第7話「妖精の生死を定めるのは私であってあなたではない。これは私のものです」



 

 目覚めた時、ユーネクタが最初に感じたのは安堵だった。

 ゆっくりと深呼吸しながら指先を動かして感触を確かめる。

 大丈夫、何も問題はない。またいつも通り完璧なユーネクタを続けていこう。


 『花園』の寮は基本的に二人部屋だが、一部の生徒には一人部屋が認められている。ユーネクタはその数少ない例外を許された生徒だった。

 身体を起こそうとした時、ふと寝台の横に視線が向く。

 整った形の眉がわずかに下がる。床で丸くなっている客人の存在にはまだ慣れない。


 妖精エルフの王女メリッサはユーネクタの管理下に置かれている。後輩のジュネは愛犬と寝台で一緒に寝ているそうだが、ユーネクタにそのつもりはない。室内飼いであれば床で寝かせておけばいい。不平不満を言ったり寝込みを襲おうとすれば即座に『首輪』が締め付けられるようになっている。


 いつもなら不機嫌そうに先に起きていて、ユーネクタの優雅な起床を恨めしそうに睨んでいるところだが、今日のメリッサは様子がおかしい。

 薄い毛布をはだけて身を起こし、何故か一枚の葉っぱを眺めていた。

 何の役にも立たない枝を持ち込んでお守りのように握りしめていることはあったが、今度は葉っぱとは。また例の『独り遊び』でもしているのか。隠れているつもりでも首輪の遺物で支配しているユーネクタには全て筒抜けなのだが。


「エンブラ、聞こえないように返事して? あの昔話、白雪の竜と七つの罪のことだけど」


 ユーネクタはあえて気付かないふりを続けていた。

 愚かな少女の滑稽なごっこ遊び。これはユーネクタが望んだ結果。そう決めたからこそ至った結末だ。予想外だったのは、それほど心が晴れなかったこと。

 爽快であるべきだった。痛快でなければならなかった。


 けれど違った。父に、母に、墓碑に刻まれた無数の名前たちへの罪悪感が募る。

 現実は思い描いていたよりずっとみすぼらしく、退屈で、不快だった。

 今となってはどうでもいい。重要なのはこれが『妖精の王女』であるという事実だけ。

 妖精郷に隠された古き神秘だけは必ず手に入れなければならない。


「お姉さま。その真実を、ずっと知っていたの? お父様たちも?」


 だから不安に震える少女の悲鳴のような呟きは無意味だ。

 不意に感じた寒気はきっと気のせい。

 ユーネクタはこの哀れな少女を支配できている。

 この先も支配者として振る舞える。そうに決まっているのだ。




 『花園』から伸びる巨大な『葉』のひとつに、大穴外周部の『環の学び舎』まで届くものがある。『葉の架橋棟』と呼ばれるその区画に備品管理委員会の事務所は存在していた。

 その日、ユーネクタは仲間たちを引き連れて備品、すなわち『遺物』を管理する部署を訪れていた。作成した遺物と、その目録を提出するためだ。


 最精鋭であるユーネクタの部隊は実戦における戦果も華々しいが、基本的には封術士の本来の役割は神秘の封印と遺物の作成である。学生であってもそれは同じだ。

 大教室二つ分の広さを持つ空間を様々な生徒が行き交っている。封術士だけではない。遺物の貸与願い、整備依頼、購入などを目的として訪れた『本科生』も多い。


「はあ~、相変わらず上質ですねえ。これで祭壇使ってないなんて。第七等級から第五等級までの中位遺物の安定供給、本当に助かります。最近は魔獣の動きも活発だし、正直に言えば封術院の先生方より『スペアミント紋の遺物』の方が評判いいんですよね」


「光栄ではありますが、少し頭が痛いですね」


 目録を確認する顔なじみの生徒と話しながら、ユーネクタは小さく嘆息した。

 やらねばならない事は多い。ユーネクタには使命があり、どのような手段を用いてもそれを成し遂げなければならない。だからといって、学生として、封術士としての生活も忘れたくない。ユーネクタは自分の人生をわずかでも疎かにするつもりはなかった。


「『北』で何か動きでもあるのか、ここしばらく変異精霊の暴走も頻発しています。『接合体』が絡む異変であれば詳細な調査が必要です。封術士としては精霊の封印を優先したいところですが、魔獣の方に出動要請がかかれば無視もできません」


 次期スペアミント総督として祖国と学院と同胞たちの日常を案じること。この国の未来を考えること。人々の安寧を守ること。国の英雄となるべき人間としての振る舞いをユーネクタが捨て去ることはない。たとえそれが、無意味に終わるとしても。


「トップの責任、お察しします。でも無理もないですよ。封術士って戦うのが専門じゃないのに、ユーネクタさまってば本科生より強いんですもん。去年の月光祭とかすごかったじゃないですか。ほら、あの空を落とす人とか地面壊す人とか増えまくる人とか、相手の猛攻を全部凌いだ上で華麗に反撃! 私、思わず叫んじゃいました」


「応援ありがとう。先輩方は封術院に行ってしまったけれど、素敵な新鋭たちが入ってくれたから、今年の月光祭もきっと期待に応えられると思います」


 だから笑顔で未来の話をし続ける。

 何の保証もないけれど、人はそうあるべきだ。

 ユーネクタにとって、約束は自分を自分足らしめる命令だった。


「わあ、楽しみー! ユーネクタさまとテジアさまの華麗な戦いがまた見られるんですね! あ、セリンさんは雪辱戦を頑張って」


「なんか温度差がひどくないっすか。私だってあれから戦闘訓練とか頑張ったっす」


 頬を膨らませるセリン。周囲で和やかな笑いが起きる。

 彼女は優秀な封術士だが、『遺物使い』としては戦闘訓練を受けている本科生と比べると流石に練度不足は否めない。世界最強とまで言われるユーネクタや実戦経験のあるテジア、本科に籍を置いていたジュネがむしろ例外なのだ。


「セリンさま、私もまだまだ未熟者ですから、一緒に練習頑張りましょうね」


「うう、リリーさんの優しさが心に沁みるっす」


 和気あいあいとした空気。ふとテジアが何かに気づいて視線を巡らせる。

 備品管理委員の生徒はそれに気付かないまま笑って話し続けた。


「『外』の生徒としては、本科生にもうちょっとしっかりして欲しいですね~。月光祭では補欠。魔獣討伐の戦果もいまいち。まあユーネクタさまがすごすぎるだけなんですけどね」


「妖精狩人や魔獣使いの方々は気位が高くていらっしゃるから。主席の『熊騎士』様からして『己の格に見合わぬ敵とは戦いたくない』と公言して憚らないそうですし」


 ユーネクタが言及した本科の生徒たちは魔獣討伐や妖精たちの反乱に備えて訓練を行いながら、遺跡調査部隊としても活動していた。

 この国の各地に散らばる古代の遺跡群からは未だに遺物が発見され続けている。

 新たな遺物が発掘されれば文明は豊かになり、戦場での勝利に繋がる。


 遺物を作り出す専科生と、遺物を掘り出す本科生。

 下位から中位までの遺物を安定供給可能な封術士と、成果は不安定だが高位の遺物を発見することもある調査部隊。

 果たして人類に貢献しているのはどちらなのか。


 封術士と遺跡調査部隊の仲の悪さは学院の常識であり、対立は日常だった。

 ユーネクタは己の言葉に品が欠けていることに気付いてはいたが、封術専科の代表としてある程度の強気な意思が求められていることも理解していた。

 とはいえその構図に固執し過ぎるのも問題がある。要するにバランスだ。


「ごめんなさい。ジュネを悪く言うつもりは無かったのですが」


 ユーネクタは申し訳なさそうに付け加えたが、ジュネは首を振って言った。


「いいえ。ユーネクタ様の憤りはごもっともですわ。わたくし自身、そういった本科の雰囲気が嫌でこちらに籍を移したのもありますし」


「はぁ? 逃げたの間違いでしょ? 道具に入れ込む獣臭い馬鹿女。聞いたわよ、あんた今度はお花畑で動物愛護とかやってるんだって? さっむ、まじでありえない」


 突然の攻撃的な言葉に一同が振り返った。

 周囲にもざわめきが広がっていく。荒事を専門とする本科生たちの中でもとりわけ剣呑な威圧感を発する集団が現れたからだ。封術専科と対照的な本科の黒い制服、軍装としての物々しさに加えて特有の腕章。『長い耳を貫く剣』の紋章を見た瞬間、メリッサが小さな悲鳴を漏らす。さりげなくリリーフォリアが同じくらいの背丈の妖精を背後に庇った。

 

「『バイゴスタールの狩猟隊』!」


 誰かがその名を呼ぶと同時に、ざわめきに畏怖と恐怖が混ざり始める。それはちょうど、華やかな封術士たちが尊敬や崇拝の目で見られるのと対照的だった。

 諸族連合戦士養成校フォルクロアは世界唯一の封術専科を置く学院としてその名を知られているが、秘密が多い封術士たちの詳細が国外に広まることはない。

 そのかわりに勇名を馳せているのが『妖精狩人』である。 


 魔獣使い、封術士と並ぶ『三大兵科』のひとつ。

 反乱亜人の鎮圧訓練をカリキュラムに組み込んでいる本科の中でも、特に優秀な生徒は『侵攻』『制圧』『殲滅』を目的とした『対妖精戦闘の専門家』として育成される。それこそが『妖精狩人』と呼ばれる本科の最精鋭たちだった。血の匂いを振り撒く戦士たちに微塵も臆した様子を見せず、ジュネは低い声で言い返した。


「今、魔獣を道具と?」


「言ったけど何? ベタベタしてんのはあんただけ。こっちは人類の敵を仕方なく利用してんの。私のたっのしい解体ショーにケチつけた能無しはあんたとそこのお花畑ちゃんだけ。ほんと、本科からいなくなってくれてせいせいしたわ。つかてめえも敵かよ殺すぞ」


「取り消せ三下。殺しますわよ」


「かっるい『殺す』もあったもんだわ。カッコつけてマジギレごっこしてんじゃねえよ」


 テジアが『妹』のジュネを庇うようにして前に出る。

 対峙する集団の中心にいるのは茶色の巻き髪を伸ばした釣り目がちな少女だった。

 矮人ドワーフと見まごうばかりの背の低さと、胸に抱いた熊のぬいぐるみが少女性を際立たせていて愛らしい。その可憐さを台無しにする意地悪い笑みさえなければ。


「あら、テジアさま。ごきげんよう。この間の合同訓練以来ですね」


「ごきげんよう、アデル。会えて嬉しいよ。その闘争心と誇り高さは君の美点だけど、ここには可愛いつぼみたちも大勢いる。物騒なものは収めてくれないかな?」


「えー? 私は可愛い熊さんを抱っこしてるだけですけどぉ? あは、もしかして怖くなっちゃいました? 無理もないかあ、せっかく実力あるのに平凡な遺物しか支度してもらえなかったなんてカワイソウ。せっかくの花嫁修業なんですもの、総督夫人になる前に箔ぐらい付けさせてもらったってよさそうなのに。世界最多の遺跡保有国って言うわりに、ケチなところありますよねえ、水晶王国って」


 侮りと嘲りを隠しもせず、アデルと呼ばれた妖精狩人は口元を歪ませた。

 空気が一瞬だけ凍り、その直後に燃え上がった。

 周囲の生徒たち、とりわけ位の高い貴族たちが露骨に不快そうに表情を歪め、しかしアデルが放つ獰猛な気配に舌先で非難の言葉を止める。


 貴族社会の力関係は実のところ単純ではない。戦場では指揮公ドゥクスが重んじられ、聖教の権威が及ぶ信仰の場では大司教に任じられた選定貴族フュルストが尊ばれる。宮中においては内務を取り仕切る書記伯カンツラーが宰相として実権を握っている場合もあるし、財を成した商会騎士が大貴族の債権者となる場合もある。


 とりわけ厄介なのは最後のパターンだ。上級貴族にとって、実力のある下級貴族ほど目障りなものはない。誰かが小さく「熊騎士め」と呟いた。

 アデルは愉快そうに笑ってから吐き捨てた。


「間違えんなザコ。熊の『指揮公』様だ。そーよ、金と武勲で接合体から買った爵位。ただ食って寝てれば偉ぶれる大貴族サマと私は違う。もちろん、ペット遊びにかまけてるザコ以下の下級貴族とも違う。この学院はザコばっか。本物は私と、あとひとりだけ♪」


 粘つくような、それでいて燃え上がるような視線がユーネクタに絡みつく。

 冷え切った青い瞳と火のようなオレンジ色の瞳が正面からぶつかった。


「ユーネクタさまぁ、ごきげんよう。ずっとその綺麗なお顔が拝見できなくてぇ、アデルとっても寂しかったぁ。ところで今、お時間ありますぅ? よかったらぁ、ちょっと殺し合いとかどうですかぁ? どっちか死んだら訓練中の事故ってことで♪」


「申し訳ありませんが、封術士は訓練以外にも色々とやることが多いので」


「封術士なんか辞めて、こっちで妖精狩人になりましょうよ。部屋も一緒にしてぇ、朝から晩まで愛し合ったり殺し合ったりしてぐちゃぐちゃに楽しむの。絶対楽しいわ♪」


「懲りないですね、あなたも」


 アデルの言動は相手にされていないと理解した上での悪ふざけだが、そこに本物の執着と激情が含まれていることは事実であり、ユーネクタにとっては悩みの種だった。

 妖精狩人の筆頭、アデル。魔獣使いとしても主席であり、その実力はユーネクタに次いで学院で二位とされていた。


「ところでぇ、そこのかわい~い妖精さんは例の新顔さん? 何に使うつもり? 新しい爆弾? 壁? それとも愛玩動物? あは。噂になってるの、本当だったんだぁ」


 呼吸の間隙を縫うような動きだった。アデルは異様なまでの俊敏さを発揮してユーネクタたちの間をすり抜けた。風のような速度でメリッサの眼前に現れる。

 小柄なメリッサよりも更に小さい。ぐっと背伸びして顔を覗き込む。


「うわっ超可愛い。使い潰しちゃうのもったいなーい。爆雷とか障壁とか、費用対効果ゴミすぎて私嫌い。まあ見せしめってのもあるけど。いくら罪人や反乱分子って言ってもさぁ。もっと優雅で楽しい使い道がいっぱいあるのにね」


 怯えるメリッサの表情を楽しむように嗜虐的な笑みを浮かべるアデル。止めようとしたユーネクタの手をするりと躱し、熊のぬいぐるみで口元を隠して続けた。


「血の純度が高ければ接合体に売れるもの。この子ならいい値が付くわ。個人的には自分の物にしたいくらいだけど」


 アデルの動きは軽やかな舞いのようだった。鑑賞者の目に留まらない速度であり、芸術としては見られたものではない点を除けば。

 メリッサは慄きながらも気丈にアデルを睨みつけた。


「バイゴスタールの人攫い。あなたが、あの」


「悪名高いアデルちゃんでーす。ふふ、怖い? 大丈夫。人の財産に手出しはしないから。それにー、私は気骨のある妖精ゲリラとか死を恐れない反乱奴隷しか狩らないの。美しくて誇り高い妖精が私は大好き」


 可愛らしい笑顔と弾んだ声の無邪気さに、メリッサは気圧されたように後退る。


「好きって、妖精狩人なのに」


「魅力のない獲物を追う狩人なんていないわ。価値ある存在だからこそ、全身全霊で追いかけて仕留めるの。あなたはどう? 私をどう感じる? 同胞を苦しめる妖精狩人を前にして思うことはなあに? 憎い? 憎いでしょ? 殺したい? いいよおいで正統な理由で殺し合いましょう楽しみましょう? 知ってるかな、嫌いは狩人が一番言われたい言葉。プライドをくすぐられるの、自分の価値を信じられるから!」


「意味がわからないし、許せない。どうしてあなたたちは平然とひどいことができるの」


「好きだから。んー、まあ合格。義憤と正義かあ、育ちいいな。おいしそ」


 くるりと反転してユーネクタに歩み寄る。

 すらりとした封術士と相対するとまるきり大人と子供のようで、アデルは背伸びをして相手に顔を近づけて話しかけた。


「ていうか、妖精嫌いのスペアミントが妖精を手元に置いてるなんてびっくり。今度は何を狙ってるの? こないだの副王会議でも接合体と共和国からの提言を却下してアレの維持を強硬に主張したんでしょ? 突撃爆雷と自走障壁って、悪趣味非効率の極み」


 メリッサが両手で口元を押さえ、「うそ」と呟いた。ユーネクタは嫌悪や敵意がはっきりとした憎悪に変わっていく瞬間の表情を見ながら、内心で嘆息した。

 やはり、つまらない。こうなる気はしていたが、退屈の極みだ。

 もっと残酷に苦しめた方がいいのだろうか。スペアミント家の人間としてはそれが正しい行動のはずだが、気が進まない。嫌悪も憎悪も、自分のことだという実感がない。


 その意味では、自分を睨みつける感情豊かな妖精の少女が少し羨ましかった。

 思う存分、過酷な運命を押し付ける貴族を邪悪な敵として恨むことができる。

 憤怒や憎悪は大切な誰かの痛みを想うからこそ大きく膨れ上がる。メリッサの感情の強さは彼女の優しさや思いやりといった人間性の発露なのだろう。

 自分は違う。ユーネクタは失望が胸に広がるのを感じた。


「妖精郷との協定はあくまでも魔人族との戦いに備えた『休戦』の取り決め。状況が変わればいつでも敵との戦争を再開できます。少なくとも、スペアミント家はそのつもりです。妖精は敵。いずれ必ず根絶やしにする。ただ、その時が今ではないというだけです」


「わーお、相変わらず妖精狩人の私らより過激派じゃーん。ま、熱量ゼロで言うあたりがユーネクタさまの可愛いとこでつまんないとこだけ、どっ」


 それはごく自然な動きだった。日常会話を行いながら、ついでのように振るわれた腕の意味を誰もが理解できずに惚けていた。直後、動揺が広がる。気軽に手を持ち上げて挨拶をするかのようなアデルの動作が無造作な攻撃だったからだ。メリッサは目を見開き、自分を殺傷しようとした鋭利な爪が顔の前で止められている様を凝視する。


 滴り落ちる血はメリッサのものではない。

 瞬時にメリッサとすぐそばのリリーフォリアの前に立ちはだかり、その手でアデルの凶行を受け止めたユーネクタの血だ。

 『手出しはしない』という言葉を翻して放たれた殺意。細い手は異様なほど長く伸び、途中から獣毛に覆われた野太い熊の手に変貌していた。


「妖精の生死を定めるのは私であってあなたではない。これは私のものです」


 気まぐれな暴力を振るったはずのアデルが、今度は苦悶しながらうずくまった。

 いつの間にか、ユーネクタにも異変が起きている。防御に使ったのとは反対側の手がアデル同様に獣のように変貌していた。鋭く伸びたユーネクタの腕は交差するようにぬいぐるみを抱えたアデルの腹部に叩きつけられ、相手を悶絶させていた。


「今すぐ立ち去りなさい。ここはあなたのお遊戯を許容する場所ではありません。躾けてほしいのなら月光祭の候補者選抜の時などはいかがです? 約束しましょう。そこでならあなたのお人形遊びに付き合うと」


 冷えた口調でアデルを見下ろすユーネクタ。相手を呪い殺さんばかりの眼光で見上げるアデルは憎悪を込めて口の端を持ち上げた。笑ったつもりなのだろう。


「猿真似女が、いつまでも格上みたいな顔してんじゃねーぞ」


「心の強さはあなたの美点です。絶望せず、私に憎悪を抱けることも」


「こんなに愛してんのになんで伝わんないかなぁ。ま、今日はこのへんにしといてあげる。いつかその世界一綺麗なツラをめちゃめちゃにしてやるわ。じゃあね、ブス」


 それは罵倒というより予告。『自分の手でそうしてやる』という決意の表明だった。

 アデルだけだ。ユーネクタという絶対的な頂点を前にして心折れずに立ち上がれるのは。

 テジアも、セリンも、可能性があったにもかかわらずそうなれなかった。

 友情。崇拝。嫉妬も敵意も恍惚とした憧れに呑まれて消えた。


 多分、アデルには伝わっていないだろう。

 ユーネクタがどれだけ彼女に期待していたか。

 そして、どれだけ彼女に失望し、絶望させられたか。

 焦がれるだけのアデルには絶対にわからない。ユーネクタに向けられたその熱が、まるで足りていないのだということが。


「お姉さま、大丈夫ですか?」


「ええ、平気ですよ。ほら、もう治癒したから心配しないで」


 妖精狩人たちの集団はまとまった数の遺物と報告書を提出して早々に立ち去って行った。

 室内は普段の平穏さを取り戻しつつあった。終わってみれば恒例行事、圧倒的強者であるユーネクタに噛み付いて返り討ちにあうアデルという日常の一幕でしかない。

 恥も屈辱も厭わず頂点に挑み続けるアデルは学院内では嘲笑と同時に尊敬されてもいる。仲間たちはアデルの言動を嫌っているようだが、ユーネクタが『私に挑むことだけは好きにさせてあげて下さい』と強く頼み込んだため何かを言うことはない。


「少し、羨ましいと思ってしまうね」


「身の程知らずなだけっす」


 テジアとセリンの呟きはざわめきの中に消えた。

 やがて、熱も引いてしまうのだろう。

 ユーネクタの世界は、変わらずに冷えたままだ。



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