第19話「獣めいた方が『好き』ですわ」




「本当に、わたくしって友人思い! あなたでなければとっくに見捨ててますわよ」


 ぶつくさと呟きながら、少女は愛犬と共に森を往く。

 濃い赤茶色の髪を靡かせて大股で歩むのは、魔獣使いのジュネだった。

 ジュネは倒木が作り出したらしき開けた空間に辿り着く。すると先を往く愛犬バドが鼻先で地面を探るようにしながらあたりをぐるぐると巡り始めた。ジュネは頭の上で強く自己主張する大きなリボンをいじりながら呼びかける。


「バド? その下でいいんですのね?」


 短く吠えて尻尾を振る黒犬の態度が答えだった。

 あまり時間はかけられない。バドと一緒に哨戒をしてくるだけ、積極的な交戦は避けると断りを入れた上で部隊の仲間たちと別行動をとっているのだ。手早く済ませて怪しまれないように戻らなければならなかった。


「ま、警戒しておくべきテジアお姉さまは反対方向ですし、大丈夫だとは思いますけど。念のため、偽装の陣は敷いておいてと」


 指をくるくると回しながらリボンを決められた手順でなぞる。遺物が神秘を発動させる際に放つ淡い光が灯され、すぐに消えた。

 それから持ってきていた柘榴ざくろを無造作に齧り、血肉のような果肉を嚥下する。

 滴る果汁は血の見立て。死せる乙女コレーの夢を招く呼び水。

 地面に零した生贄の血は、冥界の女王に呼びかける儀式の始まりを意味していた。


「森よ、骸よ、想起せよ。混じり合う新たな摂理の名の下に、墓の下より現れ出でよ」


「何をしているのかな、可愛い迷子のお嬢さん」


 目を閉じて詠唱に集中していたジュネのリボンが『ぴん』と立った。

 鋭い眼光が声の主を貫く。

 ここは既に森の奥深く。妖魔ダークエルフに支配されたロスプ領に近い。

 ゆえにジュネは油断していた。貴族も妖精も迂闊に踏み込めない妖魔と魔獣の巣窟。

 愛犬バドは匂いに敏感だ。すぐに接近を感知できる。

 だから、まさかこんな場所に敵がいるなんて想像もしていなかった。


「こんな場所に深入りしてはいけないよ。この世には迂闊に触れてはならないものが沢山あるんだ。特に森は異界との距離が近い。うっかり地面を掘った途端、冥界から死者がその手を伸ばしてくることだってあるかもしれない」


 脅かすように言ったのはぞっとするほど美しく、それでいて服の上からでもはっきりとわかるほどに屈強な肉体の男だった。

 笑みを見せるたびに覗く白い犬歯が野性的な魅力を放っている。

 ジュネは半眼になって目の前のオスをねめつけた。

 誰が見てもすぐにわかるほどあからさまな夢魔インキュバスだ。


 妖艶な魔人は単独で行動していたわけではない。

 背後に多数の黒妖犬や獣人セリアンたちを引き連れていた。

 意志と知性を剥奪された獣たちは無骨な首輪で拘束されている。

 ジュネの眼光が危険な殺意を宿す。


「三流夢魔。わたくし、もっと獣めいたかたが『好き』ですわ」


「すまないね。遊んであげてもいいが、私は重要な仕事に取り掛からねばならないんだ。というわけで死にたまえ」


 魔人が快活な笑顔を浮かべた次の瞬間、ジュネの目の前に黒い靄が出現する。

 暗黒が弾け、細い身体が吹き飛んだ。主への攻撃に反応したバドが魔人に飛び掛かるが、男が腕を一振りしただけで黒妖犬は樹に叩きつけられてずるりと崩れ落ちる。

 バドの首はあり得ない方向に曲がっており、ジュネが叩きつけられた地面は抉れて血と肉に塗れていた。少女の身体はぴくりとも動かない。


「犬ども。妖魔の女が出てくるであろう『門』の輪郭を暴け。卑しい墓堀りと屍肉喰らいしか能がない貴様らの唯一の出番だ。手を抜くなよ」


 夢魔の威圧的な命令に、魔獣や獣人たちは忠実に従った。

 首輪があるからというだけではない。

 男が持つ絶対的な力を恐れているのだ。

 これから復活するであろう敵対派閥の最大戦力を打倒するに足る実力者。この夢魔が通ってきた道に横たわる妖魔と大型魔獣の屍の数がその力の程を物語っていた。

 

「いかに君主直属の妖魔といえど、異界から帰還した直後にこの数で襲われれば終わりだ。貴様ら、私が命じたら突っ込んで自爆しろ。我が黒き悪夢で止めを刺してやる」


 足元の魔獣や獣人たちを消耗前提の道具としか思っていないその傲慢な態度に、かろうじて思考力を残していた獣人が項垂れた。奴隷である身では文句をつけることさえできない。

 だが、彼女は違った。


「下劣な」


 誰もが目を見張った。

 並みの貴族、平凡な魔獣使いであれば即死しているはずだ。

 にもかかわらず、魔人の一撃を受けた少女はゆっくりと立ち上がる。


「おや。私としたことが、お嬢さんの美しさに見とれて少しばかり手加減を」


「うるっせえですわよクソ夢魔が。御託は結構。今すぐその子たちを解放しなさい」


 荒々しく言い放つジュネの表情を見て、美貌の男は嘲笑を返した。


「躾けのなっていないお嬢さんだ。お仕置きが必要かな」


 言うが早いかその姿が黒い霞に包まれて消える。

 瞬時に空間を渡った夢魔はジュネの背後に出現し、闇を纏った手刀を少女の首筋に突き立てようとした。だがジュネは素手で魔人の一撃を払いのけ、振り返りざまに強烈な拳を叩き込む。野性的な美貌が歪み、そのまま後ろの樹に叩きつけられる。


「何だっ、この力は!」


 黒霞と共に瞬間移動して距離を置く夢魔。

 曲がった鼻から血を流し、理解不能の脅威を睨みつける。

 ただの小娘ではない。身体強化系の遺物を使っているのか?

 違う。あれは素の膂力だった。異常な怪力をあの細腕に隠していただけだ。

 ゆっくりと、ジュネが歩み始める。

 向かう先には哀れな骸。死んでしまった愛犬に手を差し伸べながら、弔うように歌う。


「ひとつ、骨を積んではちちのため。ふたつ、塔に祈るは苦痛ははのため。みっつ、われらに墓の祝福を」


 夢魔は身震いした。

 言葉が紡がれるたびに大気が震え、大地が怯える。

 何かが起きている。ジュネの呼びかけに応えるように、死せる魔獣の遺骸がバラバラに剥がれて浮遊し、少女の周囲を覆っていく。やがて愛犬の骸はその姿を変え、少女とひとつになっていく。それは着替えのようであり、捕食のようでもあった。


「切り離した力を、取り込んでいるだと?」


 遅まきながら夢魔は気づいた。

 思えば感触が奇妙だったのだ。

 あの黒妖犬は、最初から死んでいた。

 骨と皮ばかりの偽物。

 『本物の魔獣である』と誤認するほどの『何か』を詰め込んだ遺骸人形。

 その中身が、あるべき場所へと還っていく。


「お帰りなさい、唸る竜犬バドバラム


 回帰が始まる。獣が人に。人が獣に。

 ジュネの頭の上で、周囲を幻惑するためのリボン型遺物がはらりと解けた。

 現れたのはその輪郭通りの形。

 獣の三角耳と共に、少女は獣性を取り戻す。


 シルエットは人のまま、細部に変化を纏うその様はさながら仮装だ。

 祝祭の日に行われる変身儀礼。しかし彼女は皮膚と肉ごと挿げ替える。

 顔の横でもう一つの頭が牙をむき出しにする。少女の首に長い体を巻き付かせ、尾のように腰から伸びているそれは蛇。

 胴は豹で、腰は獅子。割れた偶蹄目の足は鹿だろうか。


 息を吸い込み、天高く吠える。

 それは少女の叫びなどではない。

 その声は猟犬の群れが一斉に唸るような大合唱。

 個ではなく、群による統率された意志の発露。


 そこにいたのは獣人だった。

 多種多様な獣の形態を節操なく取り込んだ異形。

 獣たちの上に君臨する支配者の如き威容に、強大な力を持つ夢魔は己の自負心を一瞬だけ忘れて気圧された。あるいは、自分は勝てないかもしれない。

 あり得ない恐れだ。妄想を振り払って黒い靄を身に纏う。


「正体を隠していたか、播種派の獣人! だが既に夜の帳は下りている! 覚悟するがいい、ここからは夢魔の時間だ!」


 コウモリの羽を広げて飛び上がり、暗黒の夜空を背に黒靄と共に飛び掛かる。

 不定形の黒霞。それこそが男が操る『悪夢』そのものだった。


「我が悪夢は『目覚めの弔鐘』から分かたれた『残響』だ! 下等な魔獣種ごときが上級使徒に勝てると思うなよ!」


 ジュネが振るった爪が男の首を切断し、蛇の毒牙が致死の激痛を流し込む。

 交錯した一瞬で夢魔は二度殺されていた。

 しかしその直後、男は致命傷を負ったことが夢だったかのように無傷の身体を取り戻す。

 広がった黒霞がジュネの全身を取り囲み、不可視の圧力で拘束した。


 使徒の中でもとりわけ強烈な『苦痛』に覚醒した魔人は一騎当千の力を持つ。

 遡行再生と広域支配。

 不死に近い耐久力と軍勢すら捻じ伏せる制圧力。君主直属の最上級使徒が長い歳月を闘争と研鑽に捧げ、力を高め続ければこの領域に至ることもあるだろう。


「やはり、わたくしが迎えに来て正解でした。不完全な彼女ではまだ危うい」


「馬鹿な」


 夢魔は愕然と目を見開いて少女を凝視する。

 実体を持たないはずの黒霞が、鋭い鉤爪が伸びたジュネの手で鷲掴みにされていた。剛力が悪夢を引き剥がし、周囲の闇が砕けて散った。あまりにも異様な力技。この世の条理では測れぬ異質な摂理が働いているとしか思えない現象だった。


「堕ちたとはいえ、『夜空』との境界が近づけば身体は古き血の脈動を思い出す。気付いていないのなら教えて差し上げます。今宵は、満月なのですわ」


 踏み込む。獣の蹄が土を抉り、疾駆する身体が飛翔より速く空を斬り裂く。

 天空の月が血潮に染まる。既にこの夜は獣たちのものだ。

 夢魔の胸から抉り出された心臓がどくんと脈打った。ジュネは艶めかしく舌を伸ばし、味わうように溢れる血を啜った。顎を伝った赤い雫が首筋を垂れて胸元を濡らす。

 墜ちていく夢魔の目が交互に動く。

 もう戻らぬ己の心臓と、血に汚れることなく純白を保ったままの爪と牙とを。


「その、純白、獣王の」


「気付くのが遅い。まったく、上級使徒ごときがわたくしに勝てるわけないでしょう」


 血塗られた月の下、夢魔はその命を奪われた。

 その赤い鼓動は獣の腹に。

 哀れな骸は地の底に。

 勝者は当然の結果を誇ることもなく、首輪によって呪縛されていた同胞たちを解放した。

 魔獣たちは甘えるようにジュネに鼻先をこすりつけ、獣人たちは歓喜の涙を流しながら平伏して頭を地に擦りつけた。


「まさか、こんな所でお会いできるとは。よく、生きていて下さいました」


「それはこちらの台詞ですわ。よくぞ耐え忍びました。所用を済ませたら安全な場所まで案内します。少しだけお待ちになって。これから友人を迎える所でしたの」


 ジュネの言葉に従い、その場に控える獣人たち。

 魔獣たちは純真な瞳で少女を慕い、獣人たちは女神を見るように少女を崇める。

 何かに縋らずにいられない同胞たちの心に痛みを覚えながら、それを表情には出さずにジュネは儀式を再開した。


 といっても彼女がすることはほとんどない。

 先ほどの戦いで場は魔人たちの色に染まっている。

 強大な力を持つ夢魔まで血祭りに上げたのだ。

 これで蘇らぬならば、単にそれは『ねぼすけ』なだけだ。


「おねえさま、すき、すき、すき」


 愛らしいのに寒気がするような声。

 奈落から響く、冥界の女王の嘆き。

 最初に地の底から這いだしたのは彷徨う亡霊の手。

 滑らかでほっそりとした半透明の少女が、世界を真冬に変えるような囁きを響かせる。


「おねえさま、どこ? さみしいよ、セルエナおねえさま」


 妖魔の君主イーディクト。正気を失った悪霊。

 完全な復活を待たずに不完全な力だけを欲した代償として、彼女はまともな理性を取り戻せていない。暴走しかねない危険な力を制御することは、ほぼ同格であるジュネにさえ難しかった。先に出てきたのが悪霊の方であった不運に舌打ちを堪えるジュネだったが、その直後に地面が盛り上がったのを見て反射的に動いた。


 獣人特有の嗅覚と剛力なら容易いことだ。

 助けたばかりの同胞たちにも協力を頼み、その場所を掘り起こす。

 果たして、地面の中から掘り起こされたのは白銀の髪を泥まみれにしたみすぼらしい妖魔の女だった。ひどくやつれた様子のアカシアは、即座に己のやるべきことを実行した。


「大丈夫、私はいなくならない。ずっと傍にいるからね、私のメリッサ」


「おねえさま! セルエナお姉さま、大好き!」


 半透明の悪霊イーディクトはアカシアの姿を認めた途端ぱっと表情を華やがせた。

 二人は仲睦まじい姉妹のように抱き合った。

 互いが呼ぶ名前は、当然のように噛み合っていなかったけれど。


「大好きだよ、メリッサ。ずっと離さない。あなたは私の妹。たったひとりの家族」


「セルエナお姉さま。すき、すき、すき」


 互いに姉妹を求める妖精の魔女。見つめ合う瞳が映す姿は噛み合わず、バラバラのパズルのピースを強引に嵌め込んだかのように歪だった。

 それでも関係性は成立している。ならばそれで良いとジュネは満足そうに微笑んだ。

 友人は友人だ。幾らか精神状態が不確かな程度で友情は揺らいだりしない。


 そう。友情とは、好意とは、どのような状況でも当たり前に発生するものなのだから。

 たとえばそれは、敵であったり、欺き裏切る相手であったとしても。

 『花園』で過ごした楽しい日々に嘘はない。好意から『姉』を買って出てくれたテジアや、ルームメイトとして仲良くしてくれているセリンのことも大好きだ。

 ジュネは友人たちを心から大切に思っている。

 たとえ相手が墓の下で眠っていたとしても、それは決して変わらない。


「君主の力を過信しましたわね。苦痛因子の本体は『あちら側』に封印されたまま。器としての適合も完全ではないのですから、長期戦の削り合いになれば不利に決まってます」


 とはいえ、信頼していた友人の失態に苦言を呈したくなる時もある。

 アカシアはこの世でただひとりジュネと立場を同じくする同盟者だ。この道における先達であるからこそ厳しく指南する時は心を鬼人オーガにしなければならない。偉そうにふんぞり返る戦友から目を逸らし、アカシアは子供のようにむくれながら言い返した。


「そういうあなたは順調そうじゃない」


「ええ。魂にお父さまの力が注がれていくのを日々感じています。正式な継承はもう少し先になるでしょうが、戦力としては十分。『あちら側』での行動に不足はありません」


 二人の計画は見事に失敗した。

 部下に三文芝居を打たせて強引にメリッサを汚染する作戦は再誕派の横槍とメリッサの思わぬ意志力、ユーネクタの予想外の一手により防がれ、君主を覚醒させたアカシアによる襲撃もまさかの敗北という結果に終わった。


「随分ぐっすり眠ってたみたいですけど? 派閥盟主の危機に立ち上がるという発想は無かったわけ?」


「『絶対に手を出さないで』と自分で言ったんでしょうに。そもそも、別系統の悪夢で場を染めたらあなたが無防備になってしまいます」


「それはそうだけど。獣人の身体能力ならいくらでもやりようはあるでしょ」


「あの場でわたくしの正体が露見してはこれまでの仕込みが台無しです。不安定なイーディクト様を刺激して逆に攻撃される事態も起こり得ました。先のことを考えればあそこは慎重に待機しているのが正解ですわ。まあ正直、タイミングをうかがっていたらいきなり変なクジラが出てきて加勢しそびれたんですけどね」


「ちょっと!」


 結局、メリッサとユーネクタを甘く見ていたということなのだろう。

 この計画はアカシアが主導したものだが、ジュネにも失敗の責任はある。

 大幅な軌道修正が必要だ。


 幸いと言うべきか、致命的な失敗ではない。

 君主の魂とアカシアは健在だし、なによりジュネの正体は露見していない。

 『神秘研究部』の一員として、『神々の墓所』を探索する。

 準備を進めていたこちらの作戦は見事に奏功しようとしていた。


「とはいえ、力が大きくなり過ぎたせいで隠す方が大変になってきていますが。やはり封術専科に転科したのは正解でした。魔獣の気配に紛れるよりも、力を分割した方が露見の危険性も下がります。正直、封術の秘密をレルムに持ち帰りたいくらいですわ」


「無理でしょ? 口外そのものができないし、やったらあなたは死ぬ」


「わかっています。イヴァルアートが伝えてきた『秘密の誓約』がここまで魂を呪縛するだなんて、想像以上でした。この知識は墓まで持っていくことになりそうです」


 ジュネがやっているのはごく単純な偽装だった。

 力の増大に合わせて『自分に対して封術を実行する』だけ。

 己の身を削って作り出した遺物で獣人としての力を切り離し、必要な時だけ己の中に回帰させて本来の力を振るう。


 『苦痛の弓』、『拘束の帯』、そして『バド』。

 幼い頃から一緒だった愛犬。本当はもうどこにもいない。

 殺されてしまった。失われてしまった。

 ジュネがしている『愛犬とその飼い主』のごっこ遊びは、惨めな人形遊びに過ぎない。

 血まみれの記憶。横たわる獣たちの屍。奪われた聖地バイゴスタール、処刑場と化したあの場所でジュネは。思いつめた表情を見て何を思ったか、アカシアが目を伏せて言った。


「仇を奪ってしまって、ごめんなさい」


 何かと思えば、過日の戦闘のことだった。

 ばかばかしい。むしろあれは賞賛すべき戦果だった。

 アカシアは世界に名を轟かせる強力な魔獣使いを倒したのだ。

 実績の乏しい成り立ての妖魔である彼女には戦果が必要だ。

 あの首はアカシアに箔をつけるためには妥当な価値を持っていた。


「構いません。この場合、むしろ私がお礼を言うべきでしょう。それに、わたくしが討つと決めているのは最初から『あの女』ひとりだけです」


 憎悪を込めて殺意を語るジュネは、言葉と反するように戦いのための姿を解除した。

 獣人としての力を剥がし、皮の遺物として生き物の形に整える。

 王者としての姿は鳴りを潜め、分離した絶大な力を遺物の中に封じ込めた。

 愛犬の骸を用いた遺物。命の如き愛の結晶。


「バド。わたくしの家族。そしてわたくしの最大の力」


 生気を取り戻した愛犬を撫でると、元気よく尻尾を振ってジュネの頬をひと舐めする。

 記憶にある通りの仕草。ジュネが望むままに、愛犬は好意を寄せてくれる。

 それだけで報われたような気持になる。もちろん錯覚だ。

 真の目的、飢えにも似た悲願を達成するまで、彼女は止まれない。


「アカシア。わたくしはこのままユーネクタの監視を続けます。あなたの妹についても可能な限り守ると約束しましょう。あなたは別の経路から『向こう側』に干渉する手段を探しなさい。封印は六つ。確実にあると言えるのは接合体ですが、フォルクロアや妖精郷の深域も怪しいとわたくしは睨んでいますわ」


「ええ。悔しいけど、今はあなたに頼るしかないみたい。ようやく対等な立場で力になれると思ったのに、不甲斐ない限りね」


 唇を噛んで悄然とするアカシアはどうやら本気で落ち込んでいる様子だ。

 ジュネはわざとらしく鼻を鳴らして弱音を切って捨てた。

 アカシアのやわらかい頬をつまみ、優しく引っ張る。


「ひょっ、ひゃめてっ?」


「はん。なーにを思いあがっているのやら。おしゃぶりも取れてないような新米妖魔が、いつこのわたくしと同格になったんですの? わたくしはジュヌヴィエーヴ・ヴィリエ。偉大なる『飢餓の獣王』が一人娘。唯一無二の『魔獣種の巫女シビュラ』ですのよ」


 ジュネとアカシアはひどく似通った運命の少女だった。

 だからこそ友情を感じていた。だからこそ窮地に追い込まれていた成り立ての妖魔に手を差し伸べた。利用価値だけではない。助けたいと、ジュネは直感から好意を抱いたのだ。

 使徒でありながら、特別な資質を持った『君主の器』。

 すなわち次代の君主。魔人種族の始祖となりうる頂点。


 魔人族・第九位君主。獣人セリアンの汚染源流。

 『飢餓の獣王』の娘とは、すなわち獣人族の王女であることを意味していた。

 ジュネにはその高貴な血が受け継いできた使命を果たす義務がある。

 一族の悲願。運命から脱するための切なる祈り。


「あなたはあなた。まずは自分のこと。守ることができたロスプの妖魔たちのこと。それから大好きなメリッサさんのことだけ考えてなさい。わたくしは自分の願いは自分でどうにかします。首尾よく魔獣の神と接触できたら、助けに行ってあげますわ」


「偉そう。あと撫でないで」


「嫌ですわ。ほーら、よしよし」


「もー! ジュネのバカ犬!」


 じゃれ合うようなやりとりも久々だった。

 年上の妖魔は大人びているけれど、何も知らない『成り立て』の頃は不安と恐怖で圧し潰されそうだったことをジュネは知っている。

 傷つきながら戦い続けようと前を向けるアカシアは、ジュネにとって大切な戦友だ。

 

 愛すべきものを守り抜く。

 そのためには力が必要だ。

 最弱の君主。負け犬の王。たとえ完全な継承を成し遂げても、それだけでは再誕派の君主たちには勝てない。貴族たちの支配を打ち砕くこともできない。


 必要なものは祈りと願い。それらが導く恩寵だ。

 古い伝承にはこうある。

 太古の昔、夜より産み落とされた邪神の仔らはその運命を呪い、生と死の境界さえない混沌の運命のただなかで苦痛にあえいでいた。


 その無残な運命を大いなる全能の父は哀れみ、慈悲を与えたという。

 神なき魔獣種族を憐れんで遣わされた化身。

 大いなる主神の牙と爪から生まれた獣。


 栄華を誇った獣人の国は異端狩りたちによって凍土に沈み、伝承は散逸し忘却に沈んでいった。偉大なる神の名は雪の中に埋もれ、聖なる神の名を唱える者たちによって上書きされた。千年前、ジュネの父が君臨していた王国は聖教徒たちの総本山となっている。


 祖国は消えた。神は奪われた。

 大いなる名をジュネは知らない。聖なる御名に上塗りされた屈辱があるのみだ。

 聖神ユネクティア。大いなるユネクト。尊きユーネクタ。ああなんて素晴らしい名前!

 魔獣としての誇りを奪われ、聖なる名で封じられた信仰。

 ジュネはその蛮行を正さねばならない。


 たとえ友人であろうとも、君主イーディクトをその身に宿すロスプの娘にこの願いは明かせない。妖魔は妖魔。獣人ではないのだから。

 戦友に加勢しなかった本当の理由。それがユーネクタへの肩入れだと言うことは、きっと誰にも明かさないだろう。正直に言えば、あの時ジュネはユーネクタに見とれていた。


 哀れな、けれど誇り高い従属を選択したユーネクタ。

 彼女が歩む道を、共に歩みたいと思ってしまった。

 大切な仲間として。いつか互いの全てを打ち明けられる魔獣種の同胞として。

 呪われた雑草の娘。女王となるジュネの庇護すべき民。

 いつかきっと、冥界の女王に変えられた悲しい運命から救い出してみせる。


 だから必ず辿り着く。

 ジュネとユーネクタが祈るべき本当の神の名に。

 その願いの形は同じだと、ユーネクタもじきに気付くだろう。

 魔獣の神はあらゆる獣の姿を持つとされていた。


 『探索の蛇竜獣』『唸る竜獅子』『白妖犬』。蛇の頭を持った獣や竜の如き獅子も悪くはないが、ジュネが好ましいと感じるのは純白の毛並みの犬だった。

 やはり彼女は犬が好きだ。愛するバドがそうであったように。

 哀れな魔獣種に希望をもたらす存在。『神々の墓所』に眠る今はまだ名もなき希望をジュネが再定義し、この世界に蘇らせる。それこそが彼女の願いだった。


 獣人の王女、ジュヌヴィエーヴの戦いはこれから始まる。

 幼い日に抱いた願い。希望を信じ、諦めない姫君ヒロインの前には、英雄譚の主人公プロタゴニストが現れてくれるのがお約束だ。

 共に草原を駆け抜け、森を歩み、山を踏破する。

 今はまだ名も知らぬ神。彼女はいつかその名を呼ぶだろう。

 見上げれば胸が締め付けられるように懐かしい夜空が広がっている。

 浩々と大地を照らす赤い月に向かって、ジュネは唸るような雄叫びを響かせた。



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