第14話「ざまあみろ」




 ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ!

 汚い言葉が自然に溢れ出す。これまでに受けた屈辱を思えばまだ生ぬるいくらいだ。

 メリッサの復讐はここから始まる。

 突撃爆雷。自走障壁。これまでに妖精エルフたちが受けてきた暴虐の報い、その取り繕った顔に叩きつけてめちゃくちゃにしてやる。


「これからあなたは私の奴隷になるの。貴族社会では私の隠れ蓑となって、妖精のためにその身を捧げなさい。偽りの貴族として振る舞いながら、私の言うことに絶対服従して」


 つい先日までなら鼻で笑われたであろう命令。

 だが今は違う。ここにいるのは改造された猿の魔獣でしかない。

 卑しい畜獣の本能は従属と屈服を望んでいるはずだ。

 たとえ主人が力で劣る存在であろうと、培った理性と誇りがそれを拒絶しようと、魂の深部に刻まれた命令が人格の全てを書き換えてしまう。


「かしこまりました、メリッサ様」


 完璧な答え、期待以上の反応だった。

 従順に傅く猿女の前に立ち、もったいぶってから足を差し出す。

 ユーネクタと呼ばれていた人もどきは忠実な獣として主人の意を汲んで見せた。

 ためらいもせず靴に口づけるその姿に、メリッサは笑みを深くする。

 あんなにも強く恐ろしかったこの女を、完全に隷属させている!


「このザコ、本能では私に屈服したがってたなんて、とんだマゾ女! 貴族の誇りとやらはどこに行ったの? まともな羞恥心があるとは思えない!」


「メリッサ様にかしずくことが私の喜び。誇りも羞恥も不要なものです」


「最低、こんな仕打ちされて喜んでるの? 気持ち悪い」


 王族であることが当たり前の日々ではわからなかった。エンブラの忠誠は暖かく、臣下たちの庇護は頼もしく、街で触れ合う人々の笑顔は心地良かった。

 だが支配がもたらす本当の愉悦はそれらとはまるで違う。

 その甘さの本質は、権力の実感から滲みだす味わいなのだ。


 嫌いな女の命運をこの手に握っている。

 その事実のなんと爽快なことだろう。

 真実を知った以上、スペアミント家は丸ごと掌握できる。

 あの恐るべき仇敵を、こんなにも簡単に! 恐がってたのが馬鹿みたいだ!

 共同開拓国を主導する副王会議の筆頭を意のままに操ってしまえば、妖精郷を、ロスプ家を、苦しんでいる同胞たちを救うことだって夢じゃない。


「そうと決まれば、色々と準備をしないと」


 女の乱れた胸元で血のように赤い烙印が輝いている。

 『烙印の民』。その存在は長く忘れられていた。正確に言えば、知識それ自体が『封じられていた』のだという。封術士たちが物質化できるものは力だけではない、情報もだ。

 書物や石板に過去を封じ込めることで貴族たちは都合の悪い歴史を隠している。


 『秘密の便り』はメリッサに世界の真実を教えてくれた。

 形がある以上、その秘密を暴くことも可能だ。

 メリッサは貴族たちがひた隠しにしている不都合な真実に光を当てることができる人物のことを良く知っていた。だからこそ、今こうして勝者として立っていられるのだ。


「あなたの使命は? 説明して」


「我々の魂に刻まれた最優先命令は『ロスプ家に対して従属せよ』です。それに次いで、妖精全体に対する攻撃抑制、愛着、従属欲求などの心理的特性を組み込まれております。また基本用途に則した二種の命令によって、ある程度の自律行動も可能です」


「それは何?」


「第一命令は『突撃爆雷』です。敵陣に突撃し、力尽きるまで戦った後は魂が内包する神秘を暴走させることで自爆します。第二命令は『自走障壁』です。ロスプ家のご主人様の身に危険が迫ればその身を挺して壁となり、命尽きるまでお守りします」


「は?」


 一瞬、メリッサの頭の中は真っ白になった。

 森の中、凄惨な戦場で目にした光景を忘れたことなどない。罪人だとか、妖精ゲリラだとかなんてどうでもいい。重要なのは仲間たちがひどい扱いを受けて無残な死を迎えたという事実だけだ。貴族の集団に囲まれていたから耐え忍ぶしかなかった。


 許してなどいない。許せるはずがない。

 死を前提にした突撃を命じられるのも、頼りない盾ひとつを持たされて肉の壁にされるのも、どんな理由があろうとそんな非道が正当化されてたまるものか。

 まともな人の心があれば、絶対にそんなことはできないはずだ。


 それは憎むべき邪悪であり、怒りを抱くべき罪である。

 『正しい魔女』と接続されてはならないものだ。

 メリッサは大昔のロスプ家の野蛮さ、愚かさを軽蔑すると決めた。

 もちろん、自分は違う。現代のロスプ家はそうではない。

 過去は過去、現在は現在だ。メリッサは頭の中でその二つを切断した。


「ねえ、ユーネクタ? あなたは私が望めばなんだってするんだよね?」


「はい、もちろんです」


「へえ? あなたの仲間たちを殺せって言ったら殺すの?」


「はい、喜んで」


 迷うそぶりさえ見せなかった。

 なるほど、とメリッサは納得した。この冷血女にとって、仲間とはその程度の存在でしかなかったのだ。所詮は猿。獣ごときに人らしい感情などありはしないということだろう。


「リリーは? リリーをその手にかけろと言われても即答できる? できないでしょ?」


「もちろん殺します。メリッサ様のご命令とあればすぐにでも」


 メリッサは何かを言おうとして、言葉を出せずに押し黙った。

 何を戸惑っているのだろう? 何が期待と違ったのだろう?

 自問自答してから、直前まで漠然と思い描いていた光景を想起する。


 酷薄な命令に必死になって抗い、悶え苦しみながら肌に爪を立て、唇や舌を噛み、涙を滲ませるほど拒絶の意思を示してから絞り出すように屈服する。そうして、自分が口にしてしまった致命的な裏切りを後悔しながら絶望の慟哭を響かせる光景。

 望んでいたのは多分これだ。現実とは違う。猿は即答した。

 即答するように作られている。ロスプ家がそうした。


「メリッサ様。私の忠誠を疑っておいででしょうか。命じられれば何でもします。殺せと言われれば誰であろうと殺します。死ねと言われればこの場で死にます」


「あなたの両親を殺せと言っても?」


 試すように問う。さっきから試してばかりだ。

 何のために? メリッサは自分がわからなくなりつつあった。

 この時間は何を知るためのものなんだろう?


「親であろうと殺します。ですが気を付けて下さい。父はロスプ家に対する忠誠心から逃れるために、日常的に不完全な妖精を殺害し反抗の訓練を行っています」


「それ、あなたもやっていたんだよね」


「はい。とても苦痛でしたが、父に強要されました。『愛するお前たちを服従するだけの獣にはさせない』と言っていた記憶があります。『恨んでくれてもいい』とも」


「それを聞いて、どう思った?」


「恨みました。ひどく耐えがたく、己の心を削り取るような拷問にも等しい時間でした」


 それから少しだけ目を伏せて、遠い記憶を懐かしむように続ける。

 忠実な獣としての顔ではない。多分それは、ユーネクタの記憶だ。


「ですが、私と同じ訓練を続けていた父もずっと苦しんでいました。敬愛すべき妖精の方々を害する苦痛に耐えきれず、隠れて泣きながら、遠い昔に裏切ったご主人様たちへの謝罪を繰り返していたのです。それを見た時、恨みが薄れていった記憶があります。今にして思えば罪深く愚かな父です。あの場で殺しておくべきでした」


 スペアミント家を自称する改造魔獣の一族は、恐らく千年前に邪神が討伐された直後の動乱期にロスプ家から離反したのだと思われる。

 単独でそのような反乱ができるようには作られていない。

 関連する歴史が封じられていることから、最初期の封術士が関わっていることは確実。

 つまりは妖精郷の咎人こと『遺物の父』の仕業だ。


 その性質を考えれば、当初のスペアミント家はイヴァルアート家の使役する戦闘用の使い魔として便利に使われていただけなのだろう。戦闘に秀でたスペアミント家を矢面に立たせ、封術の秘密を伝承するイヴァルアート家は背後で暗躍するという構図だ。

 何のことはない、盗まれた番犬が新たな飼い主に尻尾を振っていたに過ぎない。


 ところが、ある時イヴァルアート家は亜人との繋がりを暴かれてあっさりと滅ぼされてしまった。後釜にはフォルクロア家が据えられたが、飼い主を失ったスペアミント家の立場は宙に浮いた。フォルクロア家を新たな主人にする道もあったはずだが、リリーフォリアとの関係性を見る限りどうやらそうなってはいないようだ。


「あなたたちはロスプ・レルムを餌に青肌族ブルージーンズを抱き込み、硝棺族グラスコフィンを扇動した。矮人ドワーフはロスプ家に対して反乱を起こし、土壇場で裏切った青肌族は硝棺族を鎮圧。スペアミント家は最大の敵を自らの手を汚さずに葬るという算段だったんでしょう? でもどうして今になって? 魔獣たちの襲撃は何?」


「魔獣の襲撃は私たちにとっても予想外でした。現在起きている事態もです。おそらくこの流れは青肌族、あるいはその裏に存在する何者かが画策したもの。そもそも私たちの計画は、青肌族の方から持ちかけてきたものでした」


「待って。スペアミント家が主導してたんじゃないの?」


「はい。私たちには余裕がありませんでした。古い時代にロスプ家から奪取した聖なる樹に祈り、『魂の果実リーヴ』の実りによって血脈を繋いできた一族は衰退の果てに魂の枯渇を引き起こしつつありました。果実から生まれることさえできない赤子も多く、血族婚にも限界があります。そんな時、ロスプ家の地下に隠されているという改造魔獣の情報をもたらしたのが青肌族です。一族の命運を賭け、ロスプ家との因縁を終わらせるべく父が青肌族と共同で作り上げた決戦用の個体が私です」


 突然増えた情報を受け止めきれない。

 では、裏で全てを計画していたのは青肌族だったのか?

 目の前の人型魔獣が生まれる前から準備していたというのなら、どれだけの時間を準備に費やしてきたというのだろう。いや、それ以前にもっと気になる問題があった。

 

「聖なる樹? あなたたちって交尾で増えるんじゃないの?」


「私たちは基本的に貴族や亜人との交配ができません。そのため当時のロスプ家が『品種改良』した聖なる樹によって子供を作ります。元の機能は損なわれていますが、不完全な妖精を産み落とすことも可能です」


 つまり、スペアミント家の歴代当主が戦闘訓練や『突撃爆雷』に利用していた妖精たちは聖なる樹が持っていた『調整前の機能』によって生み出された副産物だったわけだ。

 あるいは、目的外の使用が樹に負荷をかけていたのかもしれない。

 いずれにせよ、スペアミント家の聖なる樹は限界を迎えつつある。衰退は不可避だ。

 メリッサを使って妖精の秘密を探ろうとしたのも、地下室を探ろうとしていたのも、全ては間近に迫った破滅を回避するため。


「さっきも質問したけど、答えてもらってない。スペアミントの一族って、寿命はどの程度なの? あなた、あとどのくらい生きられるの?」


「最大で残り一年。あるいは、明日にでも生命活動を停止する可能性があります」


 予想はしていたが、改めて聞くとその事実はひどく重かった。

 嫌いな相手の生き死になどどうでもいいはずだ。

 死ぬなら死ねばいい。みっともなく恐怖に怯えながら息絶えるのがお似合いだ。

 けれど、そうなったらリリーは。


「何で、そんなに脆いの」


 絞り出すように呟く。忠実なしもべは淡々と答えた。


「私たちの本来の寿命は三十年から五十年ほどです。短命の一族として振る舞えば戦死者の多い貴族社会で不審に思われることはありませんでした。それでも死期を悟った祖先たちは前線に赴き、そこで生涯を終えることを選んだそうです。『従属の墓碑』と共に戦い、この遺物と共に眠ることでその名を誇りと共に刻むために」


 使用者の背後に聳え立つ巨大な石碑。

 メリッサはそこに刻まれた無数の文字を思い出した。

 名前。それは全て死者の名前だ。当然だろう、墓とはそういうものだ。

 多くの不幸な人生が刻まれた歴史の標。つまらない事実が、何故かひどく重い。


「ですがイヴァルアート家が滅びてから私たちの寿命は徐々に短くなり、『聖なる樹』が実を腐らせることも増えていきました。加えて私は特別な調整体。魂が持つ生命力の大半を神秘適性や祈祷伝達力に変換しているため、寿命が極端に短く設定されています」


「そ。よかった。目障りな裏切者が勝手に衰退してくれて嬉しい」


 メリッサがスペアミントの人型魔獣を『使う』ならむしろ寿命は短い方がいい。

 戦闘用に用いるなら最大限の性能を発揮できる時期に使い潰せばいいのだ。余計な知恵を付けたり数を増やして結束されても面倒なことになる。長期的な視野が持てないのであれば目の前にぶら下げられた従属という名の快楽を貪る獣として生きるしかない。


「ねえ。あなた、上にいる猿の魔獣とつがわされるために生きてきたの?」


「はい。それがお父様の希望。死んでいった同胞たちの悲願。『従属の墓碑』に刻まれた全ての名前たちが叫び続ける生存と幸福を望む意思です」


「私が命令したら、猿と子供を作る? その子供を『突撃爆雷』にしてもいい?」


「はい。私はそのために生まれた存在です。とはいえ残り時間が不足しているため、量産が目的ならば聖なる樹から私の妹たちを作り出す必要があるかと思われます」


 簡単に実現できる未来だった。

 メリッサが願えば造作もないことだ。

 きっと痛快だろう。さも優雅な貴族であるかのように振る舞っていたこの女が醜い猿に組み敷かれ、死ぬために生まれてきた赤子を産み落とす。親子そろって魔獣の群れに突っ込ませて自爆させたらどうだろう。きっと笑える光景になるはずだ。


「抵抗しないで。そのまま跪いて顔を差し出して」


 言われるがままの女。何も感じていないような顔がずっと嫌いだった。

 すまし顔を思い切りひっぱたく。

 もう一度。更に続けて叩く。今度は腹を蹴り飛ばす。膝を踏みつけ、ぐりぐりと力を込めていく。反応が無いのがつまらないと言えばそれらしい声を漏らし始める。悲鳴の中に混じる隠しきれない快楽の響きが滑稽だった。


「ああ楽しい。本当に痛快! 無様な猿をいたぶるのってこんなに気持ちいいんだ!」


 誰かに言い聞かせるように大声で叫んだ。

 本心からの言葉だった。メリッサはこの行為を楽しんでいる。

 楽しめてしまっていた。

 思い出すのはリリーフォリアのこと。

 そして、正しい魔女としての生き方を教えてくれた『アカシアお姉さま』のこと。


「ねえ、エンブラ。私、私はどうしたらいいと思う?」 


 問いかけに答える者はいない。

 虚構は暴かれた。死者はメリッサが望む言葉しか紡げないのだ。

 メリッサは独りだ。ここには彼女の意のままに動くお人形しかいない。

 迷う心に答えを示してくれる救いはここには存在しない。


 何とはなしに、リリーフォリアに貰った小型の水晶柱を眺める。

 迫る危険を察知してくれる簡易遺物だ。魔人や魔獣の反応を光の点で表示してくれる。

 この最下層付近にも魔獣の反応はある。外壁にへばりついている幾つもの輝点は穴から落下した魔獣の群れだろう。もうじき落ちて死ぬだろうから脅威にはなり得ない。


 少し上の層で接触を繰り返す魔獣もいる。片方の小さな輝点は猿の魔獣で、もう片方の歪な形にぶれた輝点はジュネの愛犬だろう。使い魔になると光が歪むのかもしれない。交戦中の場所に、遠くから強い輝きが迫ろうとしているのが見えた。もうすぐ全てが終わる。


 元型アーキタイプと呼ばれる魔人族に特有の反応。読み方は事前に教えてもらっている。『シャドウ』という魔獣や獣人に特有の型ばかりの中で、近づいてくる強い光だけが異質だった。

 葉っぱは語ってくれた。『死せる乙女コレー』の光こそがメリッサを救うと。


「お姉さま」


 どれだけ目を凝らしても、自分のすぐそばにいる猿には輝きを見出せない。

 人の形をした魔獣として生まれた猿はけっして人にはなれない。

 だが、これは正しい意味での魔獣でさえないのだ。

 どこにもいないし、どこにもいけない。

 その事実が、ひどく胸を締め付けた。


「私は」


 従順にこちらを見上げて命令を待つ獣。

 メリッサはその頬に手を伸ばし、口を開き、閉じ、目をそらして息を吐いた。

 それから思い直して手を引いて、獣を放置してその場を去ろうとする。

 立ち止まった。振り返り、やっぱり止めて、それを何度も繰り返して。

 そして。




 奈落の底に沈んでいくような悪い夢は、目覚めてみれば一瞬の出来事だった。

 ユーネクタは自分の意識が既に目覚めていることに気付き、意外さに眉根を寄せる。

 場所は変わっていない。時間もさして経過していないだろう。

 すぐそばで膝を抱えている妖精の王女はふてくされたように俯いていた。


「どうして、私を解放したのですか」


「うるさい」


 まず口をついて出たのはその疑問だった。屈辱よりも痛みよりも、不可解さが思考を埋め尽くしている。胸の烙印は輝きを失い、魂に対する支配力は既になくなっている。あの状況でメリッサがユーネクタを手放す理由はないはずだ。


「あなたは、リリーと仲良くしていましたね。あの子のためですか」


「うるさいって言ってるでしょ」


 叱られた幼児のような口調だった。

 子供の思考を理解しようとすることほど不毛なことはない。

 ユーネクタは勝手に納得することにした。


「報復されるとは考えなかったのですか? 確かにあなたを害することへの抵抗感はあります。しかし父は幾つも克服の手段を教えてくれました。直接攻撃しようとすれば身体から力は抜け、意思は萎える。ならば高所に遺物を構築し、自由落下させればいい」


 手を頭上に掲げて遺物構築の準備を行う。封術の『種』は常時ユーネクタの体内に保持されている。この体調でも致死量の鋼鉄を降らせることくらいは可能だ。

 死を前にしているというのに、メリッサはじっと動かない。

 じとりとした目つきでこちらを見て、ぼそぼそと言葉を並べる。


「私から妖精郷の秘密を探り出したいんじゃなかったの?」


「どうせ話さないのでしょう」


「別にいいよ。話してあげる」


 どういう心境の変化なのだろうか。

 メリッサは捨て鉢になったような不機嫌さで語り始めた。

 

「だって秘密なんてないもの。深域の不死なる魔女なんていない。『蜂蜜六方呪ハニカムの魔女』っていうのは虚構。これが王族だけが知る秘密のみすぼらしい正体ってわけ」


 妖精郷の深部には貴族の侵攻を退ける最後の切り札がある。

 それはまことしやかに囁かれる噂だ。これまで共同開拓国は未知のヴェールに包まれた魔女たちの力を警戒して全力で攻勢に出ることはなかった。東から攻めてくる魔人族に対処しなければならない以上、そうそう賭けに出ることはできない。

 もちろん、時間が無いスペアミント家に選択肢はなかったけれど。


「かつて一人の『咎人』が魔女たちの神秘を掠め取り、あなたたち貴族に封術を与えてしまった。千年前には実在していた不死守りの大魔女様たちを一人残らず彼方の世界に封じてしまったのはその裏切者。だからいないの。森の神様と同じように、この世界のどこにも」


「『遺物の父』が、封じた? なら」


 思わずユーネクタは『開かずの門』に視線を向けた。

 最後に見た時にはメリッサに反応していたようだった。今は静まり返っているが、やはりこの少女は『鍵』として機能している。手を下ろして無意味な脅しを止めた。どちらにせよ、殺すつもりはなかった。本能的な忌避感とは別に、そういう気分になれないのだ。


「小さい頃は信じてた。魔女としての高みに至れば秘薬の恩寵を授かり、蜂蜜六方呪ハニカムの魔女たちと同じ領域に行ける。幼かったんだ。そんな夢想を信じてた。蜂蜜の魔女ハニーウィッチ。そんなのどこにもいない。誰もなれない。どこにもいけない。私は」


 何かに言い訳するように諦めを口にし続けるメリッサを眺めながら、ユーネクタは奇妙な感慨にとらわれた。高慢で不遜で無邪気な残酷さを平然と振りかざすこの妖精という種族にも、こんなふうに諦念を抱えて俯くような繊細な情緒が存在しているのだ。


「あとは、不老長寿の秘薬だっけ? そっちなら沢山あるよ」


「あるの?!」


 食い気味の問いかけがおかしかったのか小さく喉を鳴らすメリッサ。

 それからユーネクタを下から覗き込むように見て、愉快そうに言った。


「だってたくさん輸出してるもん。そっちでは食用が常識だけど、妖精郷はその効用を隠しているんだよ」


「既知の食べ物? 名前は?! どんな使い方をすれば薬になるの?」


「えー? どうしよっかな。教えて欲しい?」


「ふざけないで。もったいぶってないで教えなさい」


 くすくすと意地悪そうに笑うメリッサの表情はどこか暗く、投げやりだった。

 それからすっと真顔になって答えを告げる。

 ひどくつまらない答えを。


「蜂蜜。美容と健康にいいの。肌は美しくなり、身体は老いを忘れ、心は健やかになる」


「え?」


「はちみつパワーでアンチエイジング♪ なんてね。ふふっ、妖精がみんな美人なのはねえ、蜂蜜のおかげなんだよ。お肌つるつるで髪の毛もさらさら。体質も改善されてまさに老いを忘れる美の秘薬、ってね」


 ユーネクタは呆然とその言葉を頭の中で咀嚼する。

 それはつまり、どういうこと?

 空白の心に言葉が流れ込んでくる。無意味な音の羅列を耳が受け取り、それはユーネクタに何ももたらさなかった。 


「神話の時代にはね。あったらしいよ、本当の秘薬。不死の蜂蜜ネクターが。昔々、森の神様の寵愛を受けた六方呪の魔女たちの六度の懇願によって、森の種族に恩寵が与えられました。けれど愚かな蜜蜂の女王は不死を独占し、臣下たちには月の形が巡るほどの寿命しか与えず、働くだけの都合の良い道具として扱いました。その暴虐に腹を立てた森の神様は蜜蜂の女王に罰を与え、不死を取り上げてしまいました。以来、妖精郷からは全ての不死が消えてなくなったということです。おしまい」


 それは多分、古くから養蜂や蜂蜜の利用を行ってきた妖精たちが自分たちの営みの起源を説明するために作り上げた『神話』なのだろう。あるいは死を合理化するための逃避か。

 秘薬も、不死も、遠い幻想でしかない。

 メリッサがそれらしく語る昔話の内容をしばらく噛みしめたユーネクタは、しばらくして何もかもがどうでもよくなった。それから少しだけ笑おうとして失敗した。

 意地になって強引に笑みを作る。きっと不自然だろうなと思いながら。


「天罰とは、森の神もいいことをしますね。命や運命を弄ぶような王にはいい薬です」


 それから、少し下品かなと思いつつ吐き捨てた。


「ざまあみろ」


 それを聞いたメリッサは急に目を丸くして、それから堪えきれずに小さく笑った。

 何がそんなにおかしいのか、顔を膝の間に埋めて身を震わせる。

 理解はできない。二人の間には断絶があった。

 支配する者と従属する者。

 その関係性はゆらぎ、ほどけ、今は不確定なまま危うい均衡を保っている。


 薄氷の上にも似た緊張。静謐な世界はどこか穏やかで、弛緩した空気が流れていた。

 二人は静かに、小さく、滑稽な現実に対するおかしさを共有した。

 それが本当に笑えることなのかはわからない。

 笑うことでどうしようもない現実をごまかそうとしているのかもしれなかった。


「楽しそうね、メリッサ。お姉ちゃんも混ぜてくれる?」


 柔らかい空気にするりと滑り込むような優しい口調だった。

 聞くだけで安心するような響き。

 階段を下りる足音と共に、穏やかに微笑む妖精の女が現れる。

 メリッサの表情が明るくなり、直後にこわばる。


「アカシアお姉さま? その、髪は?」


 白に近い銀髪を靡かせながら、その女はふわりとした口調で答えた。


「ごめんね。見た目が少し違って驚いたでしょう? 私ね、あれから生まれ変わったの」


 血に染まった細剣を握ったまま、右手を顔の前に掲げる。

 手の甲に浮かぶのは割れた六角形の紋様。

 メリッサとユーネクタは同時に息を呑んだ。妖精郷の歴史を多少でも詳しく学んでいれば、その紋章が持つ重大な意味を理解できる。


 妖魔ダークエルフ魔印シジル

 夢魔や獣人といった主要な魔人族とは違う。

 かつて滅びたはずの忌まわしい種族。妖精にとっての汚点。

 妖魔の背後から続いて現れたのは猿の魔獣とうねる多頭の蛇。

 無数の蔦に捕縛されているのは、リリーフォリアをはじめとする仲間たちだ。


 ユーネクタは即座に臨戦態勢に移行した。

 未知の敵。実力は上級使徒相当。更には猿の魔獣と召喚獣まで従えている。

 いくらか回復しているとはいえ、この状態でどこまで戦えるだろう。

 危機的な状況。苦戦を覚悟したユーネクタは更なる絶望を目の当たりにする。


 割れた六角形が刻まれた右手が、その輪郭を崩壊させながら腐り落ちていく。

 途端、常春とまで言われる『花園』に冬が訪れた。

 体感したことのない凄まじい寒気。

 ユーネクタの心が警鐘を鳴らす。これは駄目だ。逃げなければ死ぬ。

 ずっと恐れ続けてきた死そのものが現れようとしている。


「メリッサには初めましてかな。この方は私の命の恩人。青肌族ブルージーンズに裏切られ、殺される寸前だった私はある魂に触れ、契約を交わしたの」


 妖魔の崩れた右手は真っ白な骨となって細剣を握り続けている。

 屍の手。それは不自然な歪さで妖魔の腕と繋がっていた。すらりとした本人の体躯と比べると少し小さい、別人の骨のようにも見えた。

 変わらずに穢れた威圧感を放射する紋章が輝き続け、その内側から得体の知れないものがゆっくりとその全貌を明らかにしようとしていた。


「ああ、愛しいメリッサ。私と同じ運命を辿ったかわいそうな子。でもこれで私たちは同じになった。ひとつの感情を共有できる。この方の痛みと怒りに触れることができる」


「解放! 『美徳』!」


 耐えきれずに槍を投射する。

 高速で突き進む鋼鉄はたとえ遺物を無効化する魔獣の力をもってしても防げない。神秘の力が発生させる特殊な力は消えてしまっても、物理的な慣性や質量は消せないからだ。

 しかし。


「消えて」


 奈落から響くような声だった。

 目の前の妖魔ではない。その屍のような右手、骨の義手が命じたのだ。

 言葉は力を持つ。命令とは最も原始的で基本的な神秘だった。

 だからこそ、単純すぎる命令が大きな力を持つことはない。命令した本人の心に指向性を持たせるための自己暗示。それが常識だった。


 だが、その命令はただ言葉のみで世界を変えた。

 投射した槍が全て消失する。

 ユーネクタは異様な光景に絶句し、更に身体が竦み上がる。

 再び死を予感した。全身の筋肉が硬直し、口を開くことさえできない。


 現象そのものは知っていた。それを体験したことがある老練な戦士から話を聞いたこともある。だが実際に体験するそれは、知識よりもはるかに恐ろしい。

 『金縛り』。最上位の魔人族のみが発生させる現象だ。ただそこにいるだけで矮小な存在は身を竦ませ、麻痺した身体は言うことを効かなくなる。


 上位の使徒ではここまでの現象を発生させることはできない。

 つまりここにいるのは、その上に君臨する存在だ。

 屍の手に抱かれるようにして、半透明の姿が浮かび上がる。

 小柄な少女だ。ちょうどメリッサと同じくらいの背格好の少女が妖魔の手に抱かれている。白銀の髪や雰囲気がそっくりで、姉妹のようにも見えた。アカシアが姉のように囁く。


「いい子ですね。私のお願い、叶えてくれる?」


「おねえ、さま。すき、だいすき」


 掠れた声。奈落から縋りつくような音。

 死者の声だ。それにつられるようにして、次々と青白い影が床から浮かんでくる。

 亡霊。不確かな矮人ドワーフたちの姿が徐々に輪郭を安定させていき、それは青い肌を備えた存在として現世に蘇っていく。


「蘇れ」


 またしても命令。ただそれだけで、形のない霊魂たちが実体を備えた青肌族ブルージーンズとしての存在感を確立させていく。

 尋常ならざる屍操術は、もはや『死者を操る』という域を超えていた。

 ここにいるのは生きた青肌族。実体を持つ彼らの中に、ユーネクタは見知った顔を発見して愕然とした。フロスティ。グンナル。スペアミント家に接触し、ユーネクタに従ってロスプ家を手中に収めんとした矮人たち。彼らが死者だったとでも言うのか。


 そんな異常なことが可能な屍操術士がいるわけがない。

 伝説的な『海の賢者』や『調停者』でさえ死者の軍勢を操った際には亡者たちに生気を与えることはできなかった。虚ろな表情と気配、欠落した感情と記憶。死者を完全に蘇生させることはできないはずなのだ。


「万象の、魔女?」


 背後でメリッサが呻くように呟いた。

 ユーネクタもまたその可能性を認めざるを得なかった。

 死者の完全な蘇生は不可能だ。

 しかし、それに近いことを実現した者ならば歴史上にひとりだけ存在する。


 『海の賢者』は失われた主神への祈りを伝えるため、まず二人の弟子に膨大な知識を分け与えた。それは屍操術という技術として体系化され、弟子のひとり『調停者』は貴族たちにそれを教えた。もう一人の弟子である『万象の魔女』は妖精たちにそれを伝えたが、その全てが受け継がれたわけではない。


 何故なら彼女が屍操術をより深く完成させたとき、妖精郷が誇る至高の魔女は別の名で呼ばれるようになっていたからだ。

 偉大なる天才。ロスプ家の至宝。史上最も『蜂蜜の魔女』に近づいた『万象の魔女』。

 その名は全て穢されて忌み名となった。代わりに残ったのは妖精郷の汚点。


 真なる屍操術を操る種族は、歴史上ではたった一つしか確認されていない。

 心が煮え立つ。世界が忘れても、スペアミント家だけはその名をけして忘れない。

 この怨敵が犯した罪、ユーネクタたちに与えた呪いを忘れることなどできない!


「まだ半分眠っているの。だから代わりに自己紹介するね。この方は偉大なる魔人たちの統率者。全ての使徒を生み出し、導く汚染の源流。遠い昔に葬られ、それでも滅びず、封印されていた絶対なる血の始祖。私が魂の契約を交わした、この死せる右手の持ち主」


 邪神が健在であった千年前。最盛期には九種ほど存在していたとされる魔人族には、それぞれの大本となった『汚染源流』が存在していた。

 魔人たちを生み出す闇の力、その源泉。

 その大半は滅ぼされ、あるいは封印されていた。そのはずだった。これまでは。

 亡霊を抱く妖魔は朗らかに笑いながら続けた。世界を呪うその言葉を。


「魔人族・第六位君主。妖魔ダークエルフの汚染源流。

 偉大なる御名は『憤怒の妖魔』イーディクト・ロスプ・リーヴァリオン。

 私たちが仰ぐべき新たな主。義憤の炎で世界を燃やし、森羅万象を支配する魔女」


 無数の屍が折り重なって山となる。

 夥しい魂が浮かび上がって星となる。

 それら全てが生気を与えられると、そこに現れるのはひとつの世界。

 森羅万象。その大仰な言葉は決して過言などではなく。


「約束通り、来てくれて嬉しい。さあ、共に向かいましょう。私たちの未来へ」


 屍の上に立つ少女たちは、広がる世界あくむを祝福するようにそう言った。

 



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