第16話「私の嫌いは、間違ってない!」
「メリッサ。あなたまで私を拒むの」
棄てられた子供のような表情だった。悲嘆がアカシアの瞳を染め上げていく。
ごっこ遊びのように木の枝を剣に見立てるメリッサ。
その決意は揺るがない。
どのような苦痛を与えられようと、アカシアが現実から目を背けることはなかった。
即座に事実を受け入れて、据わった目で妹をねめつける。
燃え上がる感情は、怒りだった。
「誰も現実を直視しない。都合のいい夢ばかり見て、必然の悪夢を忘れようとしてしまう。たとえ苦痛でも、人は与えられた選択肢の中からできることをするしかないのに」
「それが魔人族になって世界を滅ぼすことなの?」
メリッサはこの状況でも対話を試みようとしていた。
それは諦めの悪さか、それともいつもの現実逃避か。
アカシアは首を振って否定を返す。
「それは勘違い。私たちは世界を滅ぼそうとなんてしていない。だってこの世界、もうとっくに終わってるもの。行き止まりの未来、希望なき歴史、人の醜悪。それなのに諦め悪く生にしがみつこうとする。それが更なる悲劇を招くと知りながら。もういい加減、不毛な引き延ばしを続けるべきじゃない」
「それは極論でしょう。お姉さまらしくないよ」
「誤解よ。私は地表のレルムを一掃して顕界を再誕させるなんて
何かが噛み合わない。メリッサはもどかしさに苛立つ。
アカシアはメリッサよりも遥かに多くの事を知っている。そんな彼女がこう言っているのだから、それはきっと誰よりも現実を見た上で出された冷静な結論なのだろう。
けれどメリッサは嫌な悪寒をぬぐい切れなかった。アカシアに纏わりつく不気味な悪霊が正しい存在とはとても思えない。
アカシアはその秘密を蘇らせた。
ロスプ家から生まれた最も優れた魔女。
イーディクト・ロスプ・リーヴァリオン。
君主の名前が意味している事実とは、つまり。
「ねえメリッサ。正しい世界、望ましい社会って何だと思う? 万民が協調し富と権力が均衡を保つように再分配されていく。そうできたなら幸福は最大化されるよね? けれど人の愚かさ、怠惰さはそれを妨げる。イーディクト様は千年以上も前に結論に至っていた。それは早すぎた正解だったから選ばれなかっただけ」
「何の話? お姉さま、それは本当にお姉さまの考えなの?」
「人の性質を変えればいいんだよ。旧人類には期待しなくていい。真なるアセンションのため、次代の播種人類を生み出す。手遅れな現行世界のリソースはそのために使う」
「それはロスプ家の罪でしょう! エンブラが教えてくれたんだよ! お姉さま、お願いだから自分の言葉で喋って! その女から離れてよ!」
睨みつけた視線が悪霊のそれと交錯する。
怖気が背筋を走り抜けたが、メリッサはそれに知らないふりをした。
金縛り。抗えぬ呪縛が絡みつこうとした瞬間、ひらりと心を躱す要領で回避する。
飛翔術と同じだ。軽やかに飛び回るメリッサはそう簡単には捕まえられない。
姉を惑わす悪霊を追い払おうと枝を振るう。鬼火たちが集まり、それを妨げた。
実体化していくその姿を見て息を呑む。両親の顔が目の前にあった。
「実験がしたいの。本番で失敗はできないでしょう? まずは失敗作を使って人の新しい形を模索する。
「勝手に世界を諦めないでよ! 私だって現実を見たよ! ひどいことばっかりだった! でもね、それだけじゃないの。リリーは、信じられる世界はあったよ」
もはや対話は無かった。断絶だけがあり、虚無の中心で力と意思がぶつかり合う。
アカシアが無造作に手を振る。使役された魂が燃え上がり、青白い鬼火がメリッサの心を苛んでいく。痛い。苦しい。背後を見る。リリーフォリアは気を失っていた。こんな苦しみに耐えながら、彼女はそれでも必死に抗った。
「私、貴族の友達ができたんだよ、お姉さま! 世界は思ってたよりずっと複雑だった!」
「短命が正解なんだよ、メリッサ。播種人類のサイクルはもっと単純でいい」
「嫌いな奴でも、誰かの大切な人なんだってわかったから! リリーは私と一緒なんだ。私はお姉さまを失いたくない。リリーから『お姉さま』を奪いたくないの!」
枝は剣だ。メリッサが剣だと信じ、そう見立てている限り『剣』で在り続ける。
それは『森羅』のロスプ家が伝承してきた森の神秘。
だが、それを知るのはメリッサだけではない。
アカシアの細剣が枝の剣と鍔迫り合い、勢いよく弾き飛ばす。
炎上する斬撃が青白い軌跡を残して枝を焦がす。物理的な熱を持たないはずの霊なる炎は、鋼の刃を持つはずの木の枝を燃やしていた。
「私と共に『開かずの門』の向こうに旅立ちましょう。茸の環は私たち妖精王族に反応して形成される。境界門の先、『咎人』が封じた『神々の墓所』に希望がある!」
「意味わかんないよ! どうして! 何が目的なの?!」
「そこに森の神リーヴァリオンが封じられている! あまたの神話、六方呪の不死守り、取り上げられた
「だから! お姉さまの言ってること、意味わかんない!」
がむしゃらに剣を振り回す。青い炎は見ない。
斬撃を届かせるべき相手は決まっている。
両親や矮人の霊体じゃない。愛しい姉でもない。
森羅万象の運命を弄ぶ、忌まわしい悪霊だ。
枝を投げる。振れば鉄を砕き、投げれば邪悪を裂いて持ち主の手に戻ると言われる名剣が鬼火の間をすり抜けながら軽やかに飛翔していく。
メリッサはアカシアのような力強い前進はできない。
けれど、飛ぶことの自由自在さだけは負けなかった。
斬撃が悪霊に届く。小さな妖魔の君主が呻き、その輪郭を揺らがせながらアカシアから離れていく。それでもアカシアの瞳に宿った意思は変わらないままだ。
「それだけが私たち夢見人に選べるたったひとつの現実的な道。屍の上に立つ虚構の命は、覚醒して苦痛を直視しなければならない! 悪夢から目を逸らさないで、わからないふりをしようとしないで! この世界は、もう終わってるの!」
アカシアの意志が生み出す光の矢がメリッサの身体を激しく打ち据える。
かつてよりも更に鋭さを増した威力に耐えきれず、衝撃で吹き飛ばされた。
ふわりと浮き上がって体勢を立て直す。飛翔なら負けない。回避ならこちらが上だ。
意地で追撃の矢を躱しきって、跳躍しながら何度でも枝の剣を投擲する。
「死ぬとか! 終わりとか! 勝手に決めないで! なんでそうやって、ひどいことばっかり言うの! 私はそんなのやだよ!」
現実を見ろと叫ぶアカシアと、そんな現実は見たくないと拒絶するメリッサ。
平行線の会話。成立しない言葉での殴り合い。
戻ってきた枝を握っても、手応えなんてまるでない。
「嫌なのは私の方! なんでメリッサは貴族なんかの肩を持つの?! そいつらは敵、ずっと気持ちは同じだったはずでしょう?!」
「私だってお姉さまと同じ気持ちだよ、貴族なんて大嫌い! 大嫌いだから、ちゃんと嫌いでいたいんだよ!」
共振する。燃え上がる霊魂たちがメリッサの憎悪に触れて震えだす。
アカシアは瞠目した。
完全に支配していたはずの霊魂たち、その制御をメリッサが奪いつつある。
まともに剣での戦いに付き合うことはないと決めたアカシアはふたたびユーネクタに支配の手を伸ばす。妖魔の紋章が激しく輝くのに反応して、ユーネクタは烙印を赤く明滅させながらふらふらとアカシアに近づいていく。
「そのやり方じゃ、私は納得して『ざまあみろ』って気持ちになれないの!」
「わけのわからないことを!」
メリッサの斬撃を弾き、自由意志を失いつつあるユーネクタの胸に手を伸ばす。
戦闘か支配か。同時にできないなら片方を任せるまでだった。待機させていた猿の魔獣が動き出し、植物によって構成されたヒュドラが蠢く。行く手を遮られたメリッサが呻いた。
その瞬間、最下層である『根』の外壁が砕けて爆ぜた。
轟音と共に雪崩を打って押し寄せたのは大量の魔獣。
ヒュドラの首が次々と食い千切られ、わけもわからぬままに神秘の歌を響かせようとしたパンの首が細い手によって鷲掴みにされた。血の気の失せた少女の獰猛な笑み。
予想外の人物の乱入にアカシアは虚を突かれた。
「私の女に、汚い手で触るなっ!」
妖精狩人アデル。瀕死のはずの身体をどうやって動かしているのか、ボロボロになった熊のぬいぐるみが弾けて巨大な獣の腕を形作り、硬直したままのユーネクタを戦場から部屋の隅へと押しのけた。咆哮しながら華奢な腕で猿の首を掴み、強引に爪を立てる。
「供物を纏え、『二重に致命的』!」
そして引き剝がす。
獣の皮膚がべりべりと剥離し、まるで最初から剝きやすいようになっている果実の皮さながらに血肉から分かれていった。果汁が溢れ、獣が絶叫する。その苦痛さえ喰らおうとするようにアデルが狩人の笑みで吠えた。
「全ての血と命に感謝を」
噛みつく。異常な速度で喰らい、毟り、捕食し、吞み込んでいく。
血肉の全てがアデルの華奢な体内に入るわけがない。だというのに、自身よりも巨大な猿を狩人は瞬く間に完食、剥がれた毛皮をマントのように纏って靡かせる。一連の光景は凄惨ではあったが、どこか冗談じみていていっそ愉快でさえあった。少女は獣を纏い、新たな姿に変身する。いまやアデルは一匹の猿。獣人にも似た人ならざる存在だった。
「勝ったくらいで勝ち誇らないで。狩人は執念深いんだからっ」
召喚したヒュドラごとパンを支配した妖精狩人が妖魔と激突する。
予想外の乱入、唐突な再戦。
アカシアとアデルがぶつかり合うのを横目にメリッサは走った。
部屋の隅で荒く息を吐いているユーネクタの前に来ると、膝をついて目線を合わせる。
「何を考えているのですか」
困惑するユーネクタをまっすぐに見据える。
メリッサにだってそんなことはわからない。
それでも確かな衝動が胸にある。それに従いたいと思っただけだ。
「あなたのせいだから」
「は?」
「私の嫌いは、間違ってない!」
心からの叫び。結局、メリッサの感情はそこに戻ってくるのだ。
この女が嫌いだ。絶対に許せない。互いの憎悪だけが信頼に足る感情だった。
「私は悪くない。だって私は正しい魔女だから。悪いことなんてしない、させない」
めちゃくちゃな理屈だ。
意味が通っているのかもわからない、幼稚なわがまま。
「だから、あなたたちはちゃんと悪者でいてよ! かわいそうな境遇とか、罪悪感を抱かせるのとか、こっちが気持ちよくやっつけられないでしょ! 普通に懲らしめられてよ!」
「ふざけないで。ロスプ家が何をしたのか知ってそれを言うのですか」
「罪があるなら、私がどうにかすればいいでしょ!」
メリッサはまだ熱を持ったままのユーネクタの胸に手を押し当てた。
心臓が鼓動を響かせ、赤い烙印が光を放つ。
挑むような視線で瞳を覗き込む。そこに、自分自身がいる。
「死とか罪とかみんなして暗い! こういうのほんと嫌! 深刻で沈んだ雰囲気はもうたくさん! 簡単に死ぬとか言うな! 短い命とか悲しいからやめて! 健康で長生きできたほうがいっぱい幸せに決まってるじゃんみんな馬鹿なの?!」
「そうできたら誰だってそうしています。現実はそうなっていない。それだけです」
「じゃあ私がそうしてやる。お姉さまも、あなたも。よくわかんないけど、あの門の向こうに行けば神様がいるんでしょう? 失われた神秘を取り戻して、願いを叶えればいい」
ユーネクタは絶句した。確かに、それは望んでいた未来だ。
だが向こう側は未知の世界だ。あるかどうかもわからない、一縷の望みに賭けているだけの現実逃避に等しいことも理解していた。
その逃避を、メリッサは幼さのままに選び取る。
「私の神様なんだからとにかく精一杯お願いすれば聞いてくれる。多分。駄目でも下手に出て媚びへつらってでもお願いして甘え倒す! とりあえず最初に頼むのは健康と不老長寿、あと美しさ! 行けそうならダメ元で不死も突っ込む!」
「そんなの甘い考えでどうにかなると、本気で思ってるんですか」
驚異的な楽観主義に呆気にとられたユーネクタは、思わず真顔で問いかけた。
メリッサはぎこちなく不敵な笑みを作る。誰の目からも明らかな強がりだった。
「命は望みのままであったほうがいいに決まってる。短く太く生きたいなら勝手にすれば。けど、たくさん長生きしたい人に勝手な理想や幸福を押し付けたくない。それは周りの人を悲しませることだから」
誰のことを言っているのか。確認するまでもない。
メリッサとユーネクタにとっての利害の一致。
二人は同じ幸福を願っている。
なら、その条件とは何であるのか。
「私は、沢山の幸福を手に入れたい。甘い考えだっていい。それでも私は」
震える声は不安に揺れていた。
張りぼての楽観論。振り回すだけの幼児性。
作り上げた自分という仮面に縋り、その重さに苦しむ姿は誰かに似ていた。
ユーネクタは深く息を吸って、重苦しい感情と共に吐き出した。
「黙って聞いていれば、甘えた考えばかりで本当に不快。私、やっぱりあなたが嫌いです」
「私もあなたが嫌い。このひどいことばかりの世界が嫌い。馬鹿な私が大嫌い」
同じ感情でも、嫌いと嫌いなら反発しあうしかない。
わずかに触れてから弾けて離れ、残ったのは断絶ばかり。
「それでも、魔人に対抗するための休戦協定くらいは結べるでしょう? あなたの好きな、現実社会での政治的均衡ってやつ」
挑発的なメリッサの言葉を、ユーネクタが負けじと嘲笑する。
「やり返そうとしたがるところ、子供っぽくて馬鹿みたい。恥ずかしくないんですか?」
「人の感情を見下して大人ぶるところ、嫌味ったらしい。顔と違って心は下品ね」
やり合うたびに心の奥底から力が湧き上がってくる。
感情は力だ。心がどんな色に染まろうとも、それは生きるための活力となる。
立ち上がった二人はまっすぐに広間の奥へと進んでいった。
目の前には『開かずの門』がある。
メリッサの瞳が淡く輝き、その全身が光に包まれた。
増幅されていく力。共鳴する心。光の蝶が舞う幻想的な光景が広がる。足元には円を描く茸の環。妖精の言い伝えによれば、それは『ここではないどこか』と繋がる不思議な門。
理想郷に至るための道、妖精の環がメリッサたちを未知へと誘う。
その時、置き去りにされた幼児のような悲鳴が彼女を引き留めた。
「棄族もどきの猿が、私のメリッサから離れてっ!」
アカシアの激怒が必死の抗戦を続けるアデルを吹き飛ばし、燃え散ったヒュドラごと勢いよく壁に叩きつける。溢れた妖魔の力は形のない手となってユーネクタの魂に迫った。
ロスプ家の主人のために存在する心を掌握し、今度こそ屈服させるために。
しかしアカシアの干渉は不可視の壁に阻まれた。その魂を何かが覆っている。
透明な断絶。他者からの支配を拒もうとする意思が介在していた。
「妖魔の従僕になり下がるくらいなら、妖精の奴隷にでもなった方がまだましです」
忌々しそうに吐き捨てるユーネクタ。
胸の烙印が、魔女の瞳と共鳴するように強く輝いた。
その魂は既にメリッサが支配している。
もう、誰からも支配されないように。
固く結ばれた繋がり。
その光景にアカシアの理性が沸騰した。
焼き付くような情念。身を焼くような炎。
集う鬼火が女の全身を青白く包み込む。
「ああ、そう。お母さま、これがそうなんだ」
妖魔の細剣が前方を指し示す。睨みつけるユーネクタに殺意を向けながら、アカシアは再びその手に纏わりついた少女の亡霊と共に悪夢を解放した。
「墓所の彼方まで届け、『死に勝る愛情』」
命令し、名を告げる。そうして世界を染め上げていくのは漆黒の異界。
不可視の汚染、邪神の気配が侵食しているのは地面の上に広がる空間ではない。
『門』の向こう側から溢れだす神秘によって構築されたレルムとは競合しない足元、地面の下を占有していた『悪夢』の力。アカシアがこの場所に現れるよりも前から徐々に染め続けていた闇のレルムが妖魔を利する空間を構築していく。
床を突き破って伸びあがり、並んでいくのは黒々とした樹木だ。
そこは既に深い森の中。
『森羅』の号を与えられた魔女の支配する暗がりのレルム。
貪欲に繁茂を続ける暴力的な森。浮遊する鬼火たちを糧として育ち続ける木々はそれだけでは足りないと周囲から生命力を吸い上げていく。
異界と繋がりつつある茸の環に取り囲まれたメリッサとユーネクタにその影響は及んでいないが、力なく倒れているリリーフォリアたちから光の粒子が溢れだし、黒い森はそれを喰らって成長していった。このままでは誰も生き残ることはできないだろう。
ユーネクタの背後に巨大な石碑が出現し、ありとあらゆる遺物が、死の形が具現してアカシアに襲い掛かる。だがその全てを生物的に動く黒い木々が遮り、吸収していく。
「森は全ての生と死を呑み込み、流転させる。地の底にある腐敗は養分。死は木々を生かし、新しい命を育む。あなたでは私に勝てない」
妖魔の背後に屹立するのは死せる魔樹だった。植物ではあり得ない骨の大樹、歪に伸びあがる背骨と肋骨が形成する骨格の幹。その内側にふわりと入り込んだ君主の悪霊が、あどけない幼児のように無邪気な笑い声を響かせる。
汚染源流と一体化しているアカシアの力は最強の封術士すら完全に凌駕していた。
これまでのユーネクタのままであれば、万に一つも勝ち目はなかっただろう。
だが、ここにはメリッサがいる。
相手は遥かに格上。史上最高と呼ばれた『万象の魔女』と、その再来とさえ言われた『森羅の魔女』の組み合わせに挑むなんて自殺行為にも等しい。
けれど、誇り高い妖精はここで諦めたりしない。
正しい魔女はきっとその先、『
メリッサは右手の指輪に息を吹きかけた。
溢れだした霊魂、弱々しく揺れる愛しい灯火を掌に載せてユーネクタに突きつける。
その罪の形を相手の心に刻みつけるように、憎悪と共に。
ユーネクタは嵐のような遺物の奔流で森の侵攻を食い止めながら、じっとメリッサの瞳を見つめ返した。無言の問いかけに、頷きで返す。
何をすればいいのか、繋がった魂は答えを既に示していた。
まだ足りない。必要な力、不可欠な儀式が残っている。
だからメリッサは差し出した。
かけがえのない死、忘れがたい命の終わりを受け入れることと引き換えに。
「封印完了。遺物の再定義を実行。命名、『安らぎの硝棺』」
茸の環が方呪となって神秘の世界を確定させる。
魔女の願いと封術士の認識が重なる。
元を辿ればその起源は同じものだ。
封術士と魔女。封術と屍操術。死を見つめ、生を想う感情の発露。
形のないもの、触れられぬものを象る力。
屹立する巨大な墓碑に新しく名が刻まれる。
『エンブラ』という死の刻印。
その記憶と封じた想いを遺物として作り変えていく。
遺物とは墓碑だ。メリッサはそう感じた。
死を象った、生の足跡。
ささやかな想いと力がメリッサに新しい武器を与えた。
消えかけの霊魂を素材にしたそれは最下級の第十等級遺物でしかない。
それでもメリッサにとっては最強の遺物だった。
造形は単純だ。その名が示す通りの硝子の棺。
小さな形は精一杯に広がって、メリッサが望む大きさまで広がっていく。
幸福が閉じ込められた檻。透明な壁を隔てて届かない彼方の理想郷。
黄泉という名の異界に焦がれるように手を伸ばす。
骸の想起。失われたもの、失われていくもの。
全ての美しい記憶をメリッサは諦めない。
貴族の非道を忘れない。愛する人の死を許さない。
これはその証。名前を刻み、死を想うための墓標。
二人にとっての、死に対する正しい祈り。
生まれたての遺物。その使い方はもうわかっていた。
棺は死者に。終わりのない眠りに落ちていく旅人に。
だからメリッサは、蓋を開いてその内側にユーネクタを突き飛ばす。
倒れていく棺。いつかの裏返しのように。閉じた棺で眠る少女を見下ろした。
「目覚めのキスなんて、絶対にあげない」
嫌いな相手に与えたいものなんてひとつだけ。
その記憶に憎しみを刻みつける。せいぜい心だけでも傷つけばいい。
愛の交わりはいらない。一つになんてならない。求めることは絶対にしない。
これは断絶のあかし。透明な壁を隔てた相互不理解の誓い。
棺の向こう。腹が立つほど透き通る顔に、そっと唇を寄せる。
生と死の境界を越えて、世界の全てが花開く。
はじめての口づけは死の味がした。
血の味、それは命の熱さ。伝わるのは死の鼓動。
鉄の味、それは鋼の冷たさ。伝わるのは遺物の記憶。
「これは契約。あの子を死なせたくないなら協力して」
見かけ上の断絶が埋められていく。この世界にもう壁はない。
透明な世界は生と死の境に迷い込んで消えた。
二人はいま、生の上にも死の上にも立っていない。
繋がった命がひとつに連なり、同じリズムで脈動する。
ユーネクタの烙印が血のように輝く。
それと全く同じ奴隷の証が、メリッサの胸に浮かび上がっていた。
いつのまにか、硝子の断絶は感じられなくなっていた。
深い森の中。悪夢と屍と血に塗れた戦場で二人の少女が向かい合う。
円を描く茸の陣、悪意を阻む妖精の環の中心で、鎖を無造作に引く。
相手を縛る首輪が引かれ、厭わしいはずだった顔が間近に迫る。
時間が無かった。余裕も、退路も、あったはずの自分さえ。
「私のものになりなさい」
それは命令でさえなく、ただの脅迫に等しい。
だとしても、その手を取らなければ大切なものは確実に失われるだろう。
アカシアの怒りが世界を焦がす。君主の哄笑が全ての命を奪う。
荒れ狂う炎と激痛よりも強く、感情が迸る。
それはきっと相手も同じだ。
見つめ合う。互いの瞳に映し出された自分の姿、そこにありったけの憎しみを込めて。
「いいでしょう」
「契約成立ね。それじゃあよろしく、『お姉さま』」
奴隷の鎖が強く引かれる。それは互いの胸に刻まれた呪いの証だ。
再びの口づけ。儀式めいた手続き。
重なり合う二人の影と、響き合う心が紡ぐ言葉はただひとつ。
この女が、どうか地獄に落ちますように。
そう、『ざまあみろ』と迷いなく吐き捨てられる未来のために。
対等な生と死の地平で、二人は互いの死を願い、生を祈った。
そして開花の時。極彩色が咲き誇る。
暗い森の世界が一瞬で塗り替えられていく。
硝子の棺に敷き詰められた祈りと祝福。
死者を抱く柔らかな寝台が世界に広がり、咲き乱れる花々が棺の底から溢れ出す。
そこに現れたのは常春の世界。
この世ならざる理想郷。永遠の『花園』だった。
「『骸の想起』? 魔女の力だけじゃない。私の知らない神秘。封術と重ねたの?!」
愕然とするアカシアが広がる花を引き裂こうとするが、その勢いは止まらなかった。
メリッサは激しく脈動する心臓に恐怖を覚えながらアカシアを見据えた。
痛い。恐い。寒い。つらい。逃げたい。
零れていく。失われていく。どうにもならない絶望が胸を覆い尽くす。
ユーネクタの胸で輝く烙印に、凄まじい勢いで流れ込んでいく生命力。
契約によってより深くつながった二人だからできることだった。
メリッサの命が、死にかけのユーネクタを蘇らせる。
報い。罪。後悔。脳裏をよぎるのは不吉な言葉ばかり。
願うまでもない、こんなことをしていれば二人まとめて地獄行きだ。
罪深い人に与えられたのは限りある儚い命。それは人の心が悪であることへの神からの報いなのだと多くの神話は語る。それが無慈悲な現実を合理化するための説明でしかないとしても、死に打ち勝つ効用や正しき生への願いは弱者の夢想と切って捨てられる。
罪の向こう側に、善き不死の蜂蜜はあるのだろうか。
そんなものは異なる世界にだって無いのかもしれない。だとしても。
祈りは、願いは、いつまでも残酷な死を見つめ続けるだろう。
メリッサは知った。ユーネクタの心を、その叫びを。
だから、今のメリッサだけがその名前を付けてやれるのだと思った。
祈る神の名を知らぬ哀れな獣に、願う心の形を示すことができる。
「『
それは棺の名前。それは死者の墓碑銘。それは眠れる命を呼び覚ます呼びかけ。
ロスプ家の魔女にとっての忌避すべき罪。
そして、死者を忘れないためにある二人の遺物、その名前。
一面の花畑、世界中の花を集めたような春の世界で、最後の戦いが始まる。
アカシアの背後で悪霊が叫ぶ。地の底から這い出す闇を可憐な花が抑え込んだ。
「死ね。死ね。死ね!」
それはイーディクトの呪い。神秘における原初の法則を司る魔女が下す絶対命令。
あらゆる命を言葉だけで腐らせる恐るべき終焉を、二人の魔女は退けた。
墓の下まで届く激情。腐敗を糧とする暴虐。ユーネクタだけでは抗うことさえできない破滅は、新しく見出された力によって回避されていた。
棺が透明な世界を包み込んでいる。墓碑には無数の死が既に刻まれている。
いま、メリッサとユーネクタが支配しているのは死ではない。
名前だ。墓碑に刻まれた、生の証。死を記憶する意思。
木の枝を手に前に進み出たメリッサの手に、もう一つの手が重ねられた。
二人は共に枝を握る。大仰なごっこ遊び。それに付き合う義理はないとばかりにアカシアの鬼火が花畑を焼き、波打つ花びらと共に苦痛が迫る。
だが次の瞬間、青白い霊魂の熱が唐突に冷め、唐突に鎮火していた。
まるで波打つ花畑が火を飲み込むように。
見立てに気づいた瞬間、アカシアの体がその場を飛びのく。
だがもう遅い。
苦境における自由自在な逃避、それはアカシアをも上回るメリッサの得意技だ。
二人の手にした木の枝、水面に糸を垂らした釣り竿が強く引っ張られている。
これは大物だと子供のようにはしゃぐメリッサが気合を入れて、踏ん張るユーネクタが真下から巨大な何かを釣り上げた。アカシアには言葉を紡ぐ時間すら与えられなかった。
水面に見立てた花畑から飛び上がったのは巨大なクジラ。
それは大口を開くと数多の死者ごとアカシアを吞み込んで架空の水中に消えていった。
派手な水音。そして長い静謐。
そう、戦いは終わったのだ。ユーネクタの心はどこか浮ついていた。
隣の少女と命が繋がっているという実感がある。死の恐怖は変わらない。
けれど、震えが止まらなくなるような孤独が和らいでいるのを感じた。
心地良さを覚えている自分を誤魔化すように口を開く。
「倒したのですか?」
「どこかの異界へ追放しただけ。死んでないし、死なせない。お姉さまを、誰にも殺させたりしないよ。とりあえず、当分は帰還不能だと思う」
静けさに包まれた花畑に立ち、二人でぼうっと何もない空間を眺め続ける。
しばらくして、ようやく勝ったのだという実感が追い付いた。
深い溜息を吐き出したユーネクタが、少し迷うようにしながら指摘した。
「あなたは知らなかったのかもしれませんが。クジラに角は生えていませんし、足が四つあったりもしないんですよ?」
ユーネクタは小さく笑って見せたが、メリッサはそれを聞いて憤慨する。
「嘘、私が海を知らないからって馬鹿にしないで。だってエンブラが言ったの、すごくいい笑顔でクジラはあんな感じだって」
「いくら山の民である
メリッサはしばしぽかんと口を開けて惚けていた。
いつのまにか花畑は消えていた。
「そっか。エンブラは、私をからかったんだ」
納得するように頷いて、メリッサはしゃがみこんだ。
遺物を両手で拾うと、まだ熱を持ったままの烙印の前に抱き寄せる。
心臓の鼓動、彼女の命を伝えるように。
「まじめで口うるさくてお小言ばっかりで。お堅い感じでずうっと叱ったり怒ったりするエンブラのこと、ちょっと苦手だった」
声が震えていた。ユーネクタはそれをじっと見ていた。
見続けなければならない。メリッサは忘れないと言った。
それは、お互いがお互いに約束した言葉だ。
「馬鹿なことを言ったりする人だったんだな。今になって、はじめて気付いちゃった」
気丈に振る舞い続けてきた妖精の王女は、そう言って静かに咽び泣いた。
零れる涙をぬぐうことなどできない。その資格を持っていないからだ。
忘れない。その言葉を、ユーネクタはずっと忘れないだろう。
罪を乗り越えて、澄んだ憎しみと共に対峙する。
いつかその日が来たら、存分に恨みを晴らし合おう。
きっとそうできる。できればいいと思った。
幼いわがまま。現実逃避の甘え。強欲な願い。健康に不老に美しさ、おまけに不死だなんて、きっと神様だって困惑してしまうだろうに。
どうしてだろう。死の運命は変わっていない。惨めな獣の本性もそのままだ。
けれど、これまで生きてきた中で一番穏やかな気持ちだった。
現実は過酷で世界は残酷だ。涙を流す妖精の王女はそれをちゃんとわかっている。
だから、今だけはユーネクタが信じてやろうと思った。
甘えた魔女の欲張りな幸福を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます