第17話「エピローグ」





 それは昔々のこと。

 偉大なる主の御言葉が天地を満たし、数多の神霊種が血肉を備えていた時代。

 あるとき森の神リーヴァリオンは愛娘たちの願いを聞き届け、己の被造物たちに恩寵を与えることにした。神は森の中で特に繁栄していた種族、妖精エルフ蜜蜂メリフェラを呼ぶと、厳かに告げた。


「ここに聖なる蜜と聖なる樹がある。蜜は美酒であり妙薬であり貨幣であり価値である。樹は揺籠ゆりかごであり棲家すみかであり剣であり意味である。望む方を選びなさい。それが種族としての道を定めるでしょう」


 妖精は迷わず聖なる樹を選んだ。樹が実らせた命は戦士となり、木材は武器や砦、神秘もたらす杖となる。外敵から同胞を守るため、妖精は戦と死の恩寵と共にある道を選び取った。それこそが人生の意味だと定めたのである。


 一方、蜜蜂は美しい花から溢れる蜜を選んだ。それこそが不死をもたらす真に価値ある恩寵だったため、原初の蜜蜂種族の女王は亜神となり種族は比類なき繁栄を手に入れた。

 しかし強欲な女王は不老の力を独占し、奉仕種族である働き蜂たちから自由と知恵を奪った上に短命の定めを与えた。これに怒った森の神は蜜蜂の女王から不死と自由と知恵を取り上げ、奉仕の罰を命じた。これが養蜂の始まりである。


「というわけで、蜂蜜からは神秘が失われてしまいましたとさ。おしまい」


 神秘が有する歴史や本質への理解は封術の成功に深く関わる。

 メリッサの昔語りを聞きながら床に屈み込んで白墨チョークを動かしていたユーネクタは淡々と呟いた。


「価値と意味ですか。神話というより、寓話のようですね」


 『花園』の最下層、『根』の大広間に描いているのは方呪の一種だが、正統な封術士が使うものとは形が少し異なっていた。正六角形の内外に様々な詩歌や幾何学模様をびっしりと描き、花や茸、虫や動物の死骸などを並べている。仰々しくおどろおどろしい、魔女の儀式めいた作法だった。 


「そうかもね。実際、昔から蜂蜜は妖精郷に富をもたらしていたわけだから、価値そのものといってもおかしくはないのかも」


「私が言いたかったのは、生と死を取引しているこの状況のことですよ」


 魔人と化したアカシアの襲撃から数日が経過していた。

 残った魔獣の掃討、治療、その他の事後処理。更には念入りな探索行の準備。

 あれから幾つかの取り決めをした二人は、ようやく『開かずの門』の前に立つことができていた。大扉に描かれた絵画をそれぞれに仰ぎ見る。巨大な樹木と枝からぶら下がる果実と蜂の巣。神話の世界。失われたはずの神秘は、もう手の届く場所にある。


「メリッサ。あなたは私と共に『開かずの門』の向こう側に広がる封印の地を探索し、森の神に私たち一族の救済を願う。そうですね?」


「引き換えに、あなたは妖精たちに対する非道な仕打ちを即座に止めさせる。目的が達成された際には妖精郷との協定も見直してもらう。それでいいよね、ユーネクタお姉さま?」


 メリッサの挑戦的な視線に、ユーネクタは表情を変えずに返した。


「二人の時にその呼び方をしないように。極めて不快です」


「嫌がらせで言ったの。そんなこともわからなかった?」


 視線が真正面からぶつかり合う。

 二人の力関係は最初に出会った頃とは一変している。

 だが一線は踏み越えない。この緊張した状況でもお互いに相手を従わせるための命令を口にすることはなかった。


 メリッサは遺物によって拘束され、ユーネクタの胸には烙印が刻まれたままだが、それらは目に見えないように隠されていた。妖精の少女は鎖付きの首輪からチョーカーへと形を変えた拘束具を軽く確かめるようになぞる。命を共有するもう一つの烙印も確かに存在し続けていた。

 二人はほとんど同じタイミングで視線を逸らす。強引に話を逸らすようにメリッサが口を開く。八つ当たり気味の苛立ちが混じった口調だった。


「昨日、皆の前で宣言したことだけど。私に封術を教えるって、あれ正気?」


「理屈の上では可能なはずです」


 淡々とユーネクタが言った。作業の片手間に相手をされている。メリッサに対する粗雑な扱いはいつものことだ。しかし二人になると急にわがままさと尊大さを取り戻す妖精の王女はユーネクタを不満そうに睨みつけた。


「確かに、あの時は勢いで合わせたけどさ」


 どこか不安が滲む口調だった。ユーネクタはメリッサを一瞥し、後輩たちの相手をする時のように少しだけ口調を柔らかくして続けた。相手が年下であることを今になって思い出したかのように。


「いいですか? 魔女の秘儀、『見立ての剣』は神秘を象るという点で封術に近い。神秘を遺物かたちとして具象化する封術の前身だと考えていいでしょう。神秘の固定化に使う方呪も、古い文献によれば六方呪ハニカムの魔女が確立したレルムの構築儀式に由来すると言います」


 ユーネクタは命と魂をメリッサと共有した体験、そして資料に基づいた分析から魔女と封術士が扱う技術の親和性を語った。二つの力が同質同根のものなら、学ぶための敷居は多少なりとも低くなる、という理屈だ。


「『遺物の父』を除けば『穢れなき乙女のみが使える』という点も一緒です。両方とも、生殖のための『魂を育む力』を使っているのでしょう。聖なる樹から生まれた妖精や私は最初からその力と縁が遠いため、適性があります」


「でもさ。似てるせいでごっちゃになって両方とも下手になったりしない?」


「あなたの『正しい魔女』はその程度で歪むのですか?」


「は? 何なの、何でそんなに無礼なの? ひどいこと言わないと死んじゃうの? もうちょっと普通に話せないわけ?」


 気を抜くとすぐに空気が張り詰めてしまうことにもそろそろ慣れ始めた二人は、どちらからともなく溜息を吐いた。何事もなかったかのように会話を続ける。


「文句を言わずに従うことです。前例はありませんが、あなたは正式に封術専科に転入することが決まりました。私の『妹』になるのですから、それなりの封術士になっていただかなくては困ります」


「はいはい。なにせ聖なる神への誓いだもんね。ユーネクタお姉さま?」


 ユーネクタは極めて珍しい反応を見せた。

 短い舌打ち。即座にメリッサも同じようにやり返し、蔑むように笑った。ユーネクタは不用意な行動を恥じるように口を塞ぐ。妖精の少女が頻繁にしてきた不快さの表明がとうとう伝染してしまったのだ。


 険悪であろうと、既に二人は運命共同体だ。ユーネクタの命脈をメリッサが握っているように、メリッサのこの先の運命もまたユーネクタ次第である。

 アカシアが魔獣たちと共に『花園』に侵攻した時、既にロスプ領は完全に妖魔の手に落ちていた。今もあの場所は魔人たちによって占拠され、妖精や貴族たちと戦い続けている。


 メリッサが知る住民たちは半数が死に、半数が汚染された。

 同郷の魔人たちは人類の敵となり、今も世界に牙を剥いている。

 統率者と思しきアカシアが帰還したという情報は入ってきていないが、東の魔人勢力圏から相当数の魔人が集結しつつあり、戦況は混迷を極めているという。


「あなたは私の制御下に置かれている。父や学長にはそう説明しています。強烈な抵抗と自害を抑え込むために『突撃爆雷』と『自走障壁』に関しては一時休止するという提案にも納得していただきました。周囲を欺けている今が好機です」


 ロスプ領が人類の敵となったことで問題が発生した。ただひとり難を逃れていたメリッサは今度こそ本当に汚染の疑いをかけられてしまったのだ。

 たとえ汚染されていなかったとしても、人でありながら魔人族に味方する内通者ではないのか、故郷であるロスプの地に利する行動をとるのではないかと周囲が考えるのは自然なことだ。メリッサが実の姉に剣を向けた瞬間を見ていたのはユーネクタだけなのだから。


 ユーネクタが打った策は単純だった。

 聖教の誓い。『姉妹』の契りを結んだのである。

 形式的な儀式だが効果は絶大で、『メリッサはスペアミント家の庇護下にある』ということを示す意味もあり、ひとまず彼女の身の安全は保障された。


 そんなわけで、今日のメリッサは慣れない制服に身を包んでどこか居心地悪そうな佇まいだった。年齢的には二年生相当だが、妖精郷とは学制が異なる上に封術専科のカリキュラムは専門性が高すぎて途中編入は困難である。まだ学期が始まったばかりということもあって強引に一年次編入を果たしたメリッサはもうすぐリリーフォリアの同級生になる予定だ。


「むう。何か、別にいいんだけどさあ」


 不機嫌、不安、不満。最初はメリッサの態度を咎めていたユーネクタだったが、次第に思い直すように眉尻が下がっていく。育んだ気質ゆえか、本能的に攻撃性を維持することが難しいのか、いずれにせよ強い感情は瞬間的な発露に留まっていた。嫌悪や憎悪だけで関係性を維持するのは難しい。それでも二人は定期的に『確認』を行う。作られた歪な対等さを信じなければ、この瞬間の憎悪さえ壊れてしまうだろうから。


「不満なら、こうしましょう。あなたの知る魔女の術を私に教えてください」


 だからユーネクタは均衡を保とうとする。貴族としての正しい在り方がそうであったように、知っているやり方で未知の相手と向かい合う。


「あー。さっきの理屈だと、そっちにも魔女の適性があるわけね。それで今日はそんな変な恰好してたわけか」


「失礼な。魔女とはこういう恰好をするものでしょう?」


 一時的な休校期間であるとはいえ校内では制服の着用が推奨されている。にもかかわらず、模範的優等生のユーネクタは珍しく私服だった。

 胸元が打合せになったゆったりめのカシュクールワンピースで、暗い青の色彩は言われてみれば魔女をイメージしているように見えなくもない。


「形は重要です。どんな場面でも。さて、こちらは完成しましたよ」


 ユーネクタは床に描いた特殊な方呪の出来栄えを確認し、頷いて立ち上がる。

 これも言ってみれば半分くらいは魔女の知識の活用だった。

 古い文献を元にユーネクタが準備を進めていた『転移門』の方呪は、遠く離れた二点間を繋げる大がかりな神秘であり、遠い昔に失われた技術だ。


 メリッサの助けを得て完成に至ったこの『転移門』の仕掛けをこの広間に組み込むことで、『向こう側』に設置した『道標』の座標を記録して即座に行き帰りができるようになる。探索は長期間の旅になることが予想されていたが、この仕掛けさえ機能していれば日帰りで拠点に戻ることすら可能なのだ。


「どのくらい危険かもわかんないし、寝床と食事の心配が要らないのは助かるよね、実際。ずっと野宿は正直しんどいし」


「あなた、あれだけ威勢のいいことを言っておきながら」


「え? そういうユーネクタお姉さまは湯浴みもできない生活に耐えられるの?」


「私は自分で適切な環境を構築できるので。便利な生活遺物が色々あるんですよ」


「ちっ、ほんとイラつくなこの女」


 メリッサはチョーカーから吊り下がった小さな硝子の棺を指で弄りながら舌打ちした。彼女は感情が昂るとこのペンダントを確かめるように触れるのが癖になりつつあった。

 そのことに気づいていても指摘はしない。メリッサの仕草を確認することで、ユーネクタも忘れずにいることができる。口に出して確認したことはない。だがそういうことだ。


「たとえ命がけで神の探索をしなければならないとしても、私は今ある日常や仲間を蔑ろにしたくない。それは私という人生の放棄です。ただ生存するだけでは意味がありません」


「ふうん。余裕ができたからって欲が出たわけ?」


「あなたの強欲さには負けます」


「やった、勝った。ざーこ。負けてやんの」


 言い返そうと口を開き、すぐにばかばかしくなって唇を引き結ぶ。

 互いの尊厳のためにもそれなりの敵意を示すポーズは必要だが、メリッサの子供っぽさに付き合いきれなくなる時も多いユーネクタだった。


「言っておくけど、今の状態って一時しのぎだからね。長くても残り一年。いよいよとなったら私の命を強引に分けるけど、共倒れの危険性もある。最後まで健康体で動き回れるわけじゃないし、実際の制限時間はもっと厳しいよ」


「わかっています。それでも私は」


「いいよ。私も同意見だから。それよりできるだけリリーと一緒にいてあげて。私、勝手に妹とかになっちゃったからさ。フォローしてあげないと駄目だよ」


 互いへの感情と立ち位置を忘れることは無いと決めている二人だが、リリーフォリアに対しての感情だけは一致していた。美しいもの。かけがえのないもの。守るべきもの。帰るべき日常。二人にとって、戦いと生存の先にある光は同じ輪郭をしていた。


「リリーは気にしていないと納得していました。あの子はあなたにも好意的ですし、必要な措置だったということくらい理解できています。私の『妹』を見くびらないで下さい」


「いや、そういうことじゃなくてさあ。え、本気で言ってる? 嘘でしょ? ダメじゃんそういうの! ちゃんとしてあげなよリリーが可哀想でしょ!」


 憤慨する妖精を訝しそうに見るユーネクタ。

 信じられないものを見るような顔になったメリッサは両手で顔を覆った。


「私とリリーの間にある信頼関係を甘く見ないでほしいものです」


「違う。それ甘えだから。ずっと一緒にいたからお互いに何でも理解し合えてるとか幻想だし言葉なんていくら尽くしても足りないの。ちゃんと話して気遣って相手の気持ち考えて一生懸命になるの! 油断と怠慢やめろ!」


 本気で叱りつけるメリッサから目を逸らし、ユーネクタは拗ねた子供のように反論する。


「ですが、私の秘密は、その」


「リリーなら受け入れるに決まってる。むしろ隠してたことに怒るよ。そんな簡単なことじゃないし、すぐじゃなくてもいいけどさ。いつかは言わないと」


 ユーネクタが『開かずの門』の先に広がる異界への探索に向かうことは周囲に打ち明けている。表向きは『魔人に対抗するための手段を探るため』であり、形式的には本科生が行っている遺跡調査任務を専科生にも割り振る、ということになっている。『花園』内部という秘匿性の高い場所で発見された『遺跡』だからこその学長の計らいだった。


「何と言ってもこれから一緒に探索するんだし。打ち明ける機会は幾らでもある。そうしなきゃならない場面も出てくるでしょ? いつにするかは任せるからさ」


 メリッサは努めて明るくそう言って、目の前にある扉に触れた。

 『茸の環』は先ほどユーネクタが完成させた方呪と一体化させてある。

 あとは鍵となるメリッサがそう決意するだけでよかった。


「ね、ちょっとだけ覗いてみよ。本格的に探索するのは皆が揃ってからだけど」


「構いませんが、すぐに戻りますよ? 四人共、夕方には魔獣の掃討任務から戻ると言っていましたし、今後の計画も詳細を詰めていかないと」


「わかってる。なんたって新出発だもんね。飛び立つ時は最初が大事!」


 メリッサが細腕に力を軽く込めただけで大きな門はあっさりと開いた。

 その事実にユーネクタは思わず胸の前で手を握りしめる。悲願の達成、その最初の一歩としてはあまりにも呆気ない。

 背後には目もくれず、メリッサは新天地に一歩を踏み出す。


「フォルクロアの歴史に刻んどいて。神秘衰退の時代に、新世界に最初に足を踏み入れて神の恩寵を復活させるのはこの私! 新生『神秘研究部』の部長、メリッサだってね!」


 かつてイヴァルアート王家が学院を管理していた時代。

 妖精の血を鍵として用いた彼らは学生たちを中心に『神秘研究部』と呼ばれる組織を立ち上げて神々が封じられた地を守っていたという。断片的に残された資料から詳しい情報を知ることはかなわなかったが、古い作法を踏襲して形から入ることで未知に対する恐怖はいくらか払拭できる。メリッサは勢い任せの言葉で弾みをつけた。


 向こう側から押し寄せてくる圧倒的な光の奔流。まぶしさに目を細めながら、ユーネクタは先導する妖精の少女を追いかけた。緊張、期待、あるいはそれ以外の何か。胸の高鳴りを鎮めるように胸を押さえて前に進む。


 二人は並んで緑溢れる大地を踏んだ。

 濃密な花と草の香りが風に乗って運ばれてくる。暖かな空気は重く濃密だ。

 降り注ぐ陽光が広大な世界を照らし、少女たちは同時に感嘆の声を上げる。

 そこに、神話の世界があった。


 雲と並んで浮かぶ島のように大きな花弁。それを渡りゆく大きな蜜蜂の群れ。

 幾何学模様を描く光の軌跡を残しながら優雅に飛翔する麗しき蝶々。

 上下左右の区別なく並んだ絵画の城と、その中に広がる無限の世界。

 そして枝葉の翼を悠々と広げて自由に飛翔する森。


「すっごい! これが『神々の墓所』なんだ!」


「これ、もしかして」


 おとぎ話さながらの未知なる光景に目を輝かせるメリッサとは対照的に、ユーネクタの驚嘆は一瞬だった。記憶を探るように眉根を寄せて、すぐに結論に至る。


「間違いない。雰囲気が『月光祭』の決闘場にそっくり。いえ、そのものです」


「なにそれ。もしかして、同じ『咎人』の仕掛けだからってこと?」


「おそらく。封術士の祖には謎が多いですが、『月光』を異界の門として利用し、ここではないどこかと繋がる大儀式はこの神秘的な世界と通じるものがあります」


「んん、そうなると祭司のハウレン家が何か知ってたりするのかな? どうだろ、今の私が質問して相手にしてくれないかも。あ、そうだ。テジアさんって水晶王国の人じゃん。なんか貴族の繋がりで連絡取れない? あっちにハウレンの王族がいるはずなんだけど」


 ユーネクタはおとがいに手を当てて考え、しばらくしてから頷いた。


「後で確認してみましょう。それより、我々の尊敬すべき師父を『咎人』と呼ぶのはやめていただけませんか。妖精たちにとって自らの神を封じられたり、流出してしまった神秘がより優れた封術に発展させられてしまった事実が悔しいのは理解できますが」


 メリッサは一瞬だけ眉間にしわを寄せて怒りを表明しようとしたが、すぐに怪訝そうにこう続けた。相手の正気を疑うような目つきだった。


「何言ってるの。『遺物の父』、っていうか『咎人ドーパ』のやった大罪は神秘の流出や神々の封印じゃないよ。それだってもちろん悪いことだけど、そのあたりは他の『六偉人』だって同じだし。それでも最大の『咎人』はあいつ一人でしょ」


 ユーネクタはきょとんとした表情になって妖精を見返した。

 それが大罪でないのなら、妖精たちは何をもって大罪としているのだろう。

 認識の決定的な齟齬。妖精の王女は重大な秘密を隠していた。聞かれなかったから答えなかっただけで、それは十分に世界を揺るがす事実だったのに。


「妖精郷の六方家はそれぞれが『異界の門』を守る秘密の使命を担っているの。ロスプうちの場合は『森という境界』だけど、ハウレンは『月という境界』だった。よりにもよって、一番遠くの『彼方』に繋がりやすい、世界を歪めかねない方位」


 メリッサが語ったのはユーネクタの常識では咄嗟に把握しきれないような遠大なスケールの秘密だった。妖精郷だけがそうなのか、あるいは古き神秘を伝える亜人の国というのはみなそうであるのか。メリッサは重々しく続けた。


「ドーパは祭司の立場を悪用して、私欲のままに異界から『切り分けられていない未分化の力』を呼び出して好き放題したの。神々すら封じることができたのもその万能の力のおかげ。言い伝えでは、それは九百九十九にも及ぶ『大地と闇の王子』たち。やがて成長して神に至る『巨大な赤子の魂』だって話だよ」


「巨大な、赤子」


 本来なら並ぶはずのない、不自然な言葉の組み合わせ。その響きは愛すべき未来を示しているようにも、歪な不吉さを示しているようにも聞こえた。

 メリッサにとってもそれは同じだったらしい。忌まわしいものを恐れるように、妖精は最悪の歴史をつまびらかにしていく。それは貴族たちにとっての英雄の異なる視点から照らしたもうひとつの顔だった。


「ドーパは姉のネクターと穢れた肉欲の果てにそれらの子供たちを創造し、最後の千柱目、『呪われた末子』を『新たな主神』として育てようと目論んだ。下手をすればこの世界全てが書き換えられて滅亡する。妖精郷は最後の赤子が誕生することだけは阻止できたけど、逃亡したドーパは貴族たちと組んで神々に牙を剥き、全てを封じた。あいつが本当に罪深いのは、魔人族と同じように世界の滅亡と再誕を目指したことだよ」


 魔人族と同じ。その言葉は二人にとって何よりも重い。

 今ある大切な世界への想い。そのためであれば妖精と貴族は共闘できる。

 だから、通常の善悪さえ超えた強烈な私欲は到底受け入れがたいものだった。

 正しい魔女、善き封術士でありたい。そう願った二人は美しく広がる幻想的な世界をもういちど見渡した。見果てぬ景色が、今はもう不気味で恐ろしく感じられてならない。


「正直、数に関しては眉唾だって思ってた。けどこの光景を見ちゃうと信じるしかないのかもって感じ。多分、この広い世界に封じられてるのは古い神々だけじゃない。至る所で、ドーパが呼び寄せた『神の雛型』が成長して色々な神秘を育ててるんだよ」


 かつてドーパが異界より招き、使役したという無数の『赤子』たちはどこに行ってしまったのか? 二人はその答えこそがこの場所にあると確信していた。

 既知の神話。未知の伝承。夢と無意識から漏れ出たイメージは地底から遺跡へと伝わり、遺物という形となって現世に溢れ出る。断片的な名前が驚異を伝播させていた。


 剣洗いの精、アストが雌雄一対で愛の舞踏の合間に巨大な枝の剣を浄化する。

 相思相愛の双子、ルディルアディルアが同化した身体から禁忌の種を播く。

 回帰の慈母、ジャワンサが産み落とした子に口づけ捕食し、また子を孕む。

 墓掘りの痩せ犬、バドバラムが彼方の父母を想い人骨の塔に尾を絡ませる。

 背徳の果実、クシュオーネは禁欲の果実、ガシュオドと抱擁を交わす。


 きっと果ての見えない旅になるだろうという予感があった。

 残酷で過酷な試練。

 けれど、生きている限り大切で忘れられない日常にしなければ。

 放課後の冒険が始まる。その決意を、恐れで台無しにはしたくなかった。


「長命種族ってなんかいいよね。悠久の時を生きる私たち、かっこいい」


 気楽に夢を語るメリッサに、ユーネクタは調子を合わせつつも皮肉げに返した。


「他の種族との寿命差で色々な歪みが発生しそうですが」


「全人類まとめて長命化もしくは不死化で!」


「リーヴァリオンの加護が及ぶのは聖なる樹から生まれた種族だけでは? 正直に言えば、私が森の神に命を与えてもらえるかどうかは微妙な所だと思います」


 あくまでも現実を見て思考するユーネクタは、楽観的に過ぎるメリッサの言動に対してバランスをとることを無意識に選んでいた。だからこそ、強く夢を語るメリッサを希望だと信じたくなるということにも。静かに決意を固める。


「私だって、あなたの善意に甘えるだけではいられない」


 風が吹く。遠い空気は知らない甘さで、誘うように二人を取り巻いた。

 見えない何かを振り払うように、ユーネクタはまっすぐに告げる。


「メリッサ。これは対等な取引です。あなたがそうするように、私も祈るべき神を探し、嘆願します。魔人と化した者を救う方法を。墓碑に刻まれた名前に報いるための慰めを。そして、その数と同じだけの不幸を、私の手で償えるように」


「ユーネクタ。それは違う」


 決意を手で静止して、メリッサは首を横に振った。

 それから首のペンダント、透明な棺に触れながらゆっくりと続ける。


「多分、そうじゃないよ。確かに『従属の墓碑』には沢山の死が刻まれている。それを忘れちゃいけないし、忘れたくない。でも、その重さに支配されるのは違うと思う」


 懐かしむように、愛おしむように。

 ユーネクタはその感情を知っていた。

 振り返ればそこにある日常。愛すべき仲間たち。

 メリッサが失った、全ての幸福。


「私はエンブラに色々な思い出を貰ったんだ。だから、お墓の前に立ったら幸せだったことを考えないといけないの。だからね、あなたもそうして。あなたという希望に命を繋いできた人たちが生きてきた時間を、不幸じゃなかったってことにしちゃおうよ」


 それをロスプ家の妖精が言うのか、という反発が一瞬だけ浮かび上がる。

 メリッサだからこそ言うのだ。少女の首を飾る棺を見てユーネクタは激情を押し込めた。

 抱えた罪は互いに大きすぎて、積み上げられた不幸は取り返しがつかない。

 メリッサの楽観論は明らかに無理のある虚構で、言葉遊びに過ぎなかった。


「でも私、間に合うんでしょうか。それに、そんな資格が本当にあるのかだって」


 気を抜けば潰されそうになる。

 ユーネクタは重さに俯き、相手から目を逸らした。

 忘れない。忘れてはならない。

 透明な棺、その向こうにあるもの。

 墓碑に刻んだ名前は自分の罪なのだから。


「どうにかするって言ったでしょ」


 それでも、彼女はいつものように幼稚でわがままなお姫様のままだった。

 暗い現実から目を背け、逃避するようにどこまでも飛んでいく。

 見上げれば、引き上げて貰えるような気がした。

 恥ずべき甘えだ。わかっていても抗えない。


「私が、あなたを幸せにするよ」


 果てしない世界を背にしながら、小さな妖精は優しく微笑んでいた。

 胸に死者の思い出を抱いて、それ以外に何も持たないまま、死と罪を恐れる子供を安心させるように告げられた言葉。

 ひどく軽やかで、薄っぺらく、現実感のない夢想。

 痛みよりも強く、ユーネクタは衝動に突き動かされた。


 これは正しさであり善意でしかない。贖罪。献身。なんだっていい。封術士の使命感。何も持たずにいる誰かに形ある物を贈る必要がある。言い訳は後からいくらでも。対等であるためにユーネクタが今すべきこと。したいこと。単純なこと。


 幸福を望むのが彼女の夢想なら、自分は不幸を否定する意思を持とう。

 だからまず最初に、ユーネクタは目の前の寂しさを取り除いた。

 小さく頼りない身体を強く抱き寄せる。

 困惑する気配と、わずかな抵抗。無視して距離を縮めた。

 二人の心が重なることはない。ただ、居場所だけが一つだった。

 ユーネクタは己の願いを見定められぬまま、迷いながら言葉を紡ぐ。


「私が、あなたの」


 言いかけて硬直する。妙な臭い。それと背中をくすぐる奇妙な感覚。

 何かが服の中に入り込んで動いている。


「ひゃあっ」


 思わず素っ頓狂な叫び声が出てしまうが、そんな恥など気にならないくらいにぞわぞわとした悪寒が背筋を這いまわる。混乱と恐怖の中で、ほくそ笑むメリッサの顔が視界に入る。殴りたくなるような笑顔だった。


「なに、なにをっ」


「虫。さっき見つけたから捕まえといた。無害なカメムシ系っぽいから安心。臭いけど」


 抱き寄せて密着した瞬間に服の中に入れられたのだと気付き、慌てて服をバタバタと指でつまんで虫を追い出す。きっと睨みつけると、悪戯な妖精は歯を見せて笑った。


「お願いだから、すっごく幸せになってね。いっちばん楽しそうにしてる瞬間に思い出の品とかお気に入りの服とか台無しにする。好きな食べ物はぜんぶ私が貰う。大事な結婚式とかにはぜったい呼んで。大暴れして人生最悪の思い出にしてやる」


「そう」


 ユーネクタの顔からあらゆる感情が欠落する。

 青玉の瞳は絶対零度、生気の乏しい人形じみた表情は対峙した敵に死を予感させる。

 最強の封術士が被るのは戦意の仮面だ。

 目の前にいるのが宿敵だという事実を再認識して、ユーネクタは自分を取り戻した。

 そうだ。聖なる神に愛された貴族・ユーネクタはこうでなくては。


「ちょうど私も同じことを考えていました。あなたが誰の目から見ても明らかなほどの幸福を手に入れたら、私は堂々とあなたに戦いを挑み、己の宿命を克服します。その後、ロスプ家の罪を全て償ってもらうとしましょう」


 今はそうではない。現実は言葉通りには運ばない。

 だとしても、決意だけが未来への道になると信じていた。

 目の前の相手をどん底から幸福の絶頂まで連れて行く。

 それから、己の手で地獄に叩き落してやるのだ。


「気が合うね、ユーネクタお姉さま」


「ええ、本当に。私のメリッサ」


 『大嫌い』の感情だけを共有して、なりたての『姉妹』は未来を誓う。

 全ての幸福と不幸に華々しい支配と勝利を。

 巡り合った運命を自分のものにするために。

 対峙する二人の戦いは、ここから始まり、そして続いていく。




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