第13話「それは愛情じゃない」




 暖かい。眼を開くと、視界いっぱいに光の蝶々が舞い踊っていた。

 見覚えのある大広間。『開かずの門』がある最下層を、無数の蝶が埋めつくしている。学長先生の笛に導かれた精霊たちのようだ。

 しかしこの光景を生み出したのは恩師ではなく、その孫であるリリーフォリアだろう。

 いつの間にこんなにも遺物の扱いに習熟していたのだろう。その成長の早さを喜ばしく思うのと同時に、彼女の歩みを最後まで見届けられないことがひどく悲しかった。


「起きたの? うん、大丈夫そう」


 額に小さな手を感じる。メリッサがこちらを覗き込んでいた。

 ユーネクタは状況を把握し、すぐに立ち上がろうとして失敗した。

 身体に力が入らない。意識を集中させることも難しい。

 妖精の首輪は依然としてそのままだが、果たして念じるだけで締め付けることができるかどうかはわからなかった。


「二人きりになるのは初めてじゃないけど、こんな状況は滅多に無い。あは、その感じ、前にあの猿と接触した時と同じ。やっぱりそういうことなんだ。ね、エンブラ」


「離れて。じきに回復する。そうしたらすぐに上に行ってリリーたちを助けなければ。あの魔獣を倒さなければ、あなたも危険なはず」


 メリッサは退屈な話題を振られたように「ふうん」と言ってからユーネクタを見下ろす。どこか愉快そうな、道端の蟻をつつき回す幼児のような残酷さが瞳に宿っていた。


「はいはい、そうだね。ところでさ、あなたって遺物の名を呼ぶ時、いっつも他人のものを真似してるんだね。あの模造品は封術で一時的に形を整えたものかな? 便利な力だけど、ちょっと面白いね。だってさ、心で事象を切り分けるのは人の特権だよ。貴族に限らず亜人にだってできる。『名付け』に独自の解釈も固有の視座もないっておかしくない?」


 ユーネクタは押し黙った。

 こういう時のために言い訳は用意してある。テジアやセリンたちには『切り札を温存している』とか『周囲を巻き込むから使えない』などと説明済みだ。

 しかし、この時ユーネクタはそれと同じことを言えなかった。

 正確には、言おうとして臆したのだ。


「ねえ、猿真似しかできないの? 教えてよ。それとも、祈りの名前もわからない? おかしいね。聖なる神の名を貰っているくらい敬虔な信徒で模範的な貴族なんでしょ?」


「何が、言いたいのですか」


「さあ? あ、そうだ。これって雑学なんだけど、知ってた? ある種のお猿さんってね、緊張を緩和して平和な社会を築くために、やらしいことをするんだって」


 広間の空気が澱んでいく。ひらひらと舞う蝶の群れはいつの間にかユーネクタの身体から離れ、すぐ近くにある大きな門の周囲に集まっていた。

 妖精の細い指先がつうとユーネクタの頬をなぞり、首筋を伝っていく。


「ね、わかる? やらしいこと。けがらわしいこと。あなたがリリーを見ながら考えてる、罪深いことだよ」


「言いがかりです」


「へえ? じゃあ、もしかして私なのかな?」


 メリッサの指先がユーネクタの胸元に辿り着いた。制服のタイが緩んでいく。服の胸元がはだけられる恐怖に耐えられず、強く否定の言葉を叫んだ。


「ふざけないで。下品な物言いは嫌いです。やめて下さい」


「理性だね。頑張って覚えたんだ。えらいえらい」


 一転して幼児をあやす様に優しく微笑んでユーネクタの頭を撫でるメリッサ。

 今、自分はこの妖精の掌の上だ。

 恐い。それを悟られているのではないかということが何よりも恐ろしい。

 メリッサは支配者の顔でユーネクタを見下ろし続ける。


「聖教に支配された貴族の生殖行為って基本は異性愛なんでしょう? けど、自然界には同性愛もあるし、争いばかりの人間たちとは違って平和的なコミュニケーションで社会を維持しようとする動物だっている。彼らが凶暴さを見せたとすれば、それはそういう風に仕向けられたから。罪深い、人類の業ってやつだね」


「黙って。黙りなさい。あなたが何を知っていようと関係ない。私は呪縛を克服している。ロスプ家にもう優位性はありません」


「黙るのはそっち。お姉さまが教えてくれたの。私だって、あなたなんかもう恐くない!」


 弾みをつけるように叫ぶメリッサ。

 仰向けのユーネクタに跨って両手を頭の横に押し付ける。

 圧迫感に身を竦ませると、ぐいと妖精の愛らしい顔が近づけられた。

 くらくらする。絶望的なほど華やかで甘そうだ。


「パンっていうのはつまり、戦闘用の魔獣としての荒々しい側面と、妖精の奉仕者としての温和な側面、双方を最適なバランスで制御するための改造魔獣の試作品なんだ。より優れた完成品、『罪の仔』を生み出すための準備に過ぎなかった」


「黙れ」


「これだけの性能に仕上げるのにどれだけのコストを費やしたの? 色々と犠牲にしたものがあったんじゃない? エンブラが言ってたよ。戦闘向きに神秘適性を高く調整すればするほど寿命が短くなるんだって。ねえ、あとどのくらい余裕があるの? そろそろ限界が近いんじゃない? ちゃんと卒業はできそう、優等生さん?」


「黙れっ!」


 妖精の胸を強く押して飛び起きる。

 体勢が入れ替わり、今度はユーネクタがメリッサに乗りかかる形となっていた。

 しかし、マウントポジションを取られているというのにメリッサの表情は余裕のままだ。


「満足? 知ってるかな。それも猿の習性なんだよ? 私よりも優位だって示して支配したいんだ。可愛くて従順なリリーを侍らせて支配しているみたいに」


「違う」


「じゃあ何? もしかしてあんな善良な子にストレスを感じているのかな。恐いから触れ合って安心したいの? 随分とスキンシップが過剰だよね。群れの『お姉さま』という役で上下を規定したいだけなんでしょ。つまりは安心するための代償行為」


「下らない妄想はそれで終わり? リリーとの関係を貶めようとしたって無駄です。私たちの間には、確かな信頼があるのだから」


「秘密を打ち明けることもできない関係なのに、信頼? 笑わせないでよ。ねえ、あの子の動物愛護って、あなたの普段の態度が影響したせいじゃないの? それともそうなるように誘導した? それってつまり、知られることを恐がってるんでしょ」


「やめて」


「リリーはあなたを信じてるよ。無垢で善良な子。かわいそうに、『お姉さま』はちっとも『妹』を信頼してないっていうのに。まさか大好きな人に怯えられてるだなんて!」


 言葉より先に首を絞めようとした。首輪が反応しない。

 投げかけた思念はひどく弱々しい。内側からの思念がこちらの意思を上回っている。

 あり得ないことだった。ユーネクタは確かに弱っているが、だからといって亜人に神秘の扱いで後れを取るように出来てはいない。


 そこでようやく異変に気付いた。

 『開かずの門』が震えている。遥か彼方から届くような重い反響。門のそばに集まっていた蝶の群れが、吸い寄せられるようにメリッサの中に溶けていく。

 妖精が保有する神秘の量が急激に増加していた。


 濃密な森の匂いが香る。

 信じられない。ここは既に妖精郷と同等のレルムと化している。

 『門』の向こう側に広がる膨大な神秘の力がメリッサと共鳴し、彼女に力を与えているのだ。鍵である彼女を守り、導くために。

 

「わかってる? それは愛情じゃない。猿の本能に基づいた、浅ましいマウンティング」


 拳を握った。振り上げ、下ろす。それだけの事がひどく恐ろしい。

 父の顔を思い出した。愛する父の言葉がユーネクタに力をくれる。恐ろしい父の教育が彼女を形作っている。毎日のように妖精の形を殺した。それは全てこの日のためだ。

 お父様、力を貸して。愛らしい妖精を殴りつける。すぐに死にたくなった。


「あ、ごめ、ごめんなさ」


「なにいまの。ぜんぜん痛くなかったけど?」


 封術士でありながら戦闘訓練を積んだユーネクタの腕力は同等の体格の相手であれば十分な打撃を与えられるはずだ。にもかかわらず、彼女の拳は妖精の頬を軽く叩くに留まった。

 違う。こんなのは違う。ちゃんとできる、そのはずだ。

 怒りと憎しみを滾らせて、スペアミント家の墓碑を思い浮かべる。刻まれた名のひとつひとつ、多くの不幸を感じて何も思えないのなら、ユーネクタに生きる価値はない。


 殴れないのならその他の手段がある。恥辱を与えて精神を折り、弱った心を押し返して首輪の遺物で主導権を握り返す。メリッサの首に手を伸ばしたまま、もう片方の手で荒っぽく細い身体をまさぐった。薄い輪郭の生きた感触にぞくぞくとさせられる。無意識に服を脱がそうとしていた自分に気づき、手が止まる。メリッサが嘲笑していた。


「わかってるくせに。あなたのその憎悪と欲情が証明してる。私たち妖精を憎もうとするのは大変だったでしょう? 敵に対しては冷酷に。味方に対しては温和に。それがロスプ家が仕組んだ遠い昔に定めた絶対の命令」


「やめて。違う。私は」


「あなたはリリーたち貴族とは根本的に違う。品種改良よりもなお罪深く、猿の魔獣を綺麗な形に整えた人もどき。従属するために生まれた改造魔獣。それがスペアミント」


 奈落から響いた死刑判決を震えながら聞くことしかできなかった。

 強い力で突き飛ばされる。再び体勢が入れ替わり、メリッサは今度こそ上位者としての表情でマウンティングを行った。長い忘却がロスプ家から牙を抜いていた。だが支配者としての記憶を取り戻したロスプ・エルフにとってこの状態こそが自然なのだ。


「脱走した猿のくせに、飼い主に歯向かうなんて命知らずもいいところ」 


 屈辱に染まるユーネクタの表情が歪む。恐怖から目を背けるようにメリッサの手を握り、右手の指輪を相手の前に突きつける。ここしかないと思った。この女に一矢報いる手段はもうこれだけだ。わずかな迷いと罪悪感を無視して告げる。


「よくお勉強しましたね。ご立派ですよ、お姫様。死人とのごっこ遊びに夢中なようでしたから、現実が見えていないのかと思いました」


「何を」


「わかってるくせに、わからないふりはやめて下さい。あなたの大好きな従者、忠実な矮人ドワーフのエンブラはとうに死んでいるんです。それは模造品。集めた記憶と魂の残滓を素材に、屍操術で構築したかりそめのお人形。あなたが命令して喋らせているんですよ、独りで寂しく妄想に閉じこもって!」


 言ってやった。そう思った瞬間には殴られていた。

 頬が痛い。ユーネクタの拳とは違う。メリッサは全力で相手を叩きのめせる。

 その非対称がひどく残酷で、許せなかった。

 そして、それはメリッサにとっても同じなのだ。


「誰のせいでこうなったと思ってる! お前たちが青肌族ブルージーンズを操って硝棺族グラスコフィンを扇動した! お前たちさえいなければエンブラは!」


「それが狙いだ! いい気味ですね。大切な者を失い、その苦痛すら受け止められずに滑稽な現実逃避を続ける愚かな妖精の姿ときたら! 今まで生きてきた中で最も愉快で心躍る光景でした。ああ清々した、あなたの絶望が私の喜びです。私を楽しませるために苦しんでくれて本当にありがとう!」


 必死になって言い切った。途中何度もメリッサの拳がユーネクタを打ち据えたが、それでもこれを言えなければ自分はもう『ユーネクタ』として立ち上がれないと思った。

 激昂したメリッサがユーネクタの制服の胸元を探る。聞き取れないほど高速の古い妖精言語に反応して胸が熱くなる。鎖骨の中心あたりに浮かび上がった『烙印』が呪わしい姿を見せて支配者に恭順を示そうとした。


「この世界は貴族上位という先入観が私の認識を阻害していた! それさえ無ければ、魔女が神秘の比べ合いで負けるものか!」


 互いに意識の焦点を隠されていた烙印に合わせる。互いの狙いは同じだ。契約術。人類の敵である魔獣を従属させることさえ可能な神秘の力。心を縛る鎖を握り合い、必死になって引き合った。屈してたまるか、もうそれだけしか考えられない。

 それでもユーネクタは気付いてしまった。絶望は常に彼女の目の前にあった。

 だからこれは予定調和だ。滑稽な名前を与えられた猿に与えられた宿命の必然。


「無慈悲に消耗品として使い捨てられたみんなの苦しみを嫌ってほど味わえ! まがい物の棄族め、さんざん使い倒した後、ボロクズみたいに棄ててやる!」


 妖精の王女が勝利を確信して笑う。

 ユーネクタはこれまで積み上げてきた貴族としての外殻が砕けていく音を聞いた。

 そうして内側から顔を出した本当の自分が、真実の主の到来を祝福する。

 生まれたての猿が感じていたのは、途方もない多幸感だった。



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