献することさえやってのけたのだ。


 確実に存在するその差を、見ないようにしていた。

 永遠の二番手。本科と専科の違いこそあれど、テジアはこの少女に同族意識を感じていた。どれだけ努力してもユーネクタには届かない敗者だと。

 それでも彼女はいつだって身の程知らずな尊大さを貫いている。本科生の頂点に立つ最強の妖精狩人にして魔獣使い、アデルは獰猛な笑みをテジアに向けてこう言った。


「誇りと敬意、愛と感謝。狩人と獲物には美しく正しい絆があるべきよ。残酷な死さえ命を繋ぐ糧に変えて、私たちは人生を全力で謳歌する。さて、あなたの狩りに愛はあるかな?」


 問いかけるアデルの瞳はぎらぎらとした光を宿したままテジアを見据えている。

 言葉に偽りはない。アデルはテジアに好意を向けている。

 つまり、その手で狩り殺すに値する相手だと見なされていた。

 理解と同時にどっと汗が噴き出す。運命を支配されているのはテジアの方だった。


「下らない戯言だ。どうせ殺す相手に、愛などと」


「もし違うというのなら。私はそれを許さない」


 虚勢を断ち切るような唸り。アデルの低い声は獣じみていた。

 アデルは普段、慇懃無礼ながらもテジアを王族として敬ってみせる姿勢だけは忘れなかった。今もそれは変わらないはずだ。だがそれでも、彼女ならやるだろうという確信がある。

 その後にどうなるか、などという事をアデルが考えるわけがない。


「半端な覚悟で、私の獲物に手ぇ出すな」


 殺される。反射的に目を閉じてしまう。委縮した身体は硬直したまま動かない。

 猛獣の気配がすぐ近くに迫っているのを感じた。

 少女の息遣い。舌なめずりの音。


「かわいいね。食べられちゃうと思った?」


 恐る恐る目を開けると、とびきり可憐な少女の微笑みがあった。

 背伸びをして優しくテジアの頭を撫でる。されるがままのテジアの反応が気に入ったのか、アデルは調子に乗って頬までつつき始めた。

 穏やかな空気。恐怖が薄れ始めたテジアが表情を緩めようとした瞬間。


「大丈夫。友達は大事にしなきゃ。ねえ、私たちってお友達になれるよね?」


 華奢な四肢が再び獣を纏う。

 猿の魔獣。遺物の力で猿の皮と一体化したアデルはとても人には見えない。

 その心さえ魔獣のものになってしまったかのように。

 きぐるみの遺物使い。

 怪物の役割を演じ続けた者の精神性とはいかなるものだろうか。


花嫁つがいを守るのは獣の本能。群れを率いるのも長の使命。だからね、ユーネクタも、その仲間たちもみーんな私が守ってあげる」


 可憐な少女。あるいは獰猛な野獣。

 その境界線上で危うげに融け合う半獣の心を、テジアは美しいと思った。

 テジアが知ってしまった秘密を、アデルもどういうわけか理解している。

 だが同じ条件を与えられた上で、この狩人は揺れなかった。


 所詮、テジアもアデルもユーネクタには及ばぬ偽物だ。

 同じ敗者だと思っていた。

 どれだけ強がっていても、アデルだって負け犬に過ぎないと思いたかった。

 違った。そう願うテジアの心こそが最初から負けていたのだ。


「聞いたよ。とっておきの遺跡が見つかったらしいじゃない? でも愛しい妻が行くって言うのに、私が近くにいられないのは納得いかないなあ。ねえ、テジアさまからお願いしてくれません? 私も一緒に連れて行ってくれるようにって」


 意味の分からない妄言だと切って捨てるべきだ。

 無視していればそれでいい。

 だが、反射的に出てきたのは望んでいたのとは違う言葉だった。


「なぜ私がそんなことを」


「だって私たち、友達でしょう? 誇り高い『花園の貴公子』が、まさか尊い友情を裏切ったりはしないよねえ?」


 友情は存在していたはずである。

 その内実がどのようなものであろうとも、テジアはユーネクタの無二の友だ。

 共同開拓国という歪んだ形を正し、相応しい者を玉座に導くため、テジアは剣として万難を排して友を助けねばならない。


「祝福してよ、友人代表として。私とユーネクタが結婚する時はあっちで挙式したいの。私たちの魂と本能が求める先。獣たちの楽園、魔獣の真なる王国で」


 アデルは得体の知れない衝動に憑りつかれている。

 理由はわからない。猿の魔獣の力をその身に取り込んだことが原因かもしれないが、テジアにそれを調べる勇気はなかった。確かなのは、アデルはこれまで以上にユーネクタを強く求めているということだけ。獣が生を求め、命を繋ぐことを望むが如く。


 獣欲。野蛮な本能はきっとユーネクタを害するだろう。

 友情は守れと告げている。

 だがもう一つ、新たに生まれた共感と尊敬、憧れがこうも言っていた。

 こちらの方が、友情いぞんの相手には相応しいのではないかと。

 

「歌が聞こえるの。死を超えた運命は墓の下。死せる原初神の加護は姿を変えた。大いなる主から分かたれた爪と牙は骨の塔に。私たちの名も知らぬ神を探せって」


 遠くを見つめながらアデル、あるいはその中にいる獣が語る。

 その境界はもうじき消えて無くなるだろう。アデルは元から獣じみていた。

 そして誰よりもユーネクタに焦がれ、同じ場所に至ろうと己を高め続けてきた。

 いま、彼女は誰よりもユーネクタに近い所にいる。

 皮肉にもユーネクタの真実を知った後だからこそ、それを強く感じた。


「名も知らぬ神?」


「それはもうひとつの夢見る骸。『獣の想起』を知る竜。無限の貌を持つ獣。そして死を追い立てる猟犬。私の『皮剥ぎの王』が共鳴してるの。わたしたちの神霊遺物は同じ神から分かたれた封印の鍵だから」


 猿のように、人のように、知性と獣性が混ざりあう表情でアデルは歌う。

 自分にはないもの。似ていたはずなのに、もう届かない美しいかたち。

 テジアは打ちのめされながら焦がれた。


 この状況でも『自分』はやはりこうなのだ。

 大きなものに憧れ、求め、縋りついてしまう。

 諦めに押しつぶされていくテジアを、アデルは優しい微笑みで許した。

 愚かな愛玩動物にそうするように、心からの好意を込めて。


「『従属の墓碑』と『皮剥ぎの王』。生と死。境界と流転を統べる神の権能。私たちは一対の運命。はじめからひとつに戻ることを求めてた」


 意味の分からない言動をそのまま受け止めることはできなくとも、状況から退路が断たれていることくらいは判断できた。アデルが笑顔のまま発する威圧感に抗うことはできない。そうするにはテジアの心はあまりにも弱すぎた。


「テジアさま、そんなに不安そうな顔しないでよ。あなたは必要とされてる。優秀な剣術と封術はもちろんだけど、なにより占術には皆が期待をかけてるんだから。そうだ。早速ちょっと占ってよ。私たちの未来。素敵な運勢をさあ」


 出し抜けに『占って』と言われることはテジアにとっては日常茶飯事だ。水晶王国人は占術の実力にかかわらずこういう扱いを受けることが多い。幸いにもテジアはこういった対応には慣れていた。面倒さや苛立ちを心から切り離して機械的に実行すればいい。

 浮遊する水晶板の遺物を目の前に浮かべ、浮かび上がった光の文字列と『項』の奥深くに意識を沈み込ませていく。自分たちの未来、近い将来の運命に思いを馳せながら。


 ふと、不吉な記憶が蘇る。

 最初にユーネクタの異変に気付いたのも占いをしていた時だった。

 彼女の未来に現れた不吉の兆しは徐々に膨れ上がり、つい先日にはとうとう死の運命までもが見え始めた。テジアはそれを病か呪いと解釈し、不安から本人に問い詰めることさえしてしまった。真相を知った今になって思えば軽率な振る舞いだった。


 死の運命。それは誰にでもある不変の結末。

 あらゆる生命の未来にそれは配列されており、距離や大きさ、見え方が変わってくるだけで訪れること自体を回避することはできない。それが占術を学んだ者にとっての常識だ。

 だから、テジアはそれを見ても即座に危機感を抱くことができなかった。


 自分を含む新生神秘研究部なる団体の運勢。そこにアデルの存在を含めた上でもう一度だけ吉凶を占うだけの、簡単な確認作業。そのはずだった。

 見えたのは、異様なほどの速度で迫ってくる死の運命。

 はじめはユーネクタの死だと思った。


 違う。これは彼女の寿命ではない。死はメリッサという光が遠ざけた。

 ならばこの不気味な兆しは何だ?

 もっと知りたい。水晶の奥へ、より深く潜ろうとした瞬間だった。

 『ぬうっ』と白い手が伸びてきたかと思うと、無造作にテジアの腕が掴まれる。

 そして、耳元で女の声が響いた。


「弟くんのお姉ちゃんは、私だけだよ?」


 声を上げることさえできなかった。金縛りになったかのように痺れた全身、掴まれた腕だけに凄まじい力を感じる。激痛と圧迫感、引きずり込もうとする奈落の意思。

 死ぬ。これから自分は殺されるのだ。

 どこまでも真に迫った幻影。実像に限りなく近い圧倒的な思念の逆流。


「落ち着け、すぐ戻れ! ここにはいない、まだ見えてるだけだ!」


 アデルの鋭い声が間近に迫った気配を散らす。錯乱した心が静まっていった。

 放り捨てた水晶板を見てもそこには何もない。

 魔導書から白い手が現れることなどありえないのだ。これは知識を蓄え、それを基に運勢や未来を占うだけの遺物。使用者に牙を剥くことなどあってはならない。

 だが、そうだとしたらなぜ。


「さっきの、私にも見えた。つまり、それほど強烈に迫ってくる未来だってこと?」


 先ほどまでとは打って変わって深刻なアデルの表情。テジアはひやりとしたものを感じて震えた。掴まれたと錯覚した腕は、実際には指一本触れられていない。

 だが、なぜかそこには強い力で掴まれたような痣ができていた。


 理由はわからない。死とは常にそういうものだ。

 いずれにせよわかったことはひとつ。テジアは近い将来、どこかに存在する誰かから明確な殺意を向けられるだろうということ。あるいは、今の時点で既に。


「に、逃げ」


「待った。今のって私たちが『向こう側』に行った場合の運命だよね。もういちど、テジアさま抜きで旅立った『神秘研究部』の運勢を占ってくれない?」


 有無を言わせぬ勢いだった。恐ろしいのは迫る死も目の前の獰猛な怪物も一緒だ。言われるがまま占うと、当然ともいえる結果が現れた。

 テジアは探し物をするために必要な占術の技術を高いレベルで習得している得難い人材だ。代わりがそうそう用意できるはずもなく、必然的に探索の効率は低下してしまう。ユーネクタに圧し掛かる暗雲が大きく膨らむことは占う前から分かっていた。


 近い将来に現れたユーネクタの死と不吉の兆し。

 それはテジアの死との間で揺れ動いている。『剣』を自認していたはずの自分の決断次第で友の命運は大きく変わってしまう。その重さが手の中にあることが快感だった。そのはずだ。全能感にも似た愉悦の宝石は、しかし今はくすんだ石ころにしか見えない。


「神秘研究部として『向こう側』に行けばテジアさまは死ぬ。けどテジアさまが向かわなければ優れた占術使いを欠いた神秘研究部は目的を果たせず、私の花嫁ユーネクタは死んでしまう。ああ、なんてジレンマ! とっても迷っちゃう!」


 評判の悲劇を観てきた娘のように両手で細い自分の体を抱きしめるアデル。身を捩り悲しみを表現しようとしているが、その顔が楽しそうなせいで台無しだ。

 言葉とは裏腹に、アデルに迷いは皆無だった。いつだって彼女は迷わない。


「もちろん、行くでしょ? 葛藤しつつも大好きな親友のために命を懸けてくれるよね? 『剣』だもんね、こういう時にこそ奮い立つって感じ?」


 拒否した瞬間に死ぬ。

 狩人の目は言葉より雄弁で、矢のように鋭かった。

 テジアには誰よりも正しい道が見えていたし、自分より偉大なる者の運命をその手で左右できる自由が与えられていた。しかし、彼女は未来を選ぶことができない。


「大丈夫。私が守ってあげるから。負け犬どうし、仲良く行きましょう? わんわん♪」

 

 きっとこれは天罰だ。親友の運命を弄ぼうとした報いに違いない。

 知らなければ良かった。愚昧であれば、無知であれば、無垢であれば。

 無邪気に未来を信じることができれば、きっと絶望しなくて済むのだろう。

 微かに浮かんだ羨望が誰に対しての者かを考えないようにしながら、テジアは目を閉じて頷いた。諦めに項垂れるように、敗者の運命を受け入れて。






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