第5話「魔人になるくらいなら、貴族の奴隷にでもなった方がまだまし!」



「私は誇り高い森の魔女。外道の力なんて必要ない」


 力強いメリッサの拒絶を、人狼は興味深そうに受け止めた。


「なるほど。あの方の予想通りか」


 メリッサは意味のわからない独白を魔人の戯言として片付けようとしたが、何かが引っかかる。『あの方』という言い回し。こちらの意思を探るような態度。直感が警鐘を鳴らす。この狼男はいったい何を考えている?

 怪物は戸惑うメリッサに圧し掛かるように身を乗り出しながら言った。


「どの道、拒否権はない。これはあの方とお前に与えられた宿命なのだ」


 人狼は血の入った小瓶を取り出し、蓋を開けた。

 たちまち聖印車の中は独特の甘い香りで満たされた。

 頭が朦朧とする。小瓶の中身、赤い液体から目が離せない。

 本能的な反応。全力疾走の直後に差し出された水を乞うようにメリッサは口を開き、目の前の甘露を求めてしまう。同時に、理性が全力で悲鳴を上げていることも自覚していた。


 壮絶な悪寒。あの血を飲み干せば至上の快楽と引き換えに致命的な破滅が訪れる。否、自分は既にこの匂いを嗅いだことで、形のない邪悪な力によって既に魂を鷲掴みにされているのだ。『汚染』は既に始まっている。


 確信があった。メリッサは、あらゆる妖精は幼い頃にその恐怖を刻まれるからだ。

 捕獲された魔獣が放し飼いにされているベノ家の修練場や、毒々しい色の霊薬瓶や死体交配によって禍々しく変異した死霊花が並ぶポーレ家の地下実験室で感じた悪寒。かつて一度だけ姉に見せられた『夢魔草アルラウネ』の実物。禁忌の薬草を用いた儀式によって魂を奈落に浸す妖精郷で最も重い大罪。忌避すべき記憶が次々と蘇っていく。


 この世で最も邪悪な力。知らなければ対処できないがゆえに、まずは幼子にその気配を覚え込ませることが世界共通の『義務教育』とされていた。

 その力を前にした善良な人間は二つの道のどちらかを選ぶことになる。

 逃走か、闘争か。しかし真の無明を前にして逃げださずにいられる人間がどれだけいるだろう。メリッサは魔獣や目の前の人狼さえこの気配の前では子犬も同然だと思った。

 光に焦がれて腕を伸ばし、全てを闇に引きずり込まんとする盲目の暗黒神。

 邪神レザが司る『忌まわしき夢想』が実体化した『闇の遺物』。


「『悪夢ナイトメア』!」


「そうだ。お前のためにあの方が作り出した希少な悪夢の雛型。これからお前の心の闇を引きずり出し、形にする。喜ぶがいい、最初から『特注品』の悪夢を手にして再誕を果たす魔人などそうはいない」

 

 メリッサは手足を振り回して暴れようとしたが、人狼の屈強な肉体はびくともしない。

 毛深く野太い腕に引きずられて、妖精の細い体は聖印車の外に連れ出された。

 いつの間にか車両は停止していた。後続の馬車は影も形もない。

 ここにいるのはメリッサと人狼だけだ。


 虫や獣の声さえ響かない奇妙に静かな夜。

 星の無い空には貼り付けたような闇が広がり、月だけが浩々と森を照らしている。

 だがその色は血のように赤い。

 魔人たちが支配する悪夢のレルムであることを示す証だった。


「逃げようとしても無駄だ。この一帯は俺の『悪夢』によって閉鎖された。ここは既にお前たちの世界から切り離されたもう一つの現実、苦痛に満ちた夢の異界なのだ」


「離して! いや、やめてよ! 誰か助けて、お姉さま、お姉さま!」


 必死に叫ぶメリッサに、何がおかしいのか人狼は大笑いする。とうとう捕まえておくことさえ忘れた獣の魔人は腹を抱えて身を捩り始めた。


「おいおい、ちょ、ちょっと待ってくれ。ツボに入っちまった。お前、それはいくらなんでも面白すぎてズルいぜ」


 何がおかしいの、と問いたかったがそれよりも逃げるのが先だ。

 圧倒的な力の持ち主であるユーネクタはあっけなく殺されてしまった。どこか得体のしれない所はあったが、あれほどの実力者でさえ戦場では容易く死んでいく。

 全力で走った。本物の悪夢に囚われたのは生まれて初めてだったが、その特性については学んでいる。選ばれた魔人が扱う悪夢は『時空間に作用する』と言われていた。魔人を中心として広がった閉鎖空間は尋常ならざる法則が支配する危険な異界だ。規模の差はまちまちだが、『世界の端』に辿り着ければ悪夢から脱出できるはずだった。


 息が上がり、心臓が破れてしまいそうになる。

 心安らぐはずの聖なる森はよそよそしい他人のようで、友人である小動物や昆虫たちの気配がない光景は張りぼてのまがい物。

 寂しさと不安に満たされた夜の森はまさしく悪夢だ。

 こんな場所、一秒だっていたくない。


「見つけた、出口!」


 走り続けた先に、明らかに異質な『壁』を見つけた。

 景色が歪み、透明な水面が地面から空に向かって続いているようだ。

 きっとこれがこの悪夢の果てだ。確信と共に空間の歪みに向かって飛び込む。

 硬い地面に着地する。聖印車から飛び出したメリッサは、目の前でにやにやと笑う人狼を認めて絶望の吐息を漏らした。


「満足したか?」


 希望を見出した直後の落とし穴。呆然としたメリッサの表情が徐々に歪んでいく。


「悪夢だぜ? 醒めたと思ったらまだ悪夢の中、なんてのは定番だ。少なくとも、俺はこういう風に絶望を味わわせるのが大好きでね」


「やだ、やめて、来ないで!」


 愉悦を滲ませながら歩み寄る人狼。離れようとするメリッサだが、先ほどまでのような決然とした逃走の意思は挫かれていた。


「さあて、お前の悪夢はどんな形になるんだろうな。追いかけられる夢か? 襲われる夢か? それとも愛する者を失う夢か? 存分に恐れろ、そして運命を呪え。それがお前の新たな力となるだろう」


 血の小瓶から立ち上る邪神の気配が増大していく。

 禍々しく立ち上る黒紫の妖光は不可視の手を伸ばすかのようにメリッサの全身にまとわりつき、その心身を穢そうとしていた。邪神の呪いとも呼ばれる金縛り現象がメリッサの心身を硬直させる。もう指一本すら動かすのも難しい。せめてもの反抗とばかりに人狼を睨みつけ、鋭く吐き捨てた。


「魔人になるくらいなら、貴族の奴隷にでもなった方がまだまし!」


「それは良かった。説得の手間が省けて助かります」


 突如として割り込んだ冷たい声。同時にメリッサの首を何かが拘束した。

 じゃらじゃらと間近で鳴る鎖の音。

 身体が動く。思わず首元に手を伸ばすと、硬い感触の首輪が嵌められていた。

 引っ張られる感覚。振り返ると、鎖の先に死者が立っていた。


「馬鹿な、なぜ生きている。確実に殺したはずだ」


 愕然と目を見開く人狼と同じように、メリッサもまた驚愕していた。

 魔人の奇襲によって死んだはずのユーネクタが、傷ひとつない姿でそこにいる。

 いったい何が起きているのか。それにこの首輪は何なのだろう?

 大量の疑問で頭が埋めつくされて硬直するメリッサとは対照的に、人狼の反応は迅速だった。即座にユーネクタ目指して駆け出すと、猛然と爪を振り上げる。


「遺物を失った貴族など脅威にならん!」


 ユーネクタの遺物は既に人狼の初撃で破壊されてしまっている。

 貴族の力とはすなわち遺物を操る力である。彼女が何らかの手段で復活を遂げたのだとしても、徒手空拳で魔人に勝つことは不可能だ。

 そこまで考えてメリッサは気付いた。自分の首を束縛するこの首輪から感じる神秘的な力は、まさしく遺物のものに他ならない。


「これ見よがしに鍛冶道具を誇示すると」


 邪神によって汚染された魔人の四肢はそれ自体が超常の神秘である。闇を纏った人狼の爪がユーネクタの細い胴に突き刺さり、引き裂きながら斜め下へと抜けていく。


「誰もが私の能力を武器の鍛造だと勘違いしてくれる」


 勝利を確信した人狼の表情が突如として苦悶に歪み、体勢を崩して勢いよく転倒した。

 獣の咆哮のような悲鳴が悪夢の世界を揺らす。


「ぎゃああああ! 手が、俺の手がああ!!」


 のたうち回る人狼には片手が無かった。

 ユーネクタを引き裂くはずだった彼の手は直撃の瞬間に忽然と消失し、その代わりに銀色に輝く鉤爪の遺物が出現している。ユーネクタはごく自然に爪付き手甲を装着すると、無造作に足元の人狼に叩きつけた。分厚い毛皮が裂かれて血が飛び散る。絶叫しながら這う這うの体で逃げる人狼。立場は既に逆転している。


「傍目からは区別がつきませんし、普段からそう喧伝していれば先入観は更に強固になり、結果として判断ミスを誘えます。『遺物を壊せば勝ち』というような」


「殺す、殺してやる! 俺の悪夢の真の姿を見て絶望するがいい!」


 距離をとった魔人は天を仰いで森の全域に響くような遠吠えを発した。

 直後、地震と錯覚するほどの地響き。

 メリッサの耳は森の奥から迫りくる大量の獣たちの足音を捉えていた。


「もう逃げられんぞ! 終わらぬかと思うほどの長い夜を魔獣に追い回され、血肉を削り取られ続ける悪夢をお前にも見せてやる!」


 到来したのはおびただしい数の魔獣、途切れぬ群れの大暴走スタンピード

 それらは無数の牙と爪を剥き出しにしてユーネクタに殺到し、過剰すぎる数の暴力でたった一人をすり潰そうとする。ユーネクタの鉤爪が最初に飛び掛かった魔獣を斬り裂き、続く大量の魔獣がその全身に殺戮の雨を降らせた。


「当然ですが、鉤爪型が多い。とりあえず『凶獣の鉤爪』とでも定義しておきましょう」


 そして、ユーネクタに触れた傍から消えていく。

 今度はメリッサにも理解できた。

 魔人によってけしかけられた大量の魔獣たちはその破壊の力ごと存在を封じられていた。消失の直後に光の球体が出現し、瞬きの間に『鉤爪型の遺物』に変化しているのだ。


「そっか、封術」


 ぽつりと呟く。それは神秘の力を『遺物という器に封じる』という異能の力。

 穢れなき乙女だけが行使することを許された『遺物を作り出す神秘』。

 現代に残った数少ない神秘を行使する彼女たちは『封術士』と呼ばれ敬われていた。

 当然だろう。彼女たちは貴族の力の根幹である遺物を作り出すことができるのだから。


 だとすると奇妙だ。

 通常、封術とは数人がかりで『方呪』と呼ばれる陣形を作ってから行われる。

 本来なら神秘とはとらえがたいもの。曖昧で、儚く、その定義すら見る者によって千差万別に分かれる幻想の力である。それを複数人の『視座と認識』によって固定化するのが『方呪』であり、そうやって『名付けられた神秘』を定義してはじめて封印が可能になる。


 しかし方呪によって神秘を固定・封印し、新たな遺物として再定義するのには膨大な精神力と繊細な集中力が求められる。それを瞬時に、それも戦闘中に高速で実行し続けることが果たしてできるものだろうか?


 信じがたい現象だが、実際に目の前で起きている。

 波濤の如き魔獣の群れがもたらす破壊的な勢い、その全てはユーネクタに激突した瞬間に跡形もなく消え去り遺物となって彼女の足元に転がっていく。

 もはや誰の目にも力の差は明らかだった。人狼に勝ち目はない。あらゆる攻撃は無効化され、逆にユーネクタの遺物となってしまうのだから。


「くそ、せめてこちらの目的だけでも」


 人狼は毒づきながらメリッサの方を向いた。魔獣たちを囮にしている間に片手に握った小瓶を突き出して駆け寄ってくる。またしても汚染されそうになったメリッサは息をのんだが、先ほどまでのような恐怖は何故か消えていた。不思議と、大きなものに包まれているような感覚がある。それは安心感というより圧迫感に近かったが、とにかく迫る人狼も悪夢の気配も分厚い壁を隔てているように思えたのだ。


「何だ、汚染できないだと?」


 じゃら、と音を立ててメリッサの首輪と繋がった鎖が軽く引かれた。


「これは『支配の首輪』という遺物です。彼女の魂は既に私が掌握している。私の手で覆われた魂を汚染したいのなら、まず私を排除しなくては」


 『貴族の奴隷になった方がまし』と確かに言ったが、本当にそうなるとは思わなかった。メリッサはいつの間にか自分の深いところにユーネクタの『精神的な手』が届いていることに気が付く。ジュネが魔獣を従えていたように、貴族が亜人を従えることもこの世界では日常的に行われている。メリッサは暗澹たる気分になった。魔人から守るための緊急避難とはいえ、妖精の王族たる自分が奴隷に身をやつすなど耐え難い屈辱だ。


「待てよ? 考えてもみりゃあ、気配隠して奇襲した時は効いてたじゃねえか! 要は神秘を纏ってねえ単純物理攻撃なら通るんだろ? なら俺はお前の天敵だ。どんな遺物で再生したのかは知らねえが、殺し続けりゃいずれ魂が枯渇する! 今度こそ終わりだ!」


 人狼はそう言うと、身に纏っていた濃密な邪神の気配を急速に萎ませていった。

 人間社会に紛れるための潜伏能力。それに加えて獣に由来する膂力。

 言葉の通り、この魔人は封術士の天敵だ。無効化されてしまう神秘の力を消しながら屈強な肉体による暴力で押し切るという戦法が取れる。


「おら死ね! そらそらどうした、余裕ぶってた顔がぺしゃんこじゃねえ、か?」


 人狼の荒々しい声の勢いが減じていく。

 そう、通常の封術士と戦うのであれば確かに人狼は天敵となりうる。

 しかし。純粋な膂力のみで肉の塊になるまで殴り続けても平然と起き上がってくる存在に対しての天敵など、果たして存在するのだろうか?


 メリッサは酸鼻を極める光景に口を押えた。

 明らかに死んでいた。

 出血量、破壊された肉と骨、零れた臓器、全ての光景がユーネクタの死を証明していた。

 だが、それでも死のような少女は存在を続けている。


 どれだけ魔人がその爪で全身を引き裂こうとも、どれほどの暴力が生存に不可欠な部位を欠損させようとも、全ては光の球体が出現するのと同時に元通りになってしまう。

 やがて人狼は疲れ果て、無力感から攻撃を止めて膝から崩れ落ちた。

 舌を出し、肩で息をしながら絶望の表情で敵を見上げる。


 そこに、死が聳え立っていた。

 殺戮の回数を示す無数の鬼火を従えて、ユーネクタはただそこにいる。

 いつの間にか、彼女の周囲には幾つもの白い塔が並んでいた。骨を積み上げた歪で不吉な塔。その中心に立つ少女の背後から、ゆっくりと巨大な影がせり上がってく。


「大きな、石碑?」


 メリッサはぽつりと呟く。

 ユーネクタの後ろの地面から生えてきたのは並みの大樹よりも遥かに太く、見上げるように巨大な石の柱だった。その周囲にはおびただしい数の文字が刻まれており、その数は時間の経過と共に増大し続けているように見えた。


「死にゆくあなたへの餞別として、私の遺物『従属の墓碑』の姿をお見せしましょう」


 勝者の余裕を見せながら、ユーネクタは静かに告げた。

 彼女にとってこの会話はささやかな気まぐれだ。己の真の遺物を見せたのは、これから戦いを終わらせるための準備に過ぎない。


 異様な遺物だった。死者のように立つユーネクタより更に死の気配が濃い。

 『墓』とは本来なら理解できない死というものを分かりやすく象った標だ。

 だとすれば、あれはいったい何の墓標で、何の死だというのだろう。

 あんなにも恐ろしく直視しがたい遺物を平然と操るユーネクタはどのような精神を有しているのか。死を操るなど、正気の人間にできる芸当とは到底思えない。


 寒気がするほどに生気が薄く、無機物と錯覚するほどに非人間的な貌。

 いったいどんな人生を送ればこのような死の気配を纏った女が出来上がるのだろう。

 まるで生きているのが何かの間違いであるかのようだ。

 ユーネクタが墓碑の傍に佇む姿は、それこそがあるべき形であるかのように自然だった。


「『死』とは流転する魂の終点にして始点。墓の神が司る境界の摂理。この世の根幹をなす概念にして神秘現象。神秘であるのなら、私はそれを封印できる」


 死を支配する遺物とは、形が無いはずの死を対象にして知覚できるということ。

 『従属の墓碑』が『死は操作可能な神秘』と定義した上で対象に指定できるのであれば、それは方呪によって固定化・定義を行う手間を省いているとも言えた。ユーネクタがやっているのは、己の死を神秘として封印してから遺物に変換するという不死のサイクルだ。

 

 わずかな希望に賭けて、必死の形相になった人狼が墓碑を砕く。

 無駄だった。破壊された墓碑は遺物としての『死』を迎え、それはユーネクタによって封じられてしまう。次の瞬間には無傷の墓碑が元通りの姿を取り戻していた。

 忌まわしき遺物を、彼女だけが使いこなせる。


 遺物使いとしての才。封術士としての才。死と親和する才。

 それら全てを兼ね備え、遺物と封術を組み合わせる発想を持った存在の誕生。

 魔人たちにとっての悪夢。それがユーネクタだ。


 絶叫しながら破れかぶれとばかりにユーネクタに襲い掛かる人狼。

 無数の殺害。幾つもの致命傷。絶え間ない絶命。

 その全てが無為に終わった。

 もはや死は魔人たちのものではない。命の終焉は彼女が支配している。


「誰も私を殺すことはできない。不可避の結末にたどり着くその瞬間まで、誰にも私の前進は止められない。私は死なない。私は死なない。私は死なない!」


 少女の顔色は病的なまでに青白い。

 何かに取りつかれたように死を拒絶し、否定し続ける。

 死を封じた光の玉、静かに輝く鬼火たちが一斉に姿を変えていった。

 剣、槍、矢、斧、爪、槌、棍、球、鞭、杖、鎌、その他様々な遺物、遺物、遺物。

 ユーネクタが死を決定し、人狼はその運命に屈服した。


 誰も死には抗えず、死を支配する超越者に勝つことはできない。

 メリッサは確信していた。ユーネクタは彼女が知る誰よりも強い。

 完膚なきまでの勝利。強敵を撃破したにもかかわらず、その表情に明るさはない。

 妖精の耳がかすかな音を捉える。疲れ切った呟きだった。


「私は死なない。死ぬまでは、死なない」


 目の前にいるのは圧倒的な力と不死性で魔人を倒した超越者のはずだ。

 だというのに、どうしてかメリッサにはユーネクタという少女が今にも折れそうなほど弱々しく感じられてならなかった。


 戦いは終わった。安堵しかけたメリッサはふと慣れない拘束具の感触に気付いて眉根を寄せた。魔人から守るためとはいえ、このような扱いは不本意でしかない。首輪を外してもらおうとユーネクタに近寄ろうとすると、じゃらりと音がして鎖が引っ張られた。

 たたらを踏むようにして前につんのめる。メリッサはまだ何らかの危険が迫っていて助けようとしてくれたのだろうかと考えたが、どうやらそうではない。


「メリッサ。今からする質問に嘘偽りなく答えなさい。これは命令です」


 蒼玉の瞳には一切の温度がない。夜闇で不気味に輝く眼光は危険な獣のようだ。

 これまでと明らかに態度が違っている。内心が分からないところがあったものの、ユーネクタは一貫して礼節をわきまえた上品な貴族令嬢に見えた。例外があるとすれば、初対面で高圧的に告げた『私のものになりなさい』という命令だけ。だがあれはメリッサが魔人であるかどうかを確かめるためのものだったはず。先ほどの人狼との戦いを見ても、それが必要な用心であったことは十分に納得できる。


「ユーネクタ様、いったいどうされたんですか?」


「妖精郷が隠している不老長寿の秘薬。王族のみが口にすることを許された特別な神秘について教えなさい」


 鎖が更に引かれる。人形めいた顔が間近に迫り、生気のない唇から漏れる息遣いまでが感じられた。死のような少女は確かに生きていた。急ぐような口調はどこか切羽詰まっていて、メリッサはその奥にユーネクタの感情が垣間見えたような気がした。


「な、何のことか私には」


「誤魔化さないで。私はわざわざ学院の禁書庫であなたたち自然崇拝者ペイガンの魔女に伝わるかび臭い異教の言い伝えを調べました。その田舎神話によれば、妖精の始祖と蜜蜂の始祖はあなたたちの『うどの大木神』からそれぞれ生命の樹木と不死の花蜜の恩寵を与えられた。時代が下り、さんざん勿体ぶった上で養蜂の技術を外部に伝えた妖精たちは不死の秘密だけを狡賢く隠匿した。森の『深域』に神話の時代から存在し続けている伝説の大魔女、『蜂蜜六方呪ハニカムの魔女』というのは『不死の蜂蜜』を手にした亜神たちなんでしょう? 知っていることを教えなさい。秘薬の場所は? 製法は? 『深域』への道は? 大魔女たちについての情報は? ロスプ家の地下に隠していたものをどこに移動させたの?」


 のべつ幕なしに捲し立てられて、メリッサの思考は一瞬だけ空白になった。

 それから大量の疑問をひとまず横に置いて、こんなふうに思った。

 なにこの口から汚い言葉が流れるように出てくる女。

 気分が悪い。

 急に雄弁になったかと思えば偏見と侮蔑と傲慢と敵意が散りばめられた質問の連続。

 無表情の向こうに垣間見えたユーネクタの感情は、鼻持ちならない貴族の典型的な嫌悪感だった。意外なほど幻滅している自分に気づいてメリッサは驚く。


「あの、本当に私は何も」


「まだ立場がわかっていないようですね。いいですか、あなたはもうとっくに」


 ユーネクタがそこで言葉を止めた。

 血のような月と不気味な静寂に満ちた悪夢の世界。

 閉ざされた異界の形が溶けた絵具のように崩れて消えようとしていた。


「時間切れ。今日はここまでか」


 深く重い溜息を吐いて、ユーネクタはメリッサから身を離した。

 むっとして睨みつけるメリッサを無視しながらもユーネクタは鎖と繋がった皮の持ち手を握ったままだ。どうやら解放する気はまるでないらしい。

 いったいどういうつもりなのか。問い詰めようとした時、離れた場所から声が届く。


「ああ、お二人とも無事で良かった! お怪我はありませんこと?」


 周囲が騒々しい。並んだ馬車から降りた兵士たちがこちらを遠巻きに眺めており、その中心から駆け寄ってきた魔獣使いの少女、ジュネが表情を綻ばせている。


「そちらこそ無事でなによりです。人狼の打撃が直撃していたように見えましたが、リリーの治癒が間に合ったのですね」


「ええ、助かりました。咄嗟に後ろに飛んで衝撃を逃がしたのも功を奏しましたわ」


 ユーネクタとジュネはお互いの無事を喜びあっているが、メリッサは内心で首を傾げていた。人狼の一撃はジュネの顔に致命的な打撃を与えているように見えた。あれで死んでいないのはおかしくないだろうか? あるいは、死についての常識が通用しないユーネクタと同じようにジュネにも何か常識外の部分があるのかもしれない。

 他の仲間たちも次々に駆け寄ってきて口々にユーネクタに言葉をかける。美しい友情の光景を所在なく眺めていると、そのうちの一人がメリッサの状態に気付いた。


「あの、お姉さま? どうしてメリッサさまに首輪を?」


「発見時の状況と先ほどの襲撃を踏まえた結果、彼女には汚染の疑いがあると判断しました。私の責任において拘束し、学院に連れ帰って念入りな調査を行います」


「そんな馬鹿な、私は潔白です!」


 反論しようとした途端に鎖を引かれた。目の前にユーネクタの胸が現れたかと思うと、強く頭部に手を押し付けられる。それが優しく自分を宥めている演技だと理解して顔が熱くなる。この女、ふざけるのにも限度がある!


「安心して下さい。あなたは亜人とはいえ妖精の姫君。異端審問官たちが行うような強引な手法などもってのほか。心理探査、自白催眠、高度な遺物を使って傷つけずに調べるなら学院が最も適しているのですよ。大丈夫。安全が証明されれば鎖は無用です」


「正気ですか、私はロスプ家の娘ですよ?! いくら貴方がスペアミント家の娘だからといって、こんな扱いをすれば同胞たちが黙っていません!」


「誠意ある説明と、丁寧な説得。賢明なるロスプ家の領主様はきっと理解して下さることでしょう。私とて、不要に事を荒立てる気はないのですよ。それに」


 ユーネクタはメリッサの細い耳に口元を近づけて、その鋭敏な聴覚だけが捉えられるほど小さな声でこう囁いた。


「王族の復権を願い、旧妖精領の回復と貴族の排斥を目論む反体制派。祖国と民族の誇りを護らんとする妖精ゲリラたちはさぞいきり立ってくれることでしょう。あなたにとっても妖精ゲリラは協定を無視する無法者。まさかその掃討を咎めたりはしないでしょう?」


 メリッサの表情が凍る。

 いったい、自分はこの女によって何に使われようとしているのだろう。

 捉えかけたと思ったユーネクタの心が再び遠ざかっていく。

 だというのに、メリッサにとって最も理解しがたい存在はこちらの都合などお構いなしに距離を縮め、鎖を引き、身勝手を押し付けてくるのだ。

 

「そうそう、先ほどは魔人を前にして確かにこう仰ってましたよね。『魔人になるくらいなら、貴族の奴隷にでもなった方がまだまし!』と。とても素晴らしい志だと思います。どうか少しだけ耐えて下さいね。『貴族の奴隷』という身分に」


 二人の最悪な関係は、こんなふうにして最低の幕開けを迎えた。



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