第9話「愛。幸福。友情。絆。未来」
軽やかな音楽に合わせるようにして無数の蝶が舞っていた。
厳密には、室内に漂う蝶々たちは生きた虫ではない。
浮遊する光の球体、封術士たちが神秘であると定義し、己の想像力の赴くままに彫り込んでいく前の未分化な『素体』だった。それらは吹き鳴らされる笛の音に導かれるままに翅を生やし、ふわふわひらひらと宙を舞う。
「ありがとうございます、先生。少し、楽になりました」
落ち着いた調度と色鮮やかな花々に飾られた学長室で、来客用のソファに横たわっていたユーネクタが気怠そうに身を起こした。少しだけ乱れた
笛の音が止むと、漂っていた光は幻であったかのように見えなくなった。骨を削りだしたような形状の原始的な横笛を下ろした女性はすうと息を整えてユーネクタに向かい合う。初老に差し掛かり始めたばかりの壮年女性は上品に微笑み、愛弟子の額に手を当てた。
「良かった。少しは回復したようですね。全く、あまり無理をしないようにと言ったのに」
「遺物の使用は必要最小限に留めています。心配し過ぎですよ、学長先生。出撃の際もリリーがいますから、そうそう危険なことにはなりませんよ」
「それが心配なのです。身内の贔屓目を抜きにしてもあの子は優秀ですが、それだけに才能と遺物の出力任せなところがあります。突発的な事態にちゃんと対応できるかどうか。何より、あの子はまだあなたの事情を知らない」
「先生、それは」
「わかっています。今はまだその時ではない」
『今はまだ』では不十分だ。ユーネクタの本心は強烈な忌避感情を示していた。それは恐怖? それとも不信や不安? いずれにせよ、隠し通せるならその方がいい。
感情を抑制し、いつものユーネクタを取り戻す。自分は最上の封術士と謳われた『花園』の学長が直々に指導する弟子なのだから、相応の振る舞いをしなくては。
「先生。先週の課題、確認をお願いします」
「自信ありげね。見せてもらいましょうか」
指先から出現した光の玉が蝶となって老婦人の手に渡る。学長がふう、と息を吹きかけると蝶は姿を変えて純白の横笛となった。学長が持つ遺物と寸分違わず同じように見えるが、教師の目は厳しく二つの遺物を比較している。
「かなり大胆な改造ね。調整の意図を尋ねてもいいかしら?」
「『揺れる涙笛』の焦点は涙です。悲しみを象るよりも、精霊との共振性能を高めた方が汎用性が向上すると判断しました。少なくとも、量産化に踏み切るならこの方がいい。これならセリンのような『適性余り』の生徒でも使えます」
その答えに学長は満足そうにうなずくと、にっこりと笑った。
「素晴らしい。ついにあなたは第一等級の神霊遺物をこの水準で再構成できるようになりました。今のあなたの実力ならば、大業に手が届くでしょう」
「では、お許しいただけるのですね?」
それを聞いたユーネクタは身を乗り出すようにして問いかけた。
彼女にしては珍しい興奮。無理もない。長い間、準備も技量も不十分とされていたがゆえに叶わなかった願いが遂に実現しようとしているのだ。
「ええ。採取した毛髪と血液の解析結果が出ました。『開かずの門』は共鳴を示し、より多くの古き神秘を求めている。今こそ『彼方』を目指す時です」
机の上に並んだ幾つもの資料を見下ろし、ユーネクタはもどかしそうにつぶやいた。
「亜人の王族。こんな単純な鍵で良かったなんて」
「単純とは言えませんよ。いかに貴族が亜人に対して優位に立っているとはいえ、王族を利用するのは容易ではなかった。この機会を逃すことはできません。動くならロスプ家が混乱している今しかないでしょう」
他の五つの学院ならばともかく、妖精郷との協定があるこの国では強引な手を取ることが難しい。今回の計画も他勢力の目を盗み、入念な準備を重ねた上で実行されたものだ。
「ごめんなさいね。できれば付いて行ってあげたいけれど。今の衰えた私ではかえって足手まといになりかねない」
「いいんです。ここまで、先生の助けが無ければどうなっていたことか。あとは私が、先生の教えを実践できるかどうかだけ。どうかこの場所で成功を祈っていて下さい」
学長は感慨深そうに成長した教え子の姿を見つめた。それから、壊れものを扱うようにそっと両手で抱きしめる。ユーネクタは一瞬だけ緊張し、すぐに相手を受け入れた。
「泣かないで下さい、先生。これは希望。喜ぶべきことですよ。きっと間に合います」
「そうね。そうよね。私もそう願っている。あなたは私が見てきた中で最も優れた封術士。目に映るようだわ。あなたが無事に卒業し、祝福の花束を受け取って巣立つ日が」
「必ずそうなります。それに、学長の一番弟子ともあろう者が卒業できない、なんて醜態を晒すわけにはいきませんから」
安心させるように師を抱きしめ返す。思いのほか小さく細い身体に驚かされる。幼い頃、リリーフォリアと一緒に遊んでもらった『おばあさま』はもっと大きくて、恐ろしい父を前にしても真っ向から言い返すことができる力強く頼れる存在だった。それは今でも変わらないけれど、時間は着実に人に老いをもたらすことを実感する。
老い。そう、人は時によって殺される。
死はそこにある。万人の前で常に口を開いて待ち構えている。
ユーネクタはいつもの感覚を思い出していた。ここには事情を知る学長しかいない。抑える必要はなく、そうし続けることにも耐えられなかった。
「ああ、聖神よ。なぜあなたはこのような運命をこの子に与えたのですか」
学長の嘆きを聞きながら、ユーネクタは『当然です』という独白を口の中で押し殺した。
聖なる神に由来する名を与えられた自分。その才を神の恩寵と呼ぶものは多い。
下らない戯言だ。嫉妬や羨望に起因する言葉であるから、ではない。
ユーネクタ。これほど愚かしく皮肉な名前もそうないだろう。少女は自分の名前を呼ばれるたび、滑稽だと笑われる幻聴を無視することに疲れていた。
『お姉さま』がいい。それなら少しはましだ。
虚飾に満ちた『敬虔で模範的な聖教徒貴族』という生まれつきの仮面を忘れられる。
リリーフォリアの姉。ただそれだけの存在であったなら、どれだけ幸福だっただろう。
聖神ユネクティア。貴族に祝福を与える神。
それは、ユーネクタの神などではない。
「少し、遅かったね。今日は調子が良かったのかな」
「テジア? どうしたのですか、珍しいですね」
『花園』の上層、学長室を出て人気のない通路を歩いていたユーネクタは壁に寄りかかる友人の姿を認め、素直に驚きを露にした。テジアは長い付き合いの友人だが、学長室から出てくるところを待ち構えていたことなどこれが初めてだ。
「少しだけ心配になってね。いつもの君ならアデルの一撃を血を流さずに防ぐことができただろう。だが君は血を流した。リリーの治癒では足りず、学長の導く精霊を直接取り入れなければならないほどに消耗しているのだとすれば、心身に負荷がかかっているはずだ」
「勘違いです。アデルが以前よりも腕を上げていただけのこと。先生からは少し長めに指導して頂いただけですよ。あなたの言うようなことは何も」
「私は君の剣だ」
言葉を断ち切るようにテジアは踏み込んだ。
紫紺の髪が揺れて、長身が落とす影がユーネクタに被さる。
壁に追い詰められたユーネクタは横目で友人の白い手を眺めた。
「これって、あれでしょう? あなたの信奉者たちが黄色い声で喜ぶあれ」
「どのくらい時間が残されているのか、教えてくれないか」
「それって寮の夕食のこと? 確かに急がないといけませんね」
「茶化さないでくれ。君が患っている病のことだ」
ユーネクタは笑顔を作った。多分、もう意味は無いのだろうなと思いつつそうしたのは、単純に自尊心のためだ。テジアは馬鹿ではない。この行動そのものの愚かしさはともかく、これ以上のごまかしは通用しないだろう。
「私の言っていることが的外れならそう言ってくれ。だがその場合も魔人族の呪い、さもなくば怪しげな妖精魔女がもたらす災いあたりなのだろう? ユーネクタ、君が誰にも弱みを見せられない立場であることは重々承知だ。上に立つ者にはそうした気構えが求められる。わかるよ。だからこそ、傍にいる者が支える必要があるんだ」
真剣な言葉には彼女なりの真実がある。ユーネクタはそれを笑おうとは思わない。
テジアが背負う責任はある意味でユーネクタよりも重い。
遠い祖国を離れ、恐らくはこの共同開拓国に骨を埋めることになる友人。
この世界で最も高貴な血を受け継ぎながら、『女』という道具の役割を果たさねばならないその運命に、かつてユーネクタはわずかな共感を覚えた。恐らくは相手も同じだろう。
信じている。大切な、無二の友人だ。それでも言えないことはある。
「恐らくは難しい病なのだろう? 君が昔から古い文献を読み漁り、妖精郷に強い関心を示しているのは彼らの秘薬に希望を見出しているからではないのかな」
「敵を滅ぼすために、敵のことを調べただけ。考え過ぎです」
「私は君の理解者でありたい。弱音を吐く必要などない。ただ、手が必要なら私はどんなことでもするよ。それだけ覚えておいて欲しい。君は何も言わず、私を使うだけでいいんだ」
少しだけ揺れた。
このまま何もかも打ち明けてしまえば楽になれるだろうか。
テジアなら、と思う。けれど、もしそうではなかったら?
万が一などあってはならない。
残された美しい日常を、自分から放り出す勇気など持てるはずがない。
千々に乱れる内心を隠すように目をそらし、身体をずらそうとする。
逃がすまいと身を寄せるテジアの顔が間近に迫った。
「ユーネクタ。卒業後、私は水晶王国の総督の妻となる。以前から話していた通り、実権を握った後は彼に舞台を退いてもらうつもりだ」
囁くような声。ユーネクタは周囲に人の気配がないことを確認し、軽々しく秘め事を口にしたテジアを睨みつけた。
「まっすぐなところはあなたの美点だけど、短絡と野蛮はいけません」
なおも言い募ろうとしたテジアの口を指先で塞いで、今度はユーネクタの方から囁いた。
「それより、すこし怠けがちなあなたの婚約者には本来の役目を頑張ってもらいましょう。あなただって、愛する夫が魔人族との激戦を恐れぬ勇士であったら嬉しいでしょう?」
悪戯っぽく言うと、テジアは緊張を解いて愉快そうに笑った。
こんなやりとりはリリーフォリアたちがいる場所ではとてもできない。
それを許し合えるという気安さが互いの心を落ち着かせてくれた。
「ああ。確かにその通りだ。私は英雄を好む。たとえ英霊として聖なる神の身許に旅立ったとしても、きっと私は夫を尊敬し愛することができるだろうね」
テジアは不安がっている。長く付き合い過ぎたがゆえに、ユーネクタの隠した内心に感づいてしまったのだろう。これはユーネクタの失態だ。
信頼を確認し合って日常を取り戻そう。
そのために必要なのは約束だ。未来の展望がテジアを安心させてくれる。
「ユーネクタ。私は必ず君を玉座まで連れていく。この身は君が振るうための剣だ」
それはいつか二人で語った夢、あるいは野望だった。
恐ろしく憎らしい父、愛おしく悲しい家族、忌まわしい鬱屈を共有できる無二の友は、その重さを捨て去るのではなく自分のために背負うべきだと言ってくれた。
それを忘れたことなどない。夢はユーネクタに生きる活力を与えてくれた。
「この国があなたの国への大恩を忘れることはありません。ですがそれ以外の国は少しばかり船頭としての資質に欠けるきらいがあります。聖教との最低限の繋がり、水晶王国との蜜月さえ維持できれば、この国はスペアミントとフォルクロアだけで十分に戦えます」
この国の北部と東部を守護する『竜脈の大障壁』は水晶王国から贈られた希少な第一等級遺物だ。聖教国の聖印技術で改良された長大な要塞は戦略的にも極めて重要な役割を果たす『聖教徒の盾』であり、東の魔人だけではなく北の接合体の干渉を妨害する役目を持つ。
北の隣国、その国号を『神血接合体』と称する一大勢力は魔人族との戦いにおいては頼もしい同盟国ではあるが、同時に油断ならぬ仮想敵国でもある。人類圏を分かつ六大国は共通の敵を前にしようと一枚岩になどなりえない。
ユネクト聖教の規範を逸脱した覇権主義を掲げる黎明帝国と異質な混血主義を推し進める神血接合体。この二カ国と聖教側の四カ国はことあるごとに衝突していた。
「本科の主席、アデルは接合体の走狗です。気付いていましたか。彼女は『皮剥ぎの王』で魔獣を纏うのと同時に、何らかの遺物で私たちの反応速度を上回っていました。無声での神秘解放に並列操作。あれは恐らく、ローディッシュの二刀流です」
「彼女が買った接合体の公爵位、やはりそういうことか」
「妖精狩人たちもまた妖精郷に対して動きを見せつつある。先んじて動かなければ、混血派などという貴族社会の汚点を更に増長させることになるでしょう。封術専科の筆頭部隊として、私たちには高貴なる者の義務を果たす責任があります」
純血思想の強い貴族の筆頭であるテジアが力強く頷いたのを認めて、ユーネクタはよりいっそう決意を硬くした。彼女を信頼している。だからこそ絶対に秘密は明かせない。
気付かれないように試し行為を続ける自分を、テジアは軽蔑するだろうか。
それすら隠さなければならない。己の臆病さが嫌になる。
「妖精の国を分割統治するという副王会議の方針は順当なものです。しかし自治権を認めるという取り決めに関しては『妖精族の血を取り込みたい』という接合体の都合でしかありません。穢れた亜人の血を取り込んで神秘なる力を増大させるという彼らの馬鹿げた試みは忌まわしいことに一定の成果を上げている。阻止すべきです」
未来の話をすれば、テジアは安心してくれる。
だからユーネクタは模範的な貴族としての言動を続けた。
父が望む理想的な娘であろうとしたように。
友が望む理想的な純血主義者として振る舞うだけだ。
たとえそれが、偽りの姿であったとしても。
最後まで貫き通せば、嘘は真実と見分けがつかない。
「近頃は水晶王国でも亜人の尊重と再評価なんていう動きがあってね。長年に渡る文化の相互作用が共和国的な思想を浸透させてしまっている。惰弱さを廃し、本来の貴族が持つ誇り高さを取り戻さなければ。君の力はそれを可能にするはずだ」
テジアの言葉には高潔な貴族としての自負に満ちていて、ユーネクタの表情は必死でそれに合わせた形を作り出そうともがく。不敵で、余裕に満ちた、優雅な高慢さを宿した笑み。
怖い。耐えられない。
頼りたい。一緒にいて欲しい。
分裂した感情が嵐のようにユーネクタの心を引き裂いていく。
「同感です。『無血王』の愚かな売国行為を止めるため、戦争奴隷と手を取り合ってでも革命を成功させねばならなかった共和国には同情します。しかし本来なら貴族は亜人を従属させるべき存在。それを忘れれば堕落の一途を辿るばかりとなりましょう」
暗黒の王政期を乗り越えた共和国は亜人を重要な『人材』と見なして重用し、功績を上げた者には貴族と同等の地位を与えている。天衣を纏い、賛歌と共に舞う亜人たちを
ユーネクタとテジアは『花園』が誇る最も気高い華の二輪。
誰もがこの二人の取り合わせを見ればうっとりとして溜息を吐く。
そんな二人の友情は、貴族として正しいものでなくてはならなかった。
歪んだこの国の在り方をいつか二人で正そう。そんな夢を共有しながら、ユーネクタは友人に笑顔を向けた。たまに卑屈な思考が脳裏をよぎる。これは『媚び』なのだろうか。
友人に対する恐怖よりも、自分に対する嫌悪が膨らんでいく。
「あなたの気持ちは嬉しく思います。ですがスペアミントは武門の無骨者でしかありません。やはり私はリリーを女王にしたいと思っています」
本心からの言葉だった。テジアの友人として取り繕った言葉ではあっても、そうなればいいと思っていることは確かだ。何もかもが都合よく行けば、そんな未来を目指してみるのも悪くはないだろう。将来の約束は夢だ。儚くとも、希望はあったほうがいい。
「あなたが剣なら私は槍。二人で並び立って、リリーを守る未来には魅力を感じない?」
「参ったな。君がそう望むのなら、私はこれ以上なにも言えない」
テジアは苦笑してぱっと身体を避けた。距離が空くと少しだけ気持ちが楽になる。同時に、わずかな寂しさも感じていた。ユーネクタは、テジアに対するこういう感情をどう処理すべきなのか、未だにわからずにいた。誤魔化すように話を逸らす。
「セリンには申し訳ないと思っています。彼女は私を信頼してくれているから」
「帝国もまた警戒すべき勢力だ。排除はやむを得ない。ただ、もし彼女が宣言している通りに次の総督位を引き継げるのだとすれば」
「抱き込んだ方が早い? どうでしょう。彼女の家族愛や愛国心と、私に対する一過性の熱狂を天秤にかけるのは分が悪いと思いますが」
「そういう、たまに見せる妙な自己評価の低さ。君の数少ない欠点だよ。まあ、それに関しては置いておくとしようか」
ユーネクタにとって友情とは、つまるところこういう不安定な陰謀ごっこの繰り返しだ。
それは貴族社会というものの縮図であり、政治的だったり宗教的だったりするゲームの空虚さそのものと言えた。状況が変われば、きっとユーネクタはセリンに甘く囁きながらテジアを遠ざける算段を立てることさえするだろう。
「テジア。いつもお願いしている通り、私に何かあればリリーを守って下さいね。その後は父や、次の後継者と共に私の望みを叶えて」
それでも、縋りたいと願ってしまうのは罪だろうか。
信じてもいないくせに、信じ合うことを求めるのは矛盾している。
嘘を見透かされたことはない。けれど、テジアはとても悲しそうな顔をしていた。
嬉しかった。友人が自分を想って感じる憂いと悲しみ。それは信頼と好意の証明だ。
自分は愛されている。自分の方から無条件の愛を示すことはできないけれど、誰かが好意を示してくれることは嬉しい。一方で、暖かな感情を返すことが決してできないのだという事実がユーネクタの心を暗がりに沈みこませていく。
いつしか日は沈み、世界は無明の闇に溶けていこうとしていた。
テジアとこんな話をするのはいつ以来だろう? それとも、この会話は以前にしたものだったろうか。学長室を出てからの意識の連続性が怪しい。精霊による魂の回復は荒療治だ。精神的な安定を欠き、現実と幻の境界があやふやになることもある。ここは廊下、ではなく、既に自室にいるのだったか。テジアと話していたのはどちらだろう。内容的に、聞かれてはまずい話だったから自室かもしれない。
色の混濁したバラバラの景色が徐々に正常性を取り戻す。
目の前に姿見がある。青白い自分の顔を見て、死相だと感じた。
テジアとはいつ別れたのだっけ。夕食はもう摂った?
急に倒れてはいないはずだ。こういう時のために自動で肉体を操縦する遺物を設定している。取り繕うことにかけてユーネクタの右に出る者はいない。
「鼻血だ」
めまいがする。血を止めようとして、触れた顔が鏡の中の自分だと気づいた。
世界が暗い。いつの間にか寝台の上で横になっていた。
鏡の前からここにどうやって移動したかを覚えていない。今の自分には過程がない。どこかに既にいるという自覚、瞬間の連続だけがある。
「怖い」
嫌だと思った。ユーネクタの人生には過程が必要だ。結果だけでは物足りない。
ゆっくりとした日常と、積み重ねていく平穏と、卒業までに残されているかけがえのない学生としての生活を大切にしなければならない。
充足している。信頼する仲間たちに囲まれ、友人にも恵まれ、素晴らしい師に導かれ、愛する者がそばにいる。自分は愛されているという実感がある。
沢山の絆はユーネクタの人生を幸せに彩る花だ。花園で過ごす日々の多幸感はユーネクタに人生の意味を与えてくれた。生きてきた中で、今が最も幸せだと断言できる。
「愛。幸福。友情。絆。未来」
言葉を並べる。羅列することで人生を豊かにしようとした。
間に合うはずだ。まだ前に進める。希望はそこにあるとようやく分かったのだ。
充実した学園生活を送って、華々しく卒業する自分の姿を思い描いた。
椅子に座って、講義を受けている自分がいた。
「流石はユーネクタさんですね。正解です」
教師の問いに正答を返している。過程が無い。
いつもの仲間たちと昼食の時間。過程が無い。
魔獣の出現と、アデルとの遭遇。過程が無い。
わからない。何もわからない。日に日に酷くなる。時間が無い。
いつの間にか親しくなっているリリーフォリアとメリッサに、何かを言った気がする。
ジュネが嬉しそうに何かを祝福している。理解できない。
学長が切羽詰まった表情で急ぐと言ってくれた。嬉しい。
愛されている。幸せだ。それだけは理解できる。じきに感覚も戻るはずだ。
けれど、もし戻らなかったら?
ずっとこのままだったら。最後までこうだったら。
自室にいた。過程を噛みしめることができていない。
もう一日が終わってしまうのか、と愕然とする。
このまま夜になって、眠りについて、また忙しい明日が始まる。
けれど、と不安になる。
朝、起きられなかったらどうしよう。
ユーネクタはいつもその不安を抱えて眠る。
もし、このまま目覚めることがなかったら。
今日が『その日』だとしたら。
幸福だ。満たされている。リリーフォリアを抱きしめようとして、ここには誰もいないのだと気付く。誰にも打ち明けられないから、誰も傍にいてくれない。
決壊した。
「死にたくない」
認めた瞬間、取り繕っていたユーネクタという虚飾が無残に崩れ去った。
優雅で高潔、『花園』に咲き誇る最も気高い理想の封術士。
完全無欠の存在に弱さは不要。全てを天に与えられた彼女は常に余裕に満ちた微笑みを絶やさず、見る者に絶対的な安堵を与える。それがユーネクタという虚構の形。
「死にたくないよぉ」
幼子のように泣きじゃくる少女を庇護する者はここにはいない。
独りで泣き、独りで怯える。最期の瞬間に独りかもしれないという恐怖が彼女を更に追い詰めた。恐ろしい。死は誰にとっても恐るべきものだ。誰がそんなものを正気のまま直視し続けることができるだろう。ユーネクタにはできない。耐えられない。慣れることなんて遂になかった。自分が既におかしくなっているのかどうか、それすらわからない。
少女の目の前には、常に死があった。
誰にとってもそれは同じだ。歩き続けた先、いつかの未来で死は待ち構えている。
それは約束された結末で、それでも形が無いからこそどうにか人はやっていけている。
けれど、ユーネクタにはずっと死が見えていた。
墓碑が、見える。
形ある死。象られた死。ユーネクタにとっての道しるべ。
そこには無数の名前が刻まれている。
多くの過去。多くの喪失。多くの忘却。多くの死。
『従属の墓碑』の本質を、歴代のスペアミントの使い手たちは勘違いし続けてきた。
これは痛みの塔。死という現実の象徴。苦痛の輪郭。
貴族たちに理解できるはずもない。
これは『名前』を支配し、従属させる遺物。
そして『名前』に支配され、従属させられる遺物だ。
忌まわしい墓碑の頂点に刻まれた名。
『ユーネクタ』という死者の名前が、少女はたまらなく嫌いだった。
誇りある正しい貴族。聖教の教えを体現する命。
墓碑に刻まれた『ユーネクタ』という名前は、そんなふうにして自分の一生を総括するのだろうか。それを思うだけで頭がどうかしそうだった。
「死にたく、ない。やだ、やだよぉ」
だとしても。少女はどこまでも無力だった。
抗う術はない。
命ある限り現実は変わらない。
ユーネクタは、死ぬ。
「やっぱりそういうこと」
忘れ物を取りに行ってくる。
リリーフォリアの部屋で一緒に寝るようになったメリッサは、そんな言い訳をしてユーネクタの部屋の前を訪れていた。優れた聴覚で漏れ聞こえてくる声に集中する。
案の定だった。
「あなたの言う通りだったね、エンブラ」
指輪に向かって語り掛ける。
言葉は返らない。メリッサは興奮していた。隷従の日々、屈辱の時間は終わりだ。
運命を支配できる予感にぞくぞくと震える思いがした。
踵を返し、リリーフォリアのもとへ急ぐ。ちくりと胸を刺す痛みから目をそらして、メリッサは輝かしい未来に辿り着くための計画を練り始めた。
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