第20話「私の好きは、間違ってない」




 ずっと、焦がれていた。

 近くて遠い。いつまでも手の届かない夢に憧れていた。

 それがリリーフォリアを縛る希望で、諦めきれない願いの形。

 痛みに満ちた世界へのささやかな抵抗。


 大事な感情は『好き』だけにしたい。

 貴族としての正しさより、自分だけの間違った願いの方がずっと重い。

 『悪い子』だと言われるとしても、借り物の敵意や憎悪、押し付けられた使命感なんかより楽しいことを考えていたかった。


 望むのは誰もが仲良く平和に暮らせる理想郷。

 大好きなユーネクタお姉さまや仲間たちと過ごす『花園』の美しい日常。

 『嫌い』も『憎い』もリリーフォリアには不要な感情だ。

 メリッサに語った気持ちに嘘はない。


 けれど、それが自分の心を全て明らかにする真実かと言えば必ずしもそうではなかった。

 『いい子』のリリー。誰からも愛されるリリー。誰にでも優しいリリー。

 模範的で清く正しい貴族令嬢。正統なる封術の継承者。

 学院の長である祖母の『お人形』である自分。それもまた真実だ。

 

 どちらが『本当の自分』なのかなんて悩んだこともあった。けれど、それは自分にとっての『大事』ではなかったから次第にどうでもよくなった。 

 本当に譲れないものはひとつだけ。

 ユーネクタお姉さま。隣に居られるのであれば、どちらの自分であっても構わない。

 

 主体性が無くてもいい。愚かな小娘と蔑まれても平気だ。

 ただ、焦がれがあった。

 焼けつくような執着と衝動。

 リリーフォリアはユーネクタを求めている。どうしようもないほど痛みを訴える欠落が、傷を埋めようと必死で手を伸ばしている。痛みは嫌いだ。自分の心という形が嫌だ。


 自分に耐えられなくて、『貴族令嬢としての顔』だとか『お姉さまを敬愛する妹』だとかそれらしい『あるべきリリーの心』に名前を付ける。

 焦がれだけがあった。

 どんな自分でも、ユーネクタお姉さまを基準に考えていればそれで心は穏やかになる。


 『恋』は誰かを想うこと。恋焦がれる時間だけは、自分ではなく大事な誰かのことで心を埋め尽くすことができる。それはとても素敵なことだ。

 『好き』と呼んでいるこの感情が、結局のところ己の本質からの逃避でしかないことになんて、とっくに気付いていたけれど。


 焦がれている。焼け残った気持ちが、まだ熱を持って心を生かしている。

 だからこれは恋だ。憧れと情熱。飢えと渇き。

 燃え上がる心は今にもあふれ出しそうで、ふと気を抜けば取り返しがつかなくなりそうなほど。友達が、美しい花々が、愛らしい動物たちが、その炎に巻かれてしまわないように、リリーフォリアは自分の感情をきちんと制御しなければならない。


 余分な心は封じよう。

 大事な気持ちはひとつだけ。

 この焦がれに『恋』という名前を付けて、リリーフォリアという人間の芯にしよう。

 それが最初の決意。


 燃え上がる心と、薪となった黒くて愛らしいもの。

 恐怖と憎悪に染まったまなざしを向けられて、リリーフォリアは生まれて初めて罪と後悔を理解した。差し伸べた手。傷つけた手。失われた絆。逃げていく小さな獣。

 だから決めたのだ。この炎が全てを灰にする前に。


「私が、『リリーフォリア』を封じなきゃ」


 『花園』の封術士、リリーフォリア・フォン・フォルクロアはそうして生まれた。

 屍の上で、手の届かない楽園に焦がれながら。

 失われたもののために、誰よりも強く祈ったのだ。




 新しくできた友達のことが、リリーフォリアは好きだった。

 過去形だ。今は少しだけ自分の気持ちに自信がない。

 本当にこの感情は『好き』でいいのだろうか?

 けれど、揺らぐ自分を肯定したくもなかった。


 これは自制心? それとも、自分自身の心から目を逸らしているだけ?

 単純な憎悪と怒りに身を任せることができたらどんなに楽だろう。たとえば、目の前で魔獣を追い立てているひとつ上の先輩のように。


「むかつく。むかつくむかつく。納得できないっす! ユーネクタさまはどうして!」


 鍛冶道具の遺物が豪快な音を響かせる。リリーフォリアの目には蝶として映る精霊たちは、帝国人であるセリンの解釈によって燃えるトカゲや小さな老人のような姿として具現化し、次の瞬間には色鮮やかなインゴットに変容していく。錬金術には明るくないが、確か四元素という考え方に基づく認識だったはずだ。


 リリーフォリアとセリンの遺物は土地に宿る神秘の源、精霊を支配できるが、その認識には大きな隔たりがある。同じものを見ていることは間違いないのに。

 感情もそうだ。『むかつく』なんて言葉、リリーフォリアは使いたくない。

 けれど、確かにこれは『むかつく』なのだ。まずそこから認めなくては。


 精霊鉄を鍛えて無数の槍を生み出し、精霊たちが生み出す熱や風を操って投射する。

 セリンの戦いぶりは精密で工業的だが、いつもよりどこか荒々しい。

 普段はユーネクタの優雅な振る舞いを模倣しようと一生懸命だというのに、今は感情のままに魔獣をいたぶることに夢中だった。


 狙いの定まらない穂先が魔獣を捉えることはほとんどない。かわりに森の木々が砕け、背の低い下生えを鋼鉄が圧し潰していく。妖精たちの愛する森を荒らそうという意図があるのかもしれないが、セリンの息は徐々に上がり始めていた。


「セリンさま。あまりご無理をなさらないで」


「リリーさんは平気なんですか? 私は、リリーさんみたいな素敵な人ならユーネクタさまに相応しいから仕方ないって思えたのに。よりにもよって妖精エルフなんかを『妹』にするなんて。これじゃ私、馬鹿みたい。リリーさん、なんでそんな冷静なんですか」


 あなたのおかげです、と面と向かって言い放つことは流石に憚られた。

 セリンが加熱していくのと対照的に、リリーフォリアは静かに心が冷えていくのを感じていた。かえって冷静になれている? 少し違う。


 激怒はしている。セリンとは発露の仕方が異なるだけだ。二人の感情は似てはいないが同質のもの。セリンの感情は単純だからこそ共感できる。だからこそリリーフォリアとの違いが浮き彫りになっていた。


 リリーフォリアは自問する。ではその『違い』とは何だろう。

 ユーネクタとメリッサ。二人に対する感情は、今までよりもずっと不明瞭なものに変化しているように思えた。単純な『好き』と『嫌い』で切り分けられる関係をリリーフォリアは望んでいた。けれど今はわからない。


 元々ユーネクタはリリーフォリアを『姉妹』にすると公言していた。不義理や不誠実という言葉とは縁遠いはずのユーネクタが突如としてメリッサを『妹』にすると言い出した時、真っ先に祝福したのは約束を反故にされたリリーフォリアだった。お行儀のよい、『居場所を失ったかわいそうな少女』を気遣う言葉。それが『姉』が望んでいる態度だとわかっていたから、迷うことはなかった。


「それがお姉さまの望みですから」


 セリンの問いに対する答えとして正しいのはこれだ。こう言えば彼女は納得するしかなくなる。それはリリーフォリアにとっても同じ。


「それはそう、ですけどぉ」


 納得いかない、というように足元の石ころを蹴り飛ばすセリン。

 子供じみた感情表現をどこか遠い光景のように眺めながら、リリーフォリアは再び自問した。大切な友達を守りたい気持ちは嘘じゃない。こんな状況だからこそ、率先してメリッサを助けてあげないといけない。


 ぎり、と奥歯を噛みしめる。顎が軋み、こめかみに嫌な力が加わった。

 ああ、いけない。こんなことではまた家の専従医に怒られる。渡されたマウスピースも駄目にしてしまったばかりだし、こういう苛立ちを上手に処理できないのは未熟さの証だ。

 冷静にならないといけない。リリーフォリアも、セリンも、人目が増えれば周囲を意識して『花園』の生徒らしい振る舞いができるようになるはずだ。


「セリンさま。いちど戻ってテジアさまたちと合流しましょう? このあたりに散った魔獣はほとんど掃討できました。あとは本科の方々に任せて大丈夫だと思います」


 二人が行っているのは学院を襲った魔獣の群れ、その残りを片付けるだけの簡単な任務だった。形式的に封術専科からも人員が出されたが、完全な殲滅を望まれているわけではない。ある程度の数を減らしたら帰還して良いと言われていた。

 二人は実戦経験が豊富とは言い難いし、深追いすることもないだろう。


 少し落ち着いて判断できるようになったのか、セリンはリリーフォリアの提案に頷いた。

 だがその直後、少女たちの表情が凍り付く。

 木々の奥から響く唐突な唸り声。異様な姿の大型魔獣がいつの間にか現れていた。

 幾つもの獣を少しずつ混ぜ合わせ、規則性も必然性もなく強引にひとまとめにしたような『部位の塊』とでも言うべき不気味な異形。


 尋常な魔獣ではありえない。ユーネクタが交戦したという妖魔ダークエルフはロスプ家の改造魔獣を手懐けていたという。ならばこの見慣れない個体も改造魔獣だろう。

 だが、問題はそれだけではなかった。

 その魔獣はある意味で最も危険とされる性質を持っていたのだ。


 グロテスクに蠢く眼球、尻尾、口、牙、角、翼、鱗、毛皮、樹皮、様々な『何か』。

 無秩序に繋がれた部位のひとつが突如として肥大化したかと思うと、肉体から剥離するように排出される。更に分離した部位は膨張しながら小型の魔獣となって動き出した。

 後方で魔獣を生み出し続ける極めて厄介な大型魔獣は、最初に分類した妖精の名付けが世界的に広まってこう呼ばれていた。


「『女王蜂型』! に、逃げましょう! 私たちだけじゃ勝てないっす!」


 『改造された』『大型』『女王蜂型』という一つでも危険な要素を併せ持つ魔獣の出現。焦るセリンの声にかまわず、リリーフォリアは一歩を踏み出した。

 この距離で接敵した以上、既に二人で逃げるという選択肢はない。背中から襲われないように一人は前に出なくてはならなかった。


「異獣深度、第三段階。ああ、もう完全に思い出したんだ。本当の姿を」


 迷いはなかった。ここにユーネクタはいない。『可愛い妹』『いい子のリリー』という理想像を共有しなければならない相手はもはやここには存在していない。

 それが、たったいま分かった。

 焦がれがあった。心が焼けていく。遠い理想郷が炎に巻かれて灰になっていく。


 いつだってそうだ。リリーフォリアの決心は、喪失から始まる。

 だからリリーフォリアがするべきことはひとつ。

 自分フォルクロアだからこそできる役割を果たすだけだ。

 異形の魔獣が更に変貌し、次々と『仔』を産み落としていく。


 セリンが周囲に散らかすように退治した魔獣たちから光が立ち上る。改造魔獣が屍から溢れだす生命力を吸って更に強大になろうとしているのだ。

 長い髪を飾っていたリボンをほどいて燐光を撒き散らす。それらは改造魔獣に触れた瞬間、幻のように消滅した。


「駄目ですよ、遺物を無効化する力を持ってるって言われたじゃないですか! もっと別の手段じゃないと、とても太刀打ちできません!」


 厳密には違う。リリーフォリアは、フォルクロアはそれを知っている。

 この『先祖返りの魔獣』たちは遺物を無効化しているのではない。

 神秘を無効化しているのだ。頑丈な遺物による物理攻撃は通じるし、帝国式の錬金術であれば有効なはずだった。もちろん、リリーフォリアの仲間であるセリンは数学も錬金術も苦手だから、改造魔獣に対抗する手段はない。


 いまセリンを守れるのはリリーフォリアだけだ。その気持ちを誰より理解してあげられるのも。正しい心を教えてあげられるのも。同じ人を好きになって、同じ怒りを胸に抱いた。共感できる、友達になれる。仲間として絆を結べる。

 だから守る。簡単な理屈だった。


「『獣の想起』。私たちの『摂理ルール』である祈りを否定し、上書きする異なる『摂理』。かわいそうに。願いを捻じ曲げられ、祈るべき神の名を奪われるなんて」


 リリーフォリアの言葉に背後でセリンが息を呑む。

 見られている。聞かれている。知られている。

 そして同時に、試されてもいるのだろう。リリーフォリアは眼前の脅威に集中した。


「これが本来の魔獣。この世界に定着して神霊種から堕ちる前の、異邦人としての本質を取り戻した姿。天空世界から飛来してくるよりずっとずっと古い、獣の記憶。外側には現れずとも受け継がれてきた形質、あるいは『神の設計図』。ねえセリンさま。こういうの、錬金術ではなんて呼ぶんでしょう?」


「遺伝子、っすかね。上手に編集することがウチの国では『美徳』とされてるっす。建国の祖が色々試して以来、伝統的に」


 背後で答えるセリンの声は落ち着いていて、雑音が多い森の中でも綺麗に響いた。

 徐々にこちらに迫ってきている魔獣から視線を逸らすことはできない。

 仲間の表情はわからない。確かめるまでもなかった。

 不安と恐怖。逃げ出したいけれど、大切な仲間を見捨てられない。セリンはユーネクタに部隊を託されている。一年生を置いていくことはできない。


 静かに覚悟を決める。対峙したからには出し惜しみはしない。フォルクロア家の娘として、リリーフォリアには世界の秩序と均衡を維持する使命がある。

 じかに神秘を作用させるのでなければ、遺物を発動させること自体は可能だった。

 下準備として、自身の遺物に見出した固有の力を発現させる。


「咲いて、『洗練された美』」


 リボンがふわりと広がると、リリーフォリアの周囲に淡い光が次々と浮かぶ。

 幻想的な光に、神秘を無効化するはずの魔獣が嫌がるようなうめき声を上げて後退した。


「そのリボン、実体部分だけじゃないんすね。目に見える光はほんのわずか。可視領域外の紫外光を操作して、魔獣や魔人が忌避する心理的圧力をかけてる、ってとこっすか。流石は神霊遺物。『遺物の父』が手がけた最古の傑作だけありますね」


 目に見えないはずの仕組みをセリンが理解しているのが何故かはわからない。

 しかしその考察は正しかった。魔獣の侵攻を妨げているのはリボンから放射される不可視光の障壁だ。神秘を無効化するはずの獣は、神秘的な光景を前に一歩も動けない。


「あなたたちはこの世界を成り立たせる神秘の全てを否定してるわけじゃない。そうでなければ何も見えないし、この大地に立って息をすることさえできないのだから」


 リリーフォリアはリボンが放つ光を花の形に変化させることで、あらゆる神秘現象そのものと言ってもいい精霊たちが好む模様を作り出し使役することができた。

 伝統的にフォルクロア家の封術士は精霊たちを『花に誘われた蝶』として定義し、遺物で誘導することで望む神秘現象を引き起こす。


 リリーフォリアが描いたのはネクターガイドと呼ばれる『精霊呼びの光』。

 『花園』を襲った猿の魔獣は何らかの古い遺物を使って召喚術を使い、恐るべき多頭の大蛇を呼び出していた。古き神秘は、同じように古代の遺物によって再現可能である。

 まさに今、リリーフォリアが実行しているように。


「私は想起する。私は想起する。私は想起する。私の舌は刃。私の歌は剣。分かたれた起源、されど分かち難い『愛憎』。彼方の空にはばたく真葉つばさを、私は想起する」


 神話によれば。世界のはじまり、大地には刃があった。

 理を切り分ける『根源的な差異』。九柱の神々が司る九つの剣。

 その誕生と同時に、摂理の管理者が発生した。切り分けられた神秘が異常を来した際に修復する役割を与えられた精霊にして亜神。『剣洗いの精』と呼ばれる小さな神。

 フォルクロアは、それを『彼方』から招く手段を知っていた。


「古き盟約に従い来たれ、『純想剣精アストレッサ』!」


 不可視の輝きネクターガイドに誘われてリリーフォリアの背後に出現したのは幾つもの刃を翼のように広げた女性的なシルエットだった。手足を持たず、顔は仮面で隠され、長い髪は複雑な光沢を有している。どこか人工的なフォルムであり、遠目には蝶のように見えなくもない。現れた精霊神アストレッサはリリーフォリアの背後にぴったりと張り付くように召喚者の動きに追従する。


 恐れおののくように大型魔獣がじりじりと後退した。

 精霊神の背中から射出された翼のような刃が縦横無尽に飛翔して、次々と生まれたての小型魔獣たちを斬り裂いた。圧倒的な力にセリンが興奮して叫ぶ。


「リリーさん、それ召喚術っすよね! しかも剣の精霊神! すっご、フォルクロア家、ここまでの秘密を隠し持ってたなんて」


「内緒ですよ。いちおう禁術なので」


 人差し指を唇の前に持ってきてから悪戯っぽく笑う。

 滅多なことがない限り、この禁術を使うことは許されていない。

 頼れるユーネクタが不在である以上、リリーフォリアに選択肢はなかった。

 だが、それだけで終わらせるつもりはない。


 迷いはある。だが『大切な仲間を守らなければ』という感情はリリーフォリアに言い訳を与えてくれた。もう禁術は見せてしまった。だから巻き込んでも仕方がない。

 セリンはじっくりと観察し、秘術の詳細を記憶に刻みつけるだろう。帝国が求め、暴き、解き明かそうとしている古き神秘の全てを新たな摂理で塗り替えるために。

 そう。既にリリーフォリアは一歩を踏み出しているのだ。


 意志に呼応して動く伸縮自在のリボンが両腕に巻き付く。

 分厚く層を重ねたリボンが拳帯バンデージのように両手を保護し、自由に動かせる親指で四指一組の拳を固定する。

 はしたないかな、と思いながら歯でリボンを噛み千切り、ぐっと引いて締め付けた。

 軽やかに、そして無造作に前に出ると、同時に動いた精霊神が甲高い声で歌う。


 音が背中を押してくれる。風を切って巨大な異形と間合いを詰めた。

 蝶が舞うように軽快なステップを刻み、翻弄するように身体を揺する。

 大型魔獣が放つ攻撃をぎりぎりで回避し、拳を振りかぶって全力の一撃を叩き込んだ。

 小柄で華奢な少女が放ったとは思えぬほどの衝撃。泣きそうになるほどの激痛は必死に見ないふり。砕けた拳を一瞬で修復する。遺物が持つ破格の治癒能力はこういう使い方も可能だ。肉体に働きかける身体強化の神秘。骨と筋肉を癒しながらより強靭に再生させる。誤差を修正。もっと無駄なく攻められるはずだ。


 一撃、離脱、精霊神による追撃。

 立て続けに攻撃を受けた大型魔獣がよろめいた。その隙を逃さず、リリーフォリアは拳から切り離していたリボンを操って周囲の木々に大型魔獣を縛り付ける。


「接触しても遺物が動いてる?」


 不思議そうなセリンの呟き。

 その答えを示すように、リリーフォリアは精霊神に意志を伝えた。


「剣を洗え、アストレッサ!」


 命令に応えた精霊神が改造魔獣の無効化能力を無効化していた。

 それはあらゆる神秘を浄化・漂白して『真なる起源』のみに純化させる『刃の祈り』。

 この世ならざる魔獣の摂理を、この世の摂理として正常化させようとする精霊神の力が修復していく。歪んだ世界を清め、癒し、正す。

 『何が正しいか』はリリーフォリアが決定する。


 既に条件は同じ。あとは神秘が拮抗した『この世界の理』で単純に激突すればいい。

 リリーフォリアの目が据わっていく。腰を落とし、気息を導引して体内に『小さな蝶』を充溢させる。背後の精霊神がもたらすのはつまるところ『癒し』の力。彼女が求めてやまなかった最も強い祈り。リリーフォリアの願いは優しいものであるべきで、それを誰もが望んでいる。だからこそ彼女は優れた癒し手であることができた。

 少なくとも、今まではそうだった。


 あらゆる神秘を『純化』させるこの力は、複雑化した事象を単純で根源的な『この世界を最初に形作った九つの言葉』に回帰させることができる。

 リリーフォリアが召喚した『アストレッサ』という上位精霊が司るのは原初的な感情だ。

 それこそが森神リーヴァリオンが守護する枝葉の剣。

 取るに足らない『愛憎』の摂理である。


 フォルクロア家に受け継がれる第一等級遺物、『麗蝶れいちょう蜜標みつひょう』にはそのための神霊遺物だ。妖精たちが求める森神リーヴァリオンの力が封じられた『剣の主』。『愛憎』の刃で世界を切り分ける摂理の源流。

 摂理はより強い摂理によって上書きされる。これは正しさの押し付け合いだ。


 なにが正解かなんて、簡単な問いだった。

 今のリリーフォリアはとてもまっすぐな感情で動いている。

 好きか、嫌いか。結局のところ、大切なことはそれだけなのだから。

 拘束した魔獣が咆哮する。己の摂理を押し付けようと禍々しい気配を振り撒き、恐るべき仔を次々と産み落としてこの世界を破壊せんと牙を剥く。


「許さない」


 低い呟き。セリンがびっくりしたように小さな悲鳴を上げた。

 リリーフォリアは穏やかで心優しい少女だとされている。

 ユーネクタに相応しい、理想の『妹』。フォルクロア家が誇る一輪の花。

 そう望まれているがゆえに、彼女は可憐に微笑む。

 守るべき日常。尊い世界。大切な人たち。その全てのために彼女は優しくありたい。


 だが。リリーフォリアが放つ眼光は驚くほど暴力の色に満ちていた。

 普段の彼女を知っているほど、こう形容することは躊躇われるだろう。

 それでも今の彼女を見ればその言葉が漏れてしまうことは仕方がない。


「目つき悪っ」


 荒っぽい踏み込みも、低く落とした腰と大股を開いた体勢も、突き出した拳も。

 セリンが言った通り、今のリリーフォリアの目つきは鋭いを通り越して『悪い』。

 気の弱い者は卒倒するかもしれない。

 愛しいユーネクタはショックを受けるかもしれない。

 問題はない。見られて困る相手はここにはいないのだから。

 純化した世界。複雑な色で染まる前の空白を再定義する。

 封術士が神秘を形にするのと全く同じように、感情に名前を付けた。


「お姉さまのばか! 大っ嫌い! もうメリッサとどっか行っちゃえ!」


 殴る。殴る。ひたすら拳を叩き込む。

 怒りのまま、感情のままに排熱して自分を冷やす。

 言葉と共に叩きつけられた拳だけが熱かった。

 心は冷え切っている。そういうことにしよう。リリーフォリアは使命感で戦っていた。

 守るべきもののために。世界のために。『優しいリリー』であるために。


「ああもう! 思い出したらまた腹立ってきた!」


 かわいいリリー。すてきなリリー。いい子のリリー。

 大好きという言葉を受け止めるためにいるような、誰もが求める理想像。

 そうあるためにずっと自分を律してきた。

 大切なぬくもりを求めてどんな時でもにこにこ笑って耐えてきた。


 だってユーネクタお姉さまに認めてもらえることは嬉しかった。

 褒められると『本当は目つきが悪くて乱暴なリリーフォリア』が『優しくて良い子のリリー』として生まれ変われたようで安心した。

 自分とユーネクタは違う。誰よりも強い理想の封術士が、本当は争いごとに向いた性格じゃなくて、優しく穏やかな人だと知っている。


 それでもユーネクタは必死に強くあろうと努力し続けた。その姿をずっと見ていた。

 だからリリーフォリアはユーネクタのことが好きで、心から尊敬しているのだ。

 粗雑で、暴力的で、ふとした弾みで周囲を傷つけてしまう攻撃性を生まれ持ってしまったこんなリリーフォリアでも、頑張れば自分を好きになれるかもしれない。


 ユーネクタに憧れ、その在り方を規範とすることで、大嫌いな自分をいつか好きになりたかった。許されない罪を背負ったリリーフォリアが、許される日が来るかもしれないと思ってしまったのだ。


 そうすれば、この忌まわしい記憶と感触から逃げ切ることができるはずだ。

 蹴る。踏みつける。骨をへし折って眼球を抉り、首を絞めて窒息させる。

 遠い記憶が蘇る。それは幼い日に刻まれた、忌避すべき心の傷。

 襲い掛かってきた黒妖犬を素手で絞め殺した瞬間の興奮と嫌悪感。


 生きている動物の命をこの手で終わらせたという罪の意識。

 それを切り離した上で冷静に体が動くという自覚への恐れ。

 助けようとしたもう一匹から向けられた怯えと憎しみ。

 幼い子供に許されていた楽園は、誰もが仲良くできる『好き』の理想郷からリリーフォリアは追放された。自分の『好き』は誰とでも共有できるわけではない。


 誰かに『嫌い』と言われることもある。そんな当たり前のことに気付いたあの日。

 心の焦がれを自覚した瞬間、大げさに言えばリリーフォリアはそこで死んだのだ。

 去ってしまった温もりはもう戻らない。後悔が古傷となって今も残っている。

 そうして、新しい自分が生まれた。


 齢十にも満たないリリーフォリアが弱っていたとはいえ飢えた魔獣と格闘して勝利したことを知った祖母の怯えるような視線と、その直後から始まった英才教育と偏執的な溺愛。

 自分の形が歪だと、理解できないほど無邪気でいたかった。

 それでも生まれたての新しいリリーフォリアは望まれた貴族令嬢としての教育、フォルクロア家の後継者としての秘儀を貪欲に吸収していった。 


 拳に伝わる痛みが教えてくれる。お前の本質は『これ』だと。

 殴る。魔獣が吠える。殴る。骨を砕く。殴る。恐れを捻じ伏せる。

 振り下ろされる爪を躱し、振り回された尾を飛び越える。樹の枝に巻き付けた帯を引いて立体的に動き回りつつ、周囲に帯を張り巡らせていく。

 セリンが散らかした槍の遺物まで利用して、構築したのは即席の方呪。

 一人では足りない分を精霊神が強引に補う。最も古い形の封術を構築していく。


 命の感触。生物の形。動物の輪郭。それを実感し、認識し、解釈に足りる分だけ拳で確かめる。自然界における原初的な闘争。四肢を用いた獣の如き肉弾戦が両者に生命体としての自覚を促す。リリーフォリアはいま、生存競争を行っているのだ。

 それは摂理に定められた正常な闘争。決して、理解不能な異界の不条理などではない。


 舌と拳だけが燃えている。残りの全てはひどく冷たい。

 嫌い。好き。正反対の感情を、熱のように移動させる。

 どちらにも嘘はない。ただ、少し状態が変わるだけだ。

 それは同じもの。形と捉え方、新しい解釈で違うように見せる技法。


 禁じられた秘術、封術の奥義が方呪によって囲われた空間を輝かせる。

 『伝承封術フォルクロア』。

 かつて偉大なる『遺物の父』はフォルクロア家だけにこの秘術を伝えた。古き神々の封印を守るイヴァルアートとは違う役割。すなわち新しく生まれてくるであろう新世代の神々を封じるという使命。これはやがて訪れる破滅を防ぐための特別な封術だ。


「神の名を知らず、郷愁に身を焦がすかわいそうな魔獣たち。思い出して。あなたたちの果てしない歩みを。苦難の歴史が紡いだ神話と伝承を。新しく望まれた神の名を」


 呼び覚ます。罪深い実験と改造によって変異した真なる魔獣の形を、この世界の種族として定着した現代の枠に当て嵌めていく。それは同化であり教化であり、矮小化だった。

 神霊種であったはずのモノを零落させ、正常な秩序で首輪をつける。

 輝く鎖が魔獣を縛り、その異様な気配を抑え込んでいた。


 伝承。あるいは歴史。異邦の存在であっても、長く世界に存在し続ければそれは既に世界の一部。異物ではない。ゆえに、現代の魔獣から神秘を無効化する力は失われた。

 重要なのはこの世界の摂理と馴染ませることだ。

 大いなる神。あるいは主神に通じる小さな神々への祈り。

 それさえあれば、異邦の神霊種はこの世界の魔獣種として封印できる。

 

 人々の願い、切なる祈り。長き歳月はか細い想念を堆積させて大きく育てていく。赤子の神はやがて信仰によって真なる神に至り、災厄をもたらす。だからこそ、それを鎮める者がいなくてはならない。

 世界を正常に保つ使命。フォルクロアは、イヴァルアートが道を違えた時にそれを正すための剣だ。神々にとっての精霊神がそうであるように、正しさを見定める為に存在する。


 かつて主神は邪神によって殺され、邪神もまた英雄たちによって倒された。

 人々は死せる神に祈りながらも新たな神を求めた。

 貴族には聖なる神ユネクティア。妖精には森の神リーヴァリオン。

 そして、魔獣種たちもまた新たな祈りを求めていた。


 伝承はある。

 大いなる主はただ荒ぶるばかりの哀れな異邦人たちをこの世界の一員とするために、己の爪と牙を引き抜いて『獣の神』として遣わした。

 大いなる獣はあらゆる命の汚濁を漂白した姿、死せる骨の色を纏って現れたという。

 それは白き犬の神。その眷属は、自然の摂理に基づき『獣』として再定義される。


「あなたたちは獣。この世界で生きて死ぬ命。山野を駆け、森の恵みを喰らい、大地に還る。正しい摂理の中で巡る魂の一部」


 異形の怪物が、その形を変えていく。

 あり得ないはずの歪な部位の集合体、その姿が整えられ、自然な獣として並び変えられていった。実際には無数の獣たちが折り重なって『怪物のように見えていた』のだ。獣が獣の上に乗った『影』を見て、勝手に『異形の怪物』だと恐怖していただけ。魔獣は人の心が生み出した不安の鏡像でしかなかった。

 そういうことになった。


 魔獣は退去し、置き換えられた獣たちは散り散りになって、森の中という帰るべき故郷に戻っていった。全ては自然の摂理のままに。命は世界の一部として循環していく。

 森が平穏を取り戻す。リリーフォリアはふうと息を吐いた。

 セリンは見たこともない封術に驚嘆し、興奮しているだろうか。

 守るべき後輩に守られて、少し申し訳なさそうな表情で駆け寄ってくるだろうか。

 戦いが平和的な解決を迎えたように、大切な仲間と楽しく笑い合えることを夢想しながら、リリーフォリアは鋭く腕を背後に振った。


 遺物で強化された握力が鋭い穂先を顔の手前で止めている。

 投射された槍を掴み、ぐしゃりと折り曲げて捨てた。

 にこりと笑うセリンに、冷静さを保ったまま問いかける。


「『いま』ですか? ここで?」


「ええ。というより、このタイミングしかないんすよ。ああ、ご心配なく。他のお仲間もいい感じに改造魔獣と再誕派の皆さんが処理してくれてるっす。頭をちょっと開いていじって埋め込んで閉じるだけの簡単な作業っすから、ぱぱっと終わるんで!」


「そう」


「あ、勘違いして欲しくないんすけど、私はユーネクタさま以外のみんなも大好きっすよ! ただちょっと、帝国にとっていい感じになるように『処置』するだけで」


 にこりと笑うセリンが鍛冶道具を両手に構える。

 その背後に出現する無数の槍、槍、槍。

 脅威はそれだけではない。

 彼女の肉体。それ自体が罪深い叡智の産物であると、リリーフォリアは既に知っている。


「あんま驚かないっすね。いつから気付いてたんすか?」


「最初から」


「最初? 封術専科に入った時から?」


「いいえ。最初に『してあげた』のは中等部の頃です。報告書とは別に書き貯めている『ユーネクタさま研究日誌』にはそう書かれていませんでした? ジュネさまにも秘密の、引き出しの底に眠っている可愛いノートのことですよ」


 セリンは顔に貼り付けていた満面の笑みを初めて剥がして眉根を寄せた。

 怪訝そうにリリーフォリアを観察している。この反応もあらかじめ知っていた。 

 観察対象たちを制御下に置いている。傲慢なその思い込みが脅かされた時、彼女はいつもこういう懐疑と不快が入り混じった表情になるのだ。


「難しい数式や錬金術の用語は専門的過ぎてわかりませんでした。けれど、お姉さまを熱心に観察していたことだけは確かな事実。いえ、『史実』です。それが執着、あるいは恋や崇拝にも似た感情に変わることもあるでしょう。そう解釈することも可能ですよね?」


 困惑するセリンにいつもの微笑みを向ける。


「はじめはあなたを誤解していたんです。お姉さまをずっと観察しているのは、おばあさまが言っていた『魔獣の呪い』のせいなんだって。だから、観察記録や報告書にも魔獣の難しい研究ばかりが記されていた。違ったんですね。最近になって、色々なことが繋がり始めました。点と点が線になって、はっきりとした全体像が見えてきたんです」


「何を、意味の分からないことを」


「『ユーネクタさまが何より大好きなセリンさん』。少し勉強と確認をしましょうか。あなたの心の優先順位について。私たちが共有するべき目的とその背景について」


 遺物による攻撃、『特別な身体』に仕込まれた多種多様な秘密。

 全ては黎明帝国の利益のために。

 冷たい敵意をリリーフォリアに向けようとしていたセリンは、突然ぼうっと目をうつろにさせて身体から力を抜いた。脱力した両手がぶらりと下がって遺物を取り落とす。


「帝国への忠誠、錬金術への研究意欲、家族への愛情。その全てに優先されるのは?」


「もちろん、ユーネクタさまっす! もうずっと最推し、永遠に愛してる、ユーネクタさまが私の人生、親衛隊として命をかけてお守りするっすよ!」


 百点満点の答えだ。

 リリーフォリアは深くうなずいて、背後の精霊神に合図を送る。

 漂白の光がセリンの心を清めていく。そればかりではなく、生成された遺物からリリーフォリアへの敵意を消し去り、無害な精霊として大気中に還元していった。


「ではお勉強の時間です。今しがた私が封じた改造魔獣。あなたが使役していたものですが、ああいった先祖返りはどうして神秘を無効化できるのでしょうか」


 歯切れよく答えを述べるセリンの表情に疑念はない。

 大切な後輩に勉強を教えることくらい、先輩として当然のことだからだ。


「魔獣とは『堕ちた神霊種』にして『邪神の仔ら』。あれは神話の時代、大いなる主が骸となるより前に『獣の想起』によって堕ちて来た外世界の神なんす。邪神レザのはらである夜空の彼方より飛来した神の群れ、『来訪者ヴィジター』たち」


 堕ちる、という言葉には二重の意味がある。

 神聖なる存在が堕落するという意味と、遥かな空から落下してきたという意味と。

 魔獣は邪神そのものである暗黒より産み落とされた。

 『邪神』とは、魔人たちの崇める第二神『盲目の鐘楼守レザ』のことであり、同時にこの世界の外側に存在するという『獣たちの異界』のことでもある。

 

 魔獣とは闇と異界の混血児。

 ビーストと名付けられたものたちは、かつて来訪者ヴィジターと呼ばれていた。あるいはもっと端的にこう呼ぶこともあった。


異邦人エイリアン。この世界を侵略しようとしてる、人未満の気味悪い連中っす」


「そう。それが本心なんだ。そのせいで齟齬が出て、何度も封印が歪んでしまった。ちゃんと整合性を大事にしないと、破綻してしまう。難しいな」


 嫌悪感に塗れた言葉。

 吐き出された感情が魔獣全般ではなく特定の対象に向けられているという事実に気付けなかった。それがリリーフォリアの失敗だ。

 思い返せば後悔ばかり。それでも、少しずつ修正していくしかない。


「すっかりこの世界に定着したせいで神霊種としての力は失われましたけど。矮人どもの『罪の叡智』や私たちの『黄金帝の遺産』による改造魔獣っていうのは、その形質を復活させることで『外界の神秘』をそのまま利用できないかって試みっす」


 罪深い矮人ドワーフの古き知恵。その起源もまた『夜空』から飛来したものだ。

 そしてこの世界にはそうした『異物』が幾つも存在しているのだ。

 いまやそれらはこの世界と同化し、なくてはならないものになっている。

 異物は正しくこの世界に融け合い、秩序の中で共存していかねばならない。

 そうできないのなら、両者は傷つけあうことしかできないのだから。


「フォルクロア家に伝わる知識もおおむね帝国のものと同じです。考え方は違いますが」


 祖母として、あるいは学長として、『優しいおばあさま』はリリーフォリアにその考え方を刷り込み続けた。だからリリーフォリアはそういう形に封じられた遺物のようなものだ。

 少なくとも、祖母はそう考えているし、リリーフォリアもそう振る舞っている。

 封術とはとても繊細な技術だ。少しの綻びから大きく結果がずれてしまう。

 リリーフォリアやセリンがそうであるように。


「異質なものたちを強引に招き、相容れないはずの世界に連れてきてしまったことが最初の過ちでした。『獣の想起』によって出現した魔獣たちの『異界の力』だけをこの世界から退去させ、『あるべき姿』を与えて封じ込める。そうすれば歪みは消えるはず」


「フォルクロア家らしい秩序優先の思考っすね。で、さっきの改造魔獣を無害化したのが秩序を守るための『伝承封術』って秘密の力なんすね」


 セリンの正しい理解に頷きで返す。

 歴史。物語。神話。人の想念が紡ぐ願いと祈りが『異邦人』を伝承に語られる怪物という枠に押し込めた。過去の封術士たちはそれに成功したが、同時に邪神レザとそのしもべたちの抵抗によって完全に無害化することは叶わなかった。高い知性と強い力を持った獣人セリアンが生まれてしまうのはそのせいだ。


「『森の想起』もそう。妖精たちもまた被害者です。いにしえの蜜蜂たちが戦うための奴隷を求めて召喚した戦闘種族。月の向こう、遥かな故郷に帰ることもできず、この世界の都合に振り回されている。かわいそうな妖精たち」


 既にこの世界に定着した来訪者たちを否定するのは不毛だ。

 必要なのは現状を認めた上で善き隣人として付き合う方法を模索すること。

 封術とはそのためにあると、リリーフォリアは考えている。


「フォルクロア家は、ずっと来るべき時に備えてきました。魔人諸族が再興のために新たな神を見出そうとするこの時を」


 二人が共有する愛情と憎悪。ユーネクタとメリッサという新たな『姉妹』に向けられた感情を抑制し、リリーフォリアの制御下に置く。

 そうしなければ、恋と嫉妬の炎に焦がれたセリンは今晩にでもメリッサを闇討ちするだろう。彼女の行動は全てユーネクタに対する感情が起点となっている。


「うう、わたし、は。違う、そうじゃない。調査の、神秘研究部の主導権を、ユーネクタさまを奪ったあの妖精が憎くて、いや、待って。殺して契約を私に移せば」


 ああ、こんなのは駄目だ。純粋なセリンの恋心に黒いものを見出してはいけない。

 短絡的な暴力を望んでいるのはほかならぬリリーフォリア。

 こんなのはセリンに自分の醜さを押し付けているだけ。

 そんな自分が許せなかった。メリッサは異物であっても隣人としてここにいる。


「違う、違うだろ私! こいつ、そうだ、これが最初じゃない! 殺さないと、敵を、下らない猿ごときにっ! 確実に仕留める、今度こそユーネクタさまのために!」


 排除を望む己の本性を厳しく戒める。

 忌避するのは自分の醜い心だけでいい。

 暴力性と攻撃性。それらは正しく制御される必要がある。

 『嫌い』が『好き』よりも優先されることがあってはならないのだ。 


「セリンさま。一緒に『神々の墓所』に行きましょう。私は悲劇の始まりを封じます。そして、戦いのない世界をお姉さまに見せて差し上げましょう」


「黙れ。来るな。私がお前たちを支配するんだ。だから寄るな、やめろ、やめてっ」


 セリンは大切な仲間だ。

 同じ人を好きになった。同じ『好き』を理解し合えるかけがえのない存在。

 精霊神アストレッサの輝きがセリンを包み込む。

 憎悪と恐怖に歪む顔はもう見えない。


 本当は、ちょっと裏切り者を演じて驚かせたかっただけ。

 いざという時に適切に対処できるかどうか、後輩の対応力を試験したのだ。

 敵意は偽り。悪意の仮面の内側には優しく親しみやすい表情が隠れているが、セリンがそれをするのは無理がある。口調から人の好さが滲み出てしまっていた。


「『アルカナ』起動! なんでっ、エーテルが供給されないっ?!」


 錯乱するセリンに歩み寄り、静かに命令、あるいは願いを口にした。

 

「悲しみを封じましょう。争いの種を封じましょう」


 リリーフォリアとセリンはとてもよく似ている。

 だから目的を共有できるに決まっていた。

 胸の内を全て明かすことにためらいはない。


「まず、戦いの宿命を魂に『命令』されている妖精たちを解放してあげましょう。闘争本能を封じれば、きっと私たちとの不和も収まります。過剰なほど『戦と死』の性質を強められた妖魔ダークエルフという魔人種族そのものを無くすことだって可能です。そうすれば、メリッサは安心して故郷に帰ることができる」


「わあ、それならメリッサさんも安心して故郷に帰れるっすね! ユーネクタさまが『姉妹』の制度で保護する必要もなくなるし、平和的に丸く収まるっす!」


 セリンの目が希望に輝く。そう、彼女に相応しいのはこういう優しく明るい表情だ。

 そういう打算抜きでも、リリーフォリアはメリッサのためにできることをしてやりたかった。この目的が達成された時、はじめて二人は妖精の少女を心の底から大切な友達だと確信できるだろう。


「それからもうひとつ。私たち、この目的のためなら誰より必死になれるって思うんです。だからこそ、私はセリンさまにこの秘密を打ち明けます」


 ユーネクタがリリーフォリアに隠したがっている秘密。

 ばれていないと思っているだろう。

 何も知らないふりは得意だった。

 本当はとっくに教えられていた。


「ユーネクタお姉さまは『魔獣の呪い』に命を蝕まれています。余命は持って一年ほど。今はおばあさまがどうにか命を繋いでくれていますが、根本的な解決方法はありません」


「余命一年なんて、そんなの嘘っす!」


 その秘密を『初めて』知ったセリンは、もう何度目になるかもわからないお決まりの悲鳴を上げた。これまで『露見した時のための表向きの説明』をされた者は揃ってこういう反応をしていただろう。リリーフォリアもそうだった。

 祖母が自分にそう説明したことの意味を考える。


 同じことをセリンにしている自分の心を考察して、わかったことがあった。

 これは優しい嘘。愛する人の喪失を直視させないための配慮なのだ。

 大丈夫。ちゃんと祖母はリリーフォリアを愛している。

 リリーフォリアはセリンを大切に思っているのと同じように。


 大切な人を助けたくて癒しの遺物を扱えるように必死で努力した。それでも助けられないと知って、より優れた遺物を自分で作ろうと決意して封術の勉強に打ち込んだ。

 無論、そんなことでユーネクタは救えない。最も優れた封術士にして癒しの遺物使いとされている学長にさえできなかったことが、未熟なリリーフォリアにできるはずもない。


 リリーフォリアは大切なものを切り捨てたくなかった。

 ユーネクタもメリッサも諦めないために。

 嫌いであることを言い訳に『好き』を否定しないために。


「おばあさまに命じられた、極秘の使命。それはかつて忘れ去られ、今再び蘇ろうとしている『魔獣の神』を封印すること。それによって全ての魔獣を力と知恵を持たぬ『動物』にして無害化するんです」


「そうすれば、ユーネクタさまは助かるんですか?」


「はい。協力してくれませんか?」


「そんなの考えるまでもないっすよ。フォルクロア家の使命とか事情はよく分からないっすけど、ユーネクタさまのためなら何だってやってやるっす」


 セリンは迷わなかった。

 リリーフォリアは安心して息を吐く。

 予定調和の未来。ここまでは祖母が想定していた通りに進んでいるはずだ。

 何も知らずに全ての魔獣を封じて、純粋な『好き』だけでユーネクタを『救済』する。

 祖母は笑顔のままそれを祝福するのだろう。

 あれがそういう人なのだと、リリーフォリアはようやく実感していた。

 

 リリーフォリアにとって封術は理想的な力だった。

 暴力。戦争。悲劇。血の流れるような『正しさ』と終わりのない敵意。

 その連鎖を断ち切り、恐ろしいものを封じ込めることができたらどんなにいいだろう。

 妖精たちを戦いの歴史から解き放ち、魔獣たちを可愛らしい森の獣たちに置き換える。


 聖なる森はきっと、最も古い時代の穏やかな姿を取り戻すだろう。

 花が咲き乱れ、蜜蜂が舞い踊り、獣たちが駆け巡る。

 そこに美しい妖精たちが加わった、素晴らしい理想郷に。

 そういう物語を、リリーフォリアが伝承として語り封じるのだ。 


「一緒に頑張りましょうね、リリーさん! ユーネクタさま親衛隊として!」


「その活動はおひとりでどうぞ」


 二人は共闘の約束を交わし、共に帰路についた。

 いずれにせよ、ユーネクタの提案で『神々の墓所』に向かうことは決定事項だった。

 フォルクロア家を束ねる学長によって密かに準備は進められていた。

 盟友であるスペアミント家にさえその真意を悟らせないままに。

 

 フォルクロアとスペアミント。硬く結びついた二つの名家。

 しかし、祖母の態度にうっすらと滲むある前提にリリーフォリアは気付いていた。

 理解していながら、ユーネクタのためにはフォルクロアの力が必要だと黙認していた。

 両家の間には断絶がある。致命的な前提に基づいた『差異』が。


「おばあさまはこう説明していました。秘密を知る者が多いほど『魔獣の神』は強く祈りや願い、人の想念が生み出す伝承の力を得て強大になってしまう、と」


 リリーフォリアは『無害な伝承』や『滅びを前提とした神話』を形にすることで魔獣の神を封じ、魔獣という種族を平和的に生まれ変わらせるつもりだった。

 それこそ彼女の好きな可愛い動物たちのように。争わなくてもいい、暴力を振るう必要の無い人懐っこい動物を優しく撫でることができたなら。動物愛護を主張しても誰からも非難されない、愛玩動物ペットとして共に歩んで行く未来が理想だった。

 しかし、今の魔獣たちとそうすることは不可能だ。 


「スペアミント家は遠い昔に『冥界の女王』と恐れられた妖魔の君主に呪われた。数百体の魔獣の死骸を用いた儀式は時折スペアミント家の人間を蝕み、死に至らせる。この呪いゆえに、ユーネクタお姉さまは特に『魔獣の神』と感応しやすい。確かにこれなら正体がばれても言い逃れができます。お姉さまもこういう言い訳を準備していたはず」


「あー。ええと、そう、っすね?」


 『柘榴の君主』、あるいは妖精たちが言うところの『万象の魔女』は矮人の助けを借りて魔獣を原初の姿に立ち返らせ、その怨念さえも利用して悪行の限りを尽くした。

 全ての元凶である妖魔の汚染源流がメリッサの姉と共に復活したという知らせはやがて広まっていくことだろう。凶報はしかし好機でもある。

 決して滅ぼせない最強の屍操術士。肉体を持たない悪霊の君主を、かつての『遺物の父』は封じることしかできなかった。

 

 だが今は違う。千年の時間がもたらしたのは衰退のみではない。

 想いと歴史は積み重なる。

 正しい像が歪むほどの歳月は伝承を複雑に変容させた。

 リリーフォリアはそれを都合よく解釈し、封印対象に押し付ければいい。


「秘密にしたまま、けれど感応しやすいことを逆手にとって魔獣の神が眠る地を探索する。お姉さまが気付くより先にフォルクロアの力で魔獣の神を『森の動物たち』として封じ、魔獣という概念のみを暗黒の彼方に退去させる。それがフォルクロア家の計画」


 魔獣使いのジュネはもちろん、『書の想起』という名の魔導書の恩恵により発展している水晶王国のテジアにも協力を仰ぐことはできない。

 だからこの使命はセリンとやり遂げなければならないのだ。


「うーん、なんとなく概要はわかったと思うっすけど。何かこう、『伝承に封じる』っていうのがピンと来ないっす。普通の封術なら、六人くらいで方呪囲んで魔獣をイメージに合った遺物に置き換える、っていう流れが分かるんすけど。伝承にするって何? みたいな」


「セリン様は実例をよくご存じのはずですよ。それが成功したからこそ、この森は妖精郷と呼ばれ、私たちは甘い蜂蜜を口にできる。方呪が蜂の巣を思わせる正六角形であるのも、それが蜜蜂を囲むための最適な形だからです」


 リリーフォリアの言葉をすぐに理解できなかったのか、セリンは怪訝そうな表情をした。

 だから噛んで含めるように補足した。

 神秘を伝承として封じるということの意味。

 それがもたらした結果について。


「最初の伝承封術はその名を『蜂蜜六方呪ハニカム』と言います。遠い時代、支配種族である蜜蜂メリフェラの呪縛から解き放たれるため、『働き蜂』と名付けられた異邦の奴隷種族たちの中から六人の魔女が立ち上がりました。それこそが『養蜂の起源神話』を作り上げた妖精たちの始祖ハニカムウィッチ。妖精たちが養蜂を行っている現在の状況そのものが『伝承に封じる』という神秘の成功を物語っているのです」


 蜂の巣が正六角形で構築されているから方呪も正六角形になったのか、最初の方呪が正六角形であったから蜂の巣があのような形をしているのか、その真相は誰にもわからない。

 いずれにせよ、古い真実と歴史は新しい伝承によって置き換えられた。

 『養蜂をもたらした妖精たち』という歴史こそが選ばれた現実だ。


「じゃあ本当のリーヴァリオンの民は、蜜蜂? あのちっちゃな虫が?!」


「この世界は、本当はとても危うくて不確かなんです。古い神秘は世界の形を簡単に変えてしまう。過去の歴史や現在の認識さえ。だからこそ、絶望の未来を変えることもできる」


 『遺物の父』は伝承になぞらえて五人の同胞を集め、神々と戦った。

 その結果として六大国が生まれ、貴族たちが覇を唱える現在がある。

 メリッサとの友情も、その歴史に秘められた真実を思えば皮肉なものだった。

 きっとリリーフォリアは大きな流れの中にいるのだろう。

 大陸を封じる六方呪。『六偉人たちを祖とする貴族たちの歴史』という大いなる伝承。


 それがどんなに傲慢でも。貴族として生を受けたリリーフォリアには責任がある。

 自分たちは都合の良い虚構と多くの犠牲の上に立っている。

 憎むべき蜜蜂たちの命を踏みつけ、甘い蜂蜜を好ましいと幸福を享受していた妖精たちのように。蜂蜜の魔女が得た幸福は、屍の上に築かれた罪深い幻想でしかない。


「それにほら。帰って『ユーネクタさま研究日誌』をよく読めば思い出すはずですよ。セリンさまがどれだけユーネクタお姉さまのことを愛しているのか。いっぱい補足して、たくさん膨らませてあげたから、きっと心は『好き』でいっぱいになるはずです」


 セリンの心を満たす『ユーネクタが好き』という感情はリリーフォリアの鏡だ。

 理想像であり、目指すべき規範であり、自分の心を知るための画布カンバスでもある。

 何度も何度も練習して、失敗を重ねながら描き直し続けたから精度は上がっている。

 元の形はほとんどわからないけれど、それは些細な問題だ。


 仲間を大切にする心優しいセリン。それ以外の彼女なんているはずがない。

 真っ白な場所に何を描くかなんて、心のままに決めるしかないのだから。

 リリーフォリアの心にいるユーネクタ。セリンの目に映るユーネクタ。

 その形は完全に同じではない。歪みが生まれてしまうのはそのせいだ。


「もっと、精度を上げないといけませんね。セリンさま、見た目を真似するだけでは駄目ですよ。もっと身も心も真っ白にして。そう、自分を薄く、薄くして」 


「あ、うう、わた、し。あんな、猿なんかに」


「違いますよ。正しいお姉さまはこうです」


 何度も、何度も、何度も何度も何度も。

 『好き』を教えて、『好き』を刻みつけて、『好き』で埋めつくして。

 それでも封印は破綻してしまう。

 フォルクロア家が継承した古い神秘が衰えているのか、それともリリーフォリアの技量が未熟なのか。改造魔獣には通じた。セリンに対する効き目も良くなってきている。


「答えて。セリンさまはユーネクタお姉さまのことが?」


「『好き』。とっても、命より、他の何よりも『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』」


「そのまま。喉が枯れるまで唱え続けて」


 単一の心だけでは足りないのかもしれない。

 他の仲間たちや、色々な人々がユーネクタを想う気持ちが知りたいと思った。

 焦がれ。炎。欠けた空洞。形の無い灰。

 心に燃えるこの感情は恋でいいはずだ。それを確かめなければ。


 大切な仲間たち。まだ見ぬ好ましく優しい人々。最初は敵として立ちはだかったとしても、きっと最後にはわかり合って仲良くなれる全ての存在。

 フォルクロア家が望むとおりに全ての魔獣を封じれば、致命的な秘密を隠されたままの愚かなリリーフォリアは最愛の人を失うだろう。


 祖母が願い、フォルクロア家が望む理想の後継者のまま、伝承封術をどう使いこなすかが問題だった。繋がった点と点。セリンが記録していた資料。薄れゆく記憶の中、微かに聞こえた声。祖母の説明。ユーネクタに覚えていた些細な違和感。

 リリーフォリアは、自ら破滅を呼び込む元凶になるだろう。


「だから、惹かれたのかな」


 口の中で呟く。

 炎と灰。触れるものを焼き尽くすような熱と衝動。横たわる獣の屍。

 この手で殺めた罪の記憶。その後悔が『リリーフォリア』を生み出した。

 祖母が真実を秘していたのはきっとそれが原因でもあったのだろう。


 ずっと焦がれていた。

 自傷行為にも似た、傷口を舐めるような執着。

 それは罪の味? それとも、破壊を求める舌なめずり?

 違う。胸に灯った熱は恋だ。心が願う『好き』だ。


 愛を叫び続けるセリンの情熱を見て、心から安堵する。

 リリーフォリアはちゃんと人らしい感情を持っている。

 もっともっと、理解しなくては。自分の心を。色々な心を。

 ユーネクタを取り巻く世界、そこに満ちている心を。


「題名は、『心集めの旅』」


 悪意と陰謀と打算が渦巻く世界なんて『知らない』。

 どんな悪意にも奪われない、リリーフォリアだけの正しい『ユーネクタ』を心に描く。

 大切な仲間たちが思い描く理想、多くの人たちが見る憧れ、それらが交錯する位置に生じるであろう『至高の封術士』の伝承。


 フォルクロアの操り人形、『いい子のリリー』は全ての思惑を回避して目的を達成しなければならない。きっと困難な道のりになるだろう。構わない。

 実は猿の魔獣? 明日をも知れぬ命? 妖精の奴隷?

 その情報にどれだけの価値がある? そんなことは問題ではない。


「駄目ですよ。セリンさま。正しいお姉さまはこう。イメージをもっとしっかりと持って。違います。そうじゃない。実は魔獣だからとか、心や宿命がどうとか、本人の認識とか、そういうことじゃないんです。『好き』って、恋ってそういうものじゃないんですよ」


 これは神々を封じ、世界を救う封術士の物語。

 主人公はユーネクタだ。

 ヒロインは、きっとメリッサということになるのだろう。不本意ながら。

 リリーフォリアは主役たちの隣で伝説を目撃し、記録する語り部だ。


 想起する。存在しない記憶、未だ知られていない歴史から思い出を呼び覚ます。

 これは物語。彼女が世界に刻みつける傷。

 残酷な世界を焼き尽くし、灰にしてから蘇らせる。

 できるはずだ。何故なら、リリーフォリアの胸にはまだ熱がある。


「お前は、間違ってる」


 掠れた声。消えゆく憎悪の、わずかな残滓。

 漂白されていく『誰か』の心を形作っていた屍の恨み嘆く声だ。

 『好き』の濁流に潰されていく死者の声が、リリーフォリアの在り方を呪い、否定する。


「理性だけが世界を形作る。事実を歪めるな。捏造された物語で歴史を穢すな。叡智の光によって照らされた、検証と再現が可能な硬質な世界。たとえ残酷でも、万人に共有される確かな摂理は必要だ。お前のやっていることは、子供の癇癪でしかない」


「だとしても、私はユーお姉さまが『好き』」


 焦がれている。憧れている。恋している。

 胸の熱だけが変わらない。炎と灰、その記憶が心を燃やしている。

 黒い犬の屍。憎悪のまなざし。逃げていく赤茶の犬。届かない手。

 遠い。触れられない。だから求める。だから願う。

 届かなくても、その先に何も無いのだとしても、手を伸ばさずにはいられない。


「それは愛情じゃない。ただ、支配したいだけだ」


 それが最期の言葉だった。

 死者は灰となり『好き』の森を育てる養分となる。

 ここにいるのは固い絆で結ばれた仲間、リリーフォリアとセリンだけだ。

 うっとりとした表情で恋焦がれる先輩を眺めながら、静かに言った。


「そうだね。あなたが悪い人であったのと同じように、多分その通りなんだと思う」


 それでも人は幸福を諦められない。

 敵を憎む感情を否定することは難しい。

 蜜蜂を飼いならして手にする蜂蜜の味はとても甘い。

 愛。憎悪。好き。嫌い。


 リリーフォリアは、新しくできた友達が好きだ。

 きっとメリッサが蜂蜜を好きでいるように。

 リリーフォリアがユーネクタを好きでいるように。

 貴族と亜人。妖精と蜜蜂。祈族と魔獣。流転する真実に正解はない。決めるのは人の心。祈りと願いだけが希望を導く。たとえ夜空に絶望の暗黒しかないのだとしても。


「間違ってない」


 自分に言い聞かせるために小さく呟いた。

 リリーフォリアにとっての戦いは、それを認めるところから始まる。

 愛と平和、優しい理想を願う『いい子のリリー』なんて幻想だ。


 それでも、そう在ろうとすることは無意味じゃない。

 ユーネクタから与えられた気持ち。

 焦がれ続けることで掴むことができたリリーフォリアという心の輪郭。

 嘘でもいい。虚構でもいい。それを形にするのが封術士の力だ。


 丹念に織り込まれた破滅の宿命を打ち砕けるのは、人の心だけだ。

 たとえそれが罪深い魔女の業であろうと構わない。

 リリーフォリアは望む世界を作り出すために封術士の伝承を紡ぐと決めた。

 ほかならぬ自分自身のために、そうあろうと心に誓ったのだ。


 それは愛情ではないのかもしれない。恋と呼ぶには血塗られていて、憧れと呼ぶには切実過ぎて、親しみと呼ぶには空虚過ぎる。

 支配と従属。暴力的な衝動。死と罪。

 その全てを焼き尽くして灰にしよう。


 灰は土に帰り、森を、そして花を育むだろう。

 その果てに辿り着く。そして、帰り着く。

 美しい『花園』。誰もが笑い合う理想郷に。

 だからリリーフォリアは、決意を込めて呪いを否定した。

 

「私の好きは、間違ってない」





 封術士。それは蜂蜜の魔女の罪と幸福を受け継いだ神秘の担い手。 

 ある時は優しき創造を。またある時は勇猛に戦う強く気高い華たち。

 人は彼女たちが集う学び舎を『フォルクロアの花園』と呼んだ。

 伝承に謳われる理想郷への夢と憧憬、希望と願いを込めて。



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