第4話「貴族を殺せる力を与えてやる」





 汎暦1000年、人類は緩やかに衰退していた。

 それはさながら斜陽の如く。

 かつて人の手にあった古き神秘は失われつつあり、千年前に敗北を喫したはずの邪神の軍勢はしぶとく生き残り続け、現在に至るまで殲滅はなされていない。


「日が落ちますね。夜になる前に森を脱出しましょう。これだけ派手に戦ったのです。魔獣の統率個体か、最悪の場合は魔人の襲撃があるかもしれません」


 あおぐろい髪の少女、ユーネクタの言葉に生き残った下級貴族たちは背筋を正して即座に従った。年下であろうと相手は公爵家の令嬢だ。騎士爵にとっては雲上人に等しい。当然のようにその場の主導権を握ったユーネクタは仲間らしき学生服の少女たちに指示を下し、棺に囚われていた妖精エルフの少女を引っ張り上げると声をかけた。


「あらためましてごきげんよう。私、封術士のユーネクタ・ドゥクス・オブ・スペアミントと申します。あなたのお名前を伺ってもよろしくて?」


 可憐な少女だった。妖精族に特有の蜂蜜色の髪をおさげにしているため幼い印象が先立つが、幻想的でエキゾチックな顔立ちは大人びているようにも感じられる。妖精の長い耳を飾る金のイヤーカフが目につく。葉を象った精緻な細工は妖精が誇る文化の精髄であろう。甘えるように鼻にかかった声は未成熟な色香さえ漂わせており、嗜虐心を煽るような儚く細い四肢は組み敷けば容易く屈しそうに見える。


 衝動を抑制し、静かに息を整えた。完璧に作り上げた笑顔からユーネクタの内心を推し量れる者はいない。それでもある種の威圧感は出てしまうのだろう。しなやかな仔狐を思わせる妖精は左手で右手を覆うようにしながら胸に手を当て、あからさまに怯えながら答えた。


「危ないところを助けていただき感謝いたします、ユーネクタ様。私はメリッサ。リーヴァリオン妖精国の六方家がひとつ、ロスプ家の娘です」


 受け答えは問題ない。魔獣の襲撃を受けたと聞いた時は心臓が止まるかと思ったが、こうして無事に生きているとは『祝福の末妹姫』には強運も味方しているようだ。

 まだ取り返しはつく。ユーネクタは自分に言い聞かせた。失敗を前提に動くつもりだったが、これなら計画を当初の方針に戻すことができる。何も終わってなどいない。


 大丈夫、大丈夫だ。

 荒れ果てた城、もぬけの殻となった地下を見た瞬間の絶望を心から追い出す。

 諦めるな。まだ自分は生きている。

 死ぬまでの間なら、私はどんなことがあっても前進を諦めない。

 揺れずに現実を見据え、次の手を選び取る。ユーネクタにできるのはそれだけだ。


「あの、ところで先ほどの言葉はどういう意味でしょうか?」


 不安そうに問いかけるメリッサ。先ほどの言葉とは、『私のものになりなさい』という初対面にしては不躾に過ぎる『命令』のことだろう。きちんと心理的な圧迫をかけられていることを確認し、ユーネクタは満足を得て微笑んだ。


「失礼。擬態した魔人族の可能性がありましたので、隷属の命令で探りを入れさせていただきました。近頃は獣化者の目撃情報も増えておりますから、念のために」


「ああ、なるほど?」


 釈然としていない様子だった。妖精は優れた聴覚と直感を併せ持つ。このくらいの嘘は見破られる恐れもあったが、仮にそうなったとしても問題はない。

 ユーネクタにとってはここからが勝負だ。


「それにしてもなんという巡り合わせでしょう。妖精のお姫様を魔獣の手から救い出せただなんて、きっとこれは天の配剤です。私は未だ学生の身ですが、封術士としての誇りにかけてあなたを保護させていただきます」


「願ってもないことです。よろしければ、ロスプ領まで送り届けていただきたいのですが」


「構いません、と言いたいところですが、現在あの場所が危険であることは災禍に見舞われたあなたが一番よくご存じでしょう。領主不在の隙を狙ってグラスコフィンの矮人ドワーフが反乱を起こし、現在は撤退したものの北方の『巣隠れの砦』を占拠。更に魔獣の襲撃によってレルムの汚染が始まっています」


「そんな」


 メリッサにとってその知らせは体験した苦しみ以上の悲劇だったのだろう。

 くしゃりと歪んだ顔は再び泣き出しそうだ。そうなる前に、ユーネクタは口を挟む。


「ですがご安心を。既に『魔女の軍勢サバト』や『毒針部隊イエロージャケット』が魔獣討伐部隊を編成して南方のリア領からロスプ領に向かって北上しているとのことです。それに、我々共同開拓国も同盟者として助力差し上げるつもりです」


 言葉が終わると共に背後から進み出てきた者がいる。今まで姿を隠していたユーネクタの配下、従卒として彼女の意のままに動く亜人である。

 背が低く、屈強な体躯を持ち、豊かなひげを蓄えた男。

 典型的な矮人男性だが、ひとつだけ珍しい身体的特徴を備えている。


青肌族ブルージーンズッ」


 メリッサが右手を強く抑えて小さくうめいた。知っているのは当然だろう。この青い肌の矮人たちは元々ロスプ領を中心に生活している古くからの移民である。

 だが予想していたよりは反応が激しい。手に力を込めて随分と感情を高ぶらせているようだ。ひょっとすると差別的な意識でもあるのかもしれない。同じ亜人同士で足を引っ張り合うのは滑稽だが、だからこそ利用しやすい。


「反乱を起こしたグラスコフィン・ドワーフの鎮圧に彼らブルージーンズ・ドワーフの手を借ります。血迷った同胞の罪を自らの手で償いたいという申し出があったのです」


 戦いが終わった後も荒れ果てたロスプ・レルムの保全と魔獣や妖精ゲリラの掃討は必要になる。ロスプ領周辺の森に詳しいこの青肌矮人たちの戦力は当分の間必要だ。

 そうして、貴族の息がかかった従卒亜人たちはロスプ領の治安を守る名目で実質的な支配者として振る舞うことになるだろう。安全のためにロスプ家の王族たちにはしばらく避難生活を送ってもらう必要があるが、それは必要な措置なのだ。


「メリッサさん。よろしければあなたの身を私たちの手でしばらく保護させていただけませんか? 我々の学院は総督府に並ぶ西大陸有数の防衛拠点でもあります。あの場所ならあなたに絶対の安全を約束できると保証しましょう」


「あの、私は」


 メリッサは迷うように視線を重ねた手に落とし、ユーネクタと比較するように視線を移動させていた。何を考えているのかは不明だが、どの道彼女に選択肢などない。

 多少強引にでも手を引いてしまおうか。そう思っていると、移動の準備を整えたらしい騎士爵が駆け寄ってきた。


「スペアミント紋旗翻る地の偉大なる支配者にして勇猛なる戦士たちの長、ユーネクタ指揮公ドゥクス代行閣下にご報告申し上げます」


「虚礼は廃して結構です。長いので公爵代行か、単にユーネクタでお願いします」


「はっ、失礼しました、ユーネクタ様!」


 がちがちに緊張している若い騎士の態度に吹き出しそうになるのを堪えながらユーネクタは淡々と言った。現在のユーネクタは父から戦場での指揮権を委ねられている。大方、部隊の誰かが自慢げに話したのだろう。


「先ほど転倒した馬車及び聖印車の応急修理と立て直し作業が完了しました。移動の準備が整いましたので、ユーネクタ様とご学友の皆様を聖印車にご案内させていただきます」


「ありがとう。メリッサさん、とにかくこの場所を離れましょう。さあ、一緒に」


 妖精の小さな手をとって歩き出すと、騎士が露骨に顔をしかめて抗議する。


「ユーネクタ様! 亜人などを聖教の奇跡によって聖別された馬無し馬車に乗せるなど、冒涜に値する行為です! その娘は別の馬車で預かります」


「そうですか? ユネクト聖教の教えが許さないと言うのですね。おかしなことです。ユーネクタの名を持つこの私が許しているというのに」


 若い騎士は絶句した。丁寧で穏やかな口調であるにも関わらず、ユーネクタの言葉はあまりにも不遜で尊大だった。預言者や神と同じ名を持つことは普通なら敬虔な信徒の証であるはずだが、彼女の言葉はまるで自分と神を同一視するかのように聞こえる。

 ユーネクタは取るに足りない下級貴族の言葉を無視し、青肌の矮人に指示を下した。


「フロスティ、グンナルたちに連絡を。『山脈』の中腹でキャンプを続けること。熊が蜂蜜に向かったら、開花を待って蜂の背を叩いて」


「承知しました」


 その場を離れていく矮人を見送って、迷わずに用意された聖印車に向かう。慌てたように若い騎士が追いかけてくる。どうやらユーネクタの護衛を命じられているらしい。不要だが、形式上だけでも護衛を付けないわけにはいかないのだろう。亜人が同乗することに不満そうだが、我慢できないなら放り出すだけだ。


 妖精郷との協定が成立して以降、開拓事業によって森の中に整備された道はさほど広くはない。商会騎士たちの運搬車がすれ違える程度の道幅を並んだ軍用の巨大な馬車が通ろうとすると自然と縦列を作ることになる。隊列の先頭に配置されているのは最も堅牢で速度を出せる特別製の『馬の無い馬車』である。

 

「起動」


 短く命じる。直後、天より舞い降りた稲妻が弾け、光り輝く二頭の馬が具現化する。

 松明のように浩々と前方を照らす光の馬たちが蹄で地面を鳴らした。


「さあ、乗りましょう。テジア、セリンとリリーを連れて後方の馬車で警戒をお願い。念のため、魔導書で広域探査を続けてくれる? ジュネは私と一緒に王女様の護衛を。あなたの可愛いペットには先行してもらいます」


「この剣にかけて」「了解っす」「お姉さまと一緒がよかったです」「かしこまりました」


 仲間たちに指示を下してユーネクタはメリッサと共に聖印車に乗り込む。妖精の少女は不安そうに周囲を見回し、少しだけ失礼しますと断ってから近くの木に駆け寄り、落ちていた木の枝を拾った。何事かを呟くと、先端で右手の指を突き刺す。驚くユーネクタだったが、突然の自傷行為は妖精流のまじないだったようだ。流れた血を右手の指輪に滴らせると宝石が仄かな燐光を灯す。


「メリッサさん、それは?」


「ええと、延命のおまじない? ちょっとでも生き延びることができたらなー、なんて」


「ご安心を。私がいる限り、あなたには指一本触れさせません」


 突飛な行動は不安のあらわれだろうか。安心させるように言うと、メリッサは覚悟を決めたように拳を握って勢いよく話し始めた。


「ありがとうございます。あの、お願いなのですが、この森の枝をお守りがわりに持って行ってもいいでしょうか? あとできれば学院に到着してから儀式を行うことを許可して欲しいです。あ、妖精の王族の義務で! 聖樹の祝福を宿す者としての宗教的な戒律? みたいなやつがあるんです! ちょっとだけ森っぽい雰囲気の場所を貸していただくだけでいいので、どうかお願いします!」


 随分と要求が多い。小規模なレルムを欲しているようだが、個人でできることなどたかが知れている。恐らく貴族だらけの場所で安心したいのだろう。反抗を目論んだとしてもユーネクタが対処すれば事足りる。問題ないと判断して許可する。

 メリッサは一安心したという表情で聖印車に乗り込んだ。続いてユーネクタが隣に座り、渋面の若い騎士が正面に座る。メリッサは更に続いて乗り込む手筈の少女を見て息をのみ、続いて彼女が屈み込んで撫でている大型の黒い犬を見て悲鳴を上げた。


「落ち着いてくださいませ、妖精の王女様。わたくしのバドは安全無害ですわよ」


 ユーネクタの後輩は黒犬の喉をさすりながらそう言った。目を引く長い耳飾りに獣の耳に見えるほど大きなリボン。背中まで伸びた濃い赤茶色の髪が艶やかな、どこか犬っぽい雰囲気の少女だ。気持ちよさそうに目を細める犬の表情は愛らしく、それだけ見ると普通の愛玩動物と愛犬家の取り合わせに見える。


「でもそれ、魔獣ですよね」


 メリッサが怯えるのは当然である。先ほどまで彼女を脅かしていた人類の敵。それがすぐそばにいるのだから。貴族にもこういう態度をとる者は多い。もちろん、学院の生徒や前線を知る真の戦士であれば話は別だ。


「契約術はご存じですか? 学院では必修科目ですが、妖精族ではどうなのでしょう」


 黒妖犬ブラックドッグと呼ばれる最もありふれた魔獣を知らぬ者はこの世界にはおそらくいないだろう。その恐ろしさはよく知られており、子供を脅しつけるためによく引き合いに出される魔獣でもあった。ジュネが干し肉を与えると鋭い牙が露になる。隠されていた獰猛さの発露に再び怯えながら、メリッサが答えた。


「他者間の認識上の合意を起点に、言葉で切り分けた『具象化した魂の呪縛』。私たち妖精族の魔女も蜂や小動物などを使い魔にします」


「話が早くて助かりますわ。実はわたくし、元々は本科に在籍していた『魔獣使い』なんですの。半年前にユーネクタ様にお声がけいただいて、封術専科にはこの春から通わせていただいていますわ」


 諸族連合戦士養成校、通称『フォルクロア』は基本となる遺物の扱いのみならず、選択性の独自カリキュラムによる特別兵科も育成している。

 魔獣使いは封術士と並ぶ『三大兵科』のひとつ。六大国はその国独自の神秘を継承し、かつては無数に存在していた神秘の中でも貴族の権力と密接に結びついたものを現在も守り伝えている。あるいは、それしか維持できなかったと言うべきだろうか。占術と魔導書、奇跡と聖印、賛歌と天衣、二刀流と血統術、そして錬金術。そのほとんどが遺物に関連した神秘であるが、例外的に遺物と無関係の神秘である契約術の行使には独特のセンスが必要となる。その中でも敵の支配に特化したフォルクロアの魔獣使いはある意味で最も嫌悪と畏怖の視線を集める存在と言えた。


 怯えるメリッサを安心させるように肩に手を回して隣に座らせる。愛犬を先行させたあと、正面に座ったジュネはにっこりと微笑んだ。


「それではメリッサさん、道中よろしくお願いしますわね」


「はい。あの、よろしくお願いします」


 発光する稲妻の馬が嘶くと、聖印車が走り出した。

 ロスプ領は妖精の森全体の中では外部との境界に近い北東部に位置している。

 メリッサを拉致した魔獣はかなりの速度で東に向かっていた。哨戒中の部隊と遭遇してしまったのはある意味で幸運と言えただろう。犠牲になった彼らの足止めがなければもう少しで森を出てしまい、魔人たちが支配する汚染されたレルムに連行されていたはずだ。


 メリッサの保護は間一髪、奇跡的な幸運だった。

 なんとしても守り抜かねばならない。ユーネクタ自身の目的のために。

 襲撃はありうるだろうか? 魔獣の襲撃はこちらにとっても予想外だ。魔人族がロスプ領を狙っているのだとすれば、このままメリッサを見逃すとは思えない。


 つまり、その時は遠くない。護衛として同乗している若い騎士に視線を送る。気合は十分な様子だがいささか空回り気味だ。実戦経験が豊富とは言い難いように見える。

 ユーネクタは革製のウエストバッグから二つの遺物を取り出した。

 それは鍛冶道具に見えた。小振りな金槌と、鉄床アンビルである。幾つかの穴があるタイプで、蜂の巣にたとえられることもある道具だ。


「ユーネクタ様、それは?」


「『紅竜の鉄槌』と『鍛鉄の工廠』という遺物です。父が使う『無尽の武器庫』ほどではありませんが、この国では有数の強力な兵器として知られています」

 

「いずれも戦局を左右するほど強力な第二等級遺物ですのよ。スペアミント家の親子といえば、無尽蔵の武器を支配して雨のように降らせる人類最強の戦士と評判なんですから」


 ジュネが自分のことのように自慢げに語った。もっとも、『人類最強の戦士』というのは貴族にとってはよくある自称であり賛辞でもある。どんな時代でも各国に必ず一人はいるものだし、ユーネクタとその父のように二人に増えることも珍しくない。


「す、すごいですね~」


 感心したようにメリッサが言うが、何故か木の枝を握ったままの右手を強く抑えつけているように見えた。どうも反応が奇妙だ。先ほどブルージーンズの矮人を見た時も似たような動揺を見せていた気がする。と、そこで気付く。そういえばこのお姫様は傍仕えの矮人に裏切られ、恐らくはその死を目の当たりにしたばかりだった。


 本人に話すつもりはないが、城の地下を捜索する前にメリッサが攫われたらしき現場の様子は確認済みだ。首謀者のひとりであり計画の要でもあったエンブラというグラスコフィンの娘は無残な姿で横たわっていた。魔獣に食い荒らされたのか遺体はひどい有様だったが、割れた眼鏡をかけた顔は事前に知らされていた人相と一致していた。


 おそらくメリッサは妖精特有の勘の良さを発揮して、鍛冶道具の遺物が矮人の神話由来のものであることに気付いたのだろう。彼女にとって矮人に関係するものは強烈なショック体験を呼び起こす劇薬なのだ。我ながら無神経に過ぎたと反省するが、出してしまったものは仕方がない。いずれにせよ、すぐに必要になる。


「ユーネクタ様。バドから合図です。隠す気も無く露骨に前方から。恐らくは陽動。わたくしが前を迎撃しますから、後方と側面の警戒を」


「任せます」


 話についていく事ができずに目を白黒させるメリッサと若い騎士を放置して、二人は聖印車の窓から身を乗り出す。ジュネは弓を手に窓に腰かけて上半身を外に出し、ユーネクタは窓に足をかけて軽やかに飛び出した。高速で流れて行く景色と共に眼前に迫る枝。突き出した先端が首に直撃する。


「ユーネクタ様?! 大丈夫ですかっ?! 急に飛び出すから! 戻ってください、危ないですよ? 怪我はありませんか?」


「問題ありません。メリッサさんは中で待機を。すぐに終わらせます」


 枝先が叩きつけられた首をかばうこともせずにユーネクタは屋根の上に移動する。もちろん、首には傷ひとつない。そのまま勢いよく金槌を蜂の巣床に打ち付けた。

 甲高い音が響く。遺物を打ち合わせる行為は古くからある魔除けの作法だが、戦場においては別の意味を持つ。


「堂々たる宣戦布告ねえ。可愛いお嬢さん」


 既に異変は起きている。後方につけている馬車の様子がおかしい。

 馬の首が落ちている。死んでいるはずの馬車は変わらずに走り続けているが、異変に見舞われている車内は奇妙なほどに静かだ。御者台に座る騎士は既に事切れ、窓から助けを求めるように伸びた手が急速に萎びて力を失っていく。


 ユーネクタ同様に、箱型馬車の屋根に立つ何者かがいる。

 ワインレッドのドレスを身にまとった妖艶な女だった。ユーネクタの好みではないが、男であれば誰もが涎を垂らすであろう豊満な肉体が湿った色気を醸し出している。

 女は脱力した年配の騎士を身体の前で抱きしめ、その首筋に艶めかしくむしゃぶりついていた。否、実際には貪っているのだろう。


 位置関係が逆であれば濃密な血の匂いがしたはずだ。

 牙のように伸びた犬歯が騎士の首に突き刺さり、生き血を啜っていた。

 同時にその汚らわしい愛欲が男の精神を汚染していることだろう。

 見せつけるようにして両手の遺物を構え、声を張り上げて挑発した。


「アーキタイプ・アニマ。祭司級の夢魔サキュバス。随分ゆっくりとしたお出ましですね、下らない悪夢ばかりを見せるロマンチストさん?」


 人類の敵、その名は魔人族ロマンカインド

 魂と命を喰らい、汚染し、世界に悪夢を撒き散らす。

 世界の滅びを目的として人類に敵対する邪神のしもべたち。

 その魂が内包する邪神の魔力によって汚染されたが最後、人は『従僕』と成り果てる。

 うつろだった騎士の目に熱が戻り、欲情と攻撃衝動に急き立てられるままに獣のように絶叫する。邪神の魔力に魅入られたのだろう。ああなってはもう手遅れだ。


「さあ、愛しいあなた。わたしの為に戦ってくれる?」


「ぐがああああ!!」


 騎士だったものは正気を失って異常な跳躍力でこちら側に飛び掛かった。人から汚染眷属に堕ちた新たな魔人族と相対した際、とるべき選択肢はひとつのみだ。


「解放、『美徳』」


 ユーネクタは短い命令を発した。宣告された『銘』に反応して背後の空間が歪む。

 投射された槍が哀れな従僕の心臓を貫き、一瞬でその命を奪う。

 慈悲の一撃。かつての同胞がその手を汚す前に素早く救済を与えると、ユーネクタは右手の鉄槌を振り上げて真横からの攻撃を防ぐ。従僕を囮に使って側面に回り込んだ魔人の速度は疾風さながらであり、その膂力は大型魔獣のそれに匹敵する。


 勢いを殺しきれず、ユーネクタの細い身体は聖印車の屋根から吹き飛んだ。

 横目で周囲を確認する。後方では仲間たちが別の襲撃者に応戦しており、前方では黒妖犬が大蜘蛛の群れを蹴散らしている。ジュネの使用する第五等級遺物『苦痛の弓』が射撃の際に放つ発光は途切れていない。まだしばらくはかかるだろう。援護の必要がありそうだ。


「解放、『爽快感』」


 背後から投射した槍は二本。スキー板のように足を乗せて飛翔する。鉄槌と蜂の巣床を連続して打ち合わせた後で背後に放り投げる。浮遊しながら追随する遺物を横目に背後の歪む空間から槍を引き抜いた。


 槍の投射で牽制しつつ聖印車の横に追い縋り、手にした長槍で薙ぎ払う。魔人の女は迫る穂先のことごとくを長く伸びた硬質な爪で弾き飛ばし、ユーネクタが手にした槍を軽々と受け止めた。地面に根を張った巨木を殴ったような手応え。強さゆえの油断だ。


「解放、『感情の暖かさ』」


 手にした槍が加熱する。使用者であるユーネクタだけに害を及ぼさない神秘の力が鉄製の槍に灼熱の温度を与える。ぎゃっと悲鳴を上げて女が手を放し、その胸を引き裂く。焼けた肉の匂い。飛び退った魔人は背中からコウモリのような翼を生やして飛翔した。


「逃がしません」


「誰がよわよわなおねーさん相手に逃げるって?」


 敵の様子がおかしい。声と姿が一変している。

 周囲に闇の帳が落ちる。いつしか夕刻を通り過ぎ、夜になっていたのだ。

 魔人たちの時間が始まる。とりわけ夢魔にとっては夜こそが主戦場だった。

 騎士の男を篭絡するための姿が消える。妙齢の女は既にどこにもいなかった。


 最もよく知られた夢魔と呼ばれるタイプの魔人族は欲望の鏡像とも呼ばれている。

 愛欲の対象となる理想の姿に変身する能力を持ち、一般的には対峙した者が男であれば女夢魔サキュバス、女であれば男夢魔インキュバスに変身するとされる。心を惑わし、魂を汚染するために『心の深層』を反映した『魅力的な恋人』を演じるのだ。


「あははっ、やだ~おねーさんってば恥ずかしい~。こーんなちっちゃな子にいじめられたいんだ~? クールな顔して中身はマゾ女じゃ~ん」


 月光に照らされてその容姿が明らかになる。ふわふわの長い髪、やわらかそうな頬、あどけない顔立ち。フリルまみれの『お人形さん』といった可愛らしい服を纏いながらも、艶めく唇と悪戯っぽい目がアンバランスな色香を放っていた。思わず槍を投射しようとしていた手が止まった。好機を逃さず飛び込んできた魔人の少女が爪を振り下ろす。魔力を纏った指先が黒い軌跡を描きながら夜闇を斬り裂いた。


「解放っ、『思いやり』!」


 咄嗟に展開した大量の槍で柵を作って防御する。先ほどまでとは比較にならない衝撃。弾けた威力が拡散し、背後の木々が轟音と共に倒れていく。


「ざーこざーこ! さっさと負けちゃえ~」


 怒涛の連撃が槍の防御を破壊し、吹き飛ばされたユーネクタは森の枝を折りながら地面に叩きつけられる。真上からの追撃を転がって回避し、槍に乗って上空に離脱。

 敵の評価を上方修正する。どうやら下級騎士に合わせた姿に変身することで気配と実力を偽装していたようだ。おそらくは使徒級。中級の使徒であれば空中戦でもどうにかなるが、上級の使徒であった場合は地面に立っていないと厳しい。


「やだ~、必死になっちゃってウケる~。深層意識では負けたいって思ってるくせに~。よわよわでドマゾなおねーさんは、嫌いなはずの魔人族に屈服したい変態貴族~!」


 遠ざかる聖印車に追い付くために槍に乗って加速する。背後から追ってくる夢魔の攻撃を躱しながら淡々と言い返した。


「言いがかりです。顔はともかく、品が無くて好みじゃありません。あなたの心理探査が下手なだけでしょう」


 戯言で時間を稼ぎながら聖印車の屋根に着地。下に合図を送って周囲に槍を再展開。

 飛来した夢魔が嘲笑と共に両手の爪を同時に薙ぎ払うと、交差した魔力の斬撃がユーネクタに叩きつけられた。これまでで最大級の威力。勝利を確信した魔人族の表情が固まる。


「あれ? なんで死んでないの?」


「前と後ろと側面に伏せていた本隊が片付いたので。九割を戻しました」 


 今までよりも厚みを増した槍の柵が敵の攻撃を完璧に防ぎきっていた。

 反撃を受けた夢魔が悲鳴を上げる。投射される槍の速度と量がこれまでより増している。それだけではない。前方の敵と戦っていた聖印車の窓から身を乗り出したジュネが弓を構え、夢魔に狙いを定めている。


「唸れ、『探索猟犬バドバラム』」


 意思を込めた命令に従い、『苦痛の弓』がその真価を発揮する。

 解き放たれた矢が輝き、その輪郭を変容させていく。

 矢から犬へ。空中を駆けていく光の猟犬は自在に飛翔する夢魔を上回る速度で標的に肉薄すると、幻のごとき牙で噛みついた。


「いっ、いやっ、止めて、痛い痛い痛いよっ、許してぇっ」


 恥も外聞もなく泣きわめく夢魔は空中で苦痛にのたうち回った。

 見事に標的を射抜いた射手は得意げに呟く。


「苦しみとは傷、痛みとは死。それらを運ぶのはすなわち獣。我が弓は猟犬の巣。手駒のはずの魔獣の牙を受けた気分はいかが? 可愛い魔人さん」


 返事もできずに墜落した夢魔はめちゃくちゃに体を振り回して光り輝く猟犬を引きはがしたが、背後から迫っていた実体持つ黒妖犬の爪で延髄を斬り裂かれて倒れ伏す。

 ジュネの愛犬が離脱したのを確認し、ユーネクタは集中豪雨の勢いで槍を叩き落した。

 滝のような鋼鉄の奔流。断末魔すら上げることなく夢魔は絶命した。


「援護ありがとう、ジュネ」


「いいえ、こちらこそ助けていただきました。使徒級の夢魔と戦いながらわたくしたちの支援までこなすなんて、流石はユーネクタ様ですわ」


 聖印車に戻って仲間に声をかける。

 奇襲を許した結果として犠牲が出てしまったが、立ち止まっている余裕はない。

 ここはまだ魔人領に近い。そうでなくても夜の森は危険だ。このまま全速で北上し安全圏まで辿り着かなければならなかった。


「これが、貴族の力」


 愕然とした表情でこちらを見るメリッサに気付く。安心させるためにやわらかい表情を作ってみたが、相手の視線に混じる恐れの感情は消えないままだ。

 無造作に手を伸ばすと、びくりと怯えて身を竦ませる。

 大丈夫ですよ、と軽く肩に手を置いて先ほどの夢魔を思い出す。


「やはり言いがかりでしたね」


「あの、何がでしょう?」


「お気になさらず。それより少し待っていて下さい。今の戦闘で剥がれた外装を遺物で修繕しますから。音が鳴りますから耳を塞いでおくことをおすすめします」


 そう言って、ユーネクタは傍らに手を伸ばす。浮遊させたまま待機状態にしていた金槌でアンビルを叩こうとして、蜂の巣床が見当たらないことに気付いた。

 否、それはすぐそこにあった。

 粉々に砕けたアンビル、ガラクタと化した壊れた遺物は聖印車の床に散らばっていた。


 鈍い音を立てて内側から扉がひしゃげて飛び出していく。

 顔面を強打されたジュネが猛烈な勢いで外に放り出されていった。

 ユーネクタは首に突き刺さった鋭利な爪を見下ろす。

 毛むくじゃらの手から伸びた凶悪な獣の爪。大量の血に染まった怪物の手を引き抜いたのは護衛として同乗していた若い下級騎士だった。


「お姉さま、そちらで潜伏魔人の反応が! アーキタイプ・シャドウ! 獣化者です!」


 後続車から緊急の念話テレパシーが届く。テジアの占術やリリーフォリアの感知をすり抜け、長きに渡り貴族として潜伏を続けてきたであろう最も危険なタイプの魔人がそこにいた。

 獣人セリアン。獣化者。魔獣もどき。

 様々な呼び名はあるが、『人狼ウェアウルフ』ほど貴族を脅かす存在はそういない。知恵と理性を持たぬ下級の獣化者であれば魔獣と大差はないが、上級の『人狼』は人間社会に溶け込んで生活しているのだ。


 男の全身から毛が生えていく。その面相が骨格から変容し、狼そのものとなった頭部が牙をむき出しにして獰猛に息を吐き出した。無造作な追撃がユーネクタの胸を貫き、引き出された人狼の手に握られていたのは真っ赤な塊だった。

 どくり、どくりと鼓動する生命の象徴。


 上級夢魔を遥かに凌ぐ野獣の剛力が心臓を握り潰した。

 横薙ぎの爪が駄目押しで首を裂き、切り離された頭部がごとりと落ちて床に転がる。

 メリッサの悲鳴が車内に響く。半狂乱になった妖精の少女を押さえつけ、狼男は高圧的に言い放った。


「俺と共に来い、女。我らが盟主の血を受けて魔人となれ。貴族を殺せる力を与えてやる」


 貴族に従属する亜人たちにとって、それは禁忌の誘惑だった。

 世界を汚染し滅ぼさんとする罪深い魔の力。

 妖精の少女は憎悪に屈して魔道に堕ちるのか、それとも誘いを拒絶するのか。

 分岐路を前に、メリッサは深く息を吸い、吐き出した。

 そして。


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